論壇

『韓国1964年 創価学会の話』をめぐって

「反国家・反民族的な倭色宗教」のレッテルを貼って反日世論を誘導

出版・編集コンサルタント・本誌編集委員 黒田 貴史

本誌読者は、1960年代、70年代の韓国について、どのような印象をもっているだろうか。「漢江の軌跡」とよばれるめざましい経済成長の時代と見る向きもあるだろうし、苛酷な軍事独裁時代と見る向きもあるだろう。私自身も、『韓国からの通信』でTK生(池明観)が伝えた酷薄な軍事独裁政権とそれと戦う知識人や宗教勢力、学生運動による民主化闘争の時代という印象を強くもっている。

それぞれはまちがいとはいえないだろう。そういう側面をもっていたことも事実だ。しかし、韓国内部で日々の暮らしを送っていた人びとにとって、60、70年代はどういう時代だったのか。外から見ている私たちとはちがう目をもっているにちがいない。

昨年出版された『韓国1964年 創価学会の話』(趙誠倫著、金美廷訳、論創社)を読んで改めてこうした思いを新たにした。この本は、韓国で布教をはじめた創価学会の1964年の法難に焦点をあてたものだが、本のはじめに著者の義理の父親について、以下のように書いている。

「私の妻の父は1964年に結婚してその年の冬に妻が生まれた。義父は大韓民国の一番南の有名な観光地である済州島の貧しい農村で農業を営み、家業を立て直した。年老いた義父は若い頃の話をするのが好きで、ひとたび自慢話に火が付くと自分の生きてきた時代を延々と振り返った。小学校しか卒業していない義父が人生の教科書として尊敬する人は朴正熙元大統領である。

……義父が朴正熙にあこがれたのは、貧乏から抜け出す、豊かに生きるという朴正熙のメッセージが農村の若い青年の希望になったからだ」

『思想界』の編集主幹(後のTK生)や「五賊」を書いたソウル大学哲学科の学生(金芝河)がいる一方でその影には農村の貧困から抜け出そうともがく青年農民がいる。農民にとっては、民主化のスローガンよりも貧困から脱出しようという大統領の呼びかけのほうが心に響いたのだろう。

  ◇  ◇

著者のフィールドワーク(2006-09)によれば、創価学会と韓国との接点は、まずは、在日韓国人への布教にはじまる。ある信者はつぎのように証言する。

「創価学会に入会したのは母方の祖母の時です。祖母から創価学会に入会した理由を何度も聞かされました」

最初の夫は早くに亡くなり、働かない2番目の夫も早くに亡くなったという。4人の子どもを育てるために、「町内でリヤカーを引きながら、『いらない服はありませんか?』と言って捨てられる物を集めて売りながら暮らした」という。そのときに出会った創価学会の人がいた。

「その家の人は親切で、祖母に古着を持たせてくれて、『あなたの今の生活を変えることができますよ。題目を唱えてみてください』と信心を教えてくれたそうです。そのような縁で祖母は信心を始めました」

著者はその様子を以下のように語る。

「貧しい在日韓国人を見て、生活を変えることができるという希望を伝えた日本の創価学会の会員、それを受け入れて創価学会会員になった在日韓国人は、同じ宗教を信じる輪の中に入ることになった。在日韓国人は貧しく病気で苦労する人も多かった。今のように医療体制も発達しておらず、医者にかかる余裕もなかった時代に、家族の誰かが病気になると家族全体の生活が揺らいだ」

さらに創価学会に入会した在日韓国人はつぎのようにいっている。

「私たちの時代は朝鮮人と揶揄され差別を受けました。だから自分が韓国人だとはなかなか言えませんでした。今は、人間的な差別はありませんが、やはり就職する時など、まだ差別が残っています。でも創価学会に入ってからは韓国人差別を全く感じませんでした。日本で暮らしていて在日韓国人を差別しない日本人に初めて会いました」

こうして貧困や病苦、差別にあえぐ在日韓国人のあいだに創価学会が広まっていった。それは同時に、韓国のどの地域よりも在日韓国人の割合が多かった済州島にゆかりをもつ人びとのあいだに広まったことといえる。そしてはやくも1959年には済州島で、帰郷した済州島出身者によって布教が行われたという。しかし、初期の布教は組織的なものでなかったようで、会員同士でも誰が入会しているかはよくわからなかったらしい。

1960年代の韓国紙に済州島南西部のモスルポ村の住民たちが創価学会会員になったという話が掲載された。

「1959年頃、在日韓国人の李鐘浩は故郷であるモスルポ村を訪問し、甥の姜太文が病気にかかっていることを知った。彼は甥に創価学会の教えを説明し、この信仰で病気を治すよう諭した。その後、村内の人々にうわさが広がり、会員は14人に増えた」

