特集 ● どう読むトランプの大乱
現代日本イデオロギー批判 ―⑦
トランプ政権の暴政を正当化する論理を撃つ
未来への禍根は断たなければならない
神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長 橘川 俊忠
暴走100日は気まぐれではすまない
4月30日、トランプ米国大統領は、就任100日を迎え、昨秋の大統領選挙の帰趨を決したといわれる中西部のミシガン州で大規模な政治集会を開き、記念の演説を行った。登場曲 “God Bless America” が鳴り響き、大喝采を浴びて赤いネクタイのトランプが登場するという選挙中の決起集会さながらの雰囲気の中で、100日記念の演説が始められた。
演説は、途中、エルサルバドルのテロリスト拘禁センターと思われる短いビデオの上映とミシガン州の労働組合関係の支持者のトランプへの賛辞を挟んで、90分の長時間に及んだ。中身は、100日間で実施した政策の自画自賛とバイデン前大統領や民主党などへの罵詈雑言というほかないような批判で、とくに新しいことは何もなかった。例によって、自画自賛も批判も、明確な根拠を示すこともない一方的な主張ばかりで、真面目に検討するのも時間の無駄だと切り捨てたくなるような演説であった。また、選挙中公約とし豪語していたウクライナやガザの停戦についてはほとんど言及することもなかった。
ようするに、自己宣伝できると判断した、あるいは他者に責任転嫁できると考えた事項についてだけしゃべり散らかしただけであった。世論調査で史上最低の支持率と伝えられたり、トランプ批判デモが各地で広がりを見せているせいか、ビデオを見る限り、集会自体も空席が目立ったり、演説終了後のYMCAの大合唱も盛り上がりに欠けた印象がぬぐえなかった。
それはともかく、トランプは、就任直後から大統領令を乱発し、その数はウィッキペディアによれば、4月17日現在130本にのぼるという。大統領報道官のいうトランプスピードを印象付けるためか、トランプのやる気をみせつける意図か、いずれにしても異例の速さと量の大統領令は、朝令暮改と批判されるような混乱を含みながら、トランプの暴走ぶりを如実に示している。
こうした乱発される大統領令や言いたい放題の暴言の数々をみると、トランプはいったい何を考えているのか、何を目指しているのか分からない。あるいは、すべてはディール(取引)のための駆け引き材料だからそういう風に受け取ればいい。大量の情報を流して真の狙いを隠す戦略だ、などなど。それ自身がトランプにのせられたような評論も散見される。また、トランプ支持者は一枚岩ではなく、原理的には相対立する集団の合成だから、政策に一貫性がないのは当然で、いずれ内部対立が露呈し、政権としては自己崩壊する、と予想するものもいる。
しかし、トランプの100日をよく観察してみると、たしかに整合性に欠け、トランプの思い付きに振り回されているように見えるが、そこには目的においてまた政治的手法においてトランプ政権をそれなりにまとめ上げている土台が見えてくる。そして、その土台を発見するには、トランプ政権を成り立たせている構成要素とその組み合わせを分析することが必要であるが、まずその構成要素の素描から始めよう。
パワーシューター・トランプの個性
トランプ政権の乱暴としか言いようのない政策運営を決定している大きな要因の一つがドナルド・トランプという政治家個人の要素にあることはだれでも認める事実であろう。不動産業で名を成し、メディア業界へも進出している。大統領就任以前の経歴は『アプレンティスードナルド・トランプの創り方』に描かれている通りらしいが、そこで最も印象的なのは、彼が師と仰ぐ弁護士の教えである。それは「ルール1 攻撃、ルール2 非を絶対に認めるな、ルール3 勝利を主張し続けろ」というもので、トランプは今でもその教えを忠実に守っているように見える。
トランプの思想がどういうものかははっきりしない。本人は、リバタリアンの聖書の一つとされているアイン・ランドの『水源』という小説を読んだと主張しているらしいが、思想といえるほどのものに深入りしたようには見えない。トランプは、先の三つのルールを自分の行動準則とし、富・名声・権力をわがものとし、その拡大・維持を第一の目標とする典型的パワーシューターとするのが、もっとも実体に近いであろう。
