論壇

「海の遺骨収容」の可能性切り開く

宇部の市民団体ー183人犠牲 長生炭鉱水没事故

「新聞うずみ火」記者 栗原 佳子

「海の遺骨収容」の可能性切り開く

戦時中、山口県宇部市の海底炭鉱「長生炭鉱」で起きた水没事故犠牲者の遺骨収容をめぐる動きが重要な局面を迎えている。地元の市民団体「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会(刻む会)」が昨年秋、炭鉱の入り口(坑口)を掘削。専門のダイバーによる本格的な潜水調査を進めている。困難を一つひとつ突き崩す民間の取り組みは、本来責任を果たすべき国を「包囲」しつつあり、4月7日の参議院決算委員会では、大椿ゆう子議員(社民)が「国はいかなる責任を果たすべきか、政府として判断していく」という首相答弁を引き出した。事故から83年。遺骨を収容し、犠牲者の尊厳を回復する道筋が見えてきた。

「栄光の歴史」から欠落

長生炭鉱の遺構「ピーヤ」。遺族たちが船で献花に =4月3日、山口県宇部市

JR宇部線床波駅から徒歩15分。遠浅の海に「ピーヤ」(排気・排水筒)が2本突き出た独特の風景が見えてくる。山口県宇部市東部の床波海岸。ピーヤは、長生炭鉱が確かに存在したことを示す遺構だが、ここで1942年に起きた「水非常」(水没事故を意味する炭鉱用語)で朝鮮半島出身者136人を含む183人が命を落とし、遺骨が回収されずいまも海の底にあることは、地元でも長い間、歴史の闇に埋もれていたという。

長生炭鉱は海沿いに点在した宇部炭田の一つ。隣駅の常盤には炭鉱都市・宇部の歩みを伝える石炭記念館がある。宇部炭田閉山2年後の1969年、県・市、石炭関係者はじめ市民の寄付金で開館した。「石炭のもたらした多大な恩恵に感謝する」とうたうが、展示内容からは、その労働力に強く依存したはずの朝鮮半島出身者の存在は見えてこない。長生炭鉱の水没事故については、掲示された年表に「長生炭鉱、水没事故が発生(犠牲者183名)」とあるだけだ。この一行も、「刻む会」が市に抗議、09年にやっと付け加えられたもの。当初は「殉職者」。さらに市と交渉を重ね、「犠牲者」に修正されたという。 

館内には海底炭田が中心だった宇部の採炭現場も再現されている。「宇部炭田の発明品」の一つとして「牛蒡木固(ごぼうきこ)」の模型もあった。海水流入で大事故になりそうな箇所に、坑木と植物のシダを組み合わせてつくる簡易防水ダム。坑木がゴボウに似ていることからこう呼ばれたという。「海底炭鉱として知られた宇部独特の技術」と説明書きがある。長生炭鉱でも使われたが、水没事故を食い止める力にはならなかった。

石炭供出優先の「人災」

長生炭鉱は1914年に開坑され、32年から本格的に操業を開始した。最盛期には炭鉱内外で1000人超が働き、最大で年間16万㌧の石炭を算出した。炭鉱としては中堅クラスだが、「生産性日本一」を記録したこともあった。水没事故後も2坑、3坑と操業を続けようとしたが、敗戦とともに実質的に閉山。登記簿上は1974年に抹消登記されている。

水没事故が起きたのは1942年2月3日の朝だった。坑口から1・1キロ沖の坑道で落盤が発生、バリバリバリドーンという轟音とともに天井が抜け、滝のような海水が坑道に流れ込んだ。天井まで押し寄せる海水になすすべもなく、坑口までたどり着けた人はごくわずか。海に水柱が吹き上がり、駆けつけた家族らが泣き叫ぶ中、183人を坑道に残したまま、坑口は木の板で塞がれた。

