特集 ● 混迷の世界をどう視る
創造的知性の復権
なぜ左派・リベラル知識人は迷走するのか
労働運動アナリスト 早川 行雄
2024年は史上最大の選挙イヤーなどと語られたが、西側先進国およびグローバルサウスを含む世界各国で国政レベルの選挙が行われ、多くの国で政権与党に厳しい判断が下され政権交代も起きた。ご多分に漏れず日本でも昨年10月に実施された総選挙は、自公与党の議席が過半数を割り込むという結果をもたらした。日本経済新聞は昨年末に「民主主義国、与党が全敗 24年選挙イヤー分析 生活苦、有権者に不満 合意形成難しく」と題する論説記事を載せ、インフレや格差拡大など資本主義のひずみが与党批判を招き、国民的合意形成の難しさから極右の台頭など民意がポピュリズムに流れた結果、民主主義が後退しているなど現象面をなぞっただけの危機分析をしている。
実際にいま国際社会で生じている支配秩序変調の概略については、拙稿「世界は大転換の兆し」(本誌前号)でも記したとおりだが、権力の側で、あるいは民衆の側で、そしてとりわけいわゆる知識人と称される集団に何が生じているのかについて具体的な背景については素描程度しか示されていない。そうした意味では日経の記事と五十歩百歩であったかも知れないが、本稿ではそのあたりを少しばかり掘り下げて検討したうえで、情勢に切り込む知性とは、そして知識人の役割とはという、決して新しくはない問題を蒸し返して考えてみたい。
西側民主体制という覇権の終わり
エマニエル・トッドはNATOの崩壊など西洋の危機について語り「西洋は、ロシアに制裁を課すことで、世界の大半から拒絶されていること、非効率的で残忍な「新自由主義資本主義」や進歩的というよりも非現実的な「社会的価値観」によって、自らがもはや「その他の世界」を夢見させる存在ではなくなったことに気が付いた」と述べている。米国が主導する多くの経済制裁が発動されているが、その実態は制裁に名を借りた経済・軍事・外交のブロック化であり、同盟国(同志国)の囲い込みである。つまり米国の制裁はドイツの対露政策転換に典型的に示されたように実のところ同盟国を恫喝しているのであり、もとよりグローバルサウス諸国がそこに参加する道理はない。
世界の大半からの拒絶はイスラエル・シオニストによるジェノサイドを支援し続けることで一層深まっている。三牧聖子は欧米諸国のイスラエルに対する対応をダブルスタンダードと批判し、「凄惨な「テロとの戦い」を完全に正当なものとして遂行しつづける(中略)殺された自国民の何倍の人々を殺しても、絶対悪たる「テロ」を根絶するための「付随的損害」の一言で済ませてしまう。その意味では、「9・11」と「10・7」には多くの共通性があります」と指摘している。
最近でも欧米(米NATO)諸国は、ベネズエラやジョージア、ルーマニアなどの大統領選挙に、法の支配と民主主義に藉口して介入を試みてきたし、昨年末の韓国における大統領によるクーデター未遂事件も仮に上首尾に事が運んでいれば歓迎して受け入れたであろうことは想像に難くない。金科玉条としてきた、G7を頭目とする西側の民主体制という介入の口実として共有というよりむしろ強制されてきた価値観の化けの皮が剥がれ馬脚を現している。
米国大統領選挙ではトランプがスイングステートのすべてを制して圧勝したと言われるが、何れの州も接戦であり、薄氷の勝利ともいえる。保守党の自滅で大勝した英国労働党と似た現象だが与党敗北の原因は区々である。なぜ民主党は得票を一割も減らしたのか。トランプが引き続き高い支持を得ていることの要因分析に議論が集中しがちだが、それと並んで民主党支持急減の背景について検証することも重要である。それは英独仏など欧州諸国における旧来の政権党の衰退の要因ともつながっている。
