寄稿

ヒロシマ、父が遺した声――悲歌と愛、未来への宿題

追記―『園子追憶』の本誌掲載、その後

同志社大学大学院教授 小黒 純

天に通じた想い――面影を求めて

本誌第42号に、神学者であった父、小黒薫が綴った手記『園子追憶』を復刻掲載した。広島で被爆死した前妻、園子さんと長女、純さんへの想いが切々と語られた、あまりにも私的な記録である。身内のことをあらためて世に問うことには、ためらいもあった。しかし、その反響は想像を超えるものだった。

被爆から80年を迎えた2025年8月6日、神戸新聞が「広島原爆、父は妻子失った」との見出しで朝刊1面トップに記事を掲載し、社会面でも「原爆犠牲 手記に父の愛と追憶」と大きく報じた。記事の一部はYahoo!ニュースにも掲載され、読者が広がった。続いて地元紙である中国新聞も、8月18日付朝刊で「秘された手記 愛の追憶」と題し、父が晩年、平和記念公園で核実験に抗議する座り込みを続けていた姿にも焦点を当てて詳報した。この記事は、同紙のウェブサイト「ヒロシマ平和メディアセンター」でも公開されている。

地方紙からのアプローチは続いた。中日新聞からはポッドキャストでのインタビュー取材を受けた。近く一般公開される予定だ。私的な記憶が、公共の記憶として静かに受け入れられていく。

『園子追憶』の復刻は、十年近く前から温めてきた。今年の初夏、幸運が重なり情報収集が一気に進んだ。園子さんの勤務先であったプール学院(大阪市生野区)と広島女学院、そして二人が結婚式を挙げた芦屋キリスト教会(当時、芦屋組合教会)にご協力いただき、関係資料を集められる限り集めた。芦屋市立図書館では1937年(昭和12年)作成の地図から園子の実家の場所を特定することもできた。それでも、肝心の園子さんの顔写真だけは出てこなかった。プール学院には教職員の集合写真が残っていたものの、本人を特定する手がかりがなかった。

ところが、本誌掲載を目前に控えた7月末、プール学院の中山浩子事務局長から、次のような連絡が入った。

「先週、偶然にも尾﨑先生と時を同じく過ごされていた卒業生のルーツを訪ねて、韓国からご親族がお見えになられました。その方から、昭和17年の卒業アルバムの画像を見せていただき、学院に当時のアルバムがあることがわかりました。
なんと、その1年前の第50回聖泉高等女學校 昭和16年3月のアルバムに尾﨑先生のお写真が載っておりました。
プールのルーツを調べて下さっている方々の思いが天に召された方々へ届き、お喜びであられることと存じます。」

なんと、なんと。こうして、初めて園子さんのお顔を拝することができた。単なる偶然とは思えなかった。歴史の中に埋もれた個人の記憶を取り戻そうとする願いが、時空を超えて響き合い、見えざる力によって引き合わされたかのような出来事だった。文章の中のみの存在が、その面影をもって立ち現れた瞬間であり、物語の「復活」とも言うべき出来事だった。

もう一つの遺稿――広島駅、最後の情景

本誌掲載後、父が遺したもう一つの文章に出会うことができた。父の恩師であり、『園子追憶』にも登場する故・松本卓夫氏(1888−1986)がまとめた時子夫人(1893−1945)への追悼文集(1960年刊)に収められていた。「最後に会った時のこと」と題された短い随筆である。松本氏は父と園子の婚約式にも立ち会い、時子夫人とともに若い二人を何かと気にかけてくれた恩人だ。父が「ママちゃん」と親しみを込めて呼んだ時子夫人は、この随筆の重要な登場人物でもある。

この文章には、『園子追憶』では簡潔にしか触れられていなかった、広島駅での父と園子さん、そして愛娘・純さんとの最後の別れの場面が、生々しいほど詳しく記録されていた。それは、『園子追憶』を補完するような、痛切な記憶の断片だった。以下にその部分を引用する。(一部の漢字とひらがなを入れ替えるなど、若干の修正を施し、最小限[ ]で言葉を補った)

 

それは、終戦の年、七月十六日の午後でした。中支に出征していた私は、七月始めに東京に呼びかえされて、休暇をもらって広島に帰ってきていました。三日間を私は園子たちと過ごして出発直前、別れのあいさつに参りますと[松本卓夫]先生だけいらして、[夫人の]ママちゃんはいませんでした。

雨の中を園子と純と三人で広島駅まで歩いて、ひょっと気がつくと、ママちゃんが後から黒いモンペ姿で、スタスタと歩いてきていました。びっくりして、「どうしたのですか」と尋ねると、「[小黒薫]先生が[東京へ]お帰りになった後の園子先生のこと考えると、来てあげたくなりました」と言われた。時間が三十分ほどもあったろうか、駅の売店に寄った時、純が――この時、二才でした――そこで売っていた紙のボールの下に立ったまま動こうとしないで、買ってやろうかとわたしも気がついた。

