論壇

この一冊

『アンチ・アンチエイジングの思想―ボーヴォワール『老い』を読む(上野千鶴子著、みすず書房)

こども教育宝仙大学元学長・本誌編集委員 池田 祥子

はじめに

本書は、タイトル通り、主としてボーヴォワールの『老い』に基づきながらの、歴史的な「エイジング」観、それに抗する「アンチ・エイジズム」、そしてさらに「アンチ・アンチエイジズム」の模索と提唱の意欲的な著作である。

(目次)
第1章、老いは文明のスキャンダルである / 第2章、文化の中の老い / 第3章、歴史の中の老い / 第4章、近代化の中の老い / 第5章、「生きられた経験」としての老い / 第6章、知識人の老い / 第7章、老いと性 / 第8章、女性の老い / 第9章、高齢者福祉の起源 / 第10章、ボケ老人へ向ける眼 / 第11章、アンチ・エイジズム / 第12章、三つの死 / 第13章、「死の自己決定」はあるか / 第14章、ボーヴォワールの「宿題」 / 第15章、「自立神話」を超えて

ボーヴォワールの『老い』(上下)の翻訳は、初版が朝吹三吉訳、人文書院版、1972年である。それ以来、改訳も新訳も出ていないという。

ボーヴォワールは、1908年生まれ、したがって、有名な『第二の性』執筆は41歳、この『老い』の執筆は62歳の時となる。

上野千鶴子も、この『老い』の上下本2冊を、しばし「積ン読」状態だったそうであるが、私自身は、いつか読もう!と思いつつ、結局現在まで開く間もなく、未だに「本箱の飾り」状態である。

ただ、私も1970年代早々にこの本を買ったのだが、その時期は、子ども二人目を産んだ後、早くも20代を終えようとする頃だった。

私もまた、10代20代にかけて、「肌がきれい!」「可愛い」などの、世に言う「誉め言葉」をかけられたことはあるが、どことなく居心地が悪かった。それは、私自身への「誉め言葉」というのではなく、未だ「若かった」私自身の表面だけが勝手になぞられているという違和感だったのだろう。

そして、30歳半ばになって、幼児教育・保育の研究者や現場の保育者と親しくなっていた頃、しばしば二次会でもよく顔を合わせていた60過ぎの男性研究者が、ある時、自分の両手の甲に浮き出ていた「シミ」を見ながら、「これは大地と同じ色なんですよ・・・」と呟いた。

この小さな呟きは、私にとっては大きな驚きだった。男であれ女であれ、年を重ね、老いに向っていく時の皮膚の衰え、あるいはイボやシミ。それはどう見ても美しくはなかった。もっと正直に言えば「醜い」ものだった。だからこそ、多くの人は、あの手この手で隠したがるのだろう。

しかし、その彼は淡々と、自分の両手を表にし裏にして、「こうやって誰もが大地に還るんですよ」と重ねて言った。

これ以来だろうか・・・、私が素直に「人間の老い」に向き合えるようになったのは・・・。とはいえ、初めて「白髪」を見つけた時の慌てぶり、そして仕事をしている間は、ずっと美容院で「髪の毛」を黒色に染め続けていたのだ。それほど威張れる私ではない・・・。

ただ、それでもこの段階でも、私はボーヴォワールの『老い』に手を伸ばし、読み始めるには至らなかった。

その意味では、上野千鶴子の本書には感謝しなければならない。

1 女性の老い

ボーヴォワールが、この『老い』を執筆したのは62歳だったと上に記した。「老年齢」は「寿命」とともに、つまり時代とともに50、60、70と移ってきたが・・・。

上野千鶴子は次のように言う。

「当時のフランスで女が老いることは、今のわたしたちが想像するよりも過酷な経験だったはずだ。女性に年齢を聞くのは失礼、という「礼儀」がまかりとおっていた時代のことだ。婚姻上のステイタスが女性の敬称を分かつフランスでは、ジャン=ポール・サルトルと正式の結婚をしていないボーヴォワールは、歳をとっても「マドモアゼル」と慇懃無礼に呼びかけられもした。年齢と婚姻とが女を相応の「指定席」にふりわけた時代は、フランスでも近過去である」(p.2)

さらに、第8章「女性の老い」では、次のような記述が続く。

「老いは、男性と女性にとって同じ意味も同じ結果ももたない。」(ボ上97)・・・「高齢男性は侮蔑され、嘲られ、嫌悪されるが、高齢女性はそれ以上に「嫌悪と嘲弄の対象である。」(ボ上169)」(上野p.143)

もう少し続けよう。

「老女はどんなに努めても男をムラムラさせることができないので、無価値なだけでなく、醜悪だとされる。」(p.142)

「老人は「他者化」されると書いたが、老女は他者の中でもさらに他者化される。男性詩人たちの老女に対する情け容赦のない筆致は、自分がそうなるはずのない他者に対する同情のなさをあからさまに示す。彼らにとって「老人」と「老婆」とは、異なるカテゴリーに属するのだ。」(p.144)