BRICS、グローバルサウスの台頭を前提にブロック化による米国覇権の再構築を図るのがトランプを擁立する勢力の本音であろう。それがMake America Great AgainやAmerica Firstの内実であり、これらのスローガンは孤立主義ではなく、米国覇権に庇護された国際資本の収奪構造再構築のプロパガンダと捉えるべきだ。米国有権者は必ずしも覇権再構築を信任したわけではないが、南の諸国に対する収奪を前提に成り立っていた旧覇権体制を支えた福祉国家政策が破綻し、西側先進国において中間層の没落や格差の拡大が顕在化したことが、移民問題というプロパガンダを媒介して政権党を追い詰めたのである。
【参考文献】
エマニエル・トッド『西洋の敗北』文藝春秋2024年/内藤正典×三牧聖子『自壊する欧米』集英社e新書2024年
エキセン体制下で迷走する左派・リベラル
以前の拙稿でも触れたことだが、上でみてきた大転換の中で動揺を深める欧米の支配体制を過激で不寛容な中道を意味するエキストリーム・センター(エキセン)という概念で捉える論議が広がっており、最近は日本でも話題に上ってきた。森元斎は「民衆はなぜ自分たちを支配・搾取する国家や資本主義などのヒエラルキー上位の暴力に与してしまうのだろうか」と問い「中立を装って、結果として体制を擁護することになる態度、あるいは思想」としてのエキセン概念が参考になるとし、「エキセン現象は世界中に広まっており、異議申し立てをすることなく、対立を消すような枕詞が流行している」と述べている。酒井隆史は、「いまの「中道」はなぜありうるかぎり最も不寛容か、というと、この(左右の)対立自体を否定する、あるいは排除する傾向があるからだ」と述べ、一般に右派とは見なされていない研究者の中にもそうした傾向が浸透していることを指摘している。
研究者らへのエキセン現象の拡散は昨今の左派・リベラルの迷走とも深く結びついている。トマ・ピケティによれば、フランスにおける「階級主義的」構造が複数エリートの仕組みへと移行した様子を「この仕組みの核心にあるのは、高学歴者の政党(バラモン左翼)と高所得、高資産者の政党(商人右翼)で、この両者が交互に権力を握っている」とみなし、「バラモン左翼」が伸長してきたのは、「庶民階級が選挙で棄権するようになったので、投票する有権者の学歴が高くなり、それに応じて政党の政治綱領が高学歴層向けのものに変わっていった」ためであるとしている。
スラヴォイ・ジジェクは、バラモン左翼やその支持基盤である高学歴層を「ウォーク左派」と呼び、「彼らが発現している立場は非常に権威的であり、他者の意見をほぼ受けつけず、個人的判断で他者を強制的に排除することも少なくない。ウォークネスとキャンセル・カルチャーは事実上、学界という狭い世界(そして、ある程度はジャーナリズムのような知的職業)に限られ、一般社会と反対方向に向かっている」という。さらにジジェクは「新たなポピュリスト右派とウォーク左派は深いところで共謀する。これらはコインの裏表だ。これらは現在直面している根深い問題を回避し、グローバル資本主義に刻み込まれた根本的な敵対を無視する2つの手法だ」とも批判している。
ピケティやジジェクの言説が指摘しているのは、旧来のエキセン体制やそこに取り込まれた左派・リベラルの在り様なのだが、バラモン左翼やウォーク左派が人種差別、女性やLGBTへの差別などに反対し、多様なアイデンティティの社会的承認を求めるアイデンティティ・ポリティクスに傾斜していることは左派・リベラルが迷走する根因ではなく結果としての現象面の記述に過ぎない。問題の核心は、森やジジェクも述べているように、貧困や格差を生み出す現代資本主義の根本矛盾への対抗戦略が回避されていることであり、それなしにはアイデンティティ・ポリティクスの成果をも得られない闘争が放棄されていることなのだ。
現代資本主義の根本矛盾については次の2点を指摘すれば足りるだろう。第1にチャルマーズ・ジョンソンが「軍事ケインズ主義」と名付けた実体経済の軍事(国防)予算依存であり、その弊害はジョセフ・E・スティグリッツが「社会にのしかかる戦争のコスト」として明らかにしたとおりである。第2に水野和夫が「シンボルエコノミー」として明らかにした、実体経済から遊離した金融資本による収奪構造の定着である。これらに目を背ける左派・リベラルは結局のところエキセン体制の走狗となる外はない。
