特集 ● 2025年11月・秋
洗練された全体主義の行方
総力戦体制と新たな装いの現代ファシズム
労働運動アナリスト 早川 行雄
7月の参議院議員選挙で統一協会との癒着や裏金問題で政治不信を招いた自民党が大きく議席を失い、公明党も議席をへらしたことから自公が衆参両院で過半数を割る少数与党政権に転落した。その後、自民党の企業・団体献金問題への対応に反発した公明党が連立離脱を表明し政局の混迷は一層深化した。紆余曲折はあったが、維新が「日本再起」(連立政権合意文書)に向けて閣外協力する形で高市政権発足となった。国民民主も予算や個別法案ごとに協力する姿勢を示しており、参政、日本保守など新興極右も巻き込んだ軍拡・原発推進の翼賛体制が形成されつつある。これは日本会議が神社本庁、統一協会、幸福の科学など宗教右派および右派労組を支持基盤とし、マスメディアやSNSによる世論操作をテコに実権を握る構図だ。
現状は戦争のできる国に向けて民主政治の機能不全が顕在化していると捉えることができるが、政局のエピソード的諸現象から距離を置き、日本の政治社会の現況を俯瞰すればどのような姿が見えてくるのか。冷戦体制下で、また冷戦体制崩壊後も政治利用されてきた「全体主義」という用語は、今日では「権威主義」と言い換えられて、民主主義や法の支配を共通の価値観とする「西側」諸国と対立するBRICSやイスラム圏諸国を揶揄する際に用いられている。その西側諸国、すなわち暴君トランプ支配下のアメリカやシオニストのジェノサイドを擁護する西欧において、治安法制による市民運動の弾圧が常態化し、民主主義を否定する権威主義が猛威を振るっていることはまことに皮肉と言うほかないが、本稿では「全体主義」をひとつのキーワードとして、歴史的パースペクティブにおける私たちの現在地を確認したい。
ファシズムと全体主義
今夏、金子勝『フェイクファシズム』、井手英策『令和ファシズム論』と相次いで財政の観点から「ファシズム」をキーワードとして現下の政治経済情勢を分析する著作が上梓された。ファシズムに関してはさまざまな定義やそれをめぐる議論が続いている。ファシズムの概念規定について金子はロバート・パクストンの『ファシズムの解剖学』を参照し、井手はエンツォ・トラヴェルソの『ポピュリズムとファシズム』などを議論の下敷きにしている。また、全体主義について井手は、トラヴェルソの人間の多様性が出会う場としての政治的なものを破壊することという定義を引いたうえで、全体主義はファシズムを包摂する、より広い概念であるとしている。
因みに、『薔薇の名前』などの著作で知られるウンベルト・エーコは、『永遠のファシズム』においてイタリア・ファシズムを念頭に、「ファシズムには、いかなる精髄もなく、単独の本質さえありません。ファジムは<ファジー>な全体主義だったのです。ファシズムは一枚岩のイデオロギーではなく、むしろ多様な政治・哲学思想のコラージュであり、矛盾の集合体でした」と述べ、それが「ファシズム」という言葉が、さまざまな全体主義運動について一部が全体を現してしまう提喩の機能を果たしてしまった理由であるとしている。
井手も参照しているハンア・アーレントは『全体主義の起源』において、全体主義とは、一部のエリートによる独裁ではなく、大衆の支持に支えられた政治運動であり、既存の政治的思考の概念やカテゴリーを破裂させた前代未聞の事態と捉えている。アーレントは全体主義の根源はホロコーストのガス室に象徴される「人間の無用性」を突きつけた法外さにあるとし、「全体主義政権」を生み出せたのはドイツとロシアのみあり、全体主義国家という言葉の創始者であるムソリーニも一党独裁をなしとげるに止まったとしている。これは厳密な全体主義規定であり、そこに<ファジー>な全体主義が入り込む余地はない。