遺族の怒りと悲しみは大きく、翌日、暴動が発生。特高や憲兵も出動し、弾圧で4人が死亡したという。怒りをおさめるため、会社側は、近くの西光寺に位牌を作らせ、浜で僧侶17人が読経するという盛大な葬儀をし事態の収拾を図った。弔慰金は日本人が300円から5000円、朝鮮人は30円程度だったという。社宅を追われた家族も少なくなかった。

なぜ事故は起きたのか。「刻む会」共同代表の井上洋子さんは「法律で禁止された浅い層を発掘したため海水が流入した『人災事故』」と指摘する。当時の経営者、頼尊(らいそん)淵之助氏自身が戦後、『自分が法律違反をして採掘したため』と明言しているが、長生炭鉱では、海底下40m未満は採掘できないとする法律に違反し、30m前後で操業していた。数少ない生還者の一人、秋順得(チュ・スンドク)さんは「頭の上で船のポンポンという焼玉エンジンの漁船が通る音やスクリュー音が聞こえて恐ろしく、ここから逃げることばかり考えていた」という。

前年11月30日にも異常な出水があり、事故数日前からも海水が漏れていた。事故当日は、坑口からネズミたちが逃げ出してきた。入坑をためらう労働者たちを、現場監督が木刀を振り回し追い立てた。その日早朝、異常出水で呼び出され入坑した電気係の原田里美さんの証言では、出水したのは、前年11月に簡易防水ダムの牛蒡木固を組んだ場所で、その簡易防水ダムを開けてまで、石炭を掘っていたという。

前年12月8日の日米開戦から2か月。戦時下、石炭の増産が求められる中、特にその日は「大出しの日」として、石炭1000函(1函1000キロ)供出を目標に、全員に出勤命令がかかっていた。事故の直接の原因は、水漏れがあって危険な状況であるにもかかわらず、坑道の天井を支える炭の柱まで払ったことだとされるが、何が何でも要請された量を供出するため、安全は度外視され、労働者の生命は顧みられなかった。

戦時中起きた最悪の炭鉱事故。しかし、当時の新聞は、山口県版などでベタ記事で一報を伝えただけだった。

「まるで捕虜収容所」

たびたび出水を繰り返す長生炭鉱は危険な炭鉱として知られ、地元の人たちに敬遠された。当時、山口県内の炭鉱における朝鮮人労働者の割合が9・3%なのに対し、長生炭鉱は約75%と突出。「朝鮮炭鉱」とも呼ばれたという。低賃金で朝鮮人労働者を酷使し、急成長を遂げたのだった。

朝鮮人労働者は生活苦のため日本への渡航を余儀なくされた「自由渡航」の人々と、39年にはじまった「募集」で連れてこられた人々がいた。「募集」といっても自発的に応じるわけではなく、村に数が割り当てられるなど実質的な強制連行だった。当時、長生炭鉱の鉱務課が作成した「集団渡航鮮人(ママ)有付記録」によれば39年から41年にかけて、14回にわたり1258人の朝鮮人労働者が集められている。有付とは仕事に就かせるという炭鉱用語で、1258人は宇部の炭鉱で最も多い。

「募集」の労働者たちは「合宿所」に収容され、過酷な労働に駆り出された。「合宿所」は高い塀に囲まれ、24時間監視の目が光っていた。戦後足を踏み入れた人の証言では壁に「おなかがすいた」「お母さん帰りたいよ」など、ハングル文字の走り書きがいくつもあったという。

刻む会が制作した資料集「アボジは海の底」(1~5集)には生存者の生々しい証言が収められている。金景鳳(キム・ギョンボン)さんの場合は41年、18歳の時、突然家にやってきた日本の巡査に連行された。オモニ(母)は巡査の足を引っ張り、泣いて引き留めた。長生炭鉱の坑道は空気が悪く、コレラが流行し、金さんも罹患した。死んだと思われ、火葬場に連れていかれそうになったという。

景鳳さんは、苦しい炭鉱の生活を抜け出すために3人で逃亡。しかし地理もわからず、捕まって見せしめの激しいリンチを受けた。景鳳さん以外の2人は亡くなった。水没事故は、2交代制の人員が入れ替わってまもなく発生、運命を分けた。

