特集 ● どう読むトランプの大乱

労働問題は高校でどう教えられているのか

高校「公共」教科書を読む

元河合塾講師 川本 和彦

1 はじめに

 合理化を 進めてわかった 俺が無駄

第一生命が募集した「サラリーマン川柳」入選作の一つである。笑えそうで笑えない、切なささえ感じる作品だ。ま、高校生だとピンとこないだろうな、幸福なことに。とはいえ、アルバイトをしている高校生はもちろんだが、そうでない高校生もそのほとんどが(全員とは言わない理由は最後に記す)将来、労働という場に踏み込むこととなる。労働問題について、高校の教科書はどのような記述をしているのだろうか。

ここでは、比較的新しい問題といえる「働き方改革」について考察したい。

2 働き方改革関連法の内容

最も詳しい説明をしているのは、東京書籍『公共』である。2018年成立の働き方改革関連法については、以下の記述がある。

〈・時間外労働の上限規制
 月45時間以内、年360時間以内が原則(特別な事情がある場合でも月100時間以内、2〜6月平均80時間以内、年720時間以内)
・勤務間インターバル制度
 前日終業時刻と翌日始業時刻の間の確保
・有給休暇取得の義務づけ
 年休10日以上ある人は最低5日以上取得〉

働き方改革関連法で最も問題がある「高度プロフェッショナル制度」に触れていないのは、残念である。触れているのは実教出版『詳述 公共』1冊のみで、それも以下の1文だけだ。

〈専門的な職種については、従来の労働時間規制の対象外とする「高度プロフェショナル制度」が導入された。〉

このような記述だと、何が問題なのかわからない。それ以前に、そもそもどういう改革なのかがはっきりしないだろう。それぞれを、もう少し詳しく見ていくことにする。

(1)時間外労働の上限規制

労働基準法では労働時間を1日8時間・1週40時間としている。労使協定(いわゆる36協定)を結べば延長することができるが、その場合でも、「月45時間・年360時間」と厚生労働省が告示していた。ただ強制力はなかった。

働き方改革関連法では、原則として「月45時間・年360時間」と明記された。繁忙期でも45時間を超えて働かせられるのは年間6か月までで、年間上限は720時間以内とされた。守っていない企業には、罰則が科せられる。ただし人手不足の建設業やドライバーなどには、適用が5年間猶予された。今やその猶予がなくなり、物流や建設現場における、いわゆる2024年問題につながった。

(2)勤務間インターバル制度

仕事を終えてから次に働き始めるまでに、予め決めた時間を空けさせて労働者の休息を確保する制度である。この制度は、EU(欧州連合)で開始された。EUでは1993年、終業と始業の間に最低でも連続11時間の休息をとるよう、域内の企業に義務付けている。

(3)有給休暇取得の義務づけ

仕事を休んでも賃金を受け取ることができるのが、年次有給休暇である。働き方改革関連法で年10日以上の有給休暇が与えられている労働者に最低5日は消化させることが、企業の義務となった。

労働者が5日未満しか消化していない場合には、日程を調整してでも消化させる義務がある。それさえ達成できない企業にたいしては、労働者1人あたり最大30万円の罰金が企業に科せられる。

(4)高度プロフェッショナル制度

年収が高い一部の専門職を、労働時間規制の対象から外すものだ。適用された場合、時間外労働や休日・深夜の割増賃金という規定から外れる。政府は年収1075万円以上を対象としている。これは管理職を含めて、全体の2.9%である。金融商品の開発やディーリング業務、研究開発業務などが想定されている。

ざっと眺めただけでは、悪くなさそうだ。高度プロフェッショナルの皆さんを除けば、全体として労働時間短縮につながるように見える。だが現実にはいくつもの罠、と言って悪ければ抜け道が仕掛けられている。

