特集 ● どう読むトランプの大乱
AI封建制のパラドクス
階級なき社会由来の基盤的コミュニズム
労働運動アナリスト 早川 行雄
アルゴリズムによる支配
新聞の経済面にAI(artificial intelligence=人口知能)関連の記事が載らない日はない。囲碁ソフトの人間名人圧倒から自動車の無人運転に至るまで、さながら世界をAIの妖怪が徘徊しているかの様相だ。とりわけ深層学習(ディープラーニング)というアルゴリズムの登場による生成AIの進化は日進月歩のようだ。しかし知能の働きが生命現象であるならば、科学が生命を創造できない限り、人工芝が芝もどきであるように人工知能も知能もどきにすぎない。
アルゴリズムとはある問いや命題の最適解を導く効率的手順と考えられる。例えば、地球環境保全策を問うたときに人類が活動停止(絶滅)することとの解を返すかも知れない。AIが人類の活動停止に向けて示した道筋から、逆に持続可能な社会の在り様を考察するという活用も可能であろう。しかし問うのも回答を生かすのも主体は人間であるという前提がある。
ここで問題となるのはネットワーク効果で巨大化したGAFAMとかFAANGなどと称されるテック企業に占有されたデジタル空間のコンテンツ・プラットフォーム(グーグルのユーチューブなど)に仕込まれたアルゴリズムによる消費行動や労働実態の変容である。ライドシェアなどのネット事業者では繁忙期に割増料金を取るサージプライシングやダイナミックプライシング(変動価格制)がごく普通のことになっているが、一般企業も含めて巨大テック企業のアルゴリズムが提供する最適価格(つまり利潤の極大化)を採用するという一種の価格操作が横行している。さらに巨大テック企業はプラットフォーム上で取集した膨大な個人データから対象を絞り込んだターゲティング広告も提供する。消費行動を予測して設定される価格も、狙い撃ち的広告で誘導された商品選好もアルゴリズム次第ということで、それを利用する事業者は大枚のみかじめ料を支払うことになる。巨大テック企業のビジネスモデルは暴力団と大した違いはない。
労働現場においてもギグワークとよばれるネット上の契約を通して不定形単発の仕事を行う一種の偽装請負が拡大することで、伝統的な労働基本権が大きく脅かされる事態が生じている。仕事の内容や単価はアルゴリズムで決められ、雇用の継続や労働条件の保障は基本的にない。巨大テック企業がギグ事業者からみかじめ料を召し上げることも同様で、仕事探しのプラットフォームは暴力手配師の支配する電子寄せ場のようなものであり、これまた暴力団まがいのビジネスモデルがまかり通っている。また賃労働と資本の雇用契約の世界も、DX(デジタルトランスフォーメーション)やIoT(モノのインターネット)として喧伝されるデジタル空間での膨大な情報集積をもとにした生産過程へ統制が徹底して、封建農奴よりも明らかにみじめで過酷な労働強化が強いられている。
一方、巨大テック企業が占有するネット上のアルゴリズムが生み出す反復過剰な情報で人々の関心を引き付ける仕組みをアテンションエコノミーというのだが、そこで発信される情報は個人の好みに最適化されている。その結果、性に合った商品の説明や人物の主張が提示され続ける。このように客観性や真実性を欠いた印象の刷り込みがフィルターバブルであり、その弊害は政治コミュニケーションの分野で問題となっている。特定の党派性を持った情報にのみ触れ続けることで、著しく偏向した政治判断に陥る状態をエコーチェンバーというのだが、東京都知事選の石丸現象や議会で不信任とされた斎藤兵庫県知事の復活劇など、いわばアテンションポリティクスの社会病理が猛威を振るったことは記憶に新しい。
今の社会はテクノ封建制なのか
ヤニス・バルファキスは前項でみた暴力団まがいの巨大テック企業が支配する現代社会を「テクノ封建制」と規定し、資本主義はすでに死んでおり社会は再封建化したとみなしている。アメリカの貿易赤字が拡大し、金・ドル交換停止によってブレトンウッズ体制が崩壊した後、米ドルを唯一の基軸通貨とすることでアメリカがどれだけ貿易赤字を計上しても、黒字国から官民をあげて米国債購入、株式投資、直接投資などの形で金融資本が還流する仕組みが作られた。
吉川元忠が新「帝国循環」と呼んだ国際資金循環システムだが、バルファキスはそれを古代の寓話に因んで「グローバル・ミノタウルス」と名付けた。ミノタウルス循環は新自由主義政策の金融規制緩和とコンピューターを駆使した金融工学の助けを借りてカジノ資本主義全盛時代を招来したが、2008年のリーマンショックで止めを刺された。ミノタウルス循環の破綻は労働者に格差と貧困を強いる社会からの転機ともなりえたはずだが、実際には前項でみたような巨大テック企業を新たな支配者とする社会が起ち現れた。プラットフォームは封建領地、それを排他的に占有する巨大テック企業は封建領主、プラットフォームやクラウド(データベース)へのアクセス料(みかじめ料(バルファキスの用語ではクラウド・レント)を支払う事業者は封臣(家臣)、ネット上で無自覚なまま無償の情報供出をさせられる一般庶民は農奴とそれぞれ見事に相似形をなしている。
市場と利潤がプラットフォームとクラウド・レントに主役の座を譲り後景に退いたことやクラウド資本が賃金労働者を直接搾取することなしに再生産されることもって、バルファキスは資本主義の死亡診断書を書いたわけだ。そこではデジタル空間のアルゴリズム独占による収奪をテクノ封建制として捉える観点を提起されている。資本主義市場経済における「見えざる手」(スティグリッツはそんなものはなかったと言っているが)にAIのアルゴリズムが取って代わったAI封建制ということもできよう。人がやれば談合になる行為が公然とAIによって行われるようになって資本主義は死んだということだろう。EUなどで巨大テック企業の情報独占を規制する動きはあるものの、独占を寡占に変える程度で蟷螂の斧の域を出ないようだ。
巨大テック企業による情報独占の脅威や社会の再封建化についての議論は決して目新しいものではないが、この両者を統合し一体のものとして考察していることがバルファキスの議論の新機軸と言えよう。いずれにしてもバルファキスの新著は注目すべきいくつかの論点を提示している。
新自由主義化した資本主義の行き着いた結果を封建制と捉えることについてはさまざまな議論があり得よう。今野晴貴は『賃労働の系譜学』で「デジタル/テクノ封建制」について論じているし、社会学者(都市問題研究)ジョエル・コトキンが社会階層の固定化の弊害を説いた『新しい封建制がやってくる』の邦訳も出た。
筆者は10年ほど以前に、「定常状態経済と社会の再封建化」という論考(初出:労働法律旬報1852号(2015)、拙著『人間を幸福にしない資本主義』(2019)第6章)で資本主義市場経済の再封建化について述べたことがある。問題意識の背景にはユルゲン・ハーバーマスの『公共性の構造転換』における見解があったが、より直接的にはジクハルト・ネッケルが2015年に東京で行った講演(「現代社会の再封建化-社会構造、ジェンダー、経済」三島憲一訳)に触発されるところも大きかった。それは第二次世界大戦後に成立した社会民主主義的な福祉国家システムがスタグフレーションの発生で衰退し、市場原理主義が復古してくるのに合わせて、ヴォルフガング・シュトレークが資本主義と民主主義を結びつけた強制結婚の段階的解消過程と述べた社会変化を再封建化と捉えたものであった。
田端博邦は拙著に寄せた書評(本誌第21号所収)において、「再封建化」は資本主義に対する最大級の批判概念になっているとしつつ、古典的な「政治反動」というような表現で代替されうるのかも考えるべきかも知れないと述べている。大切なことは資本主義と民主主義は本質的に相いれないという認識である。トランプ米大統領のごとき暴君の登場や欧米主要国のイスラエル擁護が端的に示すように、西欧起源民主主義の欺瞞性、その理念と実態の大幅な乖離は、今日誰の目にも明らかになりつつある。
レント資本主義をめぐる議論について
レント資本主義についてもすでに多くの論者が語っている。トマ・ピケティは『21世紀の資本』の結論部分で「事業者はどうしても不労所得生活者(レンティア)になってしまいがちで、労働以外の何も持たない人々に対してますます支配的な存在となる」と述べている。
