論壇
寄稿――『朝日新聞』が記事で「先住民族」を「先住人民」と表記
「民族性を否定された」と琉球民族ルーツの研究者ら抗議
フリーライター 平野 次郎
1 はじめに
筆者は今年1月、『朝日新聞』が「先住民族」を「先住人民」と言い換えた記事で、琉球先住民族の人たちが「民族性を否定された」として朝日新聞社に謝罪と訂正を求めているとの情報を入手。現在の沖縄と日本「本土」との関係性を示す興味深い問題だと考え、取材を始めるとともに以前から寄稿していた週刊誌に企画案を提出した。
週刊誌編集部から「『先住民族』が正しくて『先住人民』ではなぜいけないのかを明確に説明できないと企画としてなりたたない」「一方的に『朝日新聞』に非があるから訂正と謝罪をという訴えに無理があるのではないか」との指摘があった。筆者は企画案を出し直し原稿を書き直すなどしたが、最終的に「『先住人民』がなぜだめなのかの理論的説明ができてない」「表現の自由を否定することに繋がりかねない」などの理由で記事掲載を見送るとの連絡があった。
だが、筆者には掲載見送りの理由が納得できず、沖縄と日本との関係性を示すポジショナリティの問題として記録しておく必要があると思った。そこで(2)で週刊誌に出稿した原稿に少し加筆したものをそのまま掲載し、(3)でポジショナリティの観点から今回の問題の背景について考えてみた
2 週刊誌で掲載見送りとなった原稿
『朝日新聞』(2024年10月8日付)の「沖縄と米兵の性暴力事件 識者はどう見る」の記事で、阿部小涼・琉球大学教授が「先住民族」とすべき表記を「先住人民」と言い換えたとして、琉球民族がルーツの研究者や市民団体が「民族性を否定された」として訂正と謝罪を求めている。朝日新聞社は「一般的な訳をあてたもので、民族性を否定する意図はありません」と回答し、訳語をめぐる論議になっているが、その背景には「民族」の用語をめぐって「自己決定権」を求める権利主体をどう表記するかの主体性論争がある。
『朝日新聞』の記事で阿部教授が「先住人民」と表記したのは2カ所。どんな文脈で使われたのか以下に引用する。
〈人種差別と植民地主義とが重層化した新興国で、もっとも弱い立場に置かれた先住人民女性の身に起こる出来事として受け止め、闘い取ってきた概念だ〉
〈米兵による性犯罪が繰り返されるのを放置するのも、このような日本政府の行為の延長線上にある、入植者による先住人民への抑圧そのものだ〉
この記事に対し昨年12月末、大学などが保管する琉球民族の遺骨返還を求める「ニライ・カナイぬ会」共同代表の松島泰勝・龍谷大学教授が「琉球先住民族として民族性を否定されたような気持ちになった」として、記事を書いた記者を通じて朝日新聞社に抗議するメールを送った。
1月初め、記者の上司である「くらし報道部長」から松島教授に「『先住人民』とは『Indigenous Peoples』を訳したもので、『Peoples』とは『社会を構成する人々』を表します。一般的な訳をあてたもので、琉球先住民族の『民族性』を否定する意図はありません」と返答。
その後、松島教授は「国連の会議の文章などでも一般的に『先住民族』と訳されてきた」「結果として誤訳であることをファクトチェックしなかった」などのメールを同報道部長や編集局長宛てに送信。1月末に朝日新聞お客様窓口から「阿部教授の論考によって先住琉球民族の『民族性』を否定することはなく、そのような考えもないと認識しています」との回答があった。
この問題については、『沖縄タイムス』(11月29日付)のコラム「琉球語時評」で琉球近現代史家の伊佐眞一さんが言及し、日本本土からの移住者である阿部教授が「先住人民」と表記したことについて、「移住・植民者が琉球人の根幹に介入し、琉球の自立・独立の主体性を否定している」と批判している。
伊佐さんは1月初め、朝日新聞社に「国際社会や学術用語として確立した日本語訳の『先住民族』を『先住人民』とした意図は何か」「『先住民族』は支配と被支配の構図を明確に示す用語であり、『先住人民』では支配/被支配の構図が曖昧になる」とのメールを送信。1月中旬には、女性たちでつくる「琉球先住民族まぶいぐみぬ会」の與那嶺貞子さんが「阿部教授の『琉球先住民族』を否定し不可視化する言説は、私たち琉球先住民族の存在をなきものとして扱う学問の暴力です」とメールしている。