そういう問題点にまったく触れない教科書は、無責任であると思う。

3 働き方改革関連法の問題点

(1)時間外労働の上限規制

これは日本経団連自らが実施したアンケート調査で明らかなのだが、時間外労働が生じる理由は顧客対応や商慣行によるところが大である。多くの企業がサプライチェーン(供給網)の一部を担っているので、自社の都合のみで時間外労働を減らすことは困難なのだ。

企業によっては24時間、時差を超えてグローバルな対応を強いられている。取引先やライバル企業との関係で、労働時間が決められていくことも多い。個人的なことを話そう。新聞記者時代、珍しく暇な日があり、電車で帰宅できるなあと思っていたら、モスクワで反ゴルバチョフのクーデターが発生してしまった。それから外務省やら首相官邸やらを駆け巡っているうちに、もう夜明けである。これはもう、個人や会社の努力・工夫でどうなるというものではない。ソ連保守派がクーデターを起こすことを、日本にいる労働者が防ぐことはできないのだ。

また、罰則があるといっても、6か月以下の懲役か30万円以下の罰金である。何億円というビジネスチャンスがあるのであれば、罰金の30万円を払っても、長時間労働を強行することが考えられる。

さらに、時間外労働の割増賃金、いわゆる残業代が貴重な生計費として家計に組み込まれているという事実がある。大和総研の試算によると、働き方改革で時間外労働が月平均で60時間に規制されると残業代は最大で年間8兆5000億円減少することになる。この場合、手取りが月に2万〜3万円減る人が多くなる。基本給の引き上げなしに時間外労働を規制することは、家計にとって大きな打撃となる。

(2)勤務間インターバル制度

この制度は過労死対策の切り札と期待されているが、困ったことに企業の「義務」ではなく「努力義務」なのだ。「導入しようと努力はしたんですけどぉ、無理でしたぁ」と言えば許されてしまう。EUの場合は必要な休息時間が明文化されているが、日本では労使間で決めることになっている。立場の弱い労組の意向がどこまで反映されるのだろう。きわめて心許ない。

前述のように、法的な労働時間は1日8時間である。EU並みに勤務間インターバルが11時間確保されたとしても、毎日4時間の時間外労働が可能だとすると、1か月で「過労死ライン」の80時間に達することになる。

(3)有給休暇取得の義務づけ

長時間労働が人事考課のうえで高く評価されてきた企業風土を抜きに有給休暇を論じるのは、意味がない。有給休暇どころか休日返上で働くことは、単なる自己犠牲である。それが企業や上司への忠誠心として評価されてきた。滅私奉公型の働き方が評価されるといった「昭和」の慣習を破壊するためには、勤務時間内にきっちり業務をこなしてしっかり休暇をとる労働者こそが評価されるという転換が不可欠である。言い換えれば、人事評価でまともな物差しを持っていない企業があまりにも多いということだ。

(4)高度プロフェッショナル制度

本来は企業側に出社・退社時間など労働時間を記録する義務があるのだが、残業代が発生しない場合は、労働時間の管理が不徹底になりがちである。現に現行の裁量労働制ではそれが見られる。過労死しても、証明することが難しくなる。多くの労働者にとっては「年収1075万円!そんな高給取りのことなんか、知ったこっちゃない。そいつらの残業代がカットされても関係ないもんね」が本音であろう。だがこれ、他人事ではないのですよ。

2015年に日本経団連の榊原会長が、記者会見で述べている。

「高度プロフェショナルの対象が年収1075万円では、きわめて限定された社員からのスタートになります。そもそも、実効性あるものにするためには、年収要件を緩和して、対象職種も広げなければなりません。少なくとも全労働者の10%程度は適用を受けられる制度にすべきだと考えています」

全労働者の10%だとしたら対象はおよそ500万人、年収600万円程度の社員も対象となる。「高年収、高度な専門職が対象」という制度の趣旨は、確実に崩壊する。政府は法制定にあたって「時間にとらわれずに、自由度の高い働き方ができる」「仕事を早く終わらせて、家族団欒が可能になる」などとほざいていたが、何のことはない、残業代ゼロの働かせ放題が実現するだけである。

