コラム/若者と希望
反出生主義の入り口で思うこと
私たちは「生まれてこないほうが良かった」のか?
大学非常勤講師 米田 祐介
「・・・・・・でも、自分の子どもがぜったいに苦しまずにすむ唯一の方法っていうのは、その子を存在させないことなんじゃないの。生まれないでいさせてあげることだったんじゃないの」(川上未映子『夏物語』より)
「スープにハエが落ちたという不幸は、スープの美味しさによっては相殺できない」。私たちは等しく苦痛の不在を奪われて、この地上に誕生する。“痛み”のない生を想像することはできないだろう。「生まれてこないほうが良かった」。この暗き時代のなかで、いまこの瞬間にもちいさな惑星のどこかで、“痛み”に耐え忍び仄かに生の光を灯している人たちが、かくじつに居る。日本では若い人の自殺が叫ばれて久しい。2024年度、小中高生の自殺者は過去最多となった。世界は果てしなく広く、人生は思うより長い。“これから”というときに、光はついえる。
「親ガチャに、失敗した」と嘯く声がきこえてくる。“強さ”が求められる社会で生きるということ。だが、努力の条件は平等か。ぜんぶ、〈わたし〉の責任か。その嘯きは、真っ当な批判と倫理であると同時にひとつの救済でもある。ときとして運命論は残酷な慰めにすらなる。私たちは、否応なくこの地上に投げ出され、生まれる地域も、時代も、親も、なにもかも、選ぶことはできない。産むことと、生まれるということ。この溝にある無限ともいえる圧倒的な非対称性。そこに光はあるのだろうか。
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南アフリカの哲学者デイヴィッド・ベネターの『生まれてこないほうが良かった――存在してしまうことの害悪』(Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence)は、2017年に邦訳刊行された(原著は2006年)。まさにこの時代の閉塞感や生きづらさに呼応するかのように、その刺激的なタイトルとともにネット上でもずいぶんと話題になった。時代が要請する生産性の圧力あるいは生殖(出生主義)が前提される社会構造の暴力からの解放を求めて、という側面はいなめないだろう。
本稿では反出生主義(Antinatalism)のほんの入り口にふれてみたい。ベネターは言う。「存在してしまうことは常に害悪である」。主題となるのは端的に、“痛み”だ。たとえ人生にいくら快(幸福)が多くあったとしても、人生のなかに“痛み”がