論壇

琉球の脱植民地化と徳田球一(上)

琉球民族の解放と独立を展望する

龍谷大学経済学部教授 松島 泰勝

はじめに

本論では、琉球人マルキストの徳田球一の琉球独立論について論じた上で、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のレットパージで中国に亡命した徳田球一と毛沢東との同志的関係について考察する。そして、毛沢東が執筆した「祭黄帝陵文」、その民族解放論や中華民族論に関する分析を行い、遺骨返還運動を通じた琉球民族の解放と独立について論じ、そして「地位未定地・琉球」における今後の独立運動を展望する。

1.徳田球一の琉球独立論

1946年2月24日、日本共産党第5回党大会から、沖縄人連盟の結成大会に対して次のような「沖縄民族の独立を祝うメッセージ」が送付された。

「沖縄人連盟が本日大会を催されることに対して日本の共産主義者たるわれわれは心からお祝い申し上げます。数世紀にわたり日本の封建的支配のもとに隷属させられ、明治以後は日本の天皇制帝国主義の搾取と圧迫とに苦しめられた沖縄人諸君が、今回民主主義革命の世界的発展の中についに多年の願望たる独立と自由を獲得する道につかれたことは、諸君にとっては大きい喜びを感じておられることでしょう。これまで日本の天皇主義者は国内では天皇と国民が家族的に血のつながりを持ち、国外では朝鮮人が日本と同じ系統でありアジア民族が日本民族と同じアジア人であると主張し、日本の天皇がアジアの指導者であることを僭称して来ました。沖縄人諸君に対しても、彼らは同一民族であることを諸君におしつけました。諸君はこの奸計の帝国主義的本質をもはや見きわめられたと思います。たとえ古代において沖縄人が日本人と同一の祖先からわかれたとしても近世以後の歴史において日本は明かに沖縄を支配して来たのであります。すなわち沖縄人は少数民族として抑圧されて来た民族であります。諸君の解放は世界革命の成功によってのみ真に保護されるのであります。現に日本には多数の沖縄人諸君が本国との交通を断たれ、戦時中徴用された人々は職をうしない、多数の学童やよるべなく南方から帰還された人々は収容所でみじめな取扱いを受けています。諸君とわれわれは力をあわせて日本政府の怠慢といぜんたる支配者的態度とを糾弾し、至急その救済を実行させるため努力しなければなりません。さらにわれわれ日本人は諸君とともに日本の帝国主義的天皇制がふたたびアジアの諸民族を支配する野望をいだいていることを寸時もわすれることなく民主主義革命の徹底化に邁進することを誓うものであります。ここに日本共産党第5回大会は、満場一致をもって貴連盟大会へメッセージをお送りいたします。」注1

1609年の薩摩藩による琉球国侵略、その後の経済的搾取、そして1879年の日本政府による琉球併合後の天皇制帝国主義による搾取と圧迫を受けて来た琉球人に対して、「独立と自由を獲得する道」の到来を告げている。「沖縄人は少数民族として抑圧されて来た民族」とし、「沖縄人」(琉球民族)が「日本人」とは異なる民族であることが強調されている。これは日琉同祖論の呪縛から脱し、独自な民族として自己主張し、琉球独立を宣言したとして評価できよう。琉球併合後初めて「琉球独立」が公的空間で唱えられたことを意味する。

同メッセージを書いたのは当時、日本共産党書記長であった琉球人マルキストの徳田球一であるとされている。1947年7月、日本政府外務省内で行われた「沖縄問題に関する座談会」において、徳田は次のように発言している。

「(琉球は)経済的に考えても、長い間搾取されている。その習慣は、薩摩からその儘明治政府が受け継いでいる。日本政府は、それという文化施設もしていない。かかる点から考えても、常に差別待遇を受けているし、半植民地的取扱いをされているのは明らかである。現在、日本に於てもなお、沖縄人は賃金が2割少なかったという例もある。吾々は階級的立場から考えなければならない。圧迫されている階級の具体的立場からみて差別待遇されている。吾々は何れの国と結合するとしても、民族の自主権を決定しなければならない。民族的の自治共和国にならなければならない。(中略)如何なる場合でも、民族はそれ自体の自治的生活をするのが重要である。吾々は如何なる場合でも、自主性を失ってはならない。国籍問題は問題にならない。根本問題は自主性の問題である。最後に、日本に対して如何なる要求をすべきか。それは今迄の搾取に対する賠償を求めるべきである。更に今度の戦災に対し、日本はその責任を果すべきである。それは戦時的賠償ではなく、沖縄の復興のために賠償すべきである。(中略)(琉球の)帰属の問題というより寧ろ結合の問題である。私は将来主従の問題でなく、結合してゆくべき対象を見出すべきであって、その時は、自主的にどの国と結合すべきかを考えるべきだと思う。」注2