スタグフレーションによって行き詰まった福祉国家のケインズ主義ないしは社民主義を掲げた戦後福祉国家は初歩的なエキセン体制であり、スタグフレーションによって行き詰まった福祉国家のあとを執ったのは実態としては資本主義のプロトタイプへの先祖返りに過ぎない新自由主義(ネオリベ)国家もまたエキセン体制である。
金融危機がもたらした混乱から新自由主義への信認が揺らぐ中で、格差拡大に対する大衆の怒りを巧みに刈り取って成立したのが典型的エキセン体制としての(左右の)中道政権である。サッチャーにも実現できなかった大学授業料の再有料化や国家医療制度(NHS)の民営化を強行した英国労働党ブレア政権がその典型であり、バラモン左翼と商人右翼の連合(トマ・ピケティ)とされるフランスマクロン政権の年金改革もその流れの中にある。コービンやメランションらの左派的勢力を徹底して排除するのもこれらエキセン体制に共通の姿勢である。
前項でみた欧米における政治混迷の本質はエキセン体制の動揺である。その最中で欧米において台頭する右派ポピュリズム勢力はしばしば極右と呼ばれるが、旧態依然のレッテル貼りは状況への認識をミスリードするものだ。極右「イタリアの同胞」党首のメローニ政権が西欧では例外的な安定度を示しているように、かつて極右と名指され少数派の悲哀をかこった政治勢力が、今日では右派ポピュウリズムの旗手として示す似非親和性は、格差や階層分化を容認しつつ、金融資本と軍産複合体に手を出すことなく庶民の支持を取り付けるという意味でエキセン的統治を継承している一面がある。生活者の日常的困窮に対する抜本的体制変革の政策を過激で極端なものとして排除するありとあらゆる思惑のアマルガムがエキセン体制を形成しているのである。
【参考文献】
酒井隆史『賢人と奴隷とバカ』亜紀書房2023年/スラヴォイ・ジジェク『戦時から目覚めよ』NHK出版新書2024年/同「ポピュリスト右派とウォーク左派の共謀」(ハンギョレ新聞2024年7月15日)/チャルマーズ・ジョンソン『帝国解体』岩波書店2012年/ジョセフ・E・スティグリッツ『世界を不幸にするアメリカの戦争経済』徳間書店2008年/トマ・ピケティ『資本とイデオロギー』みすず書房2023年/水野和夫『シンボルエコノミー』祥伝社新書2024年/
森元斎『死なないための暴力論』集英社インターナショナル新書2024年
世界を揺るがした1968年革命の再評価
西側主要国でエキセン体制が連綿と継続した戦後世界において、ひとつの画期をなしたのが1968年である。エマニュエル・ウォーラステインは「1968年の世界革命は、地域によって多様な形態をとって発現したが、そのなかには、むろん資本主義の文明と、それを直接、中心になって支えてきた構造である世界システムにおける(中略)アメリカ合衆国のヘゲモニーに対する叛乱があった」とし、「これらの事件は、広い範囲で国家構造そのものの正統性を認めること(中略)に、はじめて本格的に異議を唱えたものであり、いわば破裂とでもいうべき出来事であった」と位置付けている。酒井隆史もまた「グローバルな管理体制をトータルにくつがえしたのが、1968年の世界的反乱である。それは、東西南北あらゆる諸社会で、独自課題と国際的課題を交錯させながら展開していったが、共通の地盤として、上から管理された変化に対する拒絶があった」と述べている。これらの見解に共通するのは1968年革命とは資本主義の根本矛盾と正面から対決する政治闘争であったということだ。
日本の1968年は全共闘・反戦青年委員会を中心に、あれこれの政治党派の枠組みを超えた闘争として展開されたが、東大全共闘の代表で会った山本義隆は「自立した思考の放棄と社会的な価値判断の停止が、いまでは「学問の政治的中立」として学問する人の脱イデオロギー現象を進めている」として「学生の闘いを無視し、また弾圧してきたことを何一つ反省せず、「ファシズムもやらなかった」と泣き言を並べた高名の教授対比するとき、若手研究種は、荒々しく厳しい知性の復権をかちとった」「東大闘争は帝国主義国家の知的中枢に位置している精神のゴミダメ的な東京大学の腐敗の中で、攻撃的知性を復権させる闘争であった」と体制内化した大学教授を厳しく批判しつつ東大闘争の意義を語っている。