そういうトランプであっても、政治家・大統領として目標とするものはあるらしい。彼のスローガンMAGAの最初の提唱者レーガンは、一つの目標ではあろうが、レーガンはグレートなアメリカが失われているがゆえにアゲインと言わざるをえなかったわけで、本当の目標はレーガン以前に求めなければならないことになる。アメリカ合州国史を見ると、南北戦争後の深刻な分裂の傷を癒し、現在とほぼ同じ領土を確保し、統一国家として世界に確固たる地位を築いたのは、19世紀末から20世紀初頭で、タリフマンと言われたマッキンレー大統領とアメリカ人として最初にノーベル賞を受賞したセオドア・ローズベルト大統領の時代であった。
マッキンレーは、高関税による保護貿易主義をとり、スペインとの戦争に勝利して中米からスペインの勢力を一掃し、ハワイからフィリピンへと帝国主義的拡大を図った。セオドア・ローズベルトは、そのマッキンレーの副大統領としてその政策を支えると同時に、マッキンレー暗殺後大統領職を受け継ぎ、パナマ運河開通とその周辺地帯の永久租借権を獲得した。さらに、極東地域を舞台に激戦を繰り広げていたロシアと日本の仲介に乗り出し、ポーツマス講和条約の締結に至らしめ、その功績によってノーベル平和賞を受賞した。
トランプが、大統領就任以来発してきた大統領令や方言に近い発言、たとえばアラスカのデナリ山をマッキンレー山に、メキシコ湾をアメリカ湾に改称する、カナダを51番目の州に、グリーンランドを売り渡せ、パナマ運河の管理権を取り戻す、そして国内製造業の保護のために高関税を課す等の施策、そしてアメリカ歴代大統領の歴史的評価を自画自賛する言動、まさにマッキンレー=ローズベルトのひそみに倣おうとする意図が歴然としているではないか。
さらにウクライナやパレスチナの和平を実現してノーベル平和賞を渇望しているともいわれている。しかし、それもラシュモア山国立記念碑に刻まれた4人の偉大なとされている大統領ジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、エイブラハム・リンカーン、セオドア・ローズベルトの肖像に並べて自らの肖像をも刻みつけたいという願望の故とすると、無原則な和平案をちらつかせ、うまくいかないことに苛立った様子を見せるのも理解できるというものだ。
こう見てくると、トランプについて、かれは基本的にディールの好きな商売人で、商売・取引を破壊してしまう戦争は嫌いだ、アメリカ一国主義で国際関係から手を引きたがっているというような評価は、誤っているか、あるいは一面的に過ぎるといわざるをえない。関税政策にしても、それが経済にどういう影響を及ぼすかということよりも、高関税を課した相手国の狼狽ぶりを楽しんだり、交渉を求めて連絡を取りたがっている国の数を誇ってみたりというのは、どうみても経済的合理性にもとづく判断によるとはおもわれない。比喩的に言えば宇宙・世界に君臨している皇帝が、朝貢にやってくる使節の数を誇っているようでもある。しかし、歴史的には、朝貢貿易は、朝貢する側が皇帝に献上するものよりも、朝貢側に下賜する贈物の方が多くなければならず、それができなくなった皇帝・王朝はまもなく滅びざるをえなかったという事実を、トランプは知っているのだろうか。
それはともかく、トランプ政権の性格を考えるとき、トランプ個人の性格や狙いをしっかり分析することが必要であろう。少なくとも、トランプが戦争で苦しむ人々のために停戦に向けて頑張っているなどと誤解しないために。
“MAGA推し”向け政策の含む毒
米国大統領選挙において、票として最大の貢献をしたのは、MAGAのスローガンに共鳴した”MAGA推し”の人々であることはまちがいない。この人々は、キリスト教福音派を中心とした聖書原理主義者で、草の根に存在する伝統的保守層といわれる人々と、製造業を中心とした国内産業の衰退によって職を失い、将来への展望が開けないと感じている労働者層で、かつては民主党の支持者だったものも含まれる人々だと考えられている。トランプの選挙演説でも、就任100日演説でも、この”MAGA推し”向けの発言・宣伝・演出が大部分を占めていた。