中山智香子や佐々木隆治が評価しているように、レントの重要性を指摘したのがピケティの理論的功績であり、一世を風靡した「r>g」すなわち資本収益率が経済成長率を上回るという統計的事実は、非産業的投資や資産の所有をつうじた剰余価値の収奪が主要な契機となるレント資本主義の数学的表現であった。
第二次世界大戦までは土地など固定資産や教育・就職機会を保障する金融資産などが封建遺制としての相続により世代を超えてレントの源泉が受け継がれ、第二次世界大戦後のニューディール政策やケインズ主義ないしは社会民主主義的福祉国家の時代にはむしろ例外的に「r<g」状況が出現したものの、新自由主義時代になると金融レントからさらにクラウド・レントに転化し、ピケティの言によれば事業者がレンティア化した結果としての「r>g」が復活したのである。つまり「r>g」のrはrentのrでもあるわけだ。水野和夫やデヴィッド・ハーヴェイの「資本主義の終焉」論もこの文脈で捉えることができよう。
土地であれ、貨幣や生産設備であれ、プラットフォーム上のデータクラウドであれ、不労所得を生み出す源泉を私的に所有する者が階級社会の支配階級を構成する。資本の期待収益率、つまり再生産に最低限必要な額を超えた超過利潤をレントと定義すれば、多様なレントがありうる。生産性格差から生じる特別剰余価値などは競争の中に解消されるが、不動産、鉄道など自然独占事業、企業のブランド力などが生み出すレントは所有権者に固定される。後者が狭義のあるいは本来のレントである。論者によっては超過利潤や投資収益(キャピタルゲイン)のように、通常の利潤や賃金の範疇に入らないさまざまな所得がレントと位置付けられ、利潤自体がレント化し、レントが所得の中心を構成するシステムがレント資本主義とされる。
現状を再封建化と捉えるか資本主義の新たな(あるいは最終的な)段階と捉えるかに関わって、封建制度から資本主義への移行、すなわち領主(土地所有者)の専制支配から資本の専制支配への移行はどのように生じたのかを思い起こすことにも意味があるだろう。資本主義はコモンズの公共財や専ら使用価値として自家生産・自家消費されてきた品々に交換価値を付与して市場で流通させるシステムを構築して前近代的封建制の土台を破砕し、被支配階級の精神領域の慰撫教化は宗教的信仰から民主主義のイデオロギーに軸足を移した。しかし暴力装置の独占を担保とした法体系による所有階級の専制支配という階級社会の本質には何一つ変更を加えることはなかったのである。
賃労働と資本の関係は資本の独裁=専制支配の制度化であり、労働者保護規定は資本の専制支配を前提とした条件付き指揮命令権設定による労働者隷属化の手段である。労働者保護規定の拡充が無意味なのではなく、資本の専制支配下における労働者の権利拡大の累積が、専制支配の基盤そのものを掘り崩して普遍的人権確立への道を拓く量から質への転化を目的意識的に追及することこそが労働運動に求められていたのだ。しかし労働組合が組織を拡大した産業自体への攻撃と、一方における懐柔策による取り込みによって労働運動は弱体化させられた。いずれにしても重要なことはテクノ封建制であれレント資本主義であれ、階級社会が新たな段階に入ったことの確認である。この新段階はプラットフォーム上のビッグデータを処理するAIテクノロジーが主役を張っているので、本稿ではさしあたりAI封建制と呼ぶこととする。
希少性の観点から考える
斎藤幸平は、資本主義とは人工的に「希少性」を生み出し、人々の暮らしを貧しくするシステムだと述べているが、資本主義に限らず階級社会における支配階級は常に希少性に依拠してきた。供給の制約が希少性を担保している。供給制約は土地のように自然的な制約もあり、封建社会は土地を占有する領主が支配階級となったが、資本主義経済においては希少性とは貨幣を媒介して購入しなければ取得できないという性質であり、利潤動機から作為的に供給が制約された希少性を持つ商品が生み出される。
斎藤は資本の本源的蓄積が土地の囲い込みによって人工的に希少性を生んだのと同様に、大量消費社会ではブランド化と広告が、似たような商品が氾濫する時代に希少性を人工的に生み出す方法だと述べている。エルメスだのグッチだのシャネルだのといったブランド商品がその典型である。市場経済では本来商品化されるべきではない土地、労働、貨幣まで商品化されると述べたのはカール・ポランニーだが、新自由主義の下では自由なアクセスや公的給付に委ねられるべき社会的共通資本やベーシックなサービスもまた、民営化政策によって営利企業の支配下で供給が制約され、希少性を持つ商品に変えられてしまう。
