特集 ● 混迷の世界をどう視る

時代の転換を読む(上)――少数与党自公政権に売り込み競う維新と国民民主

個人の財布へ給付・還付を求めるポピュリズムの罠/税と社会保障の抜本改革で生涯安心できる社会へ

大阪公立大学人権問題研究センター特別研究員 水野 博達

1) 時代を画した「2024年選挙イヤー」 / 2) トランプの勝利の土台に蓄積した民衆の不満・反発が / 3) 見放される自民党、行き詰まる自公政権 / 4) 売り込む維新と国・民の小競り合い 両者を天秤にかける自公 / 5) ポピュリズム――減税と社会保障費の軽減要求の罠 / 6) 予備費・事業「基金」が政府の裏金的埋蔵金に / 7) 財政ポピュリズムの意味と実態
  (以上は こちら )
8)維新は衰退――万博は盛り上がらず、「身を切る改革」も賞味期限切れ / 9)財政ポピュリズムの意味と実態 / 補論~選挙を金儲けの場に変えたN党・立花、裏で稼いできた電通・博報堂

8) 維新は衰退―万博は盛り上がらず、「身を切る改革」も賞味期限切れ

本誌で維新政治については、ほぼ毎号批判の論考を投稿してきた。今回は、これまで書いてきたことを再録することはしない。維新の衰退の現状を確認し、他の政党と比較しながら、彼らの「ポピュリズム」の特性を明らかにすることを目的に書くことにする。

万博の計画・準備の状況については、本誌36号(2023年11月)『いよいよ怪しくなった維新の“成長戦略”』、同38号(2024年4月)『万博開催1年切る 未だ迷走、課題は山積』で詳しく論じてきた。そもそも万博計画が、維新の本命・IR・カジノを誘致するインフラ整備の「前座」を務めさせるための「国家イベント」として計画されたもの。万博は、時代の変化のなかで、その魅力を失っており、だかから、まともな理念とそれに見合う企画・内容立案が難しい。それがいい加減なので、当初から失敗が約束されたようなものと指摘した。

実際、万博の会場は、当時の府知事・松井が強引に押し付けた大阪湾のゴミの島・夢洲となった。軟弱地盤の大阪湾内の一角をコンクリートで囲んだだけのゴミの島ーー産業廃棄物、建築物・道路の解体廃棄物、残土、家庭から出る廃棄物などの投棄場――であった。夢洲へのアクセスは、一本のトンネルと舞洲からの橋の二つの通路しかなく、資材の搬入や会場への入退場が大きなネックとなった。

開催2か月前に、集客のためのイベントが次々立ち上がるが、万博の催しとしては、ピンとこない。この万博の意義と売りは何なのか、依然はっきりしない。だから、雰囲気も盛り上がらない。前売り入場券も、販売予定数の半分を少し超えただけ。大阪府内の小中学生を無料で招待する事業も、休憩場所が足りない、熱中症対策が取れないなどの理由で、招待を断る学校も増えている。 

吉村府知事と横山大阪市長は、石破首相に面会を求め、入場券の販売促進について協力を求めることにしたという。切羽詰まった場面での要請行動とは、なんという悪あがきか!

さて、36号でも書いたが、2023年の統一地方選挙で維新は躍進したのに、当選した議員や首長の不祥事が続出したこともあって維新の勢いは失墜し、凋落を始めた。そのことについて、本誌では、「時代の変化」ということしか表現せず、きちんと論評してこなかった。

実は、「時代の変化」とは何か、そこが肝なのだ。国民民主党やれいわ新撰組のポピュリズムの性格と内容が、維新のそれとは違うことこそ、「時代の変化」が表れている。

本誌39号(2024年8月)「維新『財政ポピュリズム』論を検証する」」において、かつての民主党の「行政改革論」と維新の「身を切る改革」を比較した。39号の直接的な目標は、吉弘憲介の『検証 大阪維新の会』』注4の批判的論評であったが、今回の論点に係る点に関して要約すると、以下のことである。