当時25歳の金元達(キム・ウォンダル)さんは、その直前、故郷の母にあてた手紙を「自由渡航」の同胞に密かに託していた。

〈お母さん、私は今、日本の山口県というところで炭鉱の仕事をしています。海の下に坑道が通っていて、海の上を通る漁船のトントンという音も聞こえてくるほどのとても危険な場所です。でもどんな手段を使ってでも、必ず脱出するつもりです。心配しないでください。
脱出するにもとても難しいです。垣根は3㍍ほどの厚い松の板で囲ってあり、その外側をぎっしりと鉄条網が張り巡らされています。その囲いの中にある宿舎はまるで捕虜収容所のようなところです。警備も厳しく、一切の自由もなく、外出もできない拘束の中で生活しています。出入り口の門には、武装した警備員たちが厳めしく見張っています。体の具合が悪いからと言って、その日の仕事を拒否でもすると、動物以下の扱いを受け、暴力を振るわれ、食事もろくにもらえず、空腹で過ごす日々が多くあります。
この手紙は、ここで家族とともに暮らしている韓国人労働者にこっそりと頼んだのです。この人は家族と一緒に住んでいるので、ある程度自由に外の出入りができるのです。いずれにしろ、必ず脱出して必ずお母さんのところに帰ってきます〉

願いはかなわず、元達さんはいまも海の底にいる。

会社は逃亡防止のため、賃金を強制的に貯金させた。それでも命がけで逃げる者が後を絶たなかった。14次の「募集」のうち第1回目は238人のうち51人が逃走。40年10月17日に到着した第5回の82人の場合、入所式までの2日間に13人、その後4日間の教習期間中に8人が逃走した。家族を連れて逃走した「自由渡航」者の証言もいくつも残されている。

追悼碑に「強制連行」刻む

埋もれた歴史に初めて光を当てたのは地元の高校教諭、山口武信さん(2015年に死去)。資料を掘り起こし、長生炭鉱の元労働者らにも取材を重ね、西光寺の位牌を確かめるなどして1976年12月、郷土誌に「炭鉱における非常ー昭和十七年長生炭鉱災害に関するノート」と題する論文を発表、〈これは単なる炭鉱非常ではなく日本の植民地政策や人権問題までも含んでいるのではあるまいか〉と提起した。

山口さんを代表に、刻む会が発足するのは水没事故犠牲者の50回忌にあたる1991年。在日韓国・朝鮮人の指紋押捺拒否運動を支援してきた市民グループが前身で、「日本人として謝罪の文言を含めた碑文と、犠牲者全員の氏名を刻んだ追悼碑の建立」を掲げた。長生炭鉱跡地には82年に地元有志が建てた「殉難者之碑」があり、「183名の男達は海底に眠っている。永遠に眠れ 安らかに 炭鉱の男達よ」と刻まれているが、犠牲者の7割が朝鮮人だった事実は伝わってこない。

最初に取り組んだのは、本人の住所宛てに送る「死者への手紙」だった。会の発足と目標を記すとともに、国や元経営者が何の連絡もせず放置してきたことを詫びる文面。韓国と北朝鮮の住所にあわせて118通を投函、韓国から17通の返信があった。父親らが長生炭鉱で亡くなったことを初めて知った遺族も少なくなかった。遺族同士が手を取り合い92年、韓国で遺族会結成。刻む会は毎年、遺族を招いて追悼式を開いてきた。

13年に完成した追悼碑 =4月3日、山口県宇部市

13年2月、床波港近くに「追悼ひろば」を整備、追悼碑を建立した。犠牲者全員の名前、ピーヤを模した2本の石柱にそれぞれ「強制連行 韓国・朝鮮人犠牲者」「日本人犠牲者」と刻んだ。集まった市民の募金は1600万円。刻む会と遺族会の追悼文を日本語とハングルでパネルに掲示、刻む会は「朝鮮人とその遺族に対して日本人として心からおわびする」「このような悲劇を生んだ日本の歴史を反省し、再び他民族を踏みつけにするような暴虐な権力の出現を許さないために、力の限り尽くすことを誓う」などと記した。

