論壇

テキヤ政治家・倉持忠助の「電力問題」(上)

下谷山伏町から生まれた「生活即政治」の闘争

フリーランスちんどん屋・ライター 大場 ひろみ

ちんどん屋楽士からの宿題

これまで度々引用してきた、ちんどん屋楽士・中沢寅雄の手記だが、この中にとても気になるのに、きちんと検証してこなかった記述がある。

「帝都音楽囃広告業組合結成、昭和十一年二月二十六日。二・二六事件の夜大雪となる。組合長倉持忠助、下谷区山伏町(今は台東区)。
 東都広告業組合結成、昭和十一年二月二十八日。組合長鳩山一郎、小石川区音羽(文京区)。
 倉持氏鳩山氏東京市議会に立候補当選。当時チンドンマンの数三千人と推定(ビラ配り旗持ちは別)。」

またその少し後の記述に重複した内容がある。

「昭和七年・・・十三年当時東京市内のチンドンマン約三千人と推定(ビラ配り旗持ちは別)。それに目をつけたのがテキヤ親分倉持忠助、組合を結成、発会式は昭和十一年二月二十六日、下谷鬼子母神社(朝顔市で有名)の近くのクラブで行われた。前後して鳩山一郎氏市議会に立候補、東都広告業組合結成。我々は倉持忠助氏の応援で一日五十銭の日当で手伝った。」

つまり、倉持忠助という「テキヤ親分」が、ちんどん屋の組合を結成して選挙利用したというのである。

この記述には多分記憶の錯綜の結果、すこぶる間違いが多いのだが、その検証は後にゆずるとして、この倉持忠助という人物、テキヤで政治家で、ちんどん屋まで組織するとは、なかなかユニークではないか。もう少し詳しく知りたいと思っていたが、これまで演歌師・添田唖蝉坊の息子の知道が、いくつかの著書(『演歌師の生活』『てきやの生活』雄山閣刊)で書いた以外、あまり文献がない。他には大岡聡が、倉持忠助が実質上の発行者であったと思われる「上野浅草新聞」というタブロイド紙などを分析して、『「普選節」の時代 てきやデモクラット倉持忠助伝』を、1994・12~1995・11月号まで『東京』(月刊『東京』編集部)という雑誌に連載している。

大岡聡の仕事からは、彼のデモクラシー思想やそれに基づいた行動について知ることは出来るが、その具体的な人と成りについては、いまだ本人と活動していた添田知道の描いた以上のものはない。

だいたいちんどん屋とかテキヤ、演歌師のような、職業として常識的なカテゴリーから外れるジャンルに関しては、好奇の目で興味を持たれることはあっても、正確を期して書き残したり、ましてや歴史の中に位置づけようとする試みなど稀である。添田啞蝉坊・知道は演歌師として、親子で生きた自分たちの営みを内側から記録し、資料を意図をもって整理し保管した類のない功績で知られている。大岡聡はテキヤ・演歌師で政治家という倉持忠助の特異な位置に惑わされることなく、大正デモクラシーの延長と庶民史の両面を併せた客観化に成功している。

つまり、ちょっとかじっただけで、特にもう私のような外野が何か付け足す事柄など残っていないことが知れてしまうのだが、それでも多くの人は、倉持忠助のことなど耳にしたこともないわけだし、それに加えて、彼のこだわった「電力問題」が、テキヤの電力確保から発して、電力の生産方法やそれを取り巻く利権に関して切り込んだ、地に足のついた上に先見の明ある取り組みだと思われたので、人物の紹介と、思想と行動を電力関係に絞って考察してみることにした。