琉球は長期にわたり薩摩藩や日本政府から搾取や差別をされた、日本の「半植民地」であるとして、将来は「民族自治共和国」の樹立を徳田は提案している。また日本に対してはこれまでの搾取に対する賠償を求めるべきとしている。しかし、琉球は、琉球併合という国家滅亡、沖縄戦における約10万人の住民殺害、米軍統治時代から現在まで続く米軍による事件・事故に対する賠償を日本政府から受けていない。また徳田は、琉球の「日本帰属」を前提としておらず、琉球の地位は未定であるとの立場に立っている。徳田は、琉球人が「民族の自主権」を決定して、自主的に結合すべき国を選択すべきであると認識していた。「民族の自主権」は、現在、「民族の自己決定権」と呼ばれ、国際法でも保証されている。徳田の政治思想と、その後の中国への亡命を考えると、中国と琉球との結合を求めていたと言えよう。中国と結合するために琉球独立を主張したと考えられる。

次に徳田が琉球独立論を主張する要因になった、「日本人」による差別体験について検討する。1894年、徳田は沖縄島の北部にある国頭郡名護村で生まれた。琉球併合後、日本の植民地になった後の状況について次のように書いている。「当時の沖縄にはまだ鹿児島藩いらいの植民地的搾取と専制主義が強くあとをひいていた。それがわたしの生いたちと生活のすべての基礎であり、背景であった。(中略)県庁の役人は大部分が内地人で、沖縄本島人は下っぱの方にわずかいるだけであった。警察署長はむろん内地人だし、小学校の教員も幹部はみな内地人であった。中学、師範、女学校では、幹部いがいの教員の大半が内地人で占められていた。こうして内地よりはるかにろこつな専制主義が、内地人によって植民地的弾圧として全沖縄人のうえにのしかかっていたのである。租税なども内地と沖縄では大きなひらきがあり、沖縄人はだいたい内地人の三倍から税金をとられたものである。」注3

琉球では、「日本人」は「内地人(ナイチャー)」または「大和人(ヤマトンチュー)」と呼ばれている。当時から今日まで、琉球人は自らと民族的に異なる存在として「日本人」を意識している。上の引用文からも、日本共産党の「沖縄民族の独立を祝うメッセージ」と同様な歴史認識が窺える。日本人植民者が沖縄県庁、沖縄県警察署そして学校を支配し、琉球人に「植民地的弾圧」を及ぼしていた。

徳田は琉球の経済を次のように分析した。「こんな悪どいやり方でしぼられたえず貧困にさらされていたので、沖縄人が被圧迫民族として内地人に抱く反感は非常に強かった。しかもこの植民地的搾取はいつも官憲の恥知らずな強権でおしつけられてくるため、沖縄人の官僚にたいする反抗は一そう根深いものであった。(中略)製糖会社もはじまりは県の糖業試験所が土地を買い、機械をすえつけ、一応土台のできたところでこれを民間会社にはらいさげたものだ。それが全体にひろがり、のちには独占事業となり、その大株主に県知事、古い知事、内務部長、警察部長らが顔をそろえるといういかにも植民地的な官僚と資本のあつかましい結託がおこなわれた。そしてこういう製糖会社のうえに大阪の阿部工業とか増田屋、神戸の鈴木商店というような内地の大資本家がどかりとのっかっていたのである。国家資本と独占資本が、上の方でも下の方でも二重にも三重にもからみあって、沖縄の人民から甘い汁をすいあげていたのだ。鈴木商店は後藤新平と結び、台湾の砂糖であのばく大な産をなしたのであるが、沖縄でも鈴木が一番大きい砂糖商人であった。そして彼らのあの途方もない大もうけのかげには、彼らの専制的支配と植民地的搾取におしつぶされ、半奴隷の境遇につきおとされた沖縄農民の豚のようなどん底生活があったのである。」注4