4 雇用の流動化

「政治改革」「構造改革」‥‥私たちはこれまで、「改革」という2文字にあまりにも惑わされてきたのではないだろうか。もちろん、「すべて昔は良かった」と呟くノスタル爺になるつもりはない。先に触れたように、滅私奉公を美徳とするような価値観は願い下げである。とはいうものの働き方改革に関して、政府が「雇用を流動化させる」「日本的雇用システムを見直す」と宣言したのには同意できない。

雇用の流動化とは、人材の争奪戦が激化することを意味する。有能な人材を獲得するためにも、あるいは社内から優秀な人材が引き抜かれることを防ぐためにも、一部の労働者に非常識な高給が支払われることになる。一方で企業は、終身雇用を前提とした教育訓練や能力開発をしなくなる。来年はいなくなるかもしれない労働者に投資しても、元が取れない恐れがあるからだ。

これでは、仕事の能力がまだ身についていない若年層が圧倒的に不利である。十分な訓練を受ける機会がなくなり、仕事上のスキルアップができない。そうなると企業からいつリストラされるかわからない。転職するのも難しいだろう。

5 生産性の低下

つまりは負の連鎖であり、格差はますます拡大する。このような能力開発の停滞は長期的に見て、生産性の低下につながる。OECD(経済協力開発機構)のレポートによれば、アメリカやイギリス、メキシコなど多くの国で、経済の格差が経済成長率の低下につながっている。反対にフランスやスペインなどは、格差縮小が1人あたりのGDP成長に貢献している。

格差が広がって貧困層が増えた国では、中・下層の教育と職業訓練が不十分になり、生産性が下がって経済成長を押し下げることになった。財界のおエライ方々は、せっせと墓穴を掘っていることになる。まあ、おエライ方々は若い人より先に現実のお墓に入るだろう。でも、もっと長く生きる若い世代が財界人の掘った墓穴に落ち込むことがあってはらない。

6 財界への援護射撃

高校教科書にはせめて、墓穴の存在を教える役割を果たしてほしいものである。だが、期待はできない。東京書籍『公共』に、こういう記述があった。

〈近年では、たとえばプログラマーやデザイナーなど高度な専門性を持つ個人が、企業から独立して開業するケースも注目されている。このように、職業選択の機会も多様化し、また、起業やフリーランスなど、雇われない働き方を選ぶ人も少なくない。〉

カタカナ職業をかっこいいとするセンスの悪さが目につくが、最大の問題は雇われない生き方を「選ぶ」のか「選ばされているのか」にまったく触れていないことである。これに続けて以下の記述が続く。

〈AIの進化をはじめとする技術革新などによって、将来の職業労働のあり方が大きな変化にさらされる可能性もある。そうしたなか、私たちに求められるのは、組織に頼りすぎない自律的なキャリア形成である。〉

いい齢こいたおじさん・おばさんである執筆者が「私たち」とのたまうのも、ふざけた話である。「組織に頼りすぎない自律的な」という表現は、自己責任を強調する新自由主義そのものであり、財界への援護射撃とみなされても当然であろう。

7 おわりに

労働問題はこれ以外にも、正規/非正規の格差や女性・障がい者の雇用、外国人労働者など幅広い内容を持つ。

「現代の理論」からも学んでいきたいと思う。

 

最後に申し上げたい。

良心的な教員ほど、生徒が社会人になってからのことを考えて授業をするだろう。一般的な理解として、社会人とは専業主婦(主夫)を含め何らかの形で働いている人である。だが心身の障がいなどで、働きたくても働くことができない人が一定数いるのも事実だ。労働問題を論じる際に、そういう人の存在を考慮することも必要なのではないだろうか。

かわもと・かずひこ

1964年生まれ。全国紙記者、予備校講師を経てフリーランス校閲者。日本ブラインドマラソン協会会員。

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