コラム/歴史断章
イノベーション論の虚と実
市民セクター政策機構理事 宮崎 徹
つい先ごろ、今年のノーベル経済学賞の発表があった。アメリカの経済史研究者モキイア氏ら3氏の「イノベーション主導の経済成長の解明」に対するものである。新聞の紹介記事によると、「経済成長の原動力であるイノベーション(技術革新)の役割を広範に解明した。知識の普及が技術革新に不可欠であることを明らかにした。技術革新によって生じる失業を含めた『創造的破壊』の負の側面にも目を向け、各国の政策にも影響を与えている」ということだ。
ノーベル経済学賞を額面通りに受け止めることはできないとしても、いまオピニオンリーダーたちがどんなテーマに関心を寄せているかを示していることは間違いない。現に、去年の同賞の受賞者ダモン・アセモグルの授賞理由は「制度の形成過程と経済的繁栄への影響に関する研究」というものであり、そこでもイノベーションが主要なテーマとされている。
ついに進歩主義の御本尊が歴史の前面に出てきたのか。イノベーションこそ経済発展の源泉とされる。それは資本主義にとって(あるいは体制を問わず)水戸黄門のご印籠のようなもので、誰もいちゃもんをつけられないという卑俗な理解も跋扈している。しかし、以下の小論で紹介する『技術革新と不平等の1000年史』(サイモン・ジョンソンとの共著、早川書房、2023年)を上梓したアセモグルは、広い視野からイノベーションのあり方について批判的検討を行なっている。
テクノロジーの良し悪しはすぐれて選択の結果だ
それはともかく、経済社会の現実をみると、いまイノベーションの最先端であるAI(人工知能)をめぐって幻想というか、バブルが加速しているようだ。たしかに、いまのインテリジェントな機械は数十年前には不可能だと考えられていたタスクをやってのける。そして、いくつかの成功事例が並べ立てられるなかで、「AIはわれわれの生活のあらゆる面に影響を及ぼし、改善してくれるはずだ」というような想定が当たり前になろうとしている。さらに、AIテクノロジーが「シンギュラリティ」(人工知能のレベルが人類の知性を凌駕する時点)の実現に近づいているとまでいう人が出てきている。
このようなテクノ・オプティミズムの根底には「生産性バンドワゴン」というシンプルで強力な考え方がある。パレードを先導する楽隊車が起業家や資本家だけではなく労働者を含めあらゆる人を引っ張っていくというのである。だが、これまでの経済を中心にみた長期的な繫栄の歴史は、テクノロジーの進歩によって自動的に保証されたものではない。ちょっと振り返れば、イギリス産業革命の初期に繊維機械の登場が、昼夜にわたる工場の稼働率上昇を促し、子供まで動員した労働の強化が広がった。もっと歴史をさかのぼって、中世における農業テクノロジーの進歩に際しても、権力者が強制と宗教的な説得を合わせて新たな余剰生産物の多くを手に入れていた。巨大な教会建築物はその象徴である。したがって、紆余曲折を経て繁栄の共有がそれなりに実現したとすれば、それは「テクノロジーの発達の方向性と社会による利益分配の方法が、主としてごく一部のエリートに有利な仕組みから脱したおかげであり、それ以外ではありえなかった」とアセモグルは指摘する。
そのことをもっとわれわれの時代に近い事例でみておこう。第一次大戦と大恐慌という苦境から這い出る過程で、産業テクノロジーの分野で大きな進化が進んだ。その中心は現代へと連なるオートメーションである。しかし、この時代のオートメ化という先端技術は、その登場がさらに新しい仕事を生み出すという「やさしい」段階であった。つまり、仕事のある部分を自動化すると同時に新しい仕事を生み出したのである。もっと広げていえば、第二次大戦後の経済成長で明らかになったように、例えば自動車産業は前方、後方への産業連関効果が大きく(関連産業の創出)、さらにハイウエイなどの社会インフラや郊外都市の建設とともにショッピングセンター、娯楽施設などサービス産業の発展を呼ぶ。つまり、初期にはオートメ化による雇用の減少を補って余りある増加がみられた。労働の需給関係からいえば、自動車や家電といった新製品への需要爆発に支えられた高度成長による雇用ニーズの持続的な高まりがあったろう。
しかし、アセモグルが注意を喚起しているように、テクノロジーの方向性をめぐってはしだいに労使間の争いが激化した。振り返ってみれば、「労働者にやさしいテクノロジーの進歩は、とくに労働運動という対抗勢力のために、この方向に企業が進むことを誘導した制度的な仕組み」によるところが大きい。アメリカにおいてはニューディール政策が企業、労働組合、政府の牽制関係を担保するものであった。企業の専横を許さないバランス感覚である。そうしたレジームづくりは先験的にスウェーデンなど北欧の「協調組合主義モデル」として出現していた。テクノロジーの選択をめぐる企業サイドの専断を回避するための拮抗力が重要なのだ。
フリードマン・ドクトリン――オートメーションとグローバリゼーションの挟撃
ところが、改めて整理するまでもなく、1970年代に戦後の繁栄が陰りだすとともに新自由主義的な「反革命」の波が世界を席巻するようになった。アセモグルの診断はこうである。それまでの「繁栄の共有はオートメーションそれ自体によって破壊されたのではなく、オートメーションを最優先しにして労働者に新しい仕事を創出することをないがしろにした、バランスの悪いテクノロジーのポートフォリオ(選択の組み合わせ)によって破壊された」のだ。オートメーションは工場やオフィスで低スキルや中スキルの労働者が担う仕事に集中しがちなので、不平等を助長する大きな要因となった。