土地探しなどにも苦労を重ね、22年の歳月を要した念願の追悼碑。刻む会は間髪入れず「遺骨発掘・返還」という新たな目標に向けて歩みだす。きっかけは碑の除幕式後の追悼集会。遺族たちから「これで運動をやめようとしているのではないのか」などの厳しい問いを突き付けられた。閉会間際、病身を押して壇上に上がった代表の山口さんは「遺骨発掘は手がつけられないと考えていたが、これからは手をつけなければならない。遺族はどれだけ悲しいものか、それを思えば、しなければならない」と声を絞り出したという。

小さな地方の市民運動は壮大な目標を掲げ、ともかく動き出す。15年、電気探査の専門業者に依頼し、3日かけて坑口の位置を確認した。坑口は埋められ、一帯は雑木林となっていた。各地の市民団体の経験に学びながら、18年には初めて日本政府との交渉にこぎつけ、19年には遺族会とともに韓国政府との交渉も実現した。

市民の力で坑口開ける 

コロナ禍で中断を余儀なくされた日本政府との交渉が23年12月8日、再開された。遺骨の発掘・返還を目標に掲げてすでに10年。楊玄(ヤン・ヒョン)会長ら韓国の遺族会も初めて参加した。 

戦時中の朝鮮半島出身の旧民間徴用者の遺骨問題をめぐっては、2004年の日韓首脳会談で、当時の廬武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が返還を要請。小泉純一郎首相は「何ができるか真剣に検討する」と応じ、2005年の日韓協議で「人道主義、現実主義、未来志向」の三つの原則に基づいて取り組むことが合意された。担当の厚労省「人道調査室」には毎年約1000万円の調査予算が計上されている。

しかし、厚労省は3原則の「現実主義」とは、寺などに収められ納められている「見える遺骨」が対象なので、現段階で遺骨が見えない長生炭鉱は対象外だとした。「海底のため遺骨の位置・深度が明らかでない」ため、調査は困難だと従来の説明を繰り返した。遺骨収集を「国の責務」とした「戦没者遺骨収集推進法」(16年)についても、長生炭鉱の犠牲者は「戦没者」には該当しない、とらちが明かない。

「水中ドローンを使えないか」など具体的な提案も出た。「200メートルしか使えない」と厚労省。「だったら200メートルやってみたらいいじゃないか」ーー。20歳のおじを亡くした楊会長は「人としてあるべき基本的な良心と人権と人道主義という言葉が全く通じない政府ですか? 実に悔しく、もどかしく、非常に遺憾で残念でたまりません」と怒りをにじませた。

事故から80年以上。犠牲者の妻や子は次々と他界し、その次の世代も高齢になりつつある。なのに厚労省は調査すらせず「困難」と決めつける。刻む会は「政府の『やらない口実』を潰す」「政府に遺骨発掘の決断を求めるために、自分たちで遺骨の所在を明らかにする」と決断、昨年2月、「坑口を開ける」と宣言した。「この問題は強制連行・労働の象徴的な事件。国策で安全よりも石炭供出が優先され、命が失われた。遺骨発掘と返還の過程を通して、歴史と向き合い、政府が責任を取る道筋をつくっていきたい」と。

日本と韓国でクラウドファンディングを実施。1200万円を集め、昨年9月、地下4㍍の地中から重機で坑口を掘り当てた。縦1・6メートル、横2・2メートル。左側はトロッコが走り、人間はその横をかがんですれ違うのがやっとの狭さで、過酷な労働をしのばせた。