山本のいう高名の教授とは丸山眞男である。丸山は日本の中間層を小資本家、小地主、小役人などからなる社会層と都市サラリーマン、ジャーナリスト、大学教員などからなる社会階層に二分類し、前者を疑似インテリゲンチャと規定して日本ファシズムの社会的基盤と断じ、本来のインテリゲンチャとされる後者は戦争を止められなかった悔恨共同体として戦後民主主義の担い手となったとしている。ここには、象牙の塔の高みに立つエリート主義が顔を覗かせており、こうした観点から述べられる民主主義永続革命論には、多数者の統治とは裏腹な既存資本主義システムの「永続」をもたらしはしないかとの疑念をぬぐい得ないのである。
絓秀実は、丸山らの悔恨共同体に主導された戦後民主主義に関わって「全共闘の言う「戦後民主主義批判」が(中略)戦後民主主義それ自体が「戦時体制」を意味するものだという認識からの批判だったとすれば、ヴェトナム反戦闘争は単なる傍観者の良心の疚しさから発するものではありえない。それは、兵站地域たる福祉主義国家の「豊かさ」が、それ自体として戦争状態そのものであるという認識からする運動であり(中略)「国家に対抗する」戦争という側面をはらまざるをえないものであった」と述べている。全共闘運動は「戦後民主主義が使嗾したリベラリズム政策」が誕生させた偽りの真理の園の仮面を暴き、欺瞞的大学の自治に大学解体のスローガンを対置したことにより、資本主義の根本矛盾を標的とした闘争となった。またそれ故に、大学キャンパスや学生層という領域を超えたカウンター・カルチャーを社会に浸透させてゆくことともなったのである。
カウンター・カルチャーは資本主義の根本矛盾を覆い隠す伝統や慣習を打ち破り本源的自由権を奪い返す運動であった。自由権とは移動の自由、指図されない自由、体制選択の自由を文化的生存権とともに何人も生得的に有しているとする理念であり、この自由権の普遍性こそが平等の本質である。1968年の世界革命は、平等のあり方を計量可能な諸要素に還元し、分析加算的な均等や均衡を追求する平等概念を根底から覆し、自由権の普遍性を開花させる知的な転換を進めるものであった。
【参考文献】
エマニュエル・ウォーラーステイン『世界システムとしての資本主義』岩波書店1997年
酒井隆史 前掲書/絓秀実『革命的な、あまりに革命的な 「1968年の革命」史論』作品社2003年/山本義隆『知性の叛乱』神無書房 前衛社1969年
反知性主義の台頭?
資本主義の根本矛盾に抗う革命には、当然、資本の反革命が対応する。それはTINA(他の選択肢はない)を掲げたサッチャーの新自由主義政策であり、今日的にはネオリベ挫折後を継承した右翼ポピュリズム運動である。右翼ポピュリズムに対しては反知性主義という批判がしばしばみられる。確かに、日本における侵略戦争の加害性を頑なに否定する歴史修正主義や人種差別を煽るヘイトスピーチ、あるいはSNSを介して理性よりも情緒に訴える政治宣伝手法などは、実証的根拠を軽視する社会の病理ともみなしうるものだが、それらを反知性主義として括ることは誤用ではないにしてもあまりに一面的である。
反知性主義という概念を最初に用いたのは米国思想史家のリチャード・ホーフスタッターである。ホーフスタッターによれば(アメリカの)反知性主義の原点は宗教的確信に根差したラディカルな平等主義にあり「反知性主義は、思想に対して無条件の敵意をいだく人びとによって創作されたものではない(中略)反知性主義者は通常、思想に深くかかわっている人びとであり、それもしばしば、陳腐な思想や認知されない思想にとり憑かれている。反知性主義に陥る危険のない知識人はほとんどいない」「反知性主義がわれわれの思考方法に強い影響をあたえたのは、多くの人間的で民主的な感情を人に植えつけた福音主義の信仰から力を得たからである」としている。