維新の「身を切る改革」は、彼らの「行政改革論」のキャッチコピー。民主党の行革論のキャッチコピーは、「コンクリートから人へ」である。

自民党政権が作り出した公共事業の利権構造に切り込み、その財源を人の育成や人々の生活の充実に廻すことを民主党は目指した。だが、公共事業に関わる国と大企業、そして、その間を取り持つ国・地方のボス政治家の馴れ合い関係を洗い出すことには、成功しなかった。しかし、民主党政権の行革は、維新の「身を切る改革」のような労働者の賃金や権利を抑制したり、外国人の権利を見過ごしたりはしていない。女性の権利や障碍者の権利を重視し、生活保護や年金などの社会保障費を大幅に削り取る政策は取らなかった。また、市民やNPOなどの自主的な活動と協力・連携して行政を市民・住民に開き、地域の自治を育てようとした。ホームレスへの支援や障碍者の権利の増進、あるいは、無権利状態に置かれている非正規労働者の実態を明らかにするなど社会政策の充実も目指した。

他方、維新の「身を切る改革」は、維新が「既得権益」と認定する領域・対象の予算・権限を解体し、多数派の住民(吉弘がいうところの「マジョリティ」)に配分することである。

この点に関して吉弘は、次のようにいう。

人びとが持つ財政や政府に対する不信感を梃子に登場した政党だからこそ、彼らは何としても既存の配分が『無駄なもの』であると主張しなくてはならない。また、追加の税負担を市民に強いることは極力避けなくてはならない。この性格は、維新の会の財政運営が極めて均衡財源主義的であったことからもうかがえる。以上の制約の中で生まれるのが財政ポピュリズムである。(中略)こうした中で、自らの支持者に分配するための資源を確保するには、マイノリティへの配慮を欠いていても既存の配分を解体するしかなくなるのである。

吉弘が、維新の政治を新自由主義と認定するのを避けるために、均衡財源主義の「財政ポピュリズム」と規定視するのは誤りだと批判した。そのことは、ここでは再論しない。

2008年、橋下知事が府庁に登庁し、職員に「大阪府は破産企業、職員はその破産企業の従業員であることを自覚して・・・」と訓示しが、この訓示は、橋下・維新がどのような状況のもとで登場し、どのような政治目的を実現しようとしたかを象徴している。ここを正しく評価することが重要だ。

当時、大阪の経済は、低迷し、首都圏との格差が広がっていた。これを克服するために、関西新空港の建設、大阪湾岸開発.京阪奈良学術研究都市などの巨大開発事業を進めた。どれも十分な成果を上げられず、大阪府の財政は赤字を積みあげていた。にもかかわらず、大阪府・市の行政と与野党の政党間及び労働組合や部落解放同盟など各種の社会団体との関係は、馴れ合い的で、共産党などから「乱脈行政」と批判されるほど、透明性、公正性が崩れていた。

橋下と維新の会が進めようとした「改革」とは、55年体制が作り上げた「福祉国家」的な価値観、政策を解体すること。彼らがいう「既得権益」とは、富裕層や政治的な力を持つ者ではない。彼らが行った予算を廃止・削減したり、制度を廃止、あるいは縮小したりしたものが何かを見れば明らかだ。福祉国家的な施策から恩恵を受け、それによりかかって特別な利益を受けているとみなす制度・施策、事業・団体体を指すのだ。

維新の「改革」の支持基盤は、端的に言えば、中流階層の生活ヘの不満と未来への不安である。この階層は、戦後の高度経済成長で膨張し、社会の多数者となり、社会の安定帯となってきた。それが、新自自由主義の経済競争の中で上下に分解し、没落する危機感を抱くようになった。この階層は、「政府・自治体による資源配分から外されている」「損をしている」という意識を抱えがちで、私的生活の充実に目を奪われている結果、他者への共感を無くし、社会の差別に対する感性もなくしがちなのだ。

要するに、橋下・維新の「改革」とは、残存している「福祉国家」的な政治のあり方を民営化・市場化によって解体・改革しようとする文字どおりの「新自由主義政治」であった。

