論壇
ちんどん屋を書いた文学者たち
音と色の諸相―すべてを剥奪されても「感覚」が「生」を象徴する
フリーランスちんどん屋・ライター 大場 ひろみ
様々な分野とちんどん屋の接点を捉えてきた38号までだが、文学の分野でも多数描かれていることは想像に難くない。私などが知っているのはそのほんの一部に過ぎないが、まあ、文学者がちんどん屋にどのような目を注いでいるかに目を注いでみれば、何かわかるかなあと、気ままに取り組んでみることにした。なので、ざっくりして特に明確な分類や結論が無いのをあらかじめお断り申し上げておく。
『狐のだんぶくろ』より「チンドン屋のこと」澁澤龍彦1983(昭和58)年刊
澁澤龍彦が幼少時のことを書いた文章が収められているのが『狐のだんぶくろ』だが、その博学ぶりと共に記憶力の確かさが読み取れるのが、このエッセイ集の特徴だ。その中に「チンドン屋のこと」という段がある。
澁澤は4歳まで埼玉県川越市に住んでいて、「箱屋のタッちゃん」というちんどん屋が家から2,3軒はなれた所に住んでいたという。
「箱屋というのは三味線箱をもって、客席に出る芸者のお供をする職業の男である。このハコタッちゃん、近所の名物男で、しかもチンドン屋の親分だった。箱屋とチンドン屋という二つの職業を、どう折合いをつけていたのかは知らないが、よく自分の小さな家の前で、子分どもをあつめては、チンチンドンドンとにぎにぎしく、商売の練習をしているのを私は見かけたものであった。」
1928(昭和3)年生まれの澁澤が4歳までに見たとすれば、1932(昭和7)年までの出来事だ。
同じく川越に1930(昭和5)年まで住んでいた中沢寅雄という、その後ちんどん屋の楽士になった人が見かけたのは、「鉦と太鼓だけでなくトランペットを吹いて、ガチャンゴチョン、ガチャンゴチョンと」(拙著『チンドン』の中沢寅雄インタビューより)歩く、しょいゴロス(背中にパーカッションを背負って足で鳴らす仕掛け)の宣伝屋だった。「普段は飴屋さんで、たまに宣伝をしてたんだ」というから、箱屋と同じく兼業でちんどん屋を営んでいたことになる。兼業で営む者が多かったのも、初期のちんどん屋の特色であるし、昭和初期から、川越にもかなりのバリエーションでちんどん屋が広まっていたことを窺わせ、中沢の証言と合わせると、貴重なエピソードとなる。
しかし、澁澤の文の主眼は現に見たちんどん屋の観察にあるのではなく、そこから醸し出される情緒にある。
「チンドン屋の奏楽は、必ずしも陽気でにぎにぎしいとはかぎらない。(中略)へんに物悲しいところもあって、ハメルンの笛吹きのように、子どもたちを否応なく惹きつけるのである。私はチンドン屋のあとについて、街をどこまでも歩いていった記憶がある。」
「私は前に、チンドン屋のクラリネットに物悲しい情緒を感じると述べたが、あらためて考えてみると、単に物悲しいというだけではまだ足りないような気がする。なにか不気味な、白昼の狂気とでもいった情緒に私たちを誘いこむ、面妖な気分を伝播していたように思われてならないのだ。」
この辺の語りは、4歳までの記憶からさらに積み重ねられて層となった、ちんどん屋のイメージを表すものだろう。大文豪といえども、ちんどん屋となると、そこらの鼻たれ小僧と同じように、物悲しさとちょっとした恐怖を覚えながらも、魅了される存在なのだ。
1932(昭和7)年から、東京は滝野川区中里に引っ越した澁澤少年、「私の住んでいる界隈にチンドン屋がやってくるのは、きまって駒込神明町(現在の文京区本駒込5丁目付近)の方面からだった」。「三流芸者街があって、寄席があって、カフェやバーがあって」という花街(三業地)が神明町。「チンドン屋というのは、そういうあやしげな場所から忽然として出現してくるストレインジャーのように私には思われたものだ。」