森本あんりはホーフスタッターの議論を敷衍して「本来「反知性主義」は、知性そのものではなくそれに付随する「何か」への反対で、社会の不健全さよりもむしろ健全さを示す指標だったのである」と述べる。反知性主義にも肯定的側面があり得るというのは、例えば、厳密には区分できないが、「反知性主義」を反「知性主義」と「反知性」主義という二つの部分に切り分けて考えてみたとき、反「知性主義」には知識や情報を独占して俗人を見下すエリート官僚支配に対する批判の、そして「反知性」主義には技術進歩ですべての障壁を克服できるとする科学万能思想への批判の側面を見ることもできるからである。
そのように考えるならば、問題は反知性主義の台頭ではなく、知性の劣化であろう。先に引用したジジェクやピケティの言説を想起するならば、知性の劣化は、単に右派ポピュリズムの専売ではなく、資本主義の根本矛盾を等閑視して、結果的に右派との共謀により体制を支えている左派・リベラルにも同様に生じているのである。左派・リベラルの知的荒廃は、格差や貧困に喘ぐ大衆の怨嗟を右派ポピュリズムが組織することに大いに貢献していると言わねばならない。
【参考文献】
内田樹「反知性主義者たちの肖像」(『日本の反知性主義』晶文社2015年)/リチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』みすず書房2003年/森本あんり『反知性主義』新潮社2015年
創造的知性の復権と知識人の役割
どの時代においてもそうなのだが、とりわけ知性劣化の時代においては知識人の責任が問われる。現代に求められる知性とは、そして知識人とは何か。数理経済学、金融工学あるいは原子物理学、生命科学、それが何であれ個別専門分野の知識(knowledgeあるいはinformation)に通暁しているだけではいわゆる「専門馬鹿」に過ぎず、知識人(intellectual)ではない。しばしばこうした「専門馬鹿」の類が知識階級(intelligentsia)を気取って専門外の諸問題に関して知性(intellect)を欠いた虚言を吐き、マスメディアがそれを拡散して人々が軽信してしまうという現象が生じている。
理科系の分野のみならず人文系の専門家(professional)が引き起こす混乱もまた深刻である。これら専門家の見解と称するものは情報機関(intelligence agency)によって恣意的プロパガンダとして再構成され、人々を特定の方向に誘導することに利用されている。こうしたプロパガンダは、しばしば情報機関が画策するまったくの捏造に過ぎない情報操作と車の両輪をなして権力に好都合な世論を形成してゆく。現体制が持続可能なのは、支配収奪の構造を意識に上らせないための宣撫・教化を旨とする教育、メディアから司法にいたる情報操作と警察力・軍事力など暴力装置によって、意識的に抵抗する運動を鎮圧することによってである。
長期にわたって知識人についての考察を続けたアントニオ・グラムシは、知識人を聖職者に代表されるような、既存体制の中で特権的な地位を与えられ、体制擁護のイデオロギーを提供する伝統的知識人と、工業社会における社会集団に対して経済的、社会的、政治的各分野で、集団の等質性と固有の役割について自覚を促す有機的知識人に二分類し、労働者階級が階級闘争のヘゲモニーを確立するには独自の有機的知識人を育成する必要があると考えた。
エドワード・W・サイードは、レジス・ドブレがフランスの知識人について述べた一般論は有効であると述べた上で「制度的諸機関が栄枯盛衰をくりかえすにつれて、有機的知識人-アントニオ・グラムシの便利な言葉を使わせてもらおうーもまた、栄枯盛衰をくりかえすのである」とし「現代の知識人は、アマチュアたるべきである。アマチュアというのは、社会の中で思考して憂慮する人間のことである」「アマチュアリズムとは、文字どおりの意味をいえば、利益とか利害に、もしくは狭量な専門的視点にしばられることなく、憂慮とか愛着によって動機づけられる行動のことである」との認識を示している。アマチュアとは、簡単にいえばプロ・レイバーのことだ。
