論壇
古代日本は高校でどう教えられているのか
高校「日本史」教科書を読む
元河合塾講師 川本 和彦
1 はじめに
かつて古代エジプトのピラミッドは奴隷を酷使して建造されたと考えられており、私も学校でそう教わった記憶がある。だが、実態はそうではなかったらしい。当時の現場監督が記した工事日誌が解読されつつあるが、それによれば、奴隷は頻繁に休んでいる。しかもその理由が「二日酔いで休みます」など、かなり厚かましい。中には「今日は誕生日なので休みます」と届け出た奴隷が、3日後にも「今日は誕生日で休みます」と届け出ている例がある。誕生日が何日あるのだ!それでいて処罰されたという記録はない。現在の日本企業に比べればパラダイスではないか。
「○○時代はこういう時代だった」という先入観は、いつの時代に対しても存在する。近現代史に比べると資料が少ない古代史のほうが、より先入観・思い込みに左右される危険は大きいかもしれない。
本稿ではそのような思い込みをいかに排除するかという視点も踏まえて、高校教科書の古代日本史に関する記述を検証したい。叩き台としては山川出版社『詳説日本史 日本史探求』を用いるが、比較する必要があるので小学生向けの教科書からも引用する。
2 古墳時代
古墳の出現について、教科書に以下の記述がある。
〈弥生時代の後期には、すでに大きな墳丘をもつ墓が各地で営まれていたが、3世紀中頃から後半になると、より大きな前方後円墳をはじめとする古墳が西日本を中心に出現した。〉
この記述から「西日本を中心に、とあるから東日本でも少しは古墳があったのかな」と想像できる生徒は優秀である。ただし想像の範囲は日本列島にとどまる。だが朝鮮半島にも前方後円墳は存在した。時期的には日本よりやや遅れて、5世紀後半から6世紀前半に築かれたとされる。持ち手部分に棒を捻った形状の模様がある「捻り環頭太刀」という、日本起源の出土品が見つかった古墳もある。韓国・慶北大学の朴天秀教授は「韓国の前方後円墳は、日本に起源を持つ」と述べている。
もっとも、こういう発言があると、お馬鹿なウヨクが喜ぶので注意しておきたい。前方後円墳が日本から朝鮮半島に伝わったからといって、必ずしも倭国の勢力範囲が海を越えて拡大したことにはならない。文化・生活様式と政治・軍事は別次元である。日本人の多くが「蛍の光」を歌えるからといって、日本がイギリスの植民地だったわけではない。文化の伝播なら、逆の流れもある。奈良県明日香村のキトラ古墳壁画に描かれた天文図は、(今は朝鮮民主主義人民共和国の首都である)平壌から見た天空の図である。どう考えても、向こうからこっちへやって来た人が描いたことになるではないか。
3 磐井の乱
NHK大河ドラマで最も好きだった作品は、宮﨑あおいさん主演「篤姫」であるが、いつか取り上げてほしい題材が磐井の乱である。日韓合作で制作してくれたら、受信料を払ってもよいぞ。
教科書の記述は以下の通りである。
〈大王権力の拡大に対しては、地方豪族の抵抗もあった。とくに6世紀初めには、新羅と結んで筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)磐井が大規模な戦乱を起こした。大王軍はこの磐井の乱を2年がかりで制圧し、九州北部に屯倉(みやけ)を設けた。〉
素直に読めば、ヤマト政権に対して家臣であった地方の豪族が反乱を起こして鎮圧され、その後各地に直轄地が置かれたという記述である。ただ、ウヨク(の一部)が珍重する『日本書紀』によれば、磐井は当時、国造ではなく「筑紫君」と呼ばれていた。磐井の乱制圧後に豪族を地方長官として任命、地域支配を任せたものが国造制である。と申しますか、『日本書紀』とは無関係に今日では一般的な学説です。当時の磐井は、ヤマト政権の家臣というだけで片付けられる存在ではない。
磐井が造営した岩戸山古墳は全長138メートル。同時期でこれより大きな古墳は今城塚古墳(190メートル)、断夫山古墳(150メートル)、七興山古墳(140メートル)の3つだけである。磐井は大勢力だったといえよう。しかもヤマト政権とは別の外交ルートを持っていた。『日本書紀』によれば、新羅が磐井に「貨賂」を送ったそうだ。貨賂は和文和訳すれば賄賂であるが、菓子折の底に隠していたような額ではなく、軍資金のレベルである。
磐井の乱とは、ヤマト王権と九州の磐井王権・新羅連合軍との「戦争」だったのではないか。反乱・内戦という呼称は、それが国内の戦いであることが前提だ。だが当時は現在のような国境が明確に画定していたわけではないし、主権や国民といった意識も皆無に近かった。近代主権国家と同じような枠組みが既にあったという思い込みは、消去すべきであろう。
