雑誌『現代の理論』とは ――半世紀の理論史、論壇史の証人

真の知性による理論的思考の復権、
変革の思想と理論の再生をめざす

本誌編集委員・矢代俊三

雑誌『現代の理論』第一次は1959年(昭和34年)5月に創刊(大月書店)されたが、日本共産党中央の強圧により5号で停刊(廃刊)。断絶と継承があり、1964年1月に第2次が創刊(現代の理論社)、1989年12月に休刊するまで4年半の季刊時期を除き月刊で発行された。

第1次は1959年、第2次64~89年、第3次2004~12年、50年の歴史を刻み、2014年デジタル版発刊を決断

新たな世紀を迎え、第2次の中心人物であった沖浦和光さん(元桃山学院大学学長、比較文化論)がある同窓会的会合で、元全共闘世代に「君らもええ年や、現代の理論でも復刊したらどうや」の発破もあり、『現代の理論』と何らかの関わりをもった者が「やれるものならやろうか」と協議。2004年6月に創刊準備号、10月に創刊号を発行。編集主体は現代の理論編集委員会を編成、発行元は言論NPO・現代の理論とし、書店販売は明石書店に依頼した。季刊『現代の理論』はいわば第3次の出発であった。そして2012年の4月20日発行の終刊号まで8年30号を数えたが、途中より発行元を引き受けてくれた明石書店と想いの違いや、編集委員会の力及ばず、心ならずも終刊を決断せざるを得ないことになった。

以降、編集委員会は第3次『理論』を支えていただいた多くの読者のみなさん、快く協力いただいた執筆者のみなさんに申し訳ないとの思いを胸に、今後どうあるべきかの検討を続けてきた。折しも民主党政権の無残な崩壊、自民党の大勝、極右ともいうべき安倍政権の成立と戦前回帰を思わせる国家主義的政策の強行、靖国参拝。また先の都知事選で真正極右翼の田母神候補が60万票を獲得、あるいは恥ずべきヘイトスピーチが闊歩するなど危機的事態が蔓延している。また論壇も右派雑誌や言論が横行し、左派、リベラル系は逼塞しているという残念な社会状況である。そして知性と教養の劣化が社会のあらゆる領域で進行する憂慮すべき時代となっている。

眼を転じれば、非正規労働者が勤労者の40%にならんとし、社会の分裂・格差の拡大、社会的閉塞感の蔓延である。まさに無限地獄社会への突入を思わせる。これらに抗する変革の思想と理論の再生、実践への途は何処にあるのか。まさに『現代の理論』が追い求めてきたものである。微力ではあっても一石を投ずる役割を担おうと創刊(発信)を決意したのが季刊『現代の理論』(デジタル版)である。紙版への想いは断ちがたいが、財政事情などを勘案しデジタル版を決断した。

ここに第4次の『現代の理論』が誕生する。第3次と第4次は2年間のブランクがあるが編集委員会の主体は同一であり連続した関係にある。当然雑誌の立ち位置や編集方針も継承される。端的に言えば、「国家主義の通俗的観念に寄り掛かった右派的言論の横行、スキャンダリズムに毒されたマスコミの現状を憂え、真の知性による理論的思考の復権をつうじて、日本と世界の未来に向けた変革の思想と理論の再生をめざす」、そうした「さまざまな理論と思想を交流する<言論の公共空間>をめざして」、再びデジタル版『現代の理論』として出発することである。
*第3次『現代の理論』でどのような論陣が展開されたかは本号にアップしているバックナンバー一覧を参照されたい)。

思い起こせば第二次『理論』が創刊されて今年は50年。第一次からは55年である。まさに半世紀のなかで『理論』は34年間の歴史を刻んだ。それ自体が言論史であり論壇史でもある。

共産党中央の強圧、短命に終わった第1次

雑誌『現代の理論』(第1次)はどのような歴史的背景で生まれたか。それは戦後の日本共産党の党内論争と不可分である。1956年のソ連におけるスターリン批判は激しく日本共産党を揺さぶった。それはスターリン批判から1958年7月の第7回党大会、61年7月の第8回党大会の過程で繰り広げられたいわゆる「綱領論争」であった。当面する日本の革命は社会主義革命かアメリカ帝国主義からの独立が先とする民族・民主革命から社会主義への2段階革命かで激しい論争が展開された。現在の共産党主流(宮本顕治ら)と反対派(日本帝国主義は自立しているー社会主義革命)である。

第一次『現代の理論』はこの反対派の理論家・活動家を中心にして企画された。同時にスターリン批判を背景に、前衛党の絶対性・無謬性に対する反省から非マルクス主義の党外知識人との交流などを主張した。その発刊のことばで、「かつてマルクス主義は人類の英知の遺産を貪欲なまでに吸収してことごとくみずからの血肉と化した。こんにちまたマルクス主義は、自己完結的体系性の殻をうちやぶる広い討論と交流のなかでのみ、その生命力を燃焼させるであろう。この雑誌は同じく進歩と平和を愛しながらマルクス主義とは異なる立場にたつ人々とのあいだに、真剣な批判と刺激をあたえあう場所でありたいと思う」と訴えた。これらが、“真理の基準は党にあり”とする共産党中央の逆鱗に触れ、激しく抑圧され5号で発行不能となった。