では、維新の「身を切り改革」が賞味期限切れということは、どういうことか。

第1は、ここ数年前から「ダボス会議」(世界の資本家、政治家、研究者、ジャーナリストなどが集まって、世界経済や社会・政治などの問題を検討する会合)でも議論されている「新しい資本主義」の提起である。

新自由主義的な世界の経済・政治が生み出してきた状況に対する危機感である。例えば、地球温暖化やエネルギー・資源の偏在、貧困と格差、ギグワ―カー等の労働問題、通信・情報おける人権侵害・偽情報など、市場原理だけでは決できない世界的課題について議論をしており、それらの課題と向きあう「新しい資本主義」の模索が始まっていた。明らかに橋下・維新の新自由的改革は、世界の資本主義の動向から時代に取り残された。

第2は、彼らが「既得権益」と認定する社会の少数派から召し上げた資源を中流階層に喜ばれる子育てや教育に配分するという財政配分の原資が枯渇してきた。乾いた雑巾を絞っても、さして水は出ないのだ。「身を切る改革」の新鮮さを演出し続けることが困難に逢着していたのだ。おまけに、政府も立憲民主も公明も子育て、教育への予算配分を求める予算に賛成する動きになり、維新の専売特許は崩れている。

そして、第3には、万博、IR・カジノの計画の不振は、赤字を埋める後年度の財源の工面に走ることになり、維新のもう一つの柱「大阪の成長を止めるな!」の幻想が露わになり始め、人々はそれに気が付き始めたのだ。

橋下と松井が政界から外れ、維新の会は、吉村―横山ら2代目が仕切っているが、パットしない。それは、彼ら2代目の個性とも関係するが、それ以上に、時代の移り替わりに拠るとことが大きいと言うべきだろう。

他方、国民民主もれいわも、さらには公明も、維新のように「市場」では解決できない貧困問題、教育・労働問題、女性差別・民族的・社会的身分などの差別を解決のための規制や予算配分を「既得権益」だとは主張しない。ダボス会議の議論が直接影響したかどうかは分からないが、ここ10年余りの社会の状況から、新自由主義的主張は、世の中の多数に受けいれられないことを学んだからであろう。

しかし、国民とれいわの減税による生活の安定と充実を実現すという政策は、現状の生活について一人ひとりが抱く不満・不安に着目はしているが、国と国民の将来、現役世代と次世代の社会の成り立ちについて、言い換えれば、財政を含めた社会の持続性を考えた政策とはいいえない。だから「財政ポピュリズム」と揶揄されるのである。 

こうした国の税金(徴税権と通貨発行権、配分権)にぶらさがる「現世利益」だけを優先した政策ではなく、社会保障を含めた財政構造全体を抜本的再編する構想―それは、歳出カットだけではなく、例えば消費税の拡充を含めた増税を含めたーを打ち立てなければならない注5

9) 「ネット・ポピュリズム」と石丸新党「再生の道」の虚妄

アメリカ大統領選挙で、法や倫理に基づく規制線を越えて、人権や事実関係を無視・敵対する「言論」、虚偽・捏造、憎悪の情報・物語がネット空間を占拠した。日本においても、この「ネット・ポピュリズム」現象が、東京都知事選や兵庫知事再選挙において現れた。藤田直哉が、「ネット・ポピュリズムが一線を越えた」注6と言うように、新聞・テレビなどのオールドメディアからニューメディアへ覇権が移動した感がある。根拠のない情報や変奏された「物語」がネット空間を占拠し、有権者の投票行動の変容を引き起こすことになった。この事態について、オールドメディアは、全く無力であった。「既存のオールドメディアの敗戦」と新聞・テレビなどの報道内容と姿勢が批判の的にされた。

* NHKの兵庫知事選挙の出口調査によれば、投票に際して参考にした媒体は、SNSが30% 新聞(24%)、テレビ(24%)で、SNSと答えた人の70%が斎藤候補へ投票。SNSでは「斎藤さんは、既得権者に改革を阻まれた被害者」という考え方が広がっていたと言う。
年代別のデータでは、10代・20代のおよそ60%が、30代・40台の50%以上が斎藤候補に投票していた。稲村候補が、斎藤候補を超えるのは60代以上の年代層であった。