アーレントの規定は、ナチズムやスターリニズムを典型とするクリアーな、あるいはリジッドな全体主義像である。一党独裁、秘密警察、強制収容所の三点セットに着目すれば、確かに全体主義政権を確立し得たのはヒトラーとスターリンのみという指摘は首肯しうるものだが、三点セットを確立した政権とは全体主義の一類型とも見なし得ることや三点セットの共通性のみからドイツとソ連(ロシア)の歴史的思想的相違を軽視することには留意が必要であろう。アーレントの意図に関わりなく「全体主義」という言葉の用法もまた、さまざまなファシズム運動について一部が全体を現してしまう提喩の機能を果たす結果となっていると言えなくもないのだ。むしろアーレントの全体主義論で最も注目すべきは、後述のように階級社会の崩壊(による大衆に支持された全体主義運動)という論点である。
金子は前掲書で日本の現状はファシズムなのかと問い、パクストンのファシズムは単なる軍事独裁政権ではなく「堕落した民主主義」であるとの規定を援用して、安倍政権がつくり出した「2015年体制」は国民を組織せず受け身のままにしておく「権威主義レジーム」であってファシズムではないとしている。しかし「2015年体制」下で三権分立や言論の自由といった民主主義の根幹が破壊されているうえに、IT産業の一部が巨大化、保守化して、少数のプロ集団が扇動的な情報発信を繰り返すことで、ファシズムによる支配と同じ現象をつくり出すことができるようになっており、案外早くフェイクファシズムが本格的に動き出す日が来るかもしれないと警鐘を鳴らしている。
エーコは<ファジー>な全体主義としてのファシズムを原ファシズムと命名し、これ以上ないくらい無邪気な姿で原ファシズムが蘇る可能性はいまでもある。日々世界のいたるところで新たな形で現れてくる原ファシズムを、ひとつひとつ指弾することが私たちの義務であると述べている。エーコに従うならば、現下の日本で新しい装いで姿を現しつつある令和ファシズムを指弾してゆくことが、いまを生きる「私たち」の喫緊の課題である。
井手がケヴィン・パスモアの『ファシズムとは何か』を引用して述べているように「ファシズムは、特定の集団がおかれた特定の歴史的状況に左右され、一つの定義で整理することが不可能なほど複雑で、多様で、歴史的な現象なのだとすれば、全体主義とファシズムのどちらが上位概念とは一概に言えない。さしあたり不毛な議論による混乱を避けるために、ファシズムは(エーコに倣って)政治思想(文化)の問題として、全体主義は(アーレントに倣って)政治体制(組織)の問題として扱い、両者の区別と連関を論じることが現状分析の方便として無難であろう。ファシズム=人種差別・排外主義を基軸とした政治・社会・文化運動、全体主義=挙国一致で対外戦争遂行を可能にする総力戦体制といったところか。このように使い分けることで、事項で述べるファシズムではない全体主義国家(洗練された全体主義)を議論の俎上に乗せることが可能になる。
総力戦体制を起源とする全体主義
政局のエピソード的諸現象から距離を置き、日本の政治社会の現況を俯瞰するという作業は、日本の政治システムは戦前・戦中と戦後において断絶しているのか、それとも連続するものなのかという問いと不可分であり、一方でそれは日本に固有の現象なのか「先進社会」に普遍的に当てはまるスキームの一部なのかという問題とも深く関わる。『総力戦体制』所収の諸論考を表わした山之内靖は、1960年代半ば以降、80年代に至る時代を大量生産体制から柔軟な生産体制へ、すなわち組織社会からシステム社会(脱組織化)への転換点と捉え、この転換と第一次世界大戦以降に確立された戦時動員体制(総力戦体制)による資本主義の組織化との歴史的関りを論じている。
山之内は、第二次世界大戦後の歴史研究において研究者の関心はニューディールとファシズムあるいは資本主義と社会主義といった軸から、階級紛争の制度化という観点に近年(1980年代)は移行しつつあると述べている。戦時動員体制はニューディールやファシズムなどの姿をとりながら資本が社会的諸モーメントを包括的に掌握するプロセスであり、資本家集団、労働者組織、国家官僚の三者が相互に結びついて国家行政に加わるネオ・コーポラティズム体制が確立された。しかし20世紀最後の四半世紀に情報産業化やそれに伴うグローバル化の進展により、上記三者はいずれも統制力が後退し、とりわけ労働者階級の統一性を弱めた最大の要因は、ナショナルセンターの影響力が大幅に後退し、各企業別に資本と交渉する職場委員会ないし会社組合の力が強まったことにあるとされる。山之内らはこれを脱組織化と捉えるのだが、この脱組織化の過程においても各国のコーポラティズムすなわち階級紛争の制度化を担った三者のいずれか(米日では資本、仏では国家、独・スウェーデンでは労組)は脱組織化にあたってもその主役を務めた。