樋口一葉の『たけくらべ』には、万年町や山伏町・新谷町(現在の台東区東上野付近)から「来るは来るは」と吉原へやってくる芸人の群れを描く、「一能一術これも芸人の名はのがれぬ、よかよか飴や軽業師、人形つかい太神楽、住吉おどりに角兵衛獅子、おもいおもいの扮粧して(云々)」という一節がある。こちらは万年町のようなスラムから遊郭へ押し寄せる「ストレインジャー」達だが、澁澤の方は花街という悪所からはみ出してくるように思われた異形者達だ。彼らはどこに住んでいたのだろう。ちなみに先の楽士の中沢は、1930年から、姉夫婦の営むちんどん屋に住み込むようになるが、その所在地は本郷区菊坂(現在の文京区本郷5丁目付近)だ。やや南寄りだが、神明町から遠くもない。もしかして澁澤少年とも遭遇していたかも知れない。
『地獄の道化師』等 江戸川乱歩
澁澤少年が感じたようなちんどん屋に対する不気味さを、最大限強調してみせたのが江戸川乱歩だ。登場回数も多く、知り得た限りでも4本の小説にちんどん屋が登場する。その内3本が、頭にトンガリ帽子を被りダブダブの道化服を着て白塗り、ないし仮面を被っているところが共通する(『少年探偵団』1937年『地獄の道化師』1939年『まほうやしき』1957年)。もう1本は赤いメリンスのパジャマを着、白塗りの記述はないが、後半に登場する時は赤い布で頭を覆っておかめのお面をつけて顔を隠している(『黒い虹(合作小説集)合作の一(発端)』1934年)。先の3本中2本の道化服とトンガリ帽子も「赤」ないし「赤と白」と描写されているので、乱歩にとってちんどん屋の定番のイメージは、「赤い道化」であるといっていい。『まほうやしき』には色の描写が無いが、この作品のみ戦後の発表で、子供向けに、既に乱歩にとって定番化したちんどん屋(=道化)のイメージを使い回しているふしがあるので、色の描写も手を抜いたのかも知れない。他に『陰獣』(1928年)にもトンガリ帽子で赤い道化服の広告ビラ配りが登場するが、同類であろう。
「赤い道化」のような扮装でちんどん屋の仕事をしたことがある、とは、戦前からのちんどん屋の証言で聞いたことはないが、写真で白塗りの中国人に扮したり、ピエロ風の衣裳を身に着けているのは確認できている。また講談社の雑誌『幼年俱楽部』の戦前の宣伝で、ピエロ風衣裳のちんどん屋が複数写っている写真がある(『講談社の80年:1909~1989』講談社)ので、道化風のちんどん屋はそんなに珍しいものではなかったと思われる。さらに乱歩が「赤い道化」に込めたのは、ちんどん屋らしさと共に、サーカス芸人の不気味さ(「ストレインジャー」性)をも重ね合わせたイメージだろう。
子供をしつける時、「サーカスにさらわれるよ!」と親が口にする脅し文句は、既に一種の都市伝説(死語)と化しているが、ちんどん屋も同様な例えに用いられることがあった。そして乱歩の「赤い道化」は、実際にことごとく人さらいである。
先の4本中3本で、ちんどん屋(に扮装した人物)は澁澤のいう「ハメルンの笛吹き」の如く、町で子供を魅了してはさらっていく。また『地獄の道化師』では、ちんどん屋に扮した、或いはちんどん屋の人形を利用した脅迫・殺人者である。
まさに、『現代の理論』36号の拙文で書いたように、「エログロナンセンス」の流行した戦前に、面白おかしい道化であり(ナンセンス)、また不気味である(グロテスク)、時代の象徴のような存在として乱歩の目に映ったのではないか。さらに『黒い虹』では、エロのイメージも付加されている(ちんどん屋が女性に裸になれと迫る)。
室生犀星の『チンドン世界』(1934年)という小説には、広目屋(=ちんどん屋)の夫婦が登場するが、女房が「お臀をふり立てながら」歩くのを、道路人夫などが「こいつあこたえられねえ」という描写がある。『黒い虹』では男のちんどん屋が性的加害者のように描かれるが、彼も「赤いメリンス友禅のパジャマの腰を奇妙に揺り動かして」登場する。先のちんどん楽士・中沢の手記があるが、昭和7年(1932年)頃についての記述が「若い女の子のタンバリン踊りが流行した。久松の繁ちゃん、栃の家の加代ちゃん(云々)」。喜楽家富士子という戦前からのちんどん屋によれば、タンバリン踊りとは、派手なスカートを付けて、足を振り上げ、スタイルのいい可愛い子が盛んに踊っていたというから(未収録インタビューより)、多分にエロを売りにしたものだろう。昭和初期のエロ流行りの激しさは、毛利眞人の『ニッポンエロ・グロ・ナンセンスー昭和モダン歌謡の光と影』(講談社選書メチエ)に詳しい。是非ご一読されたい。このエロの要素がなければ、澁澤のいう「白昼の狂気とでもいった情緒」も生まれないのではなかろうか。
