論壇
テキヤ政治家・倉持忠助の「電力問題」(下)の①
フリーランスちんどん屋・ライター 大場 ひろみ
昭和神農実業組合
やっと倉持忠助に戻ろう。
1919(大正8)年にヤクザの連合組織、「大日本国粋会」(関東、関西、西日本に各支部)が結成された。政友会の内相・床次竹二郎が世話役、右翼・玄洋社の頭山満を顧問とし、「皇室を中心とする鞏固なる団体を結び永遠に邦家の為めに献替せんとする」とその名の通り、はっきり国粋主義をうたっている。1921(大正10)年には国粋会に対抗して「大和民労会」が民政党をバックに結成、ヤクザを右翼化して政治利用する動きが加速化する(猪野健治『ヤクザと日本人』ちくま文庫刊)。そのテキヤ版が1926(大正15)年11月3日(日付は『テキヤと社会主義』に拠る)、飯島一家の山田春雄が中心になって、全国のテキヤをまとめると謳った組織、「大日本神農会」の結成である。
『てきやの生活』によれば、こちらも宣言に「不純なる労働争議の防圧、不逞なる社会主義者の全滅」「万死以て報国の真情を」などの文言があり、総裁は男爵中川良長、会頭に山田春雄が据わった。1927(昭和2)年12月1日付け(『てきやの生活』に掲載の『神農』表紙に拠る)で機関誌『神農』を発行、巻頭に田中義一(元軍人、政友会総裁、当時首相)が「侠商」の揮毫を寄せている。国粋会と同じく、テキヤを政友会系の右翼反動組織化する目的明白である。
これにかみついたのが倉持だった。機関誌『神農』に「神農の道を行くもの」と題する文を寄稿し、「或る方面で、『彼等は侠商である』とのお褒めの言葉を頂いたが、これは誠に有難迷惑なお言葉です」。一応断っておくが、「侠商」の文言は田中義一が一方的に押し付けたものではなく、「大日本神農会趣意書」の1行目で「全国に散在する侠商60万の大同団結である」(東京市役所『露店に関する調査』1932年)とあるように自称として使われている。しかし倉持は時の首相に贈られた文言を真っ向から否定するように用いた。実に肝が据わっている。その上この文を忖度することなく載せた周囲も太っ腹だ。さすがテキヤさんである。続けて「却って“商いをする侠客”との誤解を受ける危険が多分に含まれています。私は明言しておきたい。私達は小資本の実業家である――と」。またテキヤに対して「小資本の実業家」と規定する辺り、「近代的親分」と呼ばれた倉持の面目躍如である。
「大日本神農会」に対抗したのが、倉持が会長となって結成された「昭和神農実業組合」だった。1927年という結成時期は、『てきやの生活』しか記していない。しかし1927年となると、大日本神農会の機関誌『神農』が1927年12月1日発行なので、それ以前か直後の結成となり、腑に落ちない。ここまで主に『てきやの生活』に拠ってきたが、知道はいささか年代記述が怪しいので、もうちょっと後の結成なのかも知れない。和田信義の『香具師奥義書』に拠れば、「東京及び横浜間に散在する香具師の親分又は準親分達二百余名が発起となり、三万余名の会員を集めて『昭和神農実業組合』なるものを組織した」。先の「大日本神農会」が「全国に散在する侠商六十万の大同団結」を謳っているのと比べて少ないが、どちらも大風呂敷ながら、『昭和神農実業組合』は東京・横浜に限る辺りが団結の範囲の限界として信憑性がある。
和田が引用したその『宣言』は、「我等は皇室を神と仰ぎ奉る伝統的国民精神を生命となし、国体の精華たる家族愛の信念を高調せんとするものなり」と、天皇制を絶対とするところは「大日本神農会」と同じくしている。この辺りについては後述するが、倉持の思想の限界を、『てきやデモクラットー倉持忠助伝』の大岡聡は、「国家的価値の至上性を前提として権利主張がなされている」と喝破している。テキヤらしいのは「我等の不文律たる『友達は五本の指』なる信念を団結の本義となし基礎となす」というところで、「友達は五本の指」とは、テキヤ同士は欠かせぬ平等な仲間であるということを意味する。テキヤにとっての最も大事な信念は仲間同士の団結なのであって、実はそちらの方が天皇を仰ぐよりも先にあったのである。
大岡聡は、さらに『昭和神農実業組合』の趣意書を引用しながら、右翼主義に対抗するだけでなく、「『独立者』としての人格承認要求を含んだ、露店商の『弊習』改善による地位向上の運動である」とも指摘する(『昭和恐慌前後の都市下層をめぐって』論文)。テキヤという、社会からアウトサイダーとして蔑視される立場を自ら克服するという、これも倉持がアナキスト時代から持ち続けた差別からの脱却というテーマと、「近代的親分」性が発揮された一事であった。
