コラム/沖縄発

我々と彼らを区別することば

デンバー大学助教 半嶺 まどか

研究が持つ暴力性

最近、海外の研究者から琉球の言語について人を紹介して欲しいとの問い合わせが多く少し困っている。そもそも、世界のいろいろな地域でマイノリティ言語や先住言語の研究者にも同じようなことがあるとよく聞く。これまでに研究を一緒にしてきた北欧の先住民サーミ人の研究者からも同じような意見を聞いた。このように当事者性を持つ研究者がゲートキーパーの役割を担わされることが多くある。多くの場合、歴史の中で少数言語やその話者、そのコミュニティは、これまでに研究の対象とされてきた。したがって、コミュニティの内側の人々は、研究者を不審がり、協力を拒否し、なかなか本当のことを伝えないなど、排他的にならざるを得ないことも多い。琉球列島に関心がある海外の研究者、特に欧州や欧米の研究者にも時々同じように、沖縄や琉球を単なる研究の対象として見ており、言葉を話す人を標本のように取り扱ったり、言語のデータをとって、何もコミュニティには還元してくれないといった話を、琉球列島でのフィールドワークの中で聞く。そのような状況は、北欧のサーミや北米の先住言語のコミュニティと共通点が多いと思う。私自身、研究者を紹介する場合、慎重にならなければと考えている。

Saviorism(救世主主義)

また、同時に困っているのは、西洋や本土からの有識者に、そのような海外からの問い合わせが多くて困っていることを伝えると、「でも私は今までこんなにたくさんのことをやってきた」「確かに自分も部外者だけど、こんなものを作っている」というふうに、今度は、自分がいかによく研究の対象になるコミュニティのために頑張っているかということを、話されることがある。これらは、北米を中心に議論されているSaviorism (救世主主義)と称される行動によく似ている。沖縄人(うちなーんちゅ)の当事者性を持たない人にとって、マイノリティである沖縄が抱えるさまざまな問題のうち、何か一つの問題について取り上げ、沖縄の人たちを助けて、自分が助けてあげることで、気持ち良くなるために何かをしているというのは、とても問題があり、このような「助けてあげる精神」は、逆にマイナスな害を及ぼす恐れがある。例えば、移住者の中にも、やまとんちゅであるから差別されている、沖縄がこんなに好きなのに馴染めない、などといった理由で、すぐに沖縄を離れる人があると聞いた。しかし、よく考えてみると、やまとんちゅの彼らには、沖縄からそうやって逃げる道があるということが「やまとんちゅ」のもつ特権である。最近、沖縄が好きなら、みんなうちなーんちゅということも、聞こえてくるが、本当にそうなのだろうか。

入植者植民地主義を問う

久しぶりにアメリカで再会したカナダのアルバータ州出身の私の友人は、カナダの民族の一つのグループであるMetis(メティ)であり、ジェンダーと先住民の女性たちの権利、また少数言語文化の再活性化などを研究している研究者だ。カナダといえば、皆さんも聞いたことがあるかと思うが、フランス語と英語のバイリンガルな国家だ。特に、ケベック州では、ケベックのフランス語を話す人口も多い。

またカナダでは、白人の入植者によって、もともと住んでいた先住民の人々の生活や命、また文化などが消えかけたり、なくなってしまった歴史がある。そのため、白人の人々にとって、Settler(入植者)であることによる特権が存在する。ここでいう入植者植民地主義(settler colonialism)とは、北米やオーストラリアなどのオセアニア地域で、さまざまな理由でヨーロッパから白人の人々の集団が入植し、移住した経緯によって、元々いた人々にとって不利益な歴史的出来事が起きたことを指す。例えば、元々いた土地から追い出され、文化や言語を統一化され、子どもたちが家族から引き離されて、入植者のヨーロッパ的な価値観に基づいた教育を受けさせられた事実などがそれに代表される。これによって、人々が持っていた文化や言語などが奪われ、行政や政治の中で、声を掻き消されてしまう。これは、何も北米に限ったことではなく、例えばハワイや、パプアニューギニア、またヨーロッパの中でも北欧の国々では、国内の先住民である少数派の人々に対しても、似たような悲惨な歴史が繰り返された。

我々と彼らを区別することば

入植者植民地主義において、ことばは、我々と彼らを分ける一つの指標となった。周りに二つ以上の言語を話す環境があった場合、世界ではそれは普通のことであるが、そのうち二つ以上を習得するのか、それとも一つのみを習得するのかは、その国の状況や、教育、家庭内の言語の選択によって左右される。またその言語のうち、どちらかが抑圧された少数言語である場合、おそらく子どもたちは、主要言語を話したがり、それが「成功者」の言語であるために親も主要言語のみを話す場合が多い。そのことによって家庭内言語のシフト(変換)が起こる。このように二つ以上の言語が話される(た)地域では、ある単語の発音が正しくできるか、文法を正しく使えるかによって、ことばによって他者と我々の線引きができる。沖縄の場合、琉球諸語と呼ばれる言語があるが、多くの場合、方言とも呼ばれ、地域それぞれのことばがある琉球列島でも言語のシフトが起こった。このことばをめぐる歴史が、今でも区別と排除の仕組みにつながっていることがある。例えば、これまでの例で言うと、「沖縄の人って文法通り話せない」というひろゆき氏による発言などは、まさにその線引きによって、日本本土側の人が、沖縄の人を他者として扱っている例であり、人権としての言語権の侵害であると取ることができる。

はんみね・まどか

沖縄県生まれ。2010年代にフィンランドで大学院(博士課程)を修了し、沖縄の名桜大学を経たのち、2025年からは、アメリカ合衆国のデンバー大学で教鞭を執る。専門は言語教育政策,批判的応用言語学、言語再活性化やインディジナス・スタディーズ。

コラム

第42号 記事一覧

ページの
トップへ