まず、主に知道の記述に沿って倉持の生い立ちを追ってみる。

苦学生の「書生節」

倉持忠助は1890(明治23)年7月9日、茨城県取手谷井田村に生まれたが、家の没落で10歳そこらから3度奉公に出され、逃げ帰ったりしている。勉強したかった彼は上京して、鉄工場に勤めたり横浜で船員になったり、靴工場で働いたりした。新聞配達になって、研数学館(数学)や正則英語に通った。いわゆる苦学生である。似たような新聞の売り子をしつつ夜は研数・正則に通ったといえば、関東大震災直後の1923年9月3日、朴烈と共に検束され、冤罪で死刑判決を受けたアナーキストの金子文子が浮かぶ。時代はずっと後になるが、彼に続く苦学生(ほとんどが男)の群れに17歳の彼女もいたのだ(『何が私をこうさせたか』岩波文庫)。同じ苦労をするなら、都市に流れ込んで勉学して身を立てたい、自我の覚醒といえば聞こえがいいが、地方でもがく青年が、あわよくばと立身出世を目指して出ていく、その象徴が苦学生であり、明治末から大正にかけて都会にあふれた。倉持自身にいわせれば、「当時は苦学という言葉が大流行の時で、猫も杓子も苦学生」(『演歌』青年親交会3周年記念号掲載の倉持の文より『演歌師の生活』内)。

倉持の同文によれば、1908(明治41)年4月、初めて街頭に立ち、苦学生の「書生節」の仲間入りをする。当時苦学生が多くアルバイトとして、路傍で歌を歌って唄本を売っていた。学生でもないのに格好ばかり角帽を被ったり袴をはいたりして苦学生然として商売をする者もいたようだが、これを「書生節」と呼ぶようになった。

「書生節」とは、書生(苦学生)がやっているから書生節とそれを見た側がいうので、現在ではこの街頭で歌を歌って唄本を売る人々の歌、または行為を「演歌」と総称する(現在の歌謡曲の1ジャンルとしての演歌とは別のカテゴリー)。「演歌」の歴史的流れを総括したのが細川周平(『近代音楽の百年第1巻』岩波書店刊)で、「演歌の先駆とされるのが明治20年代の壮士読売で、壮士とは自由民権運動の一種の宣伝業、読売とは盛り場や縁日・市場などに立って瓦版、新聞を読んで売る実演の新聞・ラジオのような連中のことで、壮士読売は民権思想と大道歌謡の出会いの点にあたる。」と簡潔に説明する。

この稼業における倉持の最初の師匠は、読売の流れを引く「ヨミ」(“くどき”や“一つとせ”という曲調に合わせて版元から仕入れた時事ネタの歌詞を歌う)をやるテキヤの女房、通称“渋井のばあさん”だった。この師匠に連れられて引き合わされたのが、例の添田唖蝉坊であり、この頃は演歌師の親分のような存在だった。唖蝉坊は「社会活動家」でもあったので、倉持は唖蝉坊に連れられて行った会合などで堺利彦や大杉栄などにも会うようになった。「社会活動家」とは知道の謂いだが、唖蝉坊は社会批判の演歌で民衆を扇動する活動家として警察から尾行をつけられており、1907年、北海道を社会主義者の演説会に同行して旅したこともある(「社会主義者沿革第1」『続・現代史資料1』みすず書房刊)。唖蝉坊を、庶民の体制への怒りを代弁したイデオローグとして捉える人もいるが、歌あっての行動であり、主義の実現などの目的が上位にあるとは思えない(演歌師とイデオロギーに関しては後述)。

ともかく、「ここに忠助の、学校以外の勉強がはじまった。社会科学をかじった」(知道)。倉持にとっては、社会主義者から影響を受けたことにより、後の政治活動につながる知識の下地ができた。

また、どういう経過でいつ頃からかはわからないが、香具師との付き合いも始まった。演歌師とテキヤ(香具師)は別ものである。テキヤは独自のしきたりや組織、なわばりを持つが、演歌師はどれも持たない。だが、演歌師はテキヤの縄張り(縁日や路上の行商など)の端に立って歌うことが多く、それが人を集めたことからテキヤにも一目おかれ、交流が生まれた。倉持自身は、そもそも最初の師匠である“渋井のばあさん”がテキヤの女房だし、様々な接点があったことは想像にかたくない。彼はやがて、テキヤの組織である飯島一家の山田春雄の弟分になる。小柄だったが、めっぽう勝ち気で喧嘩も強かったというからその性質も買われたのだろう。