「これかい、純」。

「あら、こんな所で買ってあげたりすると、癖がついていけないものですよ。園子先生にお伺いしてごらんなさいませ」と、ママちゃん。

「今度だけ許してあげるわ、最初で最後かも知れないもの」と、園子が言うので、このおもちゃが純の手にぶら下がることとなった。(純はわたしの出征中に生まれ、この時はじめて会ったのです)。

しばらくして、「純ちゃん、おとうさんは?」と、ママちゃん。純は三日間だけの父である私をどうしても父と呼ばなかったが、この時も、「ううん?」と特長のある妙な首のかしげ方をした。「だめなのよ、まだ」と園子。「どうも信仰告白をしてくれないので困ります」と、わたしがやっと冗談を言ったので、ママちゃんは、クックッと、のどの奥で笑うような笑い方をして、いつものように伏し目にされていた。「まあ」と。この「まあ」もママちゃんに独得の抑揚のものであった。

時間が来て、わたしは改札口をくぐって、十歩ほど行ったが、純が余りに派手な手の振りかたをするので、戻って来て、ほっぺたをちょっとつついてやった。「純ちゃん、おとうさまにさようならしなさい」とママちゃん。黒のモンペもひざから下は濡れていたし、素足に、ちびた低い下駄でした。傘も黒い木綿の裕子さんのものだったらしい。赤い握りのついた、骨が二、三本壊れたものだった。それを、ママちゃんはさするようにして、直そうとしたが駄目でした。最後にもう一回振り返った時、首を少しかしげて、また伏し目でした。三週間の後、死の鎌で虚空に激しく振られた。この三人とも、もういない。会う術とてない。

同じ年、八月二十日の濡れるような月の夜だった。[松本]先生と太田川の川っぷちに、仮埋葬したままのママちゃんの墓に土をかけに行ったのは。「川の水が上がってくると、水びたしになるし、犬が心配だ」ということだった。時間もなかったので、そこいらにあるものを、なんでもかんでも、素手で穴にほうり込んだのだったが、「先生、ママちゃん痛がっていますよ、そんなに乱暴しちゃあ」、「そうかね」と先生。わたしの水筒から水をかけて、仕事が済んだ時、「祈ろうか・・・・・・時子をこういうふうに葬る、こういうふうにして、[神の]御許に送ろうとは思いませんでした。神よ・・・・・・」先生は泣いていた。

月の光りだけを頼りに帰る途中、[松本]先生が切れ切れに言うのだった、「変な言いかたなんだけど、ぼくには過ぎた家内だったよ」とか、「きょうのあなたの説教、大変に立派でしたけど祈りましたか、なんていう時もあったよ」とか、「この世では生きて行けないような性格だったね。よくも今まで生きていたものだと思うよ」とか。私も自分のことでいっぱいだったので、短かい返事を繰り返しては歩いていった。焼け落ちた広島は、犬の声一つ聞えず、燈火一つ見えず、ただ死の静寂と月の光りだけであった。

死んだ人を思い出すとき、その死んだ時の年齢でしか思い出されないものだが、ママちゃんもいまはもう七十才あたりだろうか。あり合わせの土産でももって参上すると、昔のように、おしいただくようにされるだろうか。あるいはいまも、ロザリオを繰っておられるだろうか。ただし、トランプやドミノ遊びの相手だけはご勘介ねがいます。私たち夫婦はお相手のたびに、負けるまねをするのに骨折りました。ママちゃんのゲームぶりは、まるで子どものようでした。「広島のお仕事が済みましたら、卓夫とふたりで、いなかの小さい教会の牧師をしたいのです」と。この言葉をわたしは数回、聞いて覚えている。

 

この文章の持つ力は、細部にある。園子さんの「最初で最後かも知れないもの」という何気ないひと言は、歴史によって残酷な予言へと変えられてしまった。わずか3日間しか共に過ごせず、「おとうさん」と呼んでくれなかった娘。その父親としての痛みを、「信仰告白をしてくれないので困ります」という神学者らしい冗談で返す父の姿は、あまりにも痛々しい。そして、濡れたモンペにちびた下駄、骨の折れた傘というママちゃんの姿。そのささやかな日常の描写が、3週間後に彼女を襲う非業の死と、太田川のほとりでのあまりに粗末な埋葬の場面を、一層際立たせる。

広島駅での情景は、私自身の記憶とも重なる。1998年に私の長男、つまり父にとっての初孫が生まれた。父はこれを機に長年吸い続けたたばこを止めた。長男が2、3歳のころ、広島の実家に連れて行くと、父はご機嫌だった。「マスターピース(傑作)だ」と言って孫を抱き上げ、そのほっぺたをつついた。今にして思えば、その一瞬、父の脳裏には、改札口で別れた娘の面影が鮮やかに蘇っていたのかもしれない。