  ◇  ◇

こうしてじょじょに韓国社会にも創価学会が浸透していったが、朴正熙大統領による第3共和国がはじまった1964年1月に韓国の新聞に連日、創価学会の記事が掲載された。それは東亜日報、朝鮮日報、京郷新聞、韓国日報などの全国規模の大手紙をはじめ地方紙にも掲載された。いずれも布教実態などを報道して批判する内容の記事だった。

当時は、日韓条約交渉が続いている時代であり、反日世論も強かった。「創価学会が韓国へ伝わったことを社会面トップ記事として扱った理由は、それが日本から入ってきた宗教だったから」だったと著者は述べている。

「記者は日本の宗教である創価学会が最近韓国に流入して貧困層を中心に急速に拡がっており、この団体は東方遙拝と日本式の題目を唱えているので民族の正気を失わせる危険な宗教だと批判した。彼は日本を『下駄野郎』と罵倒しつつ、創価学会の布教を『思想浸透』や『精神的侵犯』と描写した」

日本の植民地支配から脱して20年足らずの韓国では、日本発の宗教に対する警戒感が強かったのだろう。

「新聞は、日本の創価学会の会員の大多数が下層民であり、日本の知識層は創価学会を白眼視していること、創価学会がテロと共産党を連想させると報道した」

後に大統領になる金永三は「韓国は経済的に日本に食われているのに、精神的にまで侵犯されるの大変な問題だ」と言って、「国民の覚醒と政府の早急な対策を要求した」。

こうした動きを受けて韓国の仏教界が動き出す。文教部(日本の文科省にあたる)に対して、創価学会を取り締まるように要求した。文教部も早くに対応し、創価学会を「邪教」として取り締まる方針を発表する(1964年1月14日)。さらに翌日(15日)には全国の市・道(都道府県にあたる行政単位)の教育委員会と小中学校に公文書を送って、学生が創価学会に入会できないようにする措置を下し、内務部治安局に取り締まりの要請を行った。

  ◇  ◇

韓国の仏教界が文教部に取り締まりを要求したのは、宗教団体を担当する部署が文教部だったからだが、「当時の文教部職員たちは、創価学会がどんな宗教団体なのか把握できずにいた。数日前から新聞に掲載されている内容を通じて概要を把握するだけだった。……創価学会の布教活動に対して普段から注意を払っていなかった文教部が、創価学会を邪教と決定して布教活動を勤仕した措置は、各方面から突然押し寄せた要求に対応し、混乱に陥っていたためであった」。

1月17日には、文教部は治安局情報課の要請で、宗教審議委員会を開催し、創価学会について議論している。審議会メンバー17人のうち、13人が参加しているが、宗教界からは、プロテスタント、天道教、大倧教の代表が各1人に対して仏教界代表は4人が参加して審議が行われた。

仏教界からは、「創価学会は排他的で、国粋主義的で、あまりに現実主義的だ。教理が独善的であり、日本国の神である天照大神、八幡大神を法華経の守護神と主張している」というように警戒心が強い。ただ、審議の全体については、「委員たちは順番に自分の意見を出しはしたが、活発な討論をしたのではなく、何の結論も出ない状態で終わった。それでも司会を担当した尹泰林文教部次官は、会議を締めくくる発言として『今まで皆さんが話されたことをまとめれば、創価学会は〈国是に反して反民族的〉という結論を得ました』という結論を下した」。

ついに1月18日に、文教部が創価学会を「反国家・反民族的な倭色宗教」と規定して布教を禁止した。文教部が出した談話のなかでは、「皇国的色彩が濃厚で、国粋主義的で排他的な集団」とまでいわれていた。これによって創価学会の布教禁止は国家政策になった。

   ◇  ◇

さらに1964年1月10日から21日にかけて、全国紙の朝鮮日報、東亜日報、京郷新聞、韓国日報が創価学会批判の記事を50本、記事、社説、コラムなどで展開された。しかも、「18日、文教部長官が創価学会布教禁止談話を発表し、21日に国務会議を通過してからは、示し合わせたかのように、創価学会に関する記事が新聞紙上から消えた」という。著者は、「治安局情報課が報道資料を作成した上で新聞各社に提供し、報道協力を要請あるいは指示したために可能になったのだろう」と推測している。

こうした新聞報道には大きな傾向があった。「新聞報道の重要な特徴の一つは、創価学会の韓国での布教活動をあたかも秘密組織のように説明したことである。……日本人責任者の指揮の下、韓国人組織が階層的に構成され、一糸乱れず動く組織のように描かれていた」。

「1月18日付の韓国日報を見ると、タイトルを『韓国総責任者は〈松島〉氏』、『創価学会組織体系などを把握』、『主要都市には日本人の布教責任者を一人ずつ』と掲げ、組織図を添付している。この記事を読めば創価学会がスパイ組織だとの印象を受けるのは当然だ」。