その発言の中でも特に目立ったのは、関税政策と移民政策の二つであった。関税政策は、その狙いが、国内製造業の復興とそれによる雇用の維持・拡大にあると主張し、その効果があらわれるにはまだ時間がかかると、トーンは低めの宣伝であった。経済の専門家からは危惧されていた物価の高騰や景気後退については、すべて前任者バイデンの責任であるとし、彼への人格攻撃を含む、聞くに堪えない罵倒が繰り返された。
高率関税を課した諸外国から、多くの交渉の申し入れが来ており、米国にとって有利な妥結の見込みが高まっているなどと楽観的見通しを語った。しかし、それだけでは不十分と考えたか、関税収入を財源とした大規模減税を検討しているとか、アップル、Nビディア、アマゾン、ジョンソンエンドジョンソン等の名だたる大企業が国内生産拠点のための巨額の投資を表明しているとか、絵に描いた餅を目の前にぶら下げるようなことも始めた。
こうした、不確実な関税政策の正当化の根拠として最近特に持ち出されるのは、アメリカはこれまで不当に搾取され続けてきた、今こそそれを取り戻すべき時だという言い分である。米国の貿易赤字の原因の一つは、外国からの多くの工業製品の輸入にあることは明らかであるが、その原因はそれらの製品の生産拠点が労働力の安い米国外に移転したことにあることも事実である。その意味では、そのような生産拠点の移転を促進したグローバリゼーションの恩恵を受けたのは米国企業であり、安価な工業製品の恩恵を受けたのも合州国民であった。
しかし、問題は、搾取されてきたという言い分の真否だけではなく、当面する最大の競争相手中国に対する技術・知識が盗まれているという主張も含めて、自分たちを被害者の立場に置くことによって作り出される言論空間上の効果にある。工場の海外移転、安価な輸入品が中小企業を廃業に追い込む、この生産現場の変化は労働者にとっては失業の危機となってあらわれる。そうした危機に面した労働者にグローバリゼーションの被害者であるという意識を植え付けることは難しいことではないだろう。
他方、「革新的経営者」は、強欲とか搾取とか、屈辱的な誹謗にさらされる。リバタリアンのバイブルと称される『肩をすくめるアトラス』の中で、アイン・ランドはそういう革新的経営者に次のように主張させている。すなわち「新製品を創りだした人間がどれほどの財産を築き、何百万を稼ごうが、彼がそそいだ知的な労力に比べると、実際に受けとる報酬の額は生みだした価値のごく一部でしかない。だが新製品を生産する工場で掃除人として働く人間は、その仕事が彼に要求する知的な労力に比べて法外に高い報酬を受ける」にもかかわらず、「『搾取』の構図によって、諸君(労働者の権利や待遇改善を要求する者達――筆者注)は強者を誹謗してきた」と。
こうして、失業と生活破綻の危機にさらされた労働者と「知性の強者」「アイデアを生み出す人間」の間に被害者意識という共通意識が、富や知識を奪われ続けてきたアメリカという大きな被害者意識の枠の中で共存せしめられる。そして、その被害者意識に発する攻撃性は、反共主義、反リベラルという形で発現することになるが、その問題については後述する。
さて、“MAGA推し”の人々向けの政策のもう一つの柱は、前政権時代からさらに拡大・強化された「不法移民」排斥政策で、これについても100日演説でも多くの時間が費やされ、攻撃的言辞が繰り返し発せられ、強制送還の「成果」が誇張をともなってとくとくと語られた。その自慢たらたらの「成果」として語られたのは、「不法滞在者」の厳しい摘発と「大量かつ迅速」な強制送還の実施であった。この移民政策は、トランプ前政権時代の国境管理すなわちメキシコ国境に長大な壁を築いて流入を阻止しようとする段階をはるかに超え、すでに国内に入っている移民、すでに普通の市民として生活基盤を築いているか否かを問わず、正規に滞在資格を持っていない者すべてを送還の対象にするように拡大されている。