組織づくり

ところで、「壮士節」から「書生節」への流れは、歌い手に苦学生が多くなったことから呼び方が変化したというだけではない。倉持によれば、「互に勉強もし、節操も重じ、情義にも厚かった」真面目な苦学生から、「其後間もなくヴァイオリンを持つようになった、同時に其質において非常に下落した」。ヴァイオリンを使い始めたのが演歌師の神長瞭月で、ヴァイオリンの伴奏による哀調を帯びた歌詞とメロディーが受けて、続々とみな、素人も紛れ込んでヴァイオリンを持つようになった。世間では苦学生に対する同情の目も覚め、堕落書生とか呼ばれて貶められるようになったのと、下手なヴァイオリンの書生節が耳障りな鋸の目立てとか非難されるようになったのが同時期だ。「しかし花柳の巷へ入ると楽器使用以前よりズンと大もてであった。花柳界でもてるという事が不真面目な分子の発生を助長した」。これには歌われる曲の変化も関係している。同じメロディー(『欣舞節』や『愉快節』など)に歌詞だけ替えての無骨な社会批判や時事ネタから、歌詞は紅涙をしぼる感傷的なものやユーモラスな笑いなど、乗せる曲は3拍子や外国のリズミカルなものなど、多様性に富むようになった。後に国策パルプを起こした実業家・南喜一も苦学生の演歌師だったが、この頃「演歌師の歌う歌も、初期の政治思想の浸透を図るためという演説代わりの歌から、女たちの人気を呼ぶ恋の歌、つまり艶歌に変わっていったのだった」という(自伝『ガマの闘争』蒼洋社刊より 「艶歌」の表記と歌の変遷については諸説あり)。亜蝉坊も『天然の美』のメロディーに乗せて湿った歌詞の『金色夜叉』を歌って流行らせている。

しかし「真面目な」古い演歌師は、不良分子のため、自分達まで官憲に取り締まられるなど、面白くない。そこで、悪質業者との差異化を図るため、有名無実化していた演歌師の団体名を通して呼びかけた。

この演歌師の団体とは「中央青年倶楽部」(最初は「青年倶楽部」。青年倶楽部が多数現れたため中央を付けた)。知道の本に引用された久田鬼石(『ヤッツケロ節』や『無茶苦茶節』など、多くの壮士節の作者)の手紙によれば、1890(明治23)年、演歌師が集まって創設し、唄本を刷って収入を得たが、星亨や板倉中などの政治家の応援などもしたようだ。知道の補足によれば、メンバーは久田ら、30人余りが常駐で、出入りの者も大勢いた。唖蝉坊は後から仲間入りした。これが演歌師の組織の嚆矢かどうかはわからないが、演歌師が職業化するにつれて、業界としてのまとまりと収入の確保が必要になってきたためと思われる。

収入とはすなわち唄本の売り上げである。この唄本の版元をネタ元といったが、明治末期頃、それを岩田という団子屋が独占していた。団子屋がネタ元になった事情ははぶくが、この団子屋が誰にでもネタを売る。性悪な者に部屋と演歌の商売道具一式を貸していて、この連中の中に女性を売り飛ばして儲ける者もいた。そこで風紀を正すべく、長尾吟月、倉持忠助、小林幽汀、石川曲峰などが改革運動を呼びかけた。「中央青年倶楽部」名義で、唄本の表紙に口上を刷り込んだ。「吾々同人は、貧生多く、小資本家の為めに自由にせられ、…彼等我利々々主義の為めに、種々の人物を含入し、時々新聞の三面子を煩わすが如き事出来せり」。だから「一大刷新を企てんとす」と吠えたのが1911(明治44)年12月。たかが団子屋が敵の小資本家だというのだから、彼等の「貧生」ぶりがよく分かる。だいたい元々の演歌師(壮士)が、そんなに「真面目」だったかどうかはすこぶる疑わしい。要は唄本という利権と、自分達の歌う正当性を巡る争いである。しかし風紀を正す者の中に倉持の名があったことに注意されたい。