この団体結成以前、東京のテキヤ界は新しく導入された夜店の電灯問題で揺れていた。
テキヤの「電力問題」
テキヤの夜店で使われる灯りは、電気が使われるようになるまではアセチレン(カーバイド)ランプが主流だった。アセチレンランプがアメリカで発明され特許を取るのが1900年だそうだから(ウィキペディア)、それも大正時代から見てそんなに古い話ではない。元々露店は明るい日中に開くものだった。明治になってからも街頭のガス灯や建物の灯りに頼っていたようだ。
東京市での露店電灯の普及は、1913(大正2)年頃、原商会なるものが東京電灯株式会社と契約して東京市内の主な露店出店場所に電灯設備を設け、露店出店者に電灯を供給し始めたのがきっかけだ。その後に成電社なるものが東京市電気局と契約し、その送電区域の露店出店場所に電灯設備を設置。大震災後に今度は焼失区域の供給権を市街電灯なるものが獲得し、この怪しい3社が東京電灯・東京市電気局の中間に立って、露店出店者から点灯料と取扱手数料を徴収した。この3社が露店から徴収する電気料金と、東電・市電に納付する請負料金に大幅な差があった。
『露店に関する調査』は、家庭用電灯料金と露店の料金を比較して、平日(ヒラビ、常設の露店)のひと月料金ではおよそ2倍、縁日では1日当たりの比較でテキヤの主に使う50燭光と100燭光(燭光は当時使われていた明るさの単位。100燭光は100Wと同じと考えていい)でおよそ4,5倍という高額であることを示し、電灯料金の8割は仲介業者の手に渡り、中間収益は20万円以上と推算している。(ここまで『てきやの生活』に拠るところから始めているが、テキヤの電力問題に関する知道の記述はかなりの部分を『露店に関する調査』に負っているので、この後も『露店調査』から直接引用する。)
そこで当然、電気料金の値下げと電灯を自営しようではないかという要求が露店業者から噴出してくる。1926(大正15)年7月、「75組合(注:テキヤには親分がまとめる一家や大日本神農会のような大連合を呼びかける組織とは別に、明治以後は常設の露店が商店街のように地域毎にまとまったり、業態毎などのまとまりとしての組合があるが、この75組合はどのように数えているのかは分からない)6202名は代表者を選び畑商会、成電社、市街電灯の各営業者に対し電灯料金の値下を要望し、同時に電灯自営の具体案を樹て逓信大臣及東電(東京電灯)並びに市電(東京市電気局)に対し猛烈な運動を開始する」。
結果、畑商会の露店電灯施設一切を買収、1927(昭和2)年以降東京電灯と3か年毎の契約となるが、その団体名を『露店調査』では「東京露店電灯会社」、『てきやの生活』では「東京露店電灯組合」(代表は倉持忠助)、やはり『てきやの生活』中で倉持自身の言葉の引用では「日本露店組合連合会」と表記されている。
いずれにしろ、畑商会の配電分を買収しただけでは全部の露店の供給区域を網羅したことにはならない。依然として成電社、市街電灯の料金で負担せざるを得ない区域もあり、様々な不満も出て、倉持を困らせることになる。(この辺りに関しては後述)
大正から昭和の電気事情
銅は電力の母
ところで、テキヤに電灯を使わせて儲けようなどと企む者が出てくるほど、電気の普及は急を告げ、電気事業も勝手に起こせたようではないか。大正から昭和にかけての電気事情はどうなっていたのだろうか。
日本の一般への電灯供給は、東京電灯(様々な吸収・合併を繰り返した後東京電力となる)が南茅場町の第二電灯局(発電所)から蛎殻町まで配電線を敷設――つまり電柱を立てて電線を張り、1887(明治20)年11月29日、日本郵船や東京郵便局などに配電し、白熱球を灯したのが創始である。しかし東京電灯は1886(明治19)年の開業以来、電灯局を完成させるまで、1887年鹿鳴館に移動式発電機を持ち込んで白熱灯を灯すなど、臨時の点灯や、1886年の大阪紡績三軒家工場へ直流発電機による電灯設備を設置したのを皮切りに、自家発電設備の設置請負を主な業務としていた。自家発電による電灯を取り入れるのは紡績工場が多く、次に鉱山が発火の危険の少ない電灯を採用した(『関東の電気事業と東京電力』東京電力株式会社)。