デジタル・テクノロジーは、初期の科学者や起業家が抱いた多くの可能性(分散化や双方向性など)を持っていたのかもしれない。アセモグルも本書の中で「機械有用性」という概念を用いて人間の仕事を助けるというスタンスに制御された技術開発の展望に言及している。しかし、IT弱者の筆者からみると、他方ではデジタル分野では標準をとった者の一人勝ち、大きなネットワークが小さいネットワークを咥えこむというような技術自体の特性があるようにみえる。そこでイニシアチブやパワーを持った人間が巨万の富を動かして好きなように世界をデザインするという悪夢もあり得よう。
それはともかく、テクノ・オプティズムと企業が結びついたのは、広く社会の変化、意識の変化が背景となっている。それは1970年の、悪名高きフリードマン・ドクトリンが象徴している。フリードマンは言っていた。これまで企業の社会的責任は誤解されてきたのだ。企業は収益を出すことと株主に高い配当を生み出すことだけを気にかけるべきだ。「企業の社会的責任は利益を増やすこと」、それだけなのだ。こうした株主主権論が日本でもかまびすしかったのはまだ記憶に新しい。
この間にアメリカを先頭に企業活動のグローバリゼーションも急速に進んだ。オートメーションとグローバリズムには相乗効果があり、どちらも人件費を削減し、労働者を追放したいという同じ欲求に動かされていた。「1980年以降、職場でも政治プロセスでも対抗勢力が欠如していたせいで、両者が助長されてきたのだ」。
見通しは暗い。かつて産業革命の時代に入り込んだ時、イギリス社会はエリートと無力な国民という二層構造の社会であった。そうした社会では進歩があって生産性が上がっても、最初のうちは多くの国民の生活条件を悪化させるだけだった。その状況が変わりはじめたのは、社会的な力の分布図が変化して、テクノロジーの流れが労働者の能力を高める方向に変わってからである。同時に、職場での収益を分配可能とする制度や規範の確立により、生産性の向上が賃金の上昇に転換されることが不可欠だった。こうしてイギリスをはじめとして階層的な社会も徐々に変わり、やがて中産階級も生まれるようになったのである。ところが、いますでにわれわれは再び「二層社会へ回帰する途上にいる」とアセモグルはいう。
説得力――アイデアとアジェンダの設定――が選択を決める
このようにテクノロジーの歴史をたどると、その可能性をどのような方向で進めていくのかという選択こそが核心的な問題であることが分る。すなわち、新しいテクノロジーが多くの人々に広く繁栄をもたらすか否かは「経済的、社会的、政治的な選択」にかかっているのだ。そして、現代社会では選択権を行使するには説得力こそがものをいう。説得力の源泉はアイデアの力とアジェンダ(課題)設定能力である。アイデア(考え方、着想)は、適切な背景のもとで自信をもって表現された場合大きな説得力を持つ。そしてアイデアというものは自己複製することで広がり、影響力を増していく。また、アジェンダ設定はアイデアと絡み合っていて、説得力のあるアイデアを持っていればアジェンダ設定がやりやすくなるし、アジェンダ設定をうまくやればやるほどアイデアはますますもっともらしく強力になる。選択をめぐるヘゲモニー争いについてのアセモグルの明快な整理はおおいに参考になる。
この説得力、その内実としてのビジョンやアイデア、アジェンダ設定力が選択問題の決め手であるのは何もテクノロジーに限ることではなく、世の中全般の選択問題、意思決定(権力行使)においても同じであろう。例えば、記憶に新しいところでは2008年の世界金融危機(リーマンショック)に際しての銀行界のふるまいである。うさんくさくも、それまでに築いてきた高い経済的地位をよりどころに金融の専門家に任せろ、銀行の連鎖倒産を防げ、「大きすぎてつぶせない」など専横的なアジェンダ設定力を行使した。わずか十数人余りの銀行家が救済策の枠組みを決めることになったのである。銀行株主、債権者、経営幹部が守られることになった。残念ながら、ほかの現実的な方策、例えば金融支援で銀行は無傷の法人として維持しつつ、同時に経営陣が利益を得ることを許さない方法、あるいは苦境に陥った住宅ローンの借り手に支援の手を差し伸べるなどの代替案は力をもたなかった。
21世紀の最初に起こった金融界の暴走、それに続くのが現在進行形のテクノ・オプティズムの急展開である。人物は変われど、懲りない面々の大活躍というか大暴走は終わらない。たしかに、売り込むべき魅力的なアイデアを持っていれば説得力を増すだろう。しかし、「絶対的権力は絶対に腐敗する」という命題のように「説得する力は絶対に堕落する」とアセモグルは断言する。なぜなら、大きな説得力を手にしていると、自分は正しいのだと自分を納得させる傾向が強まり、他人の希望、利益、苦境には鈍感になるからだという。トランプと互いに利用しあっているイーロン・マスクなどその典型であろう。
こうした傲慢なビジョンや利己主義を抑制するためにどうすればよいのだろうか。これまでの行論から明らかなように、アセモグルの基本的立場は次のようなものである。まず何より第一に対抗勢力を作り出すことである。「支配的なビジョンを相殺するものとして、多様な声、関心、視点を確実に生み出すことによって、未来を再構築する必要がある」。そして、より広範な人々へのアクセスを保証し、多様なアイデアがアジェンダに影響を及ぼす経路を生み出す制度を築くことである。一部の人たちだけが享受するアジェンダ設定の独占を打ち破らねば未来はない。
もっと具体的な提案については本書を手に取っていただくほかない。
みやざき・とおる
1947年生まれ。日本評論社『経済評論』編集長、(財)国民経済研究協会研究部長を経て日本女子大、法政大、早稲田大などで講師。2009年から2年間内閣府参与。現在、本誌編集委員、生活クラブ生協のシンクタンク「市民セクター政策機構」理事。
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