「権力にたいする沖縄人の反抗の気持ちが、もうなかば意識的にわたしの体内に動いていたのである。沖縄にたいする植民地的な搾取、専制主義、内地人との差別待遇、内地人官吏と御用商人の不正と腐敗、そこからくる大多数の沖縄人と下層内地人の奴隷的な地位と生活状態など、わたしの心のうちにまだしっかりしたものではなかったが、こういうものを社会主義的な目でつかもうとする準備がもうそろそろ芽をふいていたのである。」注5

徳田はマルクス主義の理論を踏まえて琉球の植民地主義を分析した。徳田は、中江兆民、幸徳秋水、河上肇等の著作を通じてマルクス主義への理解を深め、1921年に弁護士になってからは、労働者に対する弁護活動、イルクーツクで開催された極東諸民族大会への出席等を行った。1922年の日本共産党創設の際には執行委員に選出され、1926年にはモスクワで開かれたコミンテルン会議に参加した。1928年に治安維持法違反で逮捕され、以後18年間投獄されたが、徳田は転向することなく自らの政治思想を守りぬいた。1945年の日本敗戦に伴い釈放された後、日本共産党を再建して、書記長に就任し、翌46年には衆議院議員に当選した。注6

日本の植民地主義は、琉球社会だけでなく、次のように徳田自身にも及び、抵抗運動を実践した。「小学校の五年のとき最初のストライキをやった。校長は琉球人でない輸入校長だったが、琉球にくる輸入教員がみなそうであるように、残虐で、わるい人間だった。学校でもいわゆる鹿児島のスパルタ的教育で、なぐったり、けとばしたり、「琉球人のばかやろう」などといった。これにたいする反感が昂じてわたしたちはストライキをやった。どういうストライキかというと、体操の時間の一番さいごに「別れ」をせずに先生が帰ったので、「別れ」をしないから別れるなといってがんばり、そのままみんなで家へ帰り、三日ばかり同盟休校をやった。こんご、なぐったりけったり琉球人をばかにする暴言を吐くなら学校に出ないといってがんばったが、とうとう教師の方が折れておとなしくなった。」注7

当時、「琉球人」という言葉は差別語であったが、徳田は琉球人としての誇りを守り、抵抗したのである。日本政府の皇民化教育により学校の教室では「方言札」の罰が課せられ、「日本人」との同化政策が行われていた。しかし、徳田は次のように沖縄語(琉球諸語)と日本語は独立した言語であると認識していた。「私は語学がカラキシいけない。大体沖縄語と日本語と二つ持つのでも大変なところへ、他の語学などやる気にもならない。」注8

1912年、徳田は鹿児島にあった造士館第七高等学校(現在の鹿児島大学)の独法文科に入学したが、そこでも琉球人差別の経験をした。「沖縄中学卒業後、一年間東京で予備校生活をしたのち七高に入ったが、貧乏で学資もなかったので、はじめ母の異母弟にあたる叔父の家に世話になった。この人は大してわるくなかったが、その母がひどい人で、わたしが琉球人の腹だというのでおなじ食卓でめしを食うことをこばみ、ぜんぶ下男と一しょにさせた。湯殿はあったがわたしが湯に入るときたないといって湯にも入れない。だからわたしは町の銭湯にいった。そういう侮辱をうけるのでというていがまんができなくなり、寄宿舎に入ったが、そうなると金が足りないので、とうとう高等学校は一年在学しただけで中途退学し、一九一三年(大正二年)に琉球に帰ってしまった。高等学校では、英語の教師に松本という人がいた。これがいつも琉球人をばかにして、わたしがなにか質問すると、「きさまは琉球人のくせに、おれにきくことはないじゃないか」と吐くようにいう。とうとわたしはかんしゃくをおこしてストライキをやった。琉球人をなぜ侮辱するか、と大々的にみんなを煽動してストライキをはじめ、とうとうその男を仙台の二高に追いやった。」注9