* 2)の節で紹介した朝日新聞の世論調査の内、⑥の東京都知事選に立候補した石丸伸二が地域政党「再生の道」を立ち上げたが、この政党に、期待するかという問に対して
  期待する 36%    期待しない 50%
⑦の政治に関するSNSや動画サイトの情報について
  重視している33%   重視していない61%
となっているが、これは、全年代を、まとめて集計された回答で、年代別の結果では、別のことが明らかになる。選挙にかかわる情報をどこから得ていたかについても、年代の差が大きい。この差異が、政治選択(投票)の世代間の相違を生み出すことにもなってもいる。日常的にどのような媒体から、情報をえているかの違いは、それぞれの世代間の文化的・政治的差異を生み出していることが推察される。

*2023年の総務省の調査によると、平日、テレビをネットより長く見ているのは、60代以上である。
20代は、テレビを見ている時間の5倍以上の時間ネットを見ている。
新聞購読時間は、10代で、0時間、20代・30代は、0.5時間。
10代・20代・30代が、インターネットで最も長い時間利用しているのは、動画投稿・共有サービス。
20代・30代の次点が、ソーシャルメディアで、40代以上はメールが第1位であった。

明らかになったことは、情報技術の急速な発展と普及によって、世代間の情報・知識の取り入れる手段の差が広がっていることだ。それは、政治的意識だけではなく、言語や文化的感性の隔たりをも生み出している。

ただ、日本では、アメリカのように、共和党と民主党の支持率が伯仲し、「内戦がおこる」とまで危惧されるような社会の分断には至っていない。日本の世代間の対立・分断は、大きくはないが、知識・情報では、世代間で「住む世界が異なる」状態だ。今後、経済的格差が広がり、社会保険や年金、子育てなどの負担と給付において、世代間で相互理解が崩れるなどの事態が起これば、一挙に世代間の対立・分断が広がり、大きな政治問題となる可能性も否定しえない。

知識・情報をとりいれる人々のコニュニケーション・ツールの差違が、直ちに政治的な差異や対立に繋がる訳ではない。いつの時代も、事実にも基づかない流言飛語の類が広がり、何らかの行動に転嫁させられる「事件」が起こった。しかし、それには、社会に不満や不安が広がっていることが条件であった。そして、その人びとの不満や不安をある方向に差し向けようとする作為(世論形成とも言われるが)があっての話である。この作為の主体が(政治的・社会的)権力の側である場合は、それを「謀略」と呼ぶ。今日、問題視されている「ポピュリズム」とは、いわば体制の外いる者が、社会的な不満・不安を生み出す原因の解消・解決とは異なった方向へ人びとの認識や感情を引き寄せる活動の政治的特質を指す。

従来、人を傷付け不利益をもたらす情報には、人権侵害や営業妨害などの刑法罪で罰したり、損害賠償を求めたりして防止してきた。厄介なことに、世の中に役立つ必要な情報も、人を傷付け不利益をもたらす情報も、SNSなどで、瞬時に。世界の果てまで、何千万の人びとに届けられる。従来の法律では、人を傷つけ社会に害を流す情報の流布を防止する即効性、有効性が乏しい。そこで、誤情報の発信元を告発し、ネットのプラットホーム事業者に罰金や賠償を掛ける法的・行政的規制を整備する努力が、欧州連合で進められて来た。これに対して、アメリカでは、トランプ政権の下で、こうした規制は、「言論の自由に反する」との口実で、IT独占的事業者は、「ファクトチェックを取りやめる」方向へと流れている。

日進月歩で進化する情報・通信ツールが、社会に害毒を流すことを規制するだけではなく、すべての社会の構成員が、社会に役に立つように扱えるリテラシーを持つため、教育や社会啓発の機能が最大限に発揮できることが求められる。

他方で、私たち一人ひとりが、政治の混乱を嘆き、諦めの気分に閉じこもるのではなく、しっかりと新しい政治の局面を見つめ、私たちが望む政治への転換の条件と可能性を探らなければならい。もちろん、今日の政治の混迷が一段と深まっていくとすれば、それは、ファシズムと世界戦争への道へ雪崩れ込んでいく危険性は十分にある。