坑口前で、犠牲者の金元達さんの手紙を孫の永哲さん(左)が朗読。涙をぬぐう全錫虎さん =24年10月26日、山口県宇部市

この坑口からの潜水調査はこれまで、昨年10月、今年2月、4月の3回、韓国の遺族らの見守る中で行われた。調査に入ったのは閉鎖環境での潜水経験が豊富な世界的な水中探検家、伊左治佳孝さん(36)。4月1日、2日は韓国のダイバー、金京洙(キム・ギョンス)さん(42)、金秀恩(キム・スウン)さん(41)も参加、共同で遺骨収容への可能性を探った。2人とも伊左治さんと沖縄の大規模洞窟調査などで活動を共にした仲間で、世界トップレベルの実力者。「遺骨を家にお返ししたい」と参加。視界の悪さなどに阻まれたが、「次の機会があればいつでも力になりたい」と話した。

事態を大きく動かしたのは伊左治さんの存在だ。一昨年12月の政府交渉の動画を視聴。専門家としての関心から見始めたが、「誰かがやらなくてはならないこと」と決断、「自分の知識や経験が役に立つなら」と刻む会に協力を申し出たという。「一般的なダイバーでは到達できないようなエリアへの潜水が必要で、かつ名乗り出る人がいなかったためずっと作業がされてこなかったのだろう。ご遺族は高齢で、先送りはできない。悲しい遺骨を悲しいままで終わらせないように、私の動きが大きな動きの一歩になって、遺族の方の安らぎにつながれば」と伊左治さんはいう。

首相「国はいかなる責任果たすか」

さらなる展開は、首相答弁としてあらわれた。4月7日の参院決算委員会。大椿議員が石破首相に長生炭鉱の遺骨収容についてただすと、石破首相は「いかに安全にそのような作業をしていただけるか、政府としても、これは、勝手にやってくださいとはならない」「潜水の専門家の方々同士の話し合いというものから活路が開けていくこともあるのではないか」などと述べ、「必要があれば現場に赴くことも検討したい」「国はいかなる責任を果たすべきか、政府として判断していく」などと踏み込んだ。

それから約2週間後の4月22日に行われた政府との意見交換会。遺骨収容の技術・財政支援や政府関係者の現地視察などを求めた刻む会に対し、厚労省人道調査室は「遺骨の埋没位置や深度が明らかではなく、安全性に懸念がある」などと従来の見解を繰り返しつつも、「専門的知見を踏まえ対応を検討したい」と回答した。井上さんは「石破首相の答弁の重さを踏まえたうえで、今後の方針を決めていかざるを得ないのでは。大きな前進だ」と歓迎した。

伊左治さんは次回、6月18、19日に300メートル沖合の「沖のピーヤ」から潜水調査を行う予定だ。坑口からの調査では坑道内に落盤とみられる箇所が判明。そのため、遺骨があるとされる地点にも近く「遺骨に至る可能性と安全性、確実性がある」とみて、沖のピーヤからアプローチするという。その準備として、刻む会はピーヤ内に折り重なった鉄管や木材などを除去する作業をはじめた。鉄管はクレーン台船で取り除き、その下にたまった木材は地元のダイバーが潜水作業を繰り返しながら撤去するという。

問題は資金だ。クレーン台船による作業だけで1日100万円かかる。刻む会は6月の潜水調査のため、700万円を目標に、第三次クラウドファンディングをはじめている。7月21日まで(For GOOD 長生炭鉱で検索)。坑口の補強工事も待ったなし。ちなみに年間約1000万円の予算を計上する人道調査室は年間数万円程度しか執行していない。

刻む会事務局長の上田慶司さんは「私たちが次にすることは第三次クラウドファンディングを成功させ、困難なピーヤの障害物を撤去し、ご遺骨への道を切り開くこと。次に局面を動かすのは6月18日、19日。政府がやらなくても、我々がやり抜くということで、この問題を動かしていきたい」と意気込む。「国に任せず、民間がお金を集め先に動き、国に追認させる」スタイルだ。上田さんは「戦没者遺骨を家族の元へ」連絡会で活動するなど、軍人・軍属の遺骨問題をはじめとする政府交渉の経験が豊富。「政府・行政が一定の譲歩をしても日韓問題では最終的に譲歩しない」ことを熟知している。何より優先したのは遺族たちに残された時間が少ない、ということだ。