マルクスの経済学批判によれば、希少性には社会的なもの、すなわち人工的なものと自然的なものがあり、自然的希少性は土地の再生産が不可能なように技術進歩によって克服することはできないが、資本主義においてすべての商品に交換価値を付与する人工的希少性は、商品所有者に富を蓄積させる一方で、労働者の窮乏化をもたらす。マルクスは本源的蓄積(共有地の囲い込み)を資本が人工的希少性を増大させてゆく過程と捉えたが、希少性の恒常的再生産を不可避とする資本主義では本源的蓄積も常態化する。希少性を持った商品は人々を豊かにするどころか貧しくするばかりであり、この逆説こそ資本主義に内在する論理では克服不可能な根本矛盾とされる。
ケインズは『一般理論』最終章の結語的覚書の中で、資本の所有者は土地の所有者が土地の希少性のゆえに地代を得られるのと同様に、資本の希少性によって利子を得られるが、土地の希少性には再生産ができないという本来的理由があるのに対し、利子形態の報酬を見返りとするという資本の希少性は長期的には存在しなくなると述べ、その段階では資本の希少価値を搾り取るために累積された資本家の抑圧権力は安楽死する(金利生活者の安楽死)と予測していた。
しかし利子率がゼロ近傍に(一時的にはマイナスにさえなった)迫り、資本家の抑圧権力の臨終が近づいたときに、その死に水を取ったのはコミュニストでも社会民主主義者でもなく巨大テック企業であった。これら企業はブロックチェーン技術(暗号技術)を駆使し、例えばビットコインのような仮想通貨に発行の上限を設定するような人工的希少性を創出してクラウド上の領土を囲い込み、新時代の資本(クラウドレント)蓄積に道を拓いた。また膨大な情報が氾濫する中では人間の関心領域や消費できる時間が圧倒的に希少になるが、それら希少性をビジネスチャンスとしてレントを稼ぐのは巨大テック企業であり、諸個人はSNSへの無償アクセスというただ働きをさせられていることになった。巨大テック企業はこうしてAI封建制(みかじめ料商売)の基礎を固めていったのである。
AI封建制の支配階級である巨大テック企業は、金融資本がそうであるように自ら価値を生産するわけではない。ピケティの「r>g」におけるrを限りなく拡大するものの、g(経済成長率)が停滞する定常化経済の下でrを拡大することは、バルファキスの用語でいうクラウド農奴からの所得移転=収奪を強化することに外ならず、結果として格差と貧困を深刻なものとしてしまう。またAI封建制による階級支配の核心であるデジタル空間のプラットフォームは封建領地に例えられるが、土地のように再生産ができないという本来的希少性を有することはなく、長期的な持続可能性には疑問符が付く上に、旧来の資本主義と同様に外部不経済を度外視した収奪を強行することによって、地球環境などの自然資本を一層棄損してしまう。ここにAI封建制最大のパラドクスが存するのである。
希望としての基盤的コミュニズム
封建社会であれ資本主義市場経済であれ、階級社会においては広義のレントを生み出す源泉を私的に所有する階級が一貫して支配階級であった。翻って人類700万年の歴史のほとんどは国家も市場も存在しない階級なき社会であったことに思いを致せば、そうした時代の精神的母斑は今日もなお消えることなく残存しているはずである。
マルセル・モースの『贈与論』は未開社会(国家と市場を持たない社会)における贈与と返礼といった道徳と経済が現代社会でも隠れた形で機能していることを明らかにした。デヴィッド・グレーバーは『負債論』において「各人は能力に応じて、各人は必要に応じて」というマルクスの「ゴータ綱領批判」における定式に基づいて、モースの研究成果を「基盤的コミュニズム」という概念に結実させた。グレーバーは基盤的コミュニズムとは、社交性(sociability)の原材料、すなわち社会的平和の究極的実体であるわたしたちの根本的相互依存の承認であると考えられ、人々がコミュニズム的関係にあることは、いかなる収支決算(損得勘定)もなされず、それを考慮すること自体が不快とされていることで判別されると述べている。軽微な負担で他者の窮状を救う行為(または救われたこと)、例えば駅までの道を教える、煙草の火を貸す、タブレットでの注文の仕方を教える、コンパクトの鏡を貸すといったことは多くの人が経験しているだろう。