ちなみに当時学生であった本誌編集委員の小塚尚男さんは、「創刊号の巻頭論文が佐藤昇、筆者に不破哲三、今井則義、田口冨久冶、日高六郎を見て胸がときめいた」と語っている。また2号ではトリアッティの「アントニオ・グラムシ」が翻訳され日本で最初のグラムシ紹介であった。

60年安保闘争を経て開かれた共産党第8回大会(1961年7月)は、綱領で「2段階革命論」を採択。敗北した社会主義革命派の多くの知識人や労働者、学生は共産党を脱党し、社会主義革新運動準備会や統一社会主義同盟などを立ち上げる。彼らの主張は、ソ連型―日共的マルクス主義(スターリン的)批判、議会を通じた社会主義への道など、レーニン型ではなくグラムシやトリアッティのイタリア共産党の先進国革命論に理論的影響をうけ、この勢力は社会的には構造改革派と呼ばれた。

思想と理論の自立性を掲げる

こうした激動のなかで雑誌『現代の理論』の復刊が並行して論議される。第1次では共産党内の知識人であったが、それらの人々はほとんどが脱党。その中心的メンバーはほぼ同じであった。井汲卓一(後、東京経済大学学長)、長洲一二(後、神奈川県知事)、佐藤昇(後、岐阜経済大学教授)、安東仁兵衛氏などで、第2次ではさらに多数の知識人、労働者、学生が結集した。

その創刊のことばに、この雑誌の性格・方向性が端的に示されている。また東西冷戦も影を落とす。「われわれはいま歴史の大きな一頂点に立っている……人類はみずからの破滅に転落するだろうか……大いなる峰への途を発見せねばならない……立ち止まることは死である」「……現代における理論と実践の歴史的な統一とはどのような形態において実現されるのか。……雑誌『現代の理論』はこの統一のための理論的課題をみずからの課題とする。……高度の理論的自立性がその生命である。だがまさにこの自立性が守られるときにのみこの雑誌はすべての運動体にとっての真の方向舵となることができるだろう。……そして真実の運動体は、それが真実の運動体であるときに、われわれの自立性をまもるのである」。この第2次創刊のことばには、第1次が党派(共産党中央)の統制・抑圧で潰された痛苦の想い・反省がある。まさに思想・理論の党派からの自立性である。今日の中国や北朝鮮を見るまでもないであろうが組織と個人の関係性も含めて他人事ではない。同時に理論と実践の統一は如何にあるべきかも雑誌の課題となった。多様性のなかの統一、などが語られた。

以降、第2次『現代の理論』は創刊号(1964年1月)特集で「人類は戦争を駆逐しつつあるか」を組みキューバ危機などを背景に冷戦下の平和共存論、得意分野であった日本資本主義分析としての国家独占資本主義論、スターリン主義批判、マルクス研究、環境論、市民社会論、ユーロコミュニズムの紹介など。また労働運動や原水禁運動、学生運動などにも多くの紙面が割かれた。もとより雑誌『現代の理論』の歴史は単線ではなく時代を反映し曲折があった。とくに理論と実践の統一という理念の実現は時代の制約を大きくうけたといえる(これらについては富田武本誌編集委員が第3次終刊号の「ある視角」で寸評している)。

ともあれ雑誌『現代の理論』とはどういうものであったか。それは半世紀の理論史、論壇史の証人そのものである。現代の理論編集委員会は、デジタル版を活用して『現代の理論』の歴史を振り返り、時々の論考を再録することは貴重な試み、意義のあることと考え今後取り上げていきたい。

最後に25年の歴史に幕を閉じた第2次の休刊号(1989年12月号)特集=戦後史と『現代の理論』に寄稿した諸氏を一部紹介する。これを見ても、『現代の理論』が多彩な人士によって支えられていたことの一端を知ってもらえると思う。――井汲卓一、長洲一二、佐藤昇、飛鳥井雅道、池山重郎、石川真澄、岩見隆夫、沖浦和光、菅直人、橘川俊忠、久保孝雄、坂本義和、篠原一、柴田翔、筑紫哲也、堤清二、中岡哲郎、西田照見、日高六郎、正村公宏、松下圭一、丸山真男、緑川亨、宮崎徹、山崎春成、山内孝郎、横田克己……。

それにしても『現代の理論』が論陣を張った構造改革論は、その昔、著名なアントニオ・グラムシの研究者が、“構造改革論は早すぎた革命論でしたね”と語ったのが心に残る。

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