2 「アンチエイジング」の時代―PPK(ピンピンコロリ)の思想

「老い」(エイジズム)は、「女」に、より過酷ではあるが、当然ながら男も女も苦しめるものだ。

ただ、「個人だけでなく、社会も老いる。」「日本は急速な少子高齢化を経て、2015年には同年のフランスの高齢化率18.9%を超えて、高齢化率26.6%の超高齢社会に移行した。2020年には平均寿命が女性87.74歳、男性81.64歳、世界有数の長寿国となった。長寿は、栄養水準、医療水準、介護水準の関数である。いわば文明の恩恵といってもよい。わたしたちは努力して長生きできる社会を達成したのに、長生きは歓迎されないのだ。」(p.16)

「高齢者雇用安定法(2024.11.22)が成立し、本人が希望すれば65歳までの雇用延長が企業に義務付けられた。(2025年4月からは法改定によって65歳までの雇用確保が(本人の希望なしで)義務づけられているー池田)・・・ばりばり現役感を維持している60代、70代も多い。「生涯現役」をかけ声にする人もいる。」(p.16-17)

ところで、「人が健康を失っても生きていける期間の長さ」を「フレイル期」というそうだ。上の「生涯現役」を願う人たちは、この「フレイル期」をゼロにすることを願っている。医者の日野原重明氏が持ち込んだサクセスフル・エイジングもしかり、「死の直前まで壮年期を引き延ばす思想」ということになる。それはまた、巷間でささやかれる「ピンピン生きてコロリと死のう!」のPPK思想と同じである。

しかし、「問題は先送りされただけである」と上野千鶴子は言う。「超高齢社会には、死ぬに死ねない老後が待ち受けている」と。先の「ピンピンコロリ」のPPK思想は、この「フレイル期」をゼロにしたい!という思想に他ならず、これこそ「アンチエイジング」なのである。

「若さを維持するためのアンチエイジングは、健康食品やサプリメント、スポーツジム、ファッション、コスメなどさまざまな業界で一大市場を形成しており、高齢者たちはそれに虚しい投資を続けている。いわば自己否定のための投資というようなものだ。」(p.13)

こうして、とりわけ女性たちは、セクシズム(性差別)の被害者であると同時に、エイジズム(年齢差別)の被害者となる。

「エイジズムは男も女も苦しめる。だが女はとりわけ加齢恐怖が強いようだ。女性に年齢を訊ねるのは失礼、という「マナー」はいつから始まったのだろうか?自分の年齢を明らかにしたがらない女優は多いし、「年齢不詳」と呼ばれることは女性にとってはほめ言葉になるらしい。そのため値段が高いほどよく売れるといわれるコスメのアンチエイジング市場が成立する。その市場規模の大きさが、女性の加齢恐怖の関数なのだろう。」(p.149)

3 アンチ・アンチエイジングの思想を生きる!

さて、最後に、本書のタイトルである「アンチ・アンチエイジング」の思想とは何か?である。正直に言って、かなり難しい。

今の時代に根強い「アンチエイジング」は、いずれにしても「老い=エイジング」を、「人間にとっての自然の姿」として、ごく当たり前に受け止めることにはなっていない。どちらかといえば、「マイナスイメージ」ゆえに、一つは、「エイジング(老い)」なんかには負けないという生き方、いま一つは、「エイジング(老い)で何が悪いか」というある種「開き直り」の生き方であろうか。

本書は、これら二つの「アンチエイジング」へのさらなる「アンチ」なのだ。

少々長い引用になるが、最後に著者上野千鶴子の言葉を挙げておこう。

「高齢者がフレイル期間を他者の助けを得ながら生きながらえることができるようになったのは、・・・栄養水準、衛生水準、医療水準、介護水準の高まり、すなわち文明社会のたまものである。過去の人々が希求してやまなかったものを手に入れたことを、なぜ、わたしたちは寿ぐことができないのだろう。わたしたちに必要なのは、生かしてもらえる命を最後まで生ききる思想ではないのか。

ひとは依存的な存在として生まれ、依存的な存在として死んでいく。それなら「老い」に抗うアンチエイジングの自己否定的な試みよりは、老いを受容するアンチ・アンチエイジングの思想が、今ほど必要とされている時代はないのではないだろうか。」(p.226)

「人は老いる。老いて衰える。やがて依存的な存在になる。人は人の手を借りて生まれ、人の手を借りて死んでゆく。そういうものだ。そのどこが悪いのか。」(p.301)

(了)

 

いけだ・さちこ

1943年、北九州小倉生まれ。お茶の水女子大学から東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。元こども教育宝仙大学学長。本誌編集委員。主要なテーマは保育・教育制度論、家族論。著書『〈女〉〈母〉それぞれの神話』(明石書店)、共著『働く/働かない/フェミニズム』(小倉利丸・大橋由香子編、青弓社)、編著『「生理」――性差を考える』(ロゴス社)、『歌集 三匹の羊』(稲妻社)、『歌集 続三匹の羊』(現代短歌社、2015年10月)など。

 

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