いずれにしろ、乱歩の描く「ちんどん屋」によって、ちんどん屋のエログロナンセンス的なイメージが、さらに世間に対して強化、定着、類型化していったともいえるのではないか。この頃乱歩の創作する話自体がエログロナンセンスそのものであり、その造形化としてちんどん屋がピッタリだったからだ。『地獄の道化師』など、不気味なちんどん屋の演出が話の核になっている。
ただ、乱歩は緻密にプロットやトリックを組み立てる本格ミステリーの、日本における先駆者でもある。「ダブダブの道化服を着て白塗り」、ないし仮面を被るのは、トリックとしても有効だったからで、不気味さと共にこの点を重宝してちんどん屋のキャラクターを用いていたことも強調しておく。白昼堂々子供をさらうのにも、ちんどん屋に扮装させるのが話の筋書きとして(安直だが)都合がいい。ネタバレになるのでこれ以上は書かない。
『チンドン屋の娘』 平岩弓枝他
これから挙げるのはすべて戦後の作品なのだが、それには理由がある。戦前のちんどん屋に対しての目線が江戸川乱歩に代表されるエログロナンセンスなイメージに注目するものだったとすれば、戦後には、ちんどん屋の家族、ないしちんどん屋に関わる人の人間関係や心理が描かれるものが出てくる。戦前に書かれた室生犀星の『チンドン世界』は、主人公が傾きかけた映画館の経営者でちんどん屋を雇う筋があるが、『チンドン世界』とは主人公やちんどん屋を含めた周辺の人々の醸し出すやるせない生活感を指している。ちんどん屋の夫婦はその中の一組で、他の人物も含めあくまでも市井の人間のスケッチであり、人間関係を描く作品ではない。
『現代の理論』36号に、1960年代以降のTVや雑誌に登場するちんどん屋が、「家族」をクローズアップして取り上げられる例が多いことを述べたが、小説などの創作物においても共通している例を挙げる。
*『弁天横丁』中野実 1953(昭和28)年刊
中野実とは、ユ―モア小説を得意とした作家らしい。『弁天横丁』も結婚と不倫を巡りペテンが繰り返されるドタバタ喜劇だが、その中にちんどん屋の親子が出てくる。ちんどん屋の父親が、嫁に行った「典型的日本美人」の娘の嫁ぎ先に気を使って、仕事中に娘と姑に出会うも知らぬ顔をして通り過ぎる。娘の夫は既に亡く、キャリアウーマンである夫の妹が未亡人となった娘を、婚家から解放しようと画策する筋だが、或る章のタイトルは「チンドン仁義」だ。「チンドン屋の娘だって、ことをかくして嫁にやったわけじゃあないだろう」となじる母親に、父親は「声をかけられる娘の身になって見ねえ。商売を卑しむような娘じゃあねえけれども、姑の手前、どんな気がするか」と啖呵を切るのが「仁義」らしいが、何とも情けない「仁義」だ。自らが「商売を卑し」んでいるのを、親が子を思う形を借りて娘の気持ちにすり替えてしまっている。しかしこれは、作者がそうあれかしと想像するちんどん屋の家族像だ。そもそも娘が嫁に行った先は大会社の経営者だが、嫁を大事にしているから実家に帰そうとしないという設定だ。父親だけが勝手にウジウジと悩むような描き方は、差別がまるで被差別者自身の意識から生じるようではないか。作者は差別の内面化を「人情」とはき違えているのではないか。娘が新たに用意された嫁ぎ先に納めさせられるラストも、娘の主体性がまったくなく、ちんどん屋の家族像以上に、娘をもののように扱う家父長的家族観が蔓延っている。
*『チンドン屋の娘』平岩弓枝 1969(昭和44)年刊