山之内は、戦後日本社会の骨格をなすべき主要な要素について、ジョン・ダワー『昭和-戦争と平和の日本』の論旨を紹介しつつ、アメリカ占領軍のリーダーシップの下で行われた戦後改革後も、第二次世界大戦期に引き起こされた社会体制の巨大な編成替えが保持されたことの歴史的意味を論じている。戦時下の巨大な編成替えによって国家と市民社会の境界が突破され、民主主義が古典的機能を果たさなくなったが、戦後改革の渦中で民主主義や人権の名において階級差別を告発する声もまた、一旦受容され体制内に定着するや、逆に体制にからめとられて一体化してしまったという。
山之内はまた、ウルリッヒ・ベックの『リスク社会』(邦題は危険社会)に注目する。ベックの産業社会からリスク社会への移行という歴史観は山之内の組織社会からシステム社会へという歴史観と符合するものであり、リスク社会への移行もまた総力戦体制を歴史的出発点としているという。ベックはアウシュビッツ、ヒロシマ・ナガサキからチェルノブイリにいたる20世紀の大惨事(21世紀の今日なら当然フクシマも含まれよう)に言及しながら、これらが何れも第二次世界大戦中に開発された究極的破壊技術と直接・間接に関連しており、科学技術が合理性に関する定義を独占していた時代は終焉したとしている。そしてリスク社会は危険の防衛という社会的正当性原理から、不可避的に全体主義に向かう傾向を内包している。
戦前・戦中の政治体制と戦後体制に連続性をみる山之内は、福祉国家とは抵抗運動(階級対立)を吸収した国家であり、福祉国家もまた戦争国家であったとしているが、それではグローバル化や情報産業化の結果、政労使団体の統制力が減退したシステム社会をどのように規定するのか。階級社会の変容はすべての総力戦体制に共通の社会現象であるが、山之内も大きな関心を寄せたバーナード・ウェイツが、かつてイギリスで典型的に進んだ階級紛争の制度化について、階級支配のより進展した型であり、階級的統合のより洗練されたパターンだと指摘していたことに照らせば、20世紀終盤から今日に至るポスト・コーポラティズム社会もある種の全体主義であるとみなすのが相当だ。
自発的結社による互酬と再生産
ポスト・コーポラティズムの社会では階級紛争は制度化された秩序の裡に回収されるのではなく、少数のプロ集団が扇動的な情報発信を繰り返すインパルスが、自己責任感とそれと裏腹な身近な他者への拒絶感を醸成し、完全に敵を見失わせることにより階級紛争が解消されていく。20世紀終盤に現れたシステム社会もまた、自由と民主主義を抑圧する、文字通り洗練された全体主義である。
階級紛争を制度的に回収し、さらには自助努力の裡に解消するという洗練された全体主義の登場は、富の量的拡大を無限に追い求めざるを得ない資本主義市場経済の要請によるものである。そしてその発祥の原点が総力戦体制にあるということは、いつでも戦争の出来る国が準備されつつあることを意味する。諸悪の根源が市場原理にあるとすれば、財政のように市場経済とは異なった原理が求められることとなるが、租税による再分配(租税国家)はあくまで過渡的な存在であり、究極的にはひとりひとりの労働が全体の必要を満たすような生産と再分配のシステムの下で、共同の意思決定によって計画を作成することが目指されねばならない。