ノーム・チョムスキーは「知識人の責任について考える場合には、イデオロギーを生み出し、それを分析する役割を果たすという点に、基本的な関心が向けられなければならない」と述べ、ダニエル・ベルの『イデオロギーの終焉』における、知識人(専門家的学者)のコンセンサスがイデオロギーを死に至らしめたとの主張に対し「知識人のコンセンサスがどれくらい彼らの自己利益のために有益かを明らかにしていない」「彼らが福祉国家の運営の中でますます顕著な役割を演じているという事実に結び付けていない」「コンセンサスが、社会は転形されるべきだという観念を拒絶する形で成立しているということを、真剣に論証しようとしていない」と批判している。
「期待される知識人像」が見えてきただろうか。今から30年ほど前、戦後50年の節目を迎えるころに加藤節は、思想のモラルを否定する風潮が広まっているとして「「歴史の渦」への適応をリアリズムの名のもとに正当化し、原理への執着をドグマティズムとして切り捨てる傾向がますます強まっているように思われるからである。特定の価値に敢えて与し続ける思想のモラルの解体が異論の不在を生むことによって思想の翼賛体制に結びつく」と書いた。それは後知恵で振り返れば失われた30年の起点にあたる時代であり、加藤が危惧した通りの時代の幕開けでもあった。加藤の言う思想のモラルはサイードの、利益とか利害にしばられない態度にも通じる。戦後80年を経て、失われた30年に続く次の30年は知識人が存在意義を示せなければ滅びへの一本道となろう。滅びの顛末を筆者が見とどけることは叶わないかも知れないが、案外早く最後の審判が下ることもあるかも知れない。しかしそれは、決して避けることのできない運命ではない。
モラルあるアマチュアとしての知識人は、資本主義に代わる新しい社会への道筋を、大衆的な行動規範として描き出すことにより、創造的知性の復権という歴史的使命を果たさねばならない。
【参考文献】
加藤節『政治と知識人』岩波書店1999年/アントニオ・グラムシ『グラムシ「獄中ノート」著作集Ⅲ』明石書店2013年/エドワード・W・サイード『知識人とは何か』平凡社1995年/ノーム・チョムスキー『知識人の責任』青弓社2006年
はやかわ・ゆきお
1954年兵庫県生まれ。成蹊大学法学部卒。日産自動車調査部、総評全国金属日産自動車支部(旧プリンス自工支部)書記長、JAM副書記長、連合総研主任研究員、日本退職者連合副事務局長などを経て現在、労働運動アナリスト・日本労働ペンクラブ会員・Labor Now運営委員。著書『人間を幸福にしない資本主義 ポスト働き方改革』(旬報社 2019)。
特集/混迷の世界をどう視る
- 政党政治のグローバルな危機の時代法政大教授・山口 二郎×中央大教授・中北 浩爾
- 日本は知識経済化ーイノベーティブ福祉国家へ慶応大学名誉教授・金子 勝
- トランプ2.0、パワーアップの秘密を暴く神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長・橘川 俊忠
- 立憲民主党は政権運営の準備を急げジャーナリスト・尾中 香尚里
- どこへ行くか 2025年のヨーロッパ龍谷大学法学部教授・松尾 秀哉
- ショルツ政権の崩壊とポピュリズム下の総選挙在ベルリン・福澤 啓臣
- 追加発信韓国の「12・3戒厳」は、違憲で違法の内乱聖公会大学研究教授・李昤京
- 創造的知性の復権労働運動アナリスト・早川 行雄
- 時代の転換を読む(上)――少数与党自公政権に売り込み競う維新と国民民主大阪公立大学人権問題研究センター特別研究員・水野 博達
- 労働基準法体系の解体を許すな!全国一般労働組合全国協議会 中央執行委員長・大野 隆
- 昭和のプリズム-西村真琴と手塚治虫とその時代ジャーナリスト・池田 知隆
- 『現代の理論』とアリスセンター近畿大学経営学部教授・吉田 忠彦
- 追加発信時代の転換を読む(上)――少数与党自公政権に売り込み競う維新と国民民主大阪公立大学人権問題研究センター特別研究員・水野 博達