この「不法移民」の摘発・強制送還の実態は、まだその全容ははっきりしないところがあるが、摘発のための監視システムの構築、正規の司法手続きを無視した強引な拘束、処分の決定、国際法を無視した強制送還収容先、裁判所の決定の無視、等々あまりの強引さに送還には賛成の保守派からもそのやり方に批判の声があがっている。
そうした実態に加えて、移民関連法規についてもとんでもないことを言い出している。「不法移民」の送還について、敵性外国人法を適用するという。同法は、1798年、独立間もない合州国がフランスと事実上の戦争状態にあったときに制定された法律で、制定当初からその違憲性が問題視されていたが、その後も戦争のたびに発動されそのたびに問題となったいわくつきの法律であった。さらに、トランプは、合州国憲法修正第14条で認められた国籍に関する生地主義(国内で生まれた子供は親の出自を問わず国籍を取得する制度)を放棄する、それも大統領令によって可能だなどと主張し始めている。
ここまでくると、トランプ政権の対移民政策は、「不法移民」流入対策という範囲を超えて、移民対策に名を借りた治安強化・国民管理強化政策の色彩さえ帯びてきたといわざるをえない。国境に壁をという段階では、効果や弊害の有無について議論はあっても、不法な入国者を取り締まるという意味では、それなりの合理性はあったといえるかもしれない。しかし、敵性外国人法の適用や生地主義の廃止となると、そもそも移民によって形成されてきたアメリカ合州国の成立原理そのものを否定することにもなりかねない重大問題である。それに加えて、大統領選挙中の反不法移民キャンペーンでみられた移民の「悪魔化」がさらに深刻化し、移民に犯罪者、ギャング、麻薬マフィアなどのイメージが貼り付けられ、そういう「邪悪な勢力」に浸透され、食い物にされるアメリカという被害者意識を刺激する陰謀論を跋扈させることにもつながってくる恐れすら生じている。
シリコンバレーの富豪たちはトランプ毒を飲むことにした
前号ですでに述べたように、第二期トランプ政権の特徴は、第一期にはなかったシリコンバレーの富豪達の支持を獲得したことであった。彼らが、民主党的リベラルからトランプ支持へと大きく方向転換したインフラ整備などにかかわる直接的理由やイノベーション信仰とでもいうべき発想基盤の共通性の問題は、そこで論じているのでここでは繰り返さない。ただ、イーロン・マスクを事実上トップとしたDOGE(政府効率化省)による大規模かつ乱暴極まる予算削減・人員整理の目的とその根底にある発想の歴史的性格について分析を加えておきたい。
DOGE(Department of Government Efficiency政府効率化省)とは、「政府の官僚主義を廃し、過度な規制を削減し、無駄な支出を減らし、連邦政府を再構築する」ことを目的とし、特別政府公務員に採用された民間人イーロン・マスクを事実上のトップとして、トランプの大統領令によって設置された組織である。その組織としての性格は法律によって設置されている正規の政府機関ではなく、大統領の諮問機関のようなものであるにもかかわらず、その職員は連邦政府のあらゆる機関に立ち入り、コンピューターにアクセスできる特別の権限を与えられていた。
イーロン・マスクは、その権限を最大限に利用しながら、政府機関の人員整理・予算削減の大鉈を振るい始めた。その乱暴さは大問題であるが、さらに問題なのは、攻撃の矛先が向けられたのが、どういう機関であったかということである。最初にDOGEがやり玉にあげたのは、USAID(アメリカ合衆国国際開発局)であった。この組織は合州国の非軍事的人道支援事業を担ってきたが、腐敗しているとか、食い物にされているとかという口実でほとんどの事業が廃止され、一万人を超える職員の大部分が事実上解雇・退職に追いこまれた。ついで、NIH(アメリカ国立衛生研究所)が狙われ、コロナなど感染症対策が攻撃の対象となった。さらに、CFPB(消費者金融保護局)が攻撃され、PBS(公共放送サービス)・NPR(ナショナルパブリックラジオ)への補助が打ち切られ、連邦教育省の解体が画策された。