徳田の琉球独立論には、琉球人差別という植民地主義の経験、ストライキという脱植民地化運動の実践が密接に結びついていた。このような琉球人差別は日本全国で見られた。1903年、大阪で開催された内国勧業博覧会の中に「学術人類館」が設置され、琉球民族、アイヌ民族、台湾原住民族、朝鮮人、インド人、ジャワ人等の生きた人間が展示され、研究対象になった。同人類館の企画、運営に深く関わっていたのが東京帝国大学の坪井正五郎・人類学教授を中心とする東京人類学会(現在の日本人類学会)の研究者であった。琉球人差別に対して学術的な正当性を与え、「日本人」が「指導民族」として頂点に立つ「日本帝国の民族秩序」を国民に啓蒙しようとした。同事件に対して日本人類学会は学会として未だに謝罪をしていない。

1933年5月、市谷刑務所に収監されていた徳田は次のような一文を含む書簡を書いた。「僕の今欲している所は、ただに琉球に関するものばかりでなく、日本帝国主義の植民地に関するものならば、どんなものでもよい。例えば、朝鮮、台湾、満洲、南洋等に関する統計及び研究に類するものである。」注10

1948年ごろ、徳田は「植民地扱いされた僕のふるさと」というタイトルの文章の中で次のように述べていた。「僕のふるさとは琉球だ。琉球は行政上は日本の一縣に編入されているが、事實上は、植民地扱いされて来た。(略)政治の面からも、經濟の面からも、琉球は完全に植民地として、壓迫され、しぼり取られていた。(略)琉球にふるさとを持つ一個人として、僕は、琉球が植民地状態から解放され、琉球人の自由な、そして自主的な発展の途が開かれることを、心から、希望したい。」注11

徳田は、「沖縄」ではなく「琉球」という言葉を使っていることに注意されたい。徳田は「日本帝国主義の植民地」として琉球を位置付けていた。このような琉球に対する植民地認識が戦後の琉球独立論の主張につながった。

1949年9月、第17回緊急中央委員会総会において徳田は、次のように述べた。「人民勢力の新しい高揚は、国際独占資本の世界支配をめざす攻勢をうち破り、急速に退却させている。その要因は、(中略)中国革命の飛躍的発展が、アジア諸国における民族解放を急速に発展させていること。ベトナムはその領域の九五パーセントを解放し、フランスは独力ではいかんともしがたい状態となり、本国の労働者ならびに進歩的人々は、ベトナムの独立をみとめ軍隊を即時引き上げることを要求している。ビルマにおいては、売国的社会党を基礎とするタキン・ヌー政権の勢力は、首都ラグーン十数マイルに縮減されるにいたった。そして重要な諸地方で大解放地区ができ、タキン・ヌー政権はまひ状態に陥っている。マレーにおける英国の干渉戦は、一二万の軍隊を投じているにかかわらず、ゲリラ部隊を圧倒することができないばかりか、各所に解放区が成立している。インドネシアの独立は、オランダだけでは手におえなくなって、国際独占資本がのりだしてきたことを物語っている。フィリピンにおける革命勢力も高揚しつづけている。インドが革命勢力と独占資本の間に中立を標ぼうしているゆえんのものは、これら東南アジア諸国の人民解放運動を無視することができなくなったためである。だからインドを首領とする防共戦線の確立というものはできる話ではない。防共戦線の育成は、莫大な浪費を強いられるだけであって成功しがたいものであることはいうまでもない。中国大革命の影響は、以上にのべたところだけにとどまらず、極東はもちろん全世界におよんでいる。」注12

「中国革命の飛躍的発展」がベトナム、ビルマ、マレー、インドネシア、フィリピン、インド等における民族解放を進展させていた。アジアにおける民族独立運動の潮流に乗って琉球独立も可能であると徳田は考えたのではないだろうか。翌1950年、徳田は全世界に大きな影響を及ぼしていた「中国大革命」の母国を自らの亡命先に選んだ。

 