では、「先住民族」の概念はどのようにしてできたのか、国連の動きを振り返ってみる。1971年に国連人権委員会が少数民族の差別についての調査を勧告。報告書がまとまった82年に「先住民作業部会」(先住民の原語はIndigenous Populations)が設置され、先住民の権利宣言へ向けた草案づくりが始まった。87年から日本のNGO「市民外交センター」とアイヌ民族の代表が作業部会に参加。90年の国連総会決議により93年が「先住民の国際年」、95~2004年が「先住民の国際10年」(同Indigenous People)と定められた。
先住民作業部会では93年、先住民の権利宣言草案をまとめる段階で権利宣言する集合的主体をどう表記するかが論議になった。それまではPopulationsや Peopleの用語を使っていたが、先住民側は国際人権規約が自己決定権を持つ主体をAll Peoplesと明記していることからPeoplesを使うよう主張してIndigenous Peoplesの用語が生まれ、「先住民族」の訳語が当てられるようになった。先住民族の定義についても先住民族の決定に委ねるべきだと主張した。
草案作成に参加した市民外交センターは、国際社会では集団的な権利主体性は基本的には国家だけに認められていたが、先住民族が植民地主義により権利を否定され、その回復を求めてきたことから先住民族も集団的権利主体性を持つという認識が広まり、Indigenous Peoplesの用語が使われたと説明する。だが、その後も先住民族に集団的権利主体を認めることに対する国家側の反発があって草案づくりが遅れ、07年9月に国連総会が「先住民族の権利に関する宣言」を採択したことによってIndigenous Peoplesの用語が公式に採用された。
権利宣言は先住民族についての定義はせず、先住民族は植民地化によって奪われた土地や資源の返還を求める権利、固有の文化を実践・復興する権利などを有し、その権利行使によっていかなる差別からも自由であるべきだとし、自己決定権の重要性を説いている。
96年から先住民作業部会の草案づくりに参加している松島教授は「植民地支配に抵抗する手段として民族主義が広まり、自己決定権を行使する集合的主体として先住民族の概念が確立してきた。こうした経緯を無視して先住人民と言い換えることは植民者と被植民者の権力構造を不明確にし、先住民族としての琉球民族の主体性を奪い民族性を否定することになる」と主張する。
では『朝日新聞』はいつから「先住民族」の用語を使っているのか。朝日新聞記事データベースで検索してみた。84年に「アメリカ・インディアンの言語研究者」についての記事が初出。86年に中曽根康弘首相(当時)の「日本は単一民族国家」との発言に対してアイヌ民族が批判する記事が出て以降、「先住民族」の使用が増える。国連の先住民作業部会や「先住民の国際年」の記事では「先住民」を使っているが、「先住民族」を使う文脈の中で「先住人民」としたのは今回の阿部教授の記事が初めて。
阿部教授はなぜ「先住人民」の用語を使ったのか。取材を申し込んだが「コメントを差し控えさせていただきます」との返答だった。そこで、昨年の『現代思想』11月号に掲載された阿部教授の「沖縄の自治主義の見取り図」の論考から3カ所を引用して推察する。
〈新たな機軸のひとつとして、先住人民の自己決定権の枠組み、セトラー・コロニアリズム批判をふまえた脱植民地主義的な自治主義を挙げることができる〉
このように、新機軸の自治主義を担う主体として「先住人民」の用語が1回だけ使われている。セトラー・コロニアリズムは植民者植民地主義の意で、前述の伊佐さんが『沖縄タイムス』のコラムで「移住・植民者が琉球人の根幹に介入し、琉球の自立・独立の主体性を否定している」と述べていることに通じる。
〈同化を強要する日本民族主義に立ち向かい、対等であろうとして描く自画像は、対抗的ナショナリズムに短絡する隘路がある〉