市場原理に対するアンチテーゼはさまざまに示されてきた。ポランニーは市場経済に対する社会の自己防衛として経済を社会に埋め戻すことを唱えたし、エスピン=アンデルセンは社会保障などのベーシックなサービスを脱商品化し最終的には人間労働も脱商品化することを提唱した。本誌前々号で取り上げたデヴィッド・グレーバーが『負債論』などで強調した基盤的コミュニズムは、原初の互酬・再分配の共同社会から、今日のポスト・コーポラティズム社会に至るまで、私たちの日常身の回りで響き続ける固執低音のようなものだ。
前出の井手は、財政はカール・ポランニーが『大転換』で定義した互酬と再分配からなり、社会全体で必要(ニーズ)を満たし合うことで問題を解決し、秩序を創り出そうとしてきたのであり、利潤動機と自己責任に基づく市場経済とは異なる原理に従っているとしている。従って財政を量(規模)の問題としてしか扱わないケインズ経済学の悪弊を排し、ベーシックなニーズとは何か、それを賄うための財源を誰がどのように負担するのかについての共同の意思決定を行うという質、すなわち民主主義の問題として扱うことの重要性を指摘している。家族的社会編成は福祉国家と社会権の拡張をもたらす可能性と同時に、自立した個人を集団の一要素に変質させる全体主義的な社会ももたらしうるとしつつ、人類は家族やコミュニティによって担われてきた互酬と再分配の領域を財政に置き換え、社会全体で必要を満たし合うことで問題を解決し、秩序をつくり出そうとしてきたと述べている。
井手の師匠筋にあたる神野直彦(井手は神野財政学の後継者を自認している)の近著『財政と民主主義』には「根源的危機」という語が37回、「共同意思決定」という語は50回登場するが、ここに現状認識とそれへの対処策が集約されている。同書で神野は財政原理(人間の知恵)による経済の量から質への転換は、経済システムにおいて人間と自然との最適な質量変換を追求することであり、それによって自然と人間との物質代謝という本来の経済の意義が姿を現してくると述べている。
財政が市場経済と異なる互酬と再分配の原理に従うものであり、その目標の達成が自然と人間の物質代謝を最適化するのであれば、財政の機能とは、カール・マルクスが多くの場合アソシエーションと呼んだ自由な人々の連合体、すなわち人々の意思に基づいて社会全体の総労働の配置と総生産物の(再)分配が行われる社会形態を復元することとも解しうる。ここで復元と言うのは貨幣と市場経済が富の偏在と階級分化を生じさせる以前の互酬と再分配の復元という意味であるが、原初形態と決定的に異なるのは、それが歴史的、地理的必然から自然発生的に形成されるのではなく、人々が自由な意思によって共同意思決定に参画する自発的結社であるという点だ。
はやかわ・ゆきお
1954年兵庫県生まれ。成蹊大学法学部卒。日産自動車調査部、総評全国金属日産自動車支部(旧プリンス自工支部)書記長、JAM副書記長、連合総研主任研究員、日本退職者連合副事務局長などを経て現在、労働運動アナリスト・日本労働ペンクラブ会員・Labor Now運営委員。著書『人間を幸福にしない資本主義 ポスト働き方改革』(旬報社 2019)。
特集/2025年11月・秋
- 高市・延命自民党よりも野党に課題本誌代表編集委員・住沢 博紀
- 立憲民主党は自民・維新の高市新連立政権にどう立ち向かうのか立憲民主党代表代行・吉田 はるみ
- MAGA的ポピュリズムが蔓延する世界の行方神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長・橘川 俊忠
- トランプのスロークーデター第2幕国際問題ジャーナリスト・金子 敦郎
- ヨーロッパにおけるポピュリズムの進展を読む龍谷大学法学部教授・松尾 秀哉
- 不公平感に揺れるドイツ社会在ベルリン・福澤 啓臣
- 見えない左、右への落石は山体崩壊の兆か大阪公立大学人権問題研究センター特別研究員・水野 博達
- 今こそ、まっとうな日本の気候政策を創ろう京都大学名誉教授・松下 和夫
- 洗練された全体主義の行方労働運動アナリスト・早川 行雄
- 最低賃金発効日の繰下げは許さない!全国一般労働組合全国協議会 中央執行委員長・大野 隆
- 昭和のプリズム-西村真琴と手塚治虫とその時代ジャーナリスト・池田 知隆