4 厩戸王(聖徳太子)
「いい国(1192)作ろう」で覚えた鎌倉幕府の成立年は、現在の教科書には記載されていない。私が小学生だったころに「仁徳天皇陵」と教わった写真には今、「大仙陵古墳」というキャプションが付けられている。時代は変わるものですなあ。一番の驚きは、「聖徳太子」が「厩戸王」になっていたことだ。10人の話を同時に聞き分ける超人的能力の持ち主であり、かつては最高額紙幣1万円札の代名詞であった聖徳太子が、今や馬主の頭目に格下げとなった感がある。高校教科書から引用する。
〈推古天皇が新たに即位し、国際的な緊張のもとで蘇我馬子や推古天皇の甥の厩戸王(聖徳太子)らが協力して国家組織の形成を進めた。603年には冠位十二階、翌604年には憲法十七条が定められた。冠位十二階は氏族でなく個人の才能・功績に対して冠位を与えることにより、氏族単位の王権組織を再編成しようとしたものであり、憲法十七条も豪族たちに国家の官僚としての自覚を求めるとともに、仏教を新しい政治理念として重んじるものであった。〉
この記述だと、最高権力者は推古天皇である。厩戸王(聖徳太子)は皇太子でも摂政でもなく、馬子と並んで天皇の協力者・スタッフ扱いである。冠位十二階も憲法十七条も「定められた」とあり、厩戸王一人が「定めた」とはしていない。これは一つの見識だ。『日本書紀』は聖徳太子を皇太子としているが、そもそも皇太子制度は当時まだ存在していない。聖徳太子に限らず、特定の個人をヒーロー扱いすることは望ましくないだろう。
ところが、である。小学校6年生向けの『新編 新しい社会6』(東京書籍)には以下の記述がある。長いので適宜略したものを紹介する。
〈聖徳太子は、20才のときに天皇の政治を助ける役職につき、当時大きな力をもっていた蘇我氏とともに、天皇中心の新しい国づくりにあたりました。太子は新しい国づくりのために、進んだ制度や文化、学問を取り入れることが必要だと考え、小野妹子らを使者として隋に送りました。
国内の政治では、聖徳太子は冠位十二階を定め、家柄に関係なく能力や功績で役人を取り立てました。そして政治を行う役人の心構えを示すために、十七条の憲法を定めました。〉
遣隋使も冠位十二階も憲法十七条も、聖徳太子一人の功績とされている。戦前の国定教科書ほどではないにせよ、「偉大な為政者」扱いである。この教科書で学んだ子どもたちが、高校で日本史を学ぶと混乱してしまうであろう。ここは小学校教科書の内容を、高校教科書に近づけることを望みたい。
ただ、小学校・高校それぞれの教科書に共通しているのは、冠位十二階と憲法十七条の意義である。この意義には異議を唱えたい(ダジャレではない)。
冠位十二階は一見すると能力本位で、民主的にさえ思えるかもしれない。だがここでの「能力」「功績」とは、あくまで天皇による支配のために役立った能力であり功績であることを忘れてはならない。そこのところ、きちんと押さえておかないと誤解する生徒が必ず出現する。憲法十七条で有名な第一条の「和を以て貴しとなし」にしても、一揆や反乱はだめですよと言っているに等しいのだ。また第三条「君は則ち天たり、臣は則ち地たり」、第四条「礼を以て本とせよ」、第九条「信は是れ義の本なり」、第十四条「智己れに勝れば則ち悦ばず」などの項目から浮かぶのは、仏教というよりは儒教である。聖徳太子イコール仏教受容者という理解は間違いではないが、過度に強調するのは問題が大きい。
5 防人
高校教科書は「民衆の負担」という項目の中で、こう述べている。
〈兵役は、正定(成人男子)3〜4人につき1人の割合で兵士が徴発され、兵士は諸国の軍団で訓練を受けた。一部は宮城の警備に当たる衛士となったり、九州の沿岸を守る防人となった。〉
校閲を生業とする私としては、「たり・たり原則」を守っていないのが許しがたい。「衛士となったり、九州の沿岸を守る防人となったりした」と書いてもらいたいものだ。ま、それより問題なのは、防人を「九州の沿岸を守る」存在と説明していることである。そういう側面はあったものの、本質は九州支配の尖兵であった。だからこそ東国、つまり今の東海・関東地方の兵士を充てたのである。現地住民とは言葉がほとんど通じないので、結託して朝廷に反逆する可能性も低いと判断されたのだ。これは軍隊の本質を示すものであり、現在の自衛隊を考える際の参考にもなろう。そこまで授業で取り上げるのは難しいだろうが、さほど処分を恐れる必要がない、定年間近の先生は検討してみてはいかがだろうか。