ここでは、松島教授が共同代表をしていた「琉球民族独立総合研究学会」など先住民族主体の自立・独立をめざす自治主義を批判している。
〈「先住民族」性を拒絶するレイシズムの角度から、翁長演説が「民族議論へのすり替え」によって歪められて攻撃されることへの危機感があった〉
この文章は、先住民族主体の自治主義との「線引き」が必要になった背景として翁長雄志・沖縄県知事(当時)が国連で行った演説があるとの説明だが、そのことを理解するためには琉球民族を先住民族と認めるか否かをめぐる対立と分断があることに触れておく必要がある。
アイヌ民族の場合は、97年に二風谷ダム用地強制収用裁決取消訴訟で札幌地裁が先住民族であると認定。08年には先住民族と認めるよう求める国会決議があり、19年に成立したアイヌ施策推進法に先住民族と明記された。
だが、琉球民族の場合は認定をめぐる対立が続いている。08年に国連自由権規約委員会が日本政府に「琉球・沖縄の人々を先住民族と認めて、その権利を保護するべきだ」と勧告。10年に国連人種差別撤廃委員会が「沖縄に米軍基地が不均衡に集中していることで沖縄の人々が差別を被っている」と表明。以後、両委員会による同様の見解が数回出ているが、政府は12年に自由権規約委員会に「沖縄県出身者は日本国民としての権利を保障されている」、16年に人種差別撤廃委員会に「先住民族はアイヌの人々以外にいない」とし、国連勧告を無視し続けている。
司法では、戦前に人類学者が琉球民族の墓から収集した遺骨を保管する京都大学に対し琉球民族の人たちが返還を求めた訴訟で、23年9月の大阪高裁判決が琉球民族を先住民族と事実認定しその後確定している。この訴訟では松島教授が原告団長を務めた。
こうした国連勧告をめぐる対立がある中で、翁長知事は15年の国連演説で、沖縄に米軍基地が過度に集中していることによって沖縄の人々の人権や自己決定権がないがしろにされていると訴えた。知事が自己決定権に言及したことに対し、「沖縄県民は先住民族との間違った印象を与える」として危機感を募らせた右派系保守団体が国連勧告撤回を求める運動を起こすなど、沖縄の人々の間に分断がもたらされた。
阿部教授の論考に戻ると、こうした先住民族の認定をめぐる分断がある中で、「民族」という用語を使うことによって自己決定権の実現をめざす自治主義が民族論議にすり替えられることを危惧し、先住民族主体の自治主義との間に「線引き」が必要として「先住人民」の用語を使っているのではないか。このように「民族」か「人民」かの訳語めぐる背景には、自己決定権を行使する主体をどこが担うのかという主体性論争がある。
こうした動きを識者はどう見ているのか。民族問題に詳しい二人の大学教授に取材したところ、両教授から実名でのコメント掲載は断られたが、次のように返答があったので併記する。
「『先住人民』の用語を使ったことで民族性を否定したとは言えないが、朝日新聞社の『一般的な訳をあてた』との回答は説明になっていない。いずれにしても当事者同士の問題に第三者があれこれ論評するべきではない」
「民族の独立をめざす側は『民族』という言葉に日本との歴史的な関係を背景にした怨念みたいな強いこだわりを持っているように感じる。阿部教授は沖縄出身でないことから『民族』という言葉に独立派の人たちが込めている切実な思いに自分は同一化できないという思いがあるのでは。たぶん二つの考え方が折り合うことはないだろう。根本的に人間として経験してきた背景が異なっているので理解しえないと思う」
朝日新聞社広報部にも取材したが、「阿部教授の論考によって先住琉球民族の『民族性』を否定することはなく、そのような考えもないと認識しています」と1月末の松島教授への回答と全く同じだった。
3 「ポジショナリティ」の観点から背景を考察
『現代の理論』第40号に掲載されている桃原一彦・沖縄国際大学教授の「『ポジショナリティ』概念から考える沖縄と日本との権力関係」の論考では、ポジショナリティを「ある社会的集団や社会的属性に帰属することでもたらされる政治的・権力的な位置性のことであり、それが諸個人間の関係にどのような影響を及ぼし、利害関係の様態となって現れるのかを分析する概念である」と定義。