自家発電による工業用利用では、1890(明治23)年に古河鉱業は足尾銅山で水力発電所を完成させている。それより前、古河は1888(明治21)年にドイツのジーメンス電機会社から電気精銅用の発電機やボイラーを発注し、試験の末、1897(明治30)年に電解工場を建設、翌年操業開始、同年に電気削岩機も使用するようになった。銅の生産こそは電力の普及と切っても切り離せない綯い合わされた一本の縄のような関係である。電線は銅で出来ている。「電気機械のために銅の需要が増大したのであるが、その需要に答えるためには、また電気機械が必要なのであった」また「足尾銅山で言えば、古河資本は後に電線製造のために古河電工を起し、重電機の製造のために、ドイツのジーメンスと提携して富士電機を、通信機の製造のために同じくジーメンスと組んで富士通信機を起した。」住友が江戸時代から所有していた別子銅山(愛媛県新居浜市)では、「電線製造のために住友電工を、銅加工のために住友伸銅(後の住友金属)を、通信機製造のためにアメリカのウェスタン・エレクトリックと提携して日本電気を経営した」(星野芳郎『足尾銅山の技術と経営の歴史』論文)。足尾銅山の鉱毒被害はよく知られているが、別子銅山も製錬ガス公害をもたらし、労働争議も起きている。日本で豊富に産出する銅こそが、電力の普及と企業の勃興と公害を、キメラの如く一心同体として生み出していたのだ。また足尾には1940年以後、2416人の朝鮮人、また257人の中国人が強制連行され、労働を強いられたことは、様々なメディアで取り上げられている。植民地支配による生産力の導入も銅とは切り離せない。
電力需要の伸長と鉄道
日露戦争(1904~5年)後、経済には浮き沈みがありながらも、1914(大正3)年の関東に限っていえば、工業生産額は東京府では全体の44.2%を重化学工業が既に占めている。足尾などの鉱山を抱える栃木県は50.4%、神奈川県が29.9%と、重工業化が進んでいることがわかる。
となると電力需要も当然伸びるわけで、東京府での電力需要は1907(明治40)年では換算電気力(kW)で1577が、1914年には39402と約25倍。電灯需要では1907年で需要家数が52168戸、1914年では508692戸と9.75倍と、それぞれ明治から大正に移り変わる7年で急激な伸びを示している。全国の電気事業者数は、1907年は116が1914年は461と約4倍(東京府は3→11で約3.6倍)、事業者は大正の終わり1925年には769まで増えた。電気事業者は電気供給の他電気鉄道とその兼用を含む(『関東の電気事業と東京電力 資料編』)。そう、電車も走っていたのだ。
日本で最初に電車の営業運転を開始したのは1895(明治28)年の京都電気鉄道である。東京に限っていうと、1903(明治36)年に東京電車鉄道(元の東京馬車鉄道)、東京市街鉄道が、そして東京電気鉄道が1904(明治37)年に開業したが、行政指導により、3社が1906(明治39)年に統合され、東京鉄道となる。さらに1911(明治44)年,東京市は東京鉄道を買収し、東京市電気局が起ち上げられ、市電の運転と電気供給事業を担うことになった。
ここでいう電車とは路面電車のことである。軌間(レールの幅)が1372mmなのも馬車鉄道の軌間を踏襲したためで、おかげで東京市街と郊外線もすべてこの珍しい幅で作られた。東京市周縁地域では京浜電気鉄道が1904年に品川・川崎間を開業、その後玉川電気鉄道、 王子電気軌道、京成電気軌道、京王電気軌道、城東電気軌道が続々開業して、それぞれ品川、渋谷、大塚、三ノ輪、押上、新宿、錦糸町をターミナルとして東京市電にアクセスした。
じゃあ高速鉄道、私たちが今日普通に電車というものはどうだったかというと、1904年に甲武鉄道が蒸気で運転していた飯田町・中野区間を電化したのが東京市内では最初である。その後お茶の水まで延伸した。1906年甲武鉄道は国有化されてこれが中央線となる。国有鉄道は1909(明治42)年、烏森(現新橋駅) ・品川・池袋・上野間と赤羽-池袋間の電車運転を開始し、これが山手線の原型となる。現在の鉄道とターミナルで結ばれた東京の姿がだんだんと見えてくる。
第1次大戦(1914~18)後には、重工業の発展と人口の都市集中と共に郊外が開発され、電化された鉄道の普及は急務となったが、電化推進の理由はそれだけではなかったという。第1次大戦後に電力会社の統合により5大電力(東京電灯・東邦電力・大同電力・宇治川電気・日本電力)が生まれ、「5大電力はその資本系列下に既設、新設の電気鉄道があり、さらに電力の販路を求めて、電気鉄道網の拡大を進めていた。この結果,大都市地域をはじめとして、全国的な電気鉄道ブームが電力資本の利益に沿うて行なわれることとなったのである」(青木 栄一『都市化の進展と鉄道技術の導入』論文)。電力会社が電気の生産力を上げて販路を作り利潤を追求するものだということを忘れないようにしたい。しかも利潤追求の末に「公害」をもたらすなら、渡良瀬川の農民のように責任を徹底的に問わなければならない。