こうしたDOGEの動きと、トランプ政権周辺のDEI(多様性・平等性・包括性)を実現しようという政府機関および民間企業での取り組み・施策を停止させようとする動き、大学生によるイスラエルのガザ攻撃批判を反ユダヤ主義と断じ、それへの弾圧・対応策をとらない大学への補助金の打ち切りや免税資格の取り消しなどの威嚇とを考え合わせると、トランプ政権の本当の狙いが見えてくる。
その狙いの一つは、IT起業家・投資家が思想的よりどころとするリバタリアン的小さな政府論の実現、規制緩和である。現在、DEIにしろ、環境問題にしろ、医療・福祉問題にしろ、いずれも企業活動にとっては規制条件として作用してくる。IT企業に絞って言えば、プラットフォーム運営上、独占禁止法による規制のみならずプラットフォームを通じて流される様々なフェイク情報や違法・有害情報の管理責任問題などにかかわる体制整備の問題が企業活動を拘束する規制の強化になるのを忌避したいという願望もある。
もう一つは、弱者救済や人道援助という政策が公平を欠いている、あるいはイノベーションと経済成長を妨げる要因になっており、そうした要因は覚醒した意識高い系のインテリ=左翼(合州国ではリベラルという)によって作り出されていると主張することによって、左翼的リベラルなインテリへの反感をあおり、”MAGA推し”の人々の支持につなげようということである。
さて、このような規制緩和や人道主義的施策への反感の歴史的・思想的背景について述べることにしたいが、この問題は長い歴史を踏まえて、詳細な検討を要する問題であるから、ここではその一端を示す一人の学者の所説を紹介するにとどめることにしたい。その学者の所説とは、今から200年以上前に出版されたマルサスの『人口論』で主張されている考え方である。マルサスはイングランドの救貧法について「もっとも価値のある部分とは一般に考えられない社会の一部分(浮浪者などの貧民)によってワークハウス(救貧院)で消費される食物の量は、さもなければもっと勤勉な、またもっと価値のある成員のものとなったとおもわれるわけまえをへらし、またその結果、おなじやりかたで、よりおおくのものを他人にたよるようにさせる」、「個人のばあいには苛酷におもわれるかもしれないけれども、他人にたよる貧困は不名誉と考えらるべきである」、「この刺激をよわめるすべての一般的こころみは、たとえその明瞭な意図がどれほど慈善的なものであっても、つねにみずからの目的をさまたげるであろう」、「イングランドの救貧法は、一般民衆の貯蓄の力と意志を減ずるし、またしたがって、節制と勤労、したがって幸福へのもっともつよい誘因の一つをよわめる」という。
ここには、現代の合州国で見られる福祉政策批判の原型が示されている。そして、「節制と勤勉」というプロテスタンティズムの倫理としてもっとも重視される徳目が掲げられていることも、宗教レベルの社会意識が底流となっていることを示している。
また、マルサスの『人口論』執筆の意図の一つが、フランスの啓蒙思想家コンドルセのような「人類完成可能性の擁護者」への批判にあったことも注意しておきたい。コンドルセはその『人間精神進歩史』の序で、その執筆意図について「わたくしは、人間が如何に多くの時間と労力とを費やして、新しい真理によってその精神を豊富にし、その知識を完成し、その能力を拡大し、もってこれらの精神や知識や能力を自分の幸福のためにも、共同の福祉のためにも、もっともよく使用する方法を学ぶことができたかということを、示そうと欲しただけである」と書いている。これは、今日から見れば、いささかナイーブにすぎる人間観かもしれない。しかし、マルサスの「第一、食糧は人間の生存に必要であること。第二、両性の間の情念は必然であり、ほぼ現在の状態のままでありつづけるとおもわれること」を、人間の本性についての不変の法則であるとするあまりに単純な人間観と引き比べてみるとき、トランプやIT長者達の人間観がいかなるものか問うてみることも必要であろう。