しかし、筆者が長々と語ってきたことは、ポピュリズム政治が生み出した政治の新面局についてである。

ちなみに、地方自治体の選挙の投票率を見ると1967年では議員選挙で72%、知事選挙で69%、革新自治体が注目された1970年代は議員、首長選挙ともに70%前後、地方の時代と言われた1990年代では55%近くを維持し、その後は50台%であった。2015年には、50%を超えた選挙は例外的であったが、通例、50%以下となった。

今回の県知事選挙の得票率は、55.65%で、前回2021年の41.1%を大きく上回った。これまで選挙に無関心であった層、とりわけ若い年齢層が投票した結果である。また、そこで展開された「言論」の内容の良し悪しは別にして、SNSなどのネットで展開された情報の「氾濫」が大きく影響していることも確かであろう。

選挙に無関心であった者が、様々情報に触れ、投票する候補者を選択した経験は決して小さいものではない。選挙の結果がどうであったか、気になるものだ。半年、1年・・・と経過する中で、斎藤県政の動向と自分の選択について、考える機会を持つこともあるであろう。というより、どのような方法、手段は様々―街頭宣伝であったり、SNSをなどでの発信であったり、討論集会や学習会であったりなどなどーであるが、継続して人々が考える機会と場を作り、一人ひとりが選挙の選択の結果を検証できるような活動が必要であろう。ここまで長々と述べてきたが、大きな時代の転換の中で、人々が政治的なテーマに無関心でいられなくなってきている。

「財政ポピュリズム」には、様々な問題点はあるが、小数与党政権の下で、税の問題を政治の課題として登場させている。税に無関心であった多くの人々が、「個人投資」等による利益を得ることばかりでなく、税金、社会保険・社会保障の問題を考えることになっている。諦めないことだ。可能性を広げていく努力を続けよう。

 

さて、東京都知事選で予想以上の166万票を獲得した石丸伸二は、1月15日、地域新党「再生の道」の立ち上げを発表した。今年初夏の都議選挙に55人の候補者を立て、都議会への進出する方針を明らかにした。

新党は、日本の現状はヤバイので、「生まれかわるくらいに変化するために、政治に参加する人を増やす。地方自治体の首長など地方に人材を出していけるシステムを作る」「議員の活動任期は2期8年以内とし、政治屋を一掃する」等と語った。一人ひとが、しっかりと考え、意見を持ち訴えることが大切と考えるので、党の政治理念や政策は述べない、とも表明した。

立候補者は、書類選考と最後は私・石丸が面接して決めるという。現役の自治体首長と議員及びその経験者は、優先して候補にすることも明らかにした。

都知事選でも、石丸候補は、一人ひとりが、東京を変えるために政治に参加することが大切だ、と強調したが、政策らしきことは述べなかった。つまり、「今の政治を変えるために私は闘います。皆さんも一人ひとりが自分の考えをもって政治に参加してください」というのが石丸の言いたいことなのだ。

国でも地方自治体でも、その政治の体制の外側に位置し、既得権を持たない政党・候補者である場合は、石丸のようなアピールは有効性を持ちうる。住民のほとんどは、権力から遠い位置で生活を営んでいる。住民の具体的な要求を掲げなくとも、「既得権者達の政治」に対して、『俺たち、私たちが主権者だ!』と声を上げることも大きな政治であり、政治参加の入口に立つことを意味するからだ。

石丸新党では、党の理念や共通する政策を掲げないで、候補者を公募し、議会に送り込み、当選したら、議員はそれぞれの議員の考えに基づいて議員活動を行うことになる。ある評論家は、この考え方は「選挙互助会としてゆるいサークル」を作ることだ、と言っている。しかし党の理念や共通する政策がないと言うことは、党員相互の、党の支持者、有権者と党の間にも「約束事」がないということになる。共通の「約束」のない下で、党員間の意見の交換、党・党員と支持者とのコニュニケーションは、新党らしく、主にSNSなどを利用してなれることになる。SNSのコミュニケーション機能の特質(ネット上に、各発信者の一方向的な考え・情報が集中・集積される)とも重なって、意見の違い、対立を整理・調整する基準がないので、混乱と対立が拡大していく。そうならないためには、党は「ゆるいサークル」ではなく、石丸代表に政治方針及び運営を「白紙委任」する独裁的なものになる以外にない。さて、2度目も、柳の下に鰌はいるであろうか。