東京市電と水力
先に東京市電気局が市電の運転と電気供給事業を担ったといったが、これはつまり買収前の東京鉄道が鉄道用の電気と共に電灯供給事業も行っていたわけで、営業区域は四谷区と赤坂区を主に、芝・麻布・麹町・牛込の各区と郡部の一部だったが、供給権は東京市内全域に及び、渋谷(2400kW)、品川(3600Kw)、深川(7500kW)の3つの火力発電所を有していた。鉄道会社はほぼ自家発電用の発電施設を持ち、なかには供給事業もする所もあった(小田急など)。買収前に東京鉄道は東京市全域に灯を灯す「100万灯計画」(要3万kW)を立てていたが、このために鬼怒川水力電気から電力供給の契約を取り付けていた。
鬼怒川水力電気の供給源は、下滝発電所(栃木県日光市)で、鬼怒川の水を使用、黒部貯水池(ダム、富山の黒部とは違う)を設けて水量を調節、8700kWの発電機6台という出力を持ち、さらに電圧6万6000Vの送電設備で東京・尾久村の東京変電所まで送るというすべて当時最大・最高の規模であった。着工は1911年、営業開始は1913年、この電力がほぼすべて東京市電に供給されることになった。
1887(明治20)年の火力低圧直流式発電機で、供給範囲が2マイル(約3.2km)しかなかった最初の発電所から26年、巨大水力発電所と高圧電線の設備で、今日に通じる遠方から東京に電気が運ばれる図式が生まれたのだ。
水力は火力よりコストが安い(このことは倉持忠助が市議会で追及してあだ名が『原価計算』となった事情として後述)。よって1913(大正2)年時点の全国発電力比率では火力に対し水力が62%と、水力が上回っている。元々料金が割高だった東京電灯は、駒橋発電所(山梨県大月)が1907年完成して後、水力発電に切り替えての大幅なコスト減により、料金を値下げした。迎え撃つ東京市電は13年の鬼怒川水力発電からの安価な電力により、下谷・浅草・神田へ配電線工事を始め、料金も値下げした。これに日本電灯が加わり、三電力の値下げ(無料も含めて!)による供給区域陣取り合戦が繰り広げられた。明治から大正にかけてのこの安売り競争は、現在の「電気を売ってやってるんだ」と言わんばかりの高飛車な大電力会社の姿勢に比べて滑稽な程の有様である。これには渋沢栄一らが絡んで、1917年協定が締結されたが、いかに水力がコストを下げ、また電力生産を増やしたかの証明でもある。(『関東の電気事業と東京電力』参考)
関東大震災からの復旧
関東大震災(1923年9月1日)の影響について触れないわけにはいかないので要点だけまとめる。
東京市電は保有する車両1795両の内779両を失い、軌道は半数以上が類焼、品川発電所が崩壊など、甚大な被害にあったが、9月5日には駒込変圧所が動いたため、駒込~上野近くの3.7kmの非焼失区間から運転再開、11日には震災前の3分の1まで復旧、11月下旬には深川方面以外復旧、全線復旧完了は1924(大正13)年9月17日である。
国有鉄道は常磐線と東北線が震災直後の1日に一部復旧、4日は山手線の田端から品川まで、中央線の新宿から飯田橋、西は山梨の与瀬まで復旧と、被害が大きかった割に復旧のペースが早かった。しかし動かしたのは電車ではなく汽車である。電車運転の再開は9月16日の山手線が最初だった。
電力の回復については、東京電灯は猪苗代第一と第二の2つの巨大水力発電所を1914と18年にそれぞれ完成させていたが、この猪苗代系と笛吹川の発電所からの送電が可能だったので、変圧器や配電施設の復旧を急いで、3日から送電を開始させ、12月末には震災前の水準まで回復。東京市電は小石川変圧所経由で4日から、鬼怒川水力からの電力で小石川区を中心に送電を開始。9日までには供給範囲内全域に送電可能、29日に震災前の供給を回復した。やはり遠くの水力が役立ったのである。(中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会『1923関東大震災報告書第2編』2009年参考)
震災後の家庭電化