蛇足ながら、IT長者達が刺激をうけたというSF小説に登場する人間たちの描かれ方をみるとかなりステロタイプ化されている印象を拭えない。メタバースやアバターの発想を与えたとするニール・スティーブンスンの『スノークラッシュ』にしても、月に建設された植民都市の反乱を描いたロバート・ハインラインの『月は無慈悲な夜の女王』にしても、プロットの面白さに比して人間像の単純さには思考を誘う力はない。IT長者達が刺激をうけたのが、アイデアやプロットだけだとしたら、それで世界を動かされてはたまらないと思うばかりである。
トランプ的なるものといかに対峙するか
以上、トランプ政権は100日間で何をしてきたのかをみてきたが、いくつかはっきりしてきたことがある。トランプ政権が次々に打ち出す荒唐無稽とも思われる政策は、単なる思い付きではなく、それなりに相関連する一連のものとみるべきことがその一つである。もちろん、明確な理論体系や綿密な現状認識に裏付けられているとまでは言えない。また、支持基盤となっている社会集団・階層も完全に利害の一致した状態にあるわけではなく、相反する利害関係にあることも少なくない。したがって、政権内部にその利害対立が持ち込まれ、政権が分裂・動揺する可能性もゼロではないこともたしかである。
しかし、そのような内部対立の激化による政権の自己崩壊を期待してもその可能性はそれほど大きくない。トランプの登場にはアメリカ社会の構造的変化を反映している面があり、トランプは、その変化に、伝統的なものの保守・復活と最先端にたつ技術的な革新とに両足をおいて対しようとしているからである。その両者は、いわば共通の敵、すなわちウォーク・リベラル・左翼・エリート・社会主義勢力と対決するという構図の中で手を結ぶという仕掛けの中に位置づけられている。今のところその仕掛けは破綻をみせていない。
したがって、トランプと対峙するには、この仕掛けを崩す戦略が必要になる。トランプ政権のマスコミ攻撃や大学への締め付け、教育制度破壊、憲法的制度の骨抜き、こうした思想・文化・社会意識レベルの政策への対抗こそが長期的に重要になってくる。これは、アメリカ合州国にだけ特有の問題ではない。多かれ少なかれ、トランプ的なものは世界中に拡散していることを考えれば、トランプ的なものに対峙する国境を越えた連携を模索する必要がある。関税の脅しによって世界が分断されること、それこそがトランプ関税政策の狙いだからである。トランプ的なものと対峙するためには、自分だけ関税政策の適用を免れるために、トランプの性格を分析したり、ディールの材料を探したりすることほど無用なことはない。まず、必要なのは自らの内部に、自分が暮らしている国の中にあるトランプ的なものを摘出することが求められているのである。
きつかわ・としただ
1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任。現在名誉教授。本誌前編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)、『丸山真男「日本政治思想史研究」を読む』(日本評論社)など。
特集/どう読むトランプの大乱
- 20世紀の文明史的遺産を再構築する東京大学教授・遠藤 乾×本誌代表編集委員・住沢 博紀
- フェイクのトランプは日本政治を写す鏡慶応大学名誉教授・金子 勝
- トランプ政権の暴政を正当化する論理を撃つ神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長・橘川 俊忠
- トランプ政権に100日目の壁国際問題ジャーナリスト・金子 敦郎
- 苦難のヨーロッパ――恐れず王道を龍谷大学法学部教授・松尾 秀哉
- 保守党のメルツがドイツの次期首相在ベルリン・福澤 啓臣
- トランプ大統領の再登場で岐路に立つ国際気候変動対策京都大学名誉教授・松下 和夫
- AI封建制のパラドクス労働運動アナリスト・早川 行雄
- 労働問題は高校でどう教えられているのか元河合塾講師・川本 和彦
- 社会医療法人山紀会(大阪市西成区)が暴挙大阪公立大学人権問題研究センター特別研究員・水野 博達
- 昭和のプリズム-西村真琴と手塚治虫とその時代ジャーナリスト・池田 知隆