6 良民と賤民
高校教科書は「防人」の説明に続けて、こう書いている。
〈身分制度は、良民と賤民にわけられ、賤民には官有の陵戸・官戸・公奴婢(官奴婢)と、私有の家人・私奴婢の五種類(五色の賎)があった。賤民の割合は人口の数%と低かったが、大寺院や豪族の中には、数百人をこえる奴婢を所有したものもあった。〉
律令国家成立以降、神に仕える者は「神人」(じにん)、仏に仕える者は「寄人」(よりうど)、神や仏に次ぐ存在とされた天皇に使える者は「供御人」(くごにん)と呼ばれた。
五色の賎のうち官戸・公奴婢は国家の奴隷であり、私有の家人・私奴婢は私人の奴隷である。だが陵戸は天皇の墓守であり、奴隷ではない。それどころか神人または供御人と同じ立場であり、奴婢は奴婢でも「聖なるものの奴婢」だった。陵戸には免田畠(めんでんばく)という、年貢を納めなくてよい田畑が給料として与えられることがあった。関所や港での交通税も免除され、全国どこへでも自由に移動することもできた。ある種の特権を持っていたのである。
これはもはや、一般的な奴隷の範疇を超えている。賎民という語句が使われていても、後世のえた・非人のような存在とは区別しなくてはならない。
7 神仏習合
当時の宗教について、教科書に以下の記述がある。
〈仏と神とは本来同一であるとする神仏習合思想がおこった。すでに中国において、仏教と中国の在来信仰の融合による神仏習合思想がおこっていたことにも影響を受けている。〉
細かいことだが、「中国」という表記は適切なのだろうか。当時、彼の地にあったのは隋や唐であり、中華民国でも中華人民共和国でもない。わが国も倭あるいは大和であって、日本ではない。大和にしても、東北・北海道や琉球はまだ含まれない。「日本史」という科目名まで変更せよとはいわないが、国の名前も現在の視点からは距離を置く必要があると思う。
さて、神仏習合であるが、これはかなり乱暴な説明である。仏教と神道が合体したかのような印象を持つ生徒が出てくるだろう。実際、「神宮寺」という神社だか寺だかわからない存在があるので無理もない。
古代の神道は確固たる宗教体系を持つものではなく、「神の権威・しわざ・ありよう」くらいの意味であった。宗教というよりは、素朴な神祇信仰である。
これが神仏習合を通して、次第に独自の宗教という形を整えてくるのである。
習合といっても一体化するわけではなく、ある面では融合しながら別の面ではそれぞれの独自性を保とうとする。そのような詳しい説明は「倫理」という別の科目に任せてもよいのだが、多くの高校生が履修する「日本史」という科目においては最低限、誤解を避ける説明を望みたい。
8 おわりに
『源氏物語』は多くの作家が和文和訳しているが、最も大胆に訳したのは与謝野晶子であろう。文中に「支那」「朝鮮人」「労働者階級」という単語が登場する。『源氏物語』の舞台が平安時代であったことを考えると、大胆というより無謀というべきかもしれない。文学作品だから許されるともいえるが、同じことを社会科学で行うのは望ましくない。教科書執筆者・教員も人間であるからある程度はやむを得ないのだろうが、現在の視点・価値観で過去を教えるという歴史教育は極力避けるべきだと考える。それは現在と過去との関係だけでなく、過去と過去の関係でも同じである。近世の概念で中世を捉えたり、中世の知識を古代に適用したりすると実態が見えなくなる恐れがある。
歴史は一握りのエリートだけがつくってきたのではないが、民衆の闘いだけが歴史を動かしたというものでもない。そもそも、民衆が常に闘ってきたわけではないのだ。また、良民よりも豊かな暮らしをしていた賎民はいた。「賎民=奴隷=貧困」という見方は、あまりに一面的である。あるいは、古代の神道は後世の国家神道とは、ほとんど別物であった。近現代における神道の戦争責任は問われる必要があるが、古代の神道とは区別すべきであろう。
歴史教育の意義を、平和と民主主義を守る人材の育成だと認識している教員は絶滅危惧種、貴重な方々である。だからこそ、思い込みを排除して歴史の事実を正確に伝えるということに、まずは専心していただければと思うものである。
かわもと・かずひこ
1964年生まれ。日本経済新聞記者、河合塾公民科講師を経て校正者。著書に『理解しやすい公共』(文英堂)など。
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