「差別や不平等の問題をめぐる争点」として、①個人がマジョリティ(抑圧する側)に属することによって「受益圏」として得ている利益や「受苦圏」の人々に対する加害に加担していることに無自覚であること、②自らの立ち位置から発せられる言動や態度が「受苦圏」の人々を直接的に抑圧したり傷つけたりしてしまっている可能性があること、③直接的な抑圧行為が「受益圏」の人々と「受苦圏」の人々との事実の共有や責任の分有に齟齬を生じさせて差別や不平等の解決を遅らせていること、などを挙げる。
こうした争点を、朝日新聞社や阿部教授、週刊誌などを抑圧する側(受益圏)、松島教授ら琉球先住民族を抑圧される側(受苦圏)とそれぞれ位置づけたうえでポジショナリティの問題を考えてみる。
まず、朝日新聞社が「民族性を否定することはない」と返答していることについては、抑圧される側が「民族性を否定された」と訴えている限りは、抑圧する側に属する朝日新聞社に対して「加害に加担していることに無自覚である」「抑圧したり傷つけたりしている可能性がある」との批判があっても不当ではないことになる(桃原教授論考の争点①②)。
阿部教授が「先住民族」を「先住人民」と言い換えていることについては、阿部教授が抑圧する側に属することでもたらされる政治的・権力的な位置性からの発言として受け取られ、琉球先住民族の人たちを抑圧したり傷つけたりしてしまっている可能性がある(桃原教授論考の争点②)。
週刊誌編集部が筆者の原稿掲載を見送る理由として「表現の自由を否定することに繋がりかねない」としているのは、先に返答があった「一方的に『朝日新聞』に非があるから訂正と謝罪をという訴えに無理があるのではないか」を受けての指摘とみられる。だが権力的な位置関係が対等でない限りは、抑圧される側からの訴えがたとえ一方的なものだったとしても抑圧する側への表現の自由を否定することにはならないのではないか。抑圧する側にとっては表現の自由を否定されたと解釈しても無視しておけば権力関係や利害関係に影響がないからだ。表現の自由は権力を持たない側、抑圧されている側にとってこそ否定されてはならない権利であるはずだ。
週刊誌編集部が原稿掲載を見送ったもうひとつの理由である「『先住人民』がなぜだめなのかの理論的説明ができていない」との指摘については、筆者の説明が不十分だったことは認める。だが、先に述べたように松島教授が「先住人民と言い換えることは植民者と被植民者の権力構造を不明確にし、先住民族としての主体性を奪い民族性を否定する」とし、琉球近現代史家の伊佐さんが「『先住民族』は支配と被支配の構図を明確に示す用語であり、『先住人民』では支配/被支配の構図が曖昧になる」と主張していることが説明になっていると考えた。二人とも「先住人民」では「植民者と被植民者の権力構造」「支配と被支配の構図」、つまりポジショナリティの問題が不可視化すると説明しているのだ。しかし、それでも「理論的説明ができていない」というのはどういう意味なのか。「受苦圏」にいる当事者ではなく「受益圏」にいる者による説明がないと理論的でないというのなら、それこそ「受益圏」の側に「先住人民でなければなぜだめなのか」の説明責任が生じることになる。こうした状況が「受益圏」の人々と「受苦圏」の人々との事実の共有や責任の分有に齟齬を生じさせて差別や不平等の解決を遅らせていることになる(桃原教授論考の争点③)。
桃原教授が指摘する争点③は、先に述べた実名でのコメント掲載を断られた大学教授の「たぶん二つの考え方が折り合うことはないだろう。根本的に人間として経験してきた背景が異なっているので理解しえないと思う」との返答に通じるものがある。では、「受益圏」の人々と「受苦圏」の人々との齟齬を埋め、二つの考え方が折り合うにはどうすればよいのか。それを解くキーワードが「ポジショナリティ」と言えるのではないか。
ひらの・じろう
1944年生まれ。元朝日新聞記者。退職後はフリーライターとして、現役の記者時代に使っていたペンネームで週刊誌などに寄稿している。
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