遺族たちの存在が原動力

井上さんも「時間がない」と、遺族の一人、92歳を超えた全錫虎(チョン・ソッコ)さんの名を挙げてこう言った。「お父さんの遺骨を抱かせてあげたい」

水没事故が起きた当時、錫虎さんは小学5年生。40歳の父・聖道(ソンド)さんを亡くした。身重だった母の千谷之(チョン・コクチ)さん、錫虎さんら4人のきょうだいはわずか15円で社宅を追い出され、錫虎さんの同級生の家の馬小屋で雨露をしのいだ。解放後、帰国してからも一家は苦労に苦労を重ねたという。千さんは04年に他界。いつも母に付き添っていた錫虎さんが、昨年10月26日の来日時は息子らの介助で車いすに乗っていた。82年ぶりに開いた坑口前で、錫虎さんは父の祭祀(チェサ)にのぞみ、「お父さん、私が来ました」と韓国語で叫び泣き崩れていた。

「ここまで続けてこれたのは韓国の遺族会のおかげ。癒えることのない遺族の悲しみや憤り、その後の辛い人生は、私たち日本人の心深く刻まれ、運動の原動力になった」と井上さん。今年は戦後80年、日韓正常化60年。「この節目の年に、あのように海の底に捨てられた遺骨を残したまま未来志向など語らないでほしい。日韓の共同事業として『長生炭鉱の遺骨収集・返還』が宣言されれば、未来志向はより確かなものになる」と思い描く。

今年2月の追悼式には韓国政府行政安全部の金敏在(キム・ミンジェ)次官補も参列。「韓国政府は遺骨が一日も早く故郷や家族のそばに帰れるよう最善を尽くす」とあいさつした。韓国の遺族会は遺骨収容に備え、DNA採取を進めてきたが、ここにきて韓国政府が主体となって動き出したという。

遺族会の楊会長は「国も宗教もイデオロギーも関係ない。遺骸を発掘し、安らかに故郷の地に安置することができますように」と話していた。日本人犠牲者は47人。そのうち沖縄出身者が5人いた。3人の遺族が判明している。北朝鮮にも遺族がいるはずだ。昨年10月26日、坑口前では、日韓の遺族が肩を抱き合う姿があった。全錫虎さんは、同じく父親を亡くした日本人遺族の手を握り締めて離さなかった。刻む会が遺族会とともに歩み、信頼関係を築いてきた長い歴史を象徴する光景だった。

「前回よりは今日、今日よりは明日と一歩一歩だと思う。私たちが闘っているのは政府がいう(見えない遺骨は調査しないという)現実主義。市民がこうして努力していく姿こそ現実主義だ」。4月の潜水調査を見守った井上さんの言葉だ。近い将来、伊左治さんによって遺骨の所在が明らかになり、日本政府を動かし、犠牲者と遺族の尊厳回復への道筋が確かに描かれることを願っている。

新聞うずみ火 2005年10月創刊。14年、第20回平和・協同ジャーナリスト基金賞(奨励賞)受賞。20年、第3回「むのたけじ地域・民衆ジャーナリズム賞」大賞受賞。1部300円。年間購読料は300円×12カ月分で3600円。書店では販売しておらず、「ゆうメール」で送付している。ご購読希望の方は新聞うずみ火(電話 06・6375・5561、FAX 06・6292・8821 Email:uzumibi@lake.ocn.ne.jp ホームページはこちら) へ。

くりはら・けいこ

群馬の地方紙『上毛新聞』、元黒田ジャーナルを経て新聞うずみ火記者。単身乗り込んだ大阪で戦後補償問題の取材に明け暮れ、通天閣での「戦争展」に韓国から元「慰安婦」を招請。右翼からの攻撃も予想されたが、「僕が守ってやるからやりたいことをやれ」という黒田さんの一言が支えに。酒好き、沖縄好きも黒田さん譲り。著書として、『狙われた「集団自決」大江岩波裁判と住民の証言』(社会評論社)、共著として『震災と人間』『みんなの命 輝くために』など。

論壇

ページの
トップへ