これはタイトル通り『チンドン屋の娘』が主人公だ。喫茶店でアルバイトをするチンドン屋の娘・千枝が、いやがる稼業の手伝いに出されて、大学生のボーイフレンドに出自を知られてしまう。「チンドン屋だっていいじゃないか」という言葉を信じたが、性行為を迫る彼を拒否したとたん、「チンドン屋のくせに」に、と言われて逃げ出してしまう。後日、勤め先の喫茶店で同僚とボーイフレンドに、「チンドン屋のお嬢さん」と辱められた千枝は、「チンドン屋のどこが悪いのよ」と、同僚を平手打ちにして喫茶店を後にする。勤めをやめて、稼業に専念するが、相変わらず馴染めない気持ちのままだ。
こうあらすじを書くと作者はちんどん屋への差別との葛藤をテーマにしているように見えるかも知れないが、比重はちんどん屋でなく、「娘」の方に大きくかかっている。
父親はチンドン稼業において、娘の女性としての魅力に期待する。町でチンドンを手伝う娘の鳥追い姿を目撃したボーイフレンドの仲間は、「仇っぽいのなんのって」と露骨なエロ目線を向ける。あげくの果て、「チンドン叩いていくらになるのか知らないが、千枝ちゃんみたいな美人なら、銀座のバアでもキャバレーでも一日一万円で軽くスカウトするってことよ。なにもあんな馬鹿くさい真似しなくたって…」と、娘を性的対象のみに押し込めてしまう。つまり古くさい価値観であるちんどん屋も、新しさを代表する大学生も、娘を性的価値でしか見ていないのだ。
『弁天横丁』に比べて時代が下り、娘は嫁にやられるのでなく、自由恋愛に踏み出している。自らワンピースを流行のミニに加工してデートに出かけたりもする。しかしそうして娘の求める新しさや自由さは、男たちが期待する性的対象であることとは違うのだ。ちんどん屋に対する偏見は「どこが悪いのよ」とはねつけることが出来るが、この違和感はどの世界にいてもついて回る。
*『あの子はチンドン屋の娘だった』田中小実昌 1979(昭和54)年
若き日の思い出を綴ったエッセイ。
テキヤの商売で北陸を回っていた頃、サーカスの女のコとなかよくなった。裸になってシラミの取りっこなどしてふざけた。その子はチンドン屋の娘で、父親とあってくれといわれたが、「ぼくと結婚したいと言った女は、あとにもさきにもそのコたったひとり」。そのコはサーカスをやめて、父親のところにいることになり、ぼくはテキヤの旅をつづけた。
「サーカス」で「チンドン屋の娘」とは、「人さらい」に例えられる商売の合わせ盛りだ。だが、田中小実昌はサーカスで働いている少女をことさら「チンドン屋の娘」とタイトルで強調する。先の2作にも「チンドン屋の娘」が出てくるが、何故「息子」でなく、「娘」なのだろう?ちんどん屋という特殊(に見える)職業を営む「家族」に対する好奇心が、ことさらまた「娘」に向けられるのは、ジェンダーの問題と切り離せない。「ちんどん屋」と「娘」という二重の差別にさらされているという関心の向け方(作者のものであり、それが登場人物に反映される)が、その視線のなかにあるエロチックな欲望をあぶり出す。少なくとも平岩の作品の大学生はそうだ。自身もテキヤだった田中は同じ「ストレインジャー」として、差別意識は表立ってはないが、何か甘い、くすぐるような憧れを少女に抱いていたことが、このエッセイの肝だ。
*『ちんどんや』幸田文1954(昭和29)年
ちんどん屋を雇う立場の人を描いたものも挙げよう。
戦後10年、夫が乗り気で出した味噌屋の商売に、面子が邪魔して乗り気でない主人公(佐久子)。開店初日に「みじめさを決定的にしたのは、ちんどん屋の騒音とお客のなさだった。」ちんどん屋が宣伝に頑張れば頑張るほど、よけいみじめになる。三日目の朝に店を逃げ出して電車に乗ると、そこに乗り込んできたちんどん屋。人々が近づかぬ異様な風体。彼らが電車を降りると、知らぬふりをしていた車内の客が今頃無遠慮な視線で見送る。わけもなく泣き出す佐久子。