グレーバーは基盤的コミュニズムのなかにも、連帯と相互扶助の原理にとくに比重をおくものがあるとして、家族(とくに母子)の情愛、恋人同士の恋愛感情、親友との友情などを挙げ、それらを先の定式を1対1の関係において形成する「個人主義的コミュニズム」と位置づけ、どのような共同体も個人的コミュニズムの諸関係と交錯していると述べている。愛し合う恋人たちをはじめ、人はみな基盤的コミュニストなのだ。
階級社会においては奴隷制、農奴制、賃労働と資本の関係などの支配従属関係が、基盤的コミュニズムを紐帯とした共生を社会のメインストリームから排除している。グレーバーも『ブルシットジョブ』の中で、資本主義は中世封建制に類似した「レント取得のシステム」へと変容を遂げたと記している。とはいえ、政教分離によって信仰を個人の内面の問題とすることで市民社会を形成したキリスト教社会よりも、イスラム教社会の世俗共同体の方に色濃く継承されているというような宗教的、文化的位相の違いはあっても、最も先鋭化した個人主義の欧米型文明社会の中でも基盤的コミュニズムは人々の集団の中で息づいている。
政治的支配体制や経済的収奪構造の歴史的転換にも関わらず、例えば現代資本主義市場経済の社会にあっても、英連邦の名目的元首が英国王であるとか日本の象徴天皇制のような封建遺制が残存しており、家父長制的発想や白人優越主義的価値観は容易に消滅するものではない。奴隷制、農奴制あるいは賃労働と資本の関係による支配が、いかに人々を疎外しようとも、人が類的存在である限り、階級社会成立以前から諸個人間の関係に深く根差した共生意識、つまり基盤的コミュニズムは、静かに耳を澄ませて聞けば、今日に至るまで持続低音のように社会のいたるところに存在する。
問題は困難ではあるが頗る単純なのであり、AI封建制の支配装置を社会的共通資本として人民が主体となったコミューンの管理下に置き、基盤的コミュニズムを人類社会の主役の座に復権させることができるか否かである。ここでは詳述できないが、それを考えるヒントはグレーバーの遺稿となった、考古学者デヴィッド・ウィングロウとの共著『万物の黎明』で展開されている「社会的自由の基本形態」から得られよう。人類史の一時期を侵食してきた階級社会を最終的に廃絶することこそが21世紀左翼の喫緊の課題と言うべきである。
はやかわ・ゆきお
1954年兵庫県生まれ。成蹊大学法学部卒。日産自動車調査部、総評全国金属日産自動車支部(旧プリンス自工支部)書記長、JAM副書記長、連合総研主任研究員、日本退職者連合副事務局長などを経て現在、労働運動アナリスト・日本労働ペンクラブ会員・Labor Now運営委員。著書『人間を幸福にしない資本主義 ポスト働き方改革』(旬報社 2019)。
特集/どう読むトランプの大乱
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- フェイクのトランプは日本政治を写す鏡慶応大学名誉教授・金子 勝
- トランプ政権の暴政を正当化する論理を撃つ神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長・橘川 俊忠
- トランプ政権に100日目の壁国際問題ジャーナリスト・金子 敦郎
- 苦難のヨーロッパ――恐れず王道を龍谷大学法学部教授・松尾 秀哉
- 保守党のメルツがドイツの次期首相在ベルリン・福澤 啓臣
- トランプ大統領の再登場で岐路に立つ国際気候変動対策京都大学名誉教授・松下 和夫
- AI封建制のパラドクス労働運動アナリスト・早川 行雄
- 労働問題は高校でどう教えられているのか元河合塾講師・川本 和彦
- 社会医療法人山紀会(大阪市西成区)が暴挙大阪公立大学人権問題研究センター特別研究員・水野 博達
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