「泣くまいとしても泣いてしまう」――父の秘めたる慟哭

もう一つ、父の内心を深くうかがわせる文章が、1976年3月1日付の中国新聞夕刊に掲載された「泣くということ」と題する随筆である。ここで父は、「やっぱり泣くまいとしても泣いてしまっていることがある」と述べ、二つのエピソードを挙げている。一つは16、17歳の頃に東京で世話になった米国人女性宣教師への感謝。そしてもう一つが、広島の子どもたちについての記述だった。

 

もう一つは三十年前の広島。ああした死に方で死んでいったたくさんの人たちのことを、現場に居合わせなかったので、わずかに記録で読んだり、伝え聞いたりするのだが、わたしは心の中に数回も繰り返しては組み立て直してみる。ひどいひどいことだ。とりわけ小さい子供たちのこと。大人たちはそれぞれに人生があったし、楽しいこともあったろう。だけど年の小さい子供たちはどんな悪いことをしたというのか。おもちゃらしいもの一つなく、甘いものの味さえ知らずに死んでいった。この子たちのことを語る度に、私は声をつまらせて、取り戻すのに苦労する。

 

「現場に居合わせなかったので、わずかに記録で読んだり、伝え聞いたりする」という一節が目を引いた。父は、妻子を失った「ど真ん中の当事者」だった。それなのに、なぜまるで第三者であるかのように、距離を置いた書き方をしているのか。

しかし、前節の「最後に会った時のこと」の文章と重ね合わせることで、謎は氷解する。父が語る「小さい子供たち」とは、まぎれもなく2歳で命を絶たれた娘・純さんのことであり、「おもちゃらしいもの一つなく」という言葉は、広島駅で最後に買い与えた、あの紙のボールへの切ない言及に他ならない。

あまりにも直接的で、あまりにも個人的な悲しみを、そのままの形で語ることはできなかったのだろう。自らの体験を、広島で犠牲になった無数の子どもたちの悲劇へと昇華し、一般化することによって、父は辛うじてその悲しみを言葉にすることができた。それは、深い心の傷を抱えた人間が、自らを守るために編み出した、語りの戦略だったのかもしれない。「泣くまいとしても泣いてしまっている」という告白は、生涯を通じて繰り返し押し寄せたであろう悲しみの波と、そのたびに「声をつまらせた」父の姿を、ありありと浮かび上がらせる。

課せられた宿題――記憶を未来へ継ぐために

父の個人的な悲歌と愛の記録は、公の場に出たことで、新たな意味を帯び始めたと感じる。神戸新聞の記事を目にした同志社大学の小原克博学長から、次のようなメッセージを受け取った。小原氏の祖父も広島で被爆し、戦後何十年もその体験を封印していたが、晩年になって語り始めたという経験を持つ。

「私が個人的に期待するのは、ご自身でこの記事の内容を語っていかれることです。様々な機会を通じて、語り継いでいくことが、戦争の記憶の風化に抗うことにもなると思っています。私自身、祖父から聞き知ったことを少しでも受け止めようと、機会があれば話すようにしています」

この言葉は重かった。もはや、これは単なる家族の記録の整理ではない。父の世代から受け取った記憶のバトンを、次の世代へ、そして世界へ、語り継いでいく「宿題」を課せられたのだと理解した。もう逃げることはできない。

まずは、『園子追憶』を世界中の人々に届けることから始めたい。とりあえず、英語訳と中国語訳を急ぐことにした。そしてこの秋、欧州出張の折に、古くからの友人にドイツ語への翻訳を、ブラジル出身の若手研究者にはポルトガル語への翻訳を依頼した。幸いなことに、二人とも快く引き受けてくれた。

父が遺した「秘された手記」は当初、家族と周辺の内に留まるべき私的な追憶だった。ところが、多くの人々の目に触れ、共感を呼ぶことで、それは風化に抗うための公共の物語へと変わる。この小さな物語を、国境や言語の壁を越えて届けること。それが、父の悲しみと愛に報い、園子さんと純さん、そしてヒロシマで失われたすべての命を悼む、私なりの方法なのだと信じている。遠くない将来、各国語の翻訳版が続々と本誌に掲載できる日が来ることを、心から願っている。

おぐろ・じゅん

同志社大学大学院教授。同志社大学ジャーナリズム・メディア・アーカイブス研究センター長。上智大学と米オハイオ州立大学で修士課程修了。毎日新聞と共同通信で調査報道に当たる。調査報道とファクトチェックのサイト「InFact」代表理事。日本メディア学会理事。1961年、広島生まれ。

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