毎日新聞掲載の掌編なのですごく短いのだが、妙に中身が濃いのである。出来たら全文引用したいくらいだ。「味噌屋のかみさん」が恥ずかしいような気取った奥さんが、ちんどん屋の「口上の鄙猥なことばでのぼせあがった。」逃げ出した先でも電車に、追い打ちをかけるようにちんどん屋が乗り込んでくる。もう吹き出しそうな展開である。よりによって扮装は、緋の衣の意外に「いい男」の坊さんと、肉襦袢の鬼。坊さんは「青く澄んだ白眼が笑うとあだめく。まっ昼間見る若い男の極彩色の顔には、なぜか誰憚らぬ淫蕩さがひらめいていた。」それを「虚脱の状態で見つめつづけていたのに気がつくと、とたんに耳のなかが騒がしく、ちんち、どんどと鳴りだした」佐久子。「坊さんはぴらぴらと、鬼さんは鬼々しく歩いて」去っていくと、何故佐久子は「ぱくぱくと足から、背なかからうそ寒く」「わけもなくぽろぽろと涙をこぼしていた」のだろうか。オノマトペを多用した描写の連続技を指摘するまでもなく、官能に打ちのめされて、彼らと、彼らを自分らと関係ないものとして隔てる他の乗客との狭間に落ち込んでしまったのである。こんな女の心理を素っ裸より裸にして容赦なく描くなんて、なかなか出来るものではない。恐るべし、幸田文。そして「娘」だけではない、ちんどん屋はやはり、エロを醸し出すとみなされる対象なのだ。
牢獄で聴くチンドン
結論が無いはずだったのに、ここまで、ちんどん屋に対する目線の中の、特に「エロ」を強調したような内容に何故かなってしまった。なので、最後に、まったく毛色の違う取り組みをしたい。ちんどん屋の「営み」や「形態」でなく、「音」に関心が向けられた2つの小説についてである。
*『一九二八・三・一五』小林多喜二1928(昭和3)年
ちまたは今年昭和100年めとして盛り上がろうとしているが、今年から100を引いた年、1925年は治安維持法が制定された年である。1928年3月15日は治安維持法を利用して、共産党などのプロレタリア労働運動に対して大弾圧が行われた日で、多くの検挙者を出した。この小説は事件に取材し、一斉検挙・拷問を告発しながら、その牢獄での労働者、警察官を含めた群像劇でもある。立場や考え方の違う個々人の抵抗、煩悶、苦痛をそれぞれ描写して、主義・主張に留まらない人間の記録となっている。
拘禁と拷問で追い詰められ、感覚を奪われていく人々に、塀の外から「広告屋」の口上と鳴り物――「音」が聞こえてくる。
佐多という「インテルゲンチヤ」は、独房にいる渡という同志が歌う歌(ゴーリキーの『どん底』の挿入曲)を夕暮れに聞くのを楽しみにするようになっていた。
「彼は、何も要らなかった。『音』が欲しかった。彼の心が少しでもまだ『生物』である証拠として、動くことがあるとすれば、それは『音』に対してだけだった。」
「小樽の一つの名物として、『広告屋』がいた。それは市内商店の依頼を受けると、道化の恰好をして、辻々に立ち、滑稽な調子で、その広告の口上をいう。それに太鼓や笛が加わる。――それが一度留置場の外の近所でやった。拍子木が凍えた空気にヒビでも入るように、透徹した響きを伝えると、道化た調子の口上が聞えた。
スワッ‼それは文字通り『スワッ‼』だった。留置場の中の全部は『城取り』でもするように、小さい、四角な高い処につけてある窓に向って殺到した(中略)――『音』には佐多ばかりではなかったのだ!」
この「広告屋」(=ちんどん屋)の「音」が、人間性を剥奪されかけた人々の上に甘露のように降り注ぐさまを表して、これ以上余すところがない。
*『ラ・クンパルシータ』野坂昭如1968(昭和43)年刊
敗戦後、ひたすら飢えに恐怖を覚え、学校の楽団が演奏する「ラ・クンパルシータ」を聴いた時、偶然に、食べた物を口に戻して反芻する技を覚えた少年・高志は、飢えから逃れるため窃盗を繰り返し、劣悪な環境の枚方少年院出張所に放り込まれる。更なる飢えに牢内の仲間も食べ物の「反芻」を覚え込み、寒さの師走、皆起き上がる元気も無い牢内に塀の外から響くもの。
「雲一つなく晴れ渡った冬空に、アドバルーンが歳末大売り出しをつげ、風に乗ってはるかはなれた枚方の町の、チンドン屋のクラリネット、悲しげに吹きならすはラ・クンパルシータ、パパパパッパッ、パーラーラーラ、ツァツァツァツァッツァッ、ツァラーラーラー。」