1913(大正2)年(知道による。倉持によれば1914年)に、「日本俗謡会」(ネタ元)を倉持が中心になって結成したが、翌年にあっけなく解散している。なかなかまとまらぬのがこの世界の習い。唖蝉坊に言わせれば、「悪い意味の放浪性、無責任な懶惰者の集りには、単なる職業的団結すら望まれなかった」(『唖蝉坊流生記』那古野書房刊)。

「放浪」というのは、街中のどこそこで歌を歌うという意味の他に、実際に地方を巡行して商売をすることも指す。唖蝉坊も前述した社会主義者との同行の他に、名古屋や関西を廻りテキヤの世話になったりなどしている。倉持も東京を出てあちこち巡り、人脈と見聞を広げていった。1918(大正7)年には大阪に落ち着く。大阪には秋山楓谷や井出五郎、豊中楠之介などの演歌師たちがいた。

同じ年の5月2日、東京で清水頼治郎と安田俊三が声かけし、唖蝉坊が会長として担がれて「演歌組合青年親交会」が結成された(「特別要視察人状勢一覧第9」『続・現代史資料1』)。資金繰りに苦労しながら、会の主旨(小資本とニセ演歌家に侵害さるることの不平―奪われたるものを奪い返せ)を序文に載せた唄本を印刷した。赤本屋(本をパクッてまがいものを売る業者)にネタを売り飛ばす同業者や唄本の発禁処分(女工の搾取を歌った『四季の歌』や米も食えないと歌う『豆粕ソング』など)にも苦しめられたが、発行し続けた。『演歌』(後に『民衆娯楽』と改名)という機関誌も出して演歌師の地位向上を図った。さらなる成果は、警視庁から読売業として公認を受けたことだろう。1920(大正9)年9月、「読売業取締規則」によって、届け出をし、許可証を得た者は、検印を受けた冊子を商ってもいいことになった(二重作兼蔵『ポケット警察』警友協会刊によるもの。細川によれば1919年)。お上に苦しめられながら、自分達の正当性をお上に守ってもらおうというのは、彼ら(というよりは添田親子))の主義主張の理想と商売人、生活者であるという側面の矛盾を示している。

この青年親交会の発足と発禁処分について記した『特別要視察人状勢一覧第9』には、並んで倉持の動向も記してあるが、それによると、1919(大正8)年12月から1月にかけて、兵庫県下において唄本に書かれている歌の合間に発禁処分の『四季の歌』をヴァイオリン伴奏で、「各地に於て労働者の通行頻繁なる場所に於て之を宣伝するものと認めらる」。倉持は「大正8年12月9日に乙号に新入」、つまり尾行付きに指定される。

それに遡る1919(大正8)年3月、大阪に移っていた安田俊三の示唆によって、大阪でも「演歌青年共鳴会」を結成。その中心に倉持がいた。「倉持忠助秋山米太郎(注:楓谷)等は大阪歌本読売者40余名相図り旧悪なる弊習を矯正し業務向上発展と相互救援の目的を標榜して『演歌青年共鳴会』なるものを組織し大正8年3月1日発会式を挙げたるか倉持は会長と為り秋山は顧問に安田俊三は理事となり…」安田が唖蝉坊と組織した「演歌青年親交会」とも連絡を取って「各地を徘徊読売に託し主義の宣伝を為す疑ある者なり」(『特別要視察人状勢一覧第9』)。

このように倉持の、組織づくりに関心があるというところ、また風紀を正す、或いは利権獲得に熱心なのか、ぶっちゃけ親分風を吹かすのが得意なのかは分からないが、後の政治家になる資質はここに現れている。

普選節

この年、ニッポノホンレコードで、秋山楓谷(要視察人指定)・静代夫妻によって『デモクラシー節』(『普選節』)が吹き込まれる。この日付も『特別要視察人状勢一覧第9』の「秋山米太郎は大正8年7月27日神奈川県川崎町所在日本蓄音機商会工場に赴き蓄音機に歌謡の吹込を為したるか」の記述で知られる。この時ついていた尾行、「鳥打ち帽をかぶった変な男」を、ニッポノホンの初期演歌吹き込み担当だった森垣二郎が目撃している(知道『演歌師の生活』)。