(注1) 『アカハタ』1946年3月6日(中野好夫代表編者『戦後資料 沖縄』日本評論社、1969年、6頁)。沖縄人連盟とは次のような団体であった。「1945年(昭和20)12月9日、東京で沖縄出身者相互の連絡と救援をはかり、民主主義による沖縄再建に貢献するために結成された団体。当時、戦争の結果による本土在住者は、九州の疎開者4万600人をはじめ、各地の南方引揚者、復員者など5万人余と推定された。松本(旧姓真栄田)三益の提唱で比嘉春潮・伊波普猷・比屋根安定・大浜信泉・永丘智太郎が発起人代表。沖縄諸島への救援物資送付斡旋、避難民・海外引き揚げ者斡旋、本土在住者の救援に大きな役割を果たした。一方、沖縄戦被害を軍国主義の犠牲と断じ、その実相の調査をふくめた運動目標やGHQへの直接請願、報国沖縄協会の戦犯追求などの活動をおこなう。機関誌『自由沖縄』を出し、初期には日本復帰に批判的な姿勢をとった。共産党第5回大会で連盟あてに採択した「沖縄民族の独立を祝ふ」メッセージは有名。沖縄協会を合併して46年2月24日全国組織結成大会を開催し、会長に伊波普猷を選出した。」(『沖縄大百科事典(上)』沖縄タイムス社、1983年、539〜540頁)

(注2) 『青年沖縄』(沖縄青年同盟機関誌)3号、1947年7月(中野好夫代表編者『戦後資料 沖縄』日本評論社、1969年、8頁)。

(注3) 徳田球一「わが生いたちの記」(徳田球一『徳田球一全集 第五巻』五月書房、1986年、18〜19頁)

(注4) 同上書、20〜21頁。

(注5) 同上書、26頁。

(注6) 「徳田球一年譜」((徳田球一『徳田球一全集 第六巻』五月書房、1986年、390〜404頁)

(注7) 徳田球一・志賀義雄「獄中十八年」(徳田球一『徳田球一全集 第五巻』五月書房、1986年、291〜292頁)

(注8) 徳田球一「徳球大いに語る」(徳田球一『徳田球一全集 第五巻』五月書房、1986年、373頁)

(注9) 徳田球一・志賀義雄「獄中十八年」(徳田球一『徳田球一全集 第五巻』五月書房、1986年、293〜294頁)

(注10) 徳田球一「市ヶ谷刑務所」(徳田球一『徳田球一全集 第六巻』五月書房、1986年、22頁)

(注11) 徳田球一「植民地扱いされた僕のふるさと」(『琉球よどこへ行く(仮題)』1948年ごろ、沖縄県立図書館蔵))

(注12) 徳田球一「新しい情勢とこれに対応するわが党の政策−第一八回拡大中央委員会における一般報告と結合(一九五〇年・一・一八〜二〇)」(徳田球一『徳田球一全集 第四巻』五月書房、1986年、315〜317頁)

2. 毛沢東と徳田球一との同志的関係

1950年6月6日、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、徳田球一ら共産党中央委員24名全員を公職追放し、機関紙『アカハタ』の発行を停止させた。また団体等規制令により徳田ら13名の警察への出頭が命じられ、最高検察庁は徳田ら9名に逮捕状を出した。同年10月、徳田は中国に亡命し、中国到着後、毛沢東、周恩来、劉少奇の中国共産党首脳部を訪問し、懇談した。1951年4月と8月、徳田はモスクワを訪問し、日本共産党の新しい綱領について協議した。同年8月の協議の際にはスターリンも参加した。北京に戻った徳田は、毛沢東、周恩来、劉少奇と会談した。同年12月、徳田は毛沢東、周恩来、劉少奇と会談した。1952年5月、「自由日本放送」が放送を始めた。また徳田はモスクワを訪問し、スターリンと朝鮮戦争の見通し、日本、ソ連、中国の各共産党の連携強化について話し合った。同年6月、徳田はモスクワ訪問から戻り、毛沢東、周恩来、劉少奇と協議を行った。同年7月、北京市内で日本共産党創立30周年祝賀会が開催された。同年12月、毛沢東の指示で周恩来が北京病院特別室に徳田を見舞い、病院側に種々の指示を出した。1953年10月14日、徳田は北京市内の病院で死亡した。注13毛沢東が自筆した「徳田球一同志永垂不朽」という追悼の言葉が記された横断幕が、1955年に東京都内で開催された徳田の「共産党葬」の壇上に掲げられた。