当時の韓国に人びとには、北朝鮮のスパイ組織を思い出させるに十分なものだっただろう。こうして韓国の警察だけではなく、検察も動き出し、検察は創価学会が「反共法」「国家保安法」に違反している疑いがあると発言するに至った。

軍事独裁時代の韓国では、在日韓国人政治犯が多数捏造され、多くの犠牲者を出した。そうした事件は、北朝鮮との関係を疑う密告を発端に検察がスパイ網などの事件構図を描きだし、関係者を組織の役割分担の構図に当てはめて事件をでっち上げた。そうした政治犯の多くは、民主化後にすすめられた再審裁判の結果、無罪判決を受けている(くわしくは、『在日韓国人スパイ捏造事件――11人の再審無罪への道程』(金祜廷著、明石書店)などを参照)。

創価学会に対しては、公安当局のスパイ網などの捏造はあったが、「引き続き行われた警察の集会への取り締まりによって、法律違反で実刑を受けた会員はいなかった」。この後、布教禁止の違法性を問う行政訴訟に発展するが、一時高裁で創価学会が勝訴する。しかし、最高裁判所判決では「政府の行政措置を認めるものであった。それと同時に信教の自由は認めるという点では政府が勝利したわけでもなければ、創価学会が敗れたわけでもな」いという玉虫色の判決に落ち着いた。

公安当局のねらいはどこにあったのだろうか。

   ◇  ◇

1964年当時は、日韓条約交渉の途上にあった。65年2月15日の日韓政府による日韓基本条約合意以降、条約を屈辱的ととらえた学生、野党によるデモが続いていた。

「1965年8月14日、日韓協定批准同意案が与党単独で国会を通過すると、協定の無効を要求する学生たちのデモが復活した。すべての学校の授業が再開した8月23日、デモの規模は一層大きくなり……朴正熙大統領政府打倒のスローガンが再び登場した。……1964年に始まった日韓協定に反対する集会とデモは、1965年に至るまで長期間続いた」

日韓条約反対闘争の渦中に、「1965年3月にソウル高等裁判所の判決が報道されて以来、いくつかの集会があった。創価学会が勝訴したというニュースを聞いた市民団体の中で創価学会を批判する集会を開いたのは、曹渓宗傘下の韓国大学生仏教連合会だった……糾弾大会に参加した学生数は200人余りだった。……学生たちはこの大会で『創価学会は民族の魂を蝕む思想的侵略であり、東方遙拝は日本による36年間の植民地支配の踏襲であると同時に、その布教者や信奉者は李完用の徒党』と宣言し」た。李完用は1910年の韓国併合を主導した人物で韓国では親日民族反逆行為者とされている。

つまり加熱する学生たちの条約反対運動の矛先を別の方向に傾けることになった。さらには「注目すべき事態が起きた。それは日韓協定に反対していた大学生集住人が、東大門の外に位置して創価学会本部として知られた嘉皇寺を襲撃した事件だった。……1965年8月19日午後7時、大学生たちは覆面姿で角材を振り回しながら寺の中へ入り、信仰の対象である本尊を破り、池田会長の写真も引き剥がした。赤い字で『創価学会は日本の手先だ。反国家的で売国的な布教はやめろ』と書いた警告文を壁に貼りつけ」た。

この事件は偶発的におきたものではなく、日韓協定に反対する各大学の連合体が主導したものだった。「日韓協定の会談に反対し、反政府デモの先頭に立った大学生たちが、意図せず、政府主導の『反倭色宗教キャンペーン』に合流していたのだ。彼らは政府の言うとおりに創価学会を認識して反日の標的にした」。

  ◇  ◇

現在では、韓国の創価学会会員は100万をこえるだろうという推計を著者は結びで記している。その数字は、プロテスタントやカトリックなどのキリスト教や曹渓宗などの仏教団体の人数と比較可能な数字だとしているが、一方で創価学会、天理教など、日本由来の宗教は統計上は「その他」に算入されているとも書いている。

この本では、韓国の創価学会が遭遇した1964年の事態に限定して書かれているが、その後の活動がやがてまとめられるのかもしれない。著者は創価学会の反戦平和思想と運動に期待をこめているようだ。

ここで紹介した以上に本のなかでは運動の中心にいた人物たちの動きにも焦点が当てられていて一気に読ませる内容になっている。日本の政治と創価学会という文脈とは異なる物語として読んでみてはいかがだろうか。

くろだ・たかし

1962年千葉県生まれ。立教大学卒業。明石書店編集部長を経て、現在、出版・編集コンサルタント。この間、『歩く・知る・対話する琉球学』(松島泰勝ほか、明石書店)、『智の涙 獄窓から生まれた思想』(矢島一夫、彩流社)、『「韓国からの通信」の時代』(池明観、影書房)、『トラ学のすすめ』(関啓子、三冬社)、『ピアノ、その左手の響き』(智内威雄、太郎次郎社エディタス)などを編集。本誌編集委員。

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