家庭などの電灯被害に関していえば、例えば東京電灯は、貸付電灯の47%を主に焼失により失っている。にもかかわらず、東京府全体での電灯需要は1923年に733406戸だったのが、24年には789035戸と増加している(『東京電力 資料編』)。1924年の人口は400万人と、1920年の人口370万人に比べ増加(『東京都の人口統計』ウィキペディア)。この人口と電灯需要戸数を単純に比較できないが、電灯普及はかなりの程度進んでいるといっていい。
1924年4月から東京市とその近郊では、電気料金の規定が1灯当たりいくらの定額だったのを従量制(使った分を計算)を中心に移行された一方、家庭用電熱も割安に設定された。電灯以外の家電の普及が始まったが、高価な機器がそう売れるはずもない。電灯以外の電化製品といえば、主役はラジオだ。
1925(大正15)年に芝・愛宕山のJOAK(東京放送局)がラジオ放送を始めたが、放送出力は1kWに過ぎなかった。しかもラジオは舶来高級品で小宅1件くらい、他の国産真空管・電池式でも小学校訓導の初任給の4~8倍くらい、自分で作る鉱石ラジオでも初任給以上と、非常に高価だった(佐藤卓己『キングの時代』)。ラジオの普及は1928(昭和3)年、電源を交流式、つまり電灯線から取れるエリミネーター式受信機に改良されてからで、部品などの国産化も進み、価格が5分の1から10分の1程度に下がってからである。1931(昭和6)年には聴取者が100万を突破した(『日本ラジオ博物館』HP)。茶の間の真ん中の電灯の下、電灯線につないだラジオが鎮座して、それに家族中が耳を傾けている風景が現出する。電気(電波)が人びとの頭の中まで浸透する時代が始まった。
倉持政界へ
1928年は倉持忠助がいよいよ選挙デビューした年である。市会議員ではなく、普通選挙による初めての衆議院議員選出選挙に第二区(下谷、神田、本郷、小石川)から立った。『普選節』を唄って普選運動を盛り立てた倉持が立候補とは、芸能人のヒーローが挑戦する如き華々しさ、といいたいところだが、まったくの「“泡沫候補”扱いであった」「わずか993票の最下位で落選した」(大野聡『倉持忠助伝』)。
しかしへこたれることなく同年の下谷区議補欠選挙に立候補、当選。29(昭和4)年3月には「東京市会議員選挙で、下谷区から政友会系中立として立候補し、定数7の第3位(2106票)で当選」(『倉持忠助伝』)した。
何故政友会系で立候補したのかについては、当時憲政会が中小商業者の市政への不満を取り込んで基盤としたのに対し、政友会は「地域社会に影響力を持つ露天商を自らの基盤に取り込もうとしていた」。28年の東京府会議員選挙に土建系の「親分」で人望のあった河合徳三郎を合流させ、さらに倉持も取り込むことに成功したのだという(『昭和恐慌前後の都市下層をめぐって』)。普選に際し、小ブルジョアを基盤にした憲政会に対し、下層民を基盤としようとした政友会という政治利用の構図に乗った形だ。しかし、倉持は市会議員に当選後、買収行為によって選挙違反で起訴され(東京朝日新聞29.4.25)、罰金4百円の控訴審判決(同30.12.23)、上告するも議員失格処分となった(同32.2.18)。しかし下谷区選出市議再選挙(3月28日)で、倉持は得票3214票でしっかり返り咲いた(同32.3.30)。翌33年3月17日の東京市議選挙でも3位(2336票)で再選(同33.3.18)。
この倉持への支持は、金で買収した結果ではなく、大野によれば、「自前」で築いたものだ。まず、自ら町会長をつとめる下谷山伏町の町会票を確保していたこと、ここは震災後は長年の「貧民窟」ではなくなっていたそうだが、依然として下層の密集する地区だった。そして露天商や零細商工業者の互助的な組織を築くことによる支持。さらに後援会。テキヤ仲間の複数が下谷区議に立候補して当選し、会派を形成していた(『都市下層をめぐって』)。着々と計画的に地盤を固めていたのだ。
金や政党のちょっかいでは支持は得られない。地盤固めは足元から。そして、何より下層の人々の声を届けて生活を安定させるのが、倉持の政治家としての使命だった。即ち、「生活即政治」。
おおば・ひろみ
1964年東京生まれ。サブカル系アンティークショップ、レンタルレコード店共同経営や、フリーターの傍らロックバンドのボーカルも経験、92年2代目瀧廼家五朗八に入門。東京の数々の老舗ちんどん屋に派遣されて修行。96年独立。著書『チンドン――聞き書きちんどん屋物語』(バジリコ、2009)
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