徳田は1950年に公職追放された後、中国に亡命したことにより、日本共産党の活動を継続することができた。徳田を受け入れ、北京における日本共産党の活動を全面的に支援したのが毛沢東であった。毛沢東はスターリンと相談して、徳田球一をこの危険から救い出す必要があると主張した。「軍艦の一隻や二隻ぶっ壊れたってかまわない、とにかく徳田同志を救い出せと」と毛沢東は直接指示を出した。注14北京市内で生活をした約3年の間、毛沢東をはじめ、周恩来、劉少奇は徳田と頻繁に面談し、日本共産党の活動を支援した。

北京に拠点を移した徳田は中国服の袍や工人服を着て、ホーチーミンひげを生やし、「孫」という中国名で呼ばれていた。徳田を長とする在北京日本共産党は、「北京機関」または「孫機関」と呼ばれていた。注15

徳田球一以外の日本共産党幹部である、野坂参三は「丁」、伊藤律は「顧」、西沢隆二は「林」、土橋一吉は「周」と中国名で呼ばれ、人民服を着て「北京機関」で職務を遂行した。日本共産党中央委員会書記局としての機能を「北京機関」が果たしていた。注16

北京市内に置かれた「自由日本放送」の放送施設は、中国共産党の援助と協力によって開設が可能になった。出力は50キロ、大部分の放送用器材は当時のラジオ放送の国際的技術水準をみたしていた。注17

徳田が好んだ中国の景勝の地として「明の十三陵」と「昆明湖」があった。「この湖畔の風物が南国的で、徳田の故郷、沖縄に似ているのが気に入ったのだ。」と言われている。注18

なぜ徳田はこれまで何度も訪問していたソ連ではなく、中国に亡命したのであろうか。自らの家族と久米村人(クニンダー。琉球国時代に琉球に定住し、王国の貿易、外交、統治に貢献した中国人とその子孫)との関係について徳田は次のように述べている。

「日清戦争のとき沖縄には中国派があり、日本と中国の戦争に反対し、相当の力があった。その根は「三十六氏」といわれる中国からの移民だった。昔は那覇の久米村というところ等に一角をつくってすんでいたが、のちにこの集団的なものはだんだんくずれていった。彼らはかつて琉球王・尚の政治・貿易から船舶の運航や気象方面にいたるまでの顧問をしていた。その中で一番有名なのが程順則で、彼は気象学者、農学者であった。この人の家がわたしの郷里国頭郡名護にあり、明治になるまでそこの地頭職をやっていた関係から、その後もわたしの生家とずっと往来していた。明治以降、この人たちは廃藩置県で権力的地位をとりあげられ、田舎の開墾地に追いやられてしまったので彼らは明治政府にたいして反感をもち、彼らの影響下にある人民をまきこんで小さいながら地方の反日本運動を組織したのである。日清戦争のときの沖縄の中国派とはこれであったが、わたしの家はこの中国派との交わりが相当深かったため、幼少のころわたしはその運動からしらずしらずのうちにある感化をうけていたのである。」注19

程順則は、1663年、沖縄島那覇の久米村で生まれ、福州で朱子学と漢詩を学び、『六諭衍義』を琉球にもたらし、琉球初の公的教育機関となる明倫堂を創設させ、儒教教育に力を入れた。また釣魚島を航路図に明記した『指南広義』を執筆した。「名護聖人」とも呼ばれている。中日戦争の際、琉球では清朝の勝利に期待する久米村人を中心とする「中国派」がおり、それらの人々と徳田家との関係も深く、幼少期の徳田も大きな影響を受けていた。そのことも徳田が中国亡命を決意した一要因になったと考えられる。

戦前、日本帝国は、中国東北部に偽満洲国を作るなど、侵略の範囲を広げていたが、徳田はその当時の状況について次のように認識していた。「現下の帝国主義侵略強盗戦争は、中国革命への反革命的暴圧干渉戦であるばかりでなく、世界帝国主義の断末魔のあがきとしての世界再分割戦であるために、終結すべき目当ても付かず、かつ極めて大規模に急速に進展するので、其の浪費性と破壊性は今や全く一切の経済的基本構成を急速に破滅化しつつある。日本帝国主義はこれを防止せんとして、ドイツフアショ、「ナチス」を「猿まね」したが、それは却って一切を一層混乱と破壊とに導く以外に何物をも収め得なかった。かくて政治的にもいよいよ収拾すべからざる破綻へ押し詰められて来た。」注20