このラストに描かれた冬空も、アドバルーンも、少年院出張所の窓からは覗き見るすべも無い。それを想像させてくれるのははるかなチンドン屋のクラリネットの音だけである。希望のかけらも残っていない牢内に、生きている証が何かあるとすれば、食べ物を反芻して引きずる「口唇の楽しみ」と、外界につながるはるかな「音」、その二つをつなぐのが「ラ・クンパルシータ」である。
以上2つの小説で「音」のはたす役割は、野暮を承知でいわせてもらえば、すべてを剥奪されても「感覚」が「生」を象徴するということである。そしてその「音」にあえて二人の小説家は「ちんどん屋」の音を選んだ。町に転がるありふれた、たかが広告屋の音が、だからこそ閉じ込められた者と外界との壁をものともせず侵入していく。『窓ぎわのトットちゃん』(黒柳徹子)でも、トットちゃんは学校の窓際に立ってちんどん屋の音を招き入れる。
牢獄という環境は、自由(すべての権利)を奪われた状態のことである。生命の存続の保証も無く、身体と精神を破壊される恐怖にさらされ続けることだ。部屋という四角の壁に囲まれた空間は、出入りの自由さえあれば、猫が箱に飛び込むように、己を守るための安全な居場所となるが、ひとたび自由を奪われれば、監禁という暴力装置となり、その性質を180度変える。
というより、牢獄という装置が、人間を人間たらしめているものを規定しているのかも知れない。牢獄に入ると手に入らないものが、人間らしい暮らしだからだ。更に逆説的にいえば、牢獄という壁が取り囲んで守っているものが、安全・安心な人びとの暮らしであり、自分が自由であるという保障であろう。
『一九二八・三・一五』にはこういうくだりがある。
「渡は警察に来るたびに、こういうものを『お巡りさん』といって、町では人たちの、『安寧』と『幸福』と『正義』を守って下さる偉い人のように思われていることを考えて、何時でも苦笑した。」
「自由」な社会は牢獄を必要とする(必然ではない)。
牢獄の壁の向こうにいるのは罪人ばかりとは限らない。精神障碍者、感染症患者…、コロナ禍を経た現在においては、誰にでもうなずけることだが、感染症にかかった者を大慌てで壁の向こうに追いやることに夢中になっている市民が溢れていた。或いは自分が向うへ行かないために壁に囲まれて安心しようとしていた。自主監禁が自由の保障だなんてトートロジーだと笑ってはいられない。近代市民の法治国家とは、牢獄という外との区別に囲まれた、内なる牢獄なのだ。人々は「自分以外」の牢獄に入るべき者を捜し出して指弾しようとやっきになり、その行為が自らの存在を捉われの身に落とし込むことに気づかない。
コロナ禍の際、歌舞音曲が「不要不急」であるとして、真っ先に自粛されたことはまだ記憶に新しい。ちんどん屋の音(宣伝行為)も例外ではない。しかし感覚を揺り動かすものが奪われたことは、最も激しい自由の剥奪なのではないか。
ノーベル文学賞を受賞したハン・ガンの『少年が来る』では、光州事件の中で虐殺・拷問される人々が描かれる。そのさなか、そして時代を超えて、ろうそくに象徴される「火」と滴る「水」が、死者と生者を結びつける。この二つは「音」と同じように感覚を揺さぶり、命の源でもある。「火」も「水」も、そして「音」も、決して奪い去ることは出来ない。どんな権力をもってしても。
おおば・ひろみ
1964年東京生まれ。サブカル系アンティークショップ、レンタルレコード店共同経営や、フリーターの傍らロックバンドのボーカルも経験、92年2代目瀧廼家五朗八に入門。東京の数々の老舗ちんどん屋に派遣されて修行。96年独立。著書『チンドン――聞き書きちんどん屋物語』(バジリコ、2009)
論壇
- 「ポジショナリティ」概念から考える沖縄と日本との権力関係沖縄国際大学教授・桃原 一彦
- 琉球の脱植民地化と徳田球一(上)龍谷大学経済学部教授・松島 泰勝
- 地域国際機構という存在富山大学学術研究部教育学系講師・五十嵐 美華
- 皇国史観に汚染された教科書もどき元河合塾講師・川本 和彦
- ちんどん屋を書いた文学者たちフリーランスちんどん屋・ライター・大場 ひろみ
- 『韓国1964年 創価学会の話』をめぐって本誌編集委員・黒田 貴史