『状勢一覧』ではご丁寧に歌詞まで載せてくれている。

「普選節
 労働神聖口では讃めて/オラに選挙権なぜ呉れぬ/ヨイゝゝデモクラシー
 稲は誰が刈る木は誰が樵る/前号末段を繰り返す(オラに選挙権なぜ呉れぬ/ヨイゝゝデモクラシー)
 石炭掘りゃこそ機械が動く/右同
 血潮流して連隊旗染めて/右同
 軍艦敲いて進水さした/右同
 親の脛かむ藪蚊に呉れて/右同
 汗から絞らぬ租税があるか/右同
 何処の桜でも東風吹きゃ匂う/右同
 雲雀鳴いても天までとどく/右同
 万機公論と宣うじゃないか/右同」

メロディーは『デカンショ節』で、作詞者は倉持愚禅、こと倉持忠助だ。作られたのは米騒動などもあった1918年ではないかと思われるが、普通選挙を求める声の高まりに乗った歌だ。同じ『デモクラシー節』が啞蝉坊にもあり、知道は「東京・大阪でこんな二様の『デモクラシー節』があったほどだ」(『演歌の明治大正史』)と書いているので、倉持は大阪でこれを作ったはずだ。

後のコピーライターのような、時代をつかみ取るセンスのある唖蝉坊の弟子としては、あまり鋭いとも思われぬ歌詞だが、「オラに選挙権なぜ呉れぬ/ヨイゝゝデモクラシー」のリフレインが口にのぼせて心地よい。この歌が1920(大正9)年2月22日の芝公園で行われた普通選挙の実施を求める普選大懇親会で、2万の群衆によって「オラに選挙権なぜ呉れぬ」と大合唱されたという(東京朝日新聞1920年2月23日朝刊)。

同新聞によれば、午前10時から東京市内各地に集合した各団体が芝公園を目指して行進する。会場では、学生に化けてもぐり込んだ刑事が胴上げされ演壇に担ぎ上げられる、各所で「政友会(普選尚早派)の犬」「殺せ」の怒号が挙がるという殺気立った状況の中、「吾人は協力一致本議会(ママ)に於普通選挙の達成を期す 全国普選連合会」(『決議文』国会図書館デジタルコレクションによる)と決議文が読み上げられると「会場は全く熱狂した民衆の鬨の声で占領されてしまった」。群衆を前に演説していた島田三郎衆院議員が赤心団の刺客に短刀で襲われそうになり、これに怒り狂った普選派の民衆が暴漢を半殺しにする騒ぎ。一方上野両大師(輪王寺)会場にも各団体が集まり、集会。路上で刺された土工総同盟の白石理事長が、血まみれの印半纏で「一個の白石は死んでも背後には沢山の会員がある」と怒号。上野から芝公園を目指して行進し、万世橋にかかる頃には7千人に膨れ上がり、やがて閉会した直後で大混乱の芝公園に到着。すると突然突撃ラッパが鳴り響き、群衆の一部は「原内閣弾劾」の血書の旗を掲げ首相官邸を目ざす。民衆は警察の非常線を崩壊させ官邸前に詰めかけたが、数十名が堀に突き落とされた。正力(松太郎)刑事課長は学生1人を連行、警官隊は残った群衆の1人をねじ伏せ暴力をふるうなどしたので次第に沈静化した。出動した警官3千数百。愛宕署に検束された者約百名。その所属は学生連盟、小石川労働会、鉄工、車夫、電工、車掌、土工など。この普選運動の盛り上がりが、インテリや中間層の人々のものでなく、今や無産階級を中心にした一般大衆から起こったものだという証である。

何度も起ち上がっては潰されていった普選運動が、1925(大正14)年両院可決、普通選挙法が成立するまでの長い道程の一つだった。

おおば・ひろみ

1964年東京生まれ。サブカル系アンティークショップ、レンタルレコード店共同経営や、フリーターの傍らロックバンドのボーカルも経験、92年2代目瀧廼家五朗八に入門。東京の数々の老舗ちんどん屋に派遣されて修行。96年独立。著書『チンドン――聞き書きちんどん屋物語』(バジリコ、2009)

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