補論~選挙を金儲けの場に変えたN党・立花、裏で稼いできた電通・博報堂

最後に、N 党と立花代表らの公選法が想定する範囲・枠組みを超えて活動を行った点について述べておく。彼らが、選挙を金儲けと売名の機会に利用したことを、公職選挙を変質させた冒涜行為であると批判することで済ますことはできない。一連の事象をよく見ると、選挙と金の動きに関わる地殻変動というべき問題があるからだ。

これまで電通や博報堂などの広告代理店は、政党・候補者を有権者に売り込むため、チラシやポスター、選挙でのイメージカラー、キャッチフレーズ、さらには政策までも準備し、選挙活動のスタイルなどを含めた選挙戦術まで細かく企画・提案してきた。それによって、多額のコンサル料を稼いできた。

ところがこの間、N 党・立花代表らが行ったことは、これまで広告代理店が公選法の裏でやってきた「コンサル料稼ぎ」の市場を裏から表に引き出した。広告代理店が握って来た「コンサル市場」を破壊し、立花代表やN 党の稼ぎの「場」に変え、奪い返したのだ。この広告代理店の市場を奪い返す主な手段が、広告料が収入になるユーチューブの配信であった。

当選を目的としないで、同じ党の候補を大量に立候補させ、選挙公報の看板や広報紙面を占有し、それを売りに出したことや、虚偽の内容の話や情報を拡散させたことなどの違法な逸脱行為を規制する公選法の改定は、もちろん必要だ。しかし、他方、これまで表には出てこなかった広告代理店などと政党や候補者との間の「金の動き」に対し斬り込む新たな作業も求められる。

今回、兵庫県知事選挙で、くしくもPR企画会社の折田社長及び merchu が、メイン・ビジュアル作成をはじめ、有権者向けの「公約スライド」作成、選挙向けのデザイン戦略を担っていた疑いが露見した。これまでも、選挙コンサルタントなどによる業務としての選挙への関与が、公選法上の問題になることはあったが、関与の実態が表面化することは少なかった。今回は、折田社長がNOTE投稿で選挙運動に主体的に関わったことを自ら公言した。これは、電通などの大きな、広告代理店が選挙において、裏側で行ってきた「コンサル業務」の実態の一端を暴露することになった。この選挙違反の捜査を切り口に、広告代理店と自民党の大規模な選挙での「コンサル業務」を解明することが求められる。

これは、自民党の巨額の政治資の使途と「裏金」問題の追及の大きな舞台ともなるものであることを指摘しておきたい。

 

(注4) 『検証 「大阪維新の会」』 吉弘憲介(ちくま新書、2024年7月)

(注5) 社会保障を含めた財政構造全体の抜本的改革・再編を考えるうえで参考になる手ごろな文献は以下

『財政と民主主義』 神野直彦(岩波新書 2024年2月)

『ベーシックサービス』 井出英策 (小学館新書、2024年4月)

『日本の財政』 佐藤主光 (中公新書 2024年5月)

(注6) 雑誌「中央公論」2月号 藤田直哉

      

みずの・ひろみち

名古屋市出身。関西学院大学文学部退学。労組書記、団体職員、フリーランスのルポライター、部落解放同盟矢田支部書記などを経験。その後、社会福祉法人の設立にかかわり、特別養護老人ホームの施設長など福祉事業に従事。また、大阪市立大学大学院創造都市研究科を1期生として修了。2009年4月同大学院特任准教授。2019年3月退職。大阪の小規模福祉施設や中国南京市の高齢者福祉事業との連携・交流事業を推進。また、2012年に「橋下現象」研究会を仲間と立ち上げた。著書に『介護保険と階層化・格差化する高齢者─人は生きてきたようにしか死ねないのか』(明石書店)。

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