この引用文は、徳田が治安維持法違反で千葉刑務所に収監されていた1941年6月に執筆した「治安維持法中予防拘禁条項施行に対する反対意見」の中の一文である。日本帝国が中国への侵略を進めるなか、転向することなく、中国革命への連帯を強く主張した。

1949年5月1日付の日本共産党機関紙『アカハタ』に徳田は、「民族独立のために」という次のような一文を寄稿した。「中共は革命的民主勢力のために、国際的均衡を破って輝ける勝利を推し進めつつある。それは戦時中、戦後急速に発展しつつある国際的独占資本の矛盾に、一層の拍車をかけ、資本主義諸国を身の毛のよだつような恐慌に追い込みつつある。彼らは、これをさけようとして苦悶している。これに反して労働者階級を先頭とする人民は、自由と独立と平和のために抑えがたき歓喜にみちて、革命を前進せしめている。」注21

東南アジア、南アジアにおける革命運動の趨勢を冷静に分析して、中国革命を大きく評価した上で、中国に亡命し、日本共産党の活動を行ったことが分かる。

1950年5月18日付『党活動指針 別冊(一)』に収められた「来るべき革命における日本共産党の基本的な任務について(草案)」において徳田は次のように述べた。「極東における中華人民共和国の勝利は、ただに極東における人民勢力を画期的に強めたばかりでなく、二つの陣営(国際独占資本の帝国主義勢力と、社会主義とこれをめざして進みつつあるあらゆる人民の勢力)における均衡をうち破り、人民勢力を圧倒的なものにした。」注22「二つの陣営」の間の「冷戦」という戦後の世界秩序の中で、中国が果たした「人民勢力を画期的に強めた」という役割を徳田は明確に認識していた。 (続く)

 

(注13) 「徳田球一年譜」(徳田球一『徳田球一全集 第六巻』五月書房、1986年、412〜415頁)

(注14) 伊藤律書簡刊行委員会編『生還者の証言―伊藤律書簡集』五月書房、1999年、226〜227頁。

(注15) 藤井冠次「孫大人の横顔」(『徳田球一全集第五巻月報』2、1986年2月、5頁)

(注16) 藤井冠次『伊藤律と北京・徳田機関』三一書房、1980年、22〜23頁。

(注17) 同上書、160頁。

(注18) 伊藤律書簡刊行委員会編『生還者の証言―伊藤律書簡集』五月書房、1999年、282〜283頁。

(注19) 徳田球一「わが生いたちの記」(徳田球一『徳田球一全集 第五巻』五月書房、1986年、51頁)

(注20) 徳田球一「治安維持法中予防拘禁条項施行に対する反対意見」(徳田球一『徳田球一全集 第六巻』五月書房、1986年、375頁)

(注21) 徳田球一「民族独立のために」(徳田球一『徳田球一全集 第二巻』五月書房、1986年、239〜240頁)

(注22) 徳田球一「来るべき革命における日本共産党の基本的な任務について(草案)」(徳田球一『徳田球一全集 第三巻』五月書房、1986年、274頁)

まつしま・やすかつ

1963年琉球石垣島生まれ。早稲田大学大学院経済学研究科博士課程満期単位取得、博士 (経済学)早稲田大学。1997年から2000年まで在ハガッニャ(グアム)日本国総領事館、在パラオ日本国大使館に専門調査員として勤。東海大学海洋学部助教授を経て、2009年~現在、龍谷大学経済学部教授。ニライ・カナイぬ会共同代表、琉球民族遺骨返還請求訴訟原告団長。著書に、『沖縄島嶼経済史』『琉球の「自治」』(ともに藤原書店)、『ミクロネシア』(早稲田大学出版部)、『琉球独立への道』(法律文化社)、『琉球独立宣言』(講談社)、『琉球独立論』(バジリコ)、『帝国の島』(明石書店)、『琉球 奪われた骨』(岩波書店)など。編著に、『島嶼沖縄の内発的発展』(藤原書店)、『大学による盗骨』『京大よ、還せ』(ともに耕文社)、『談論風発 琉球独立を考える』『歩く・知る・対話する琉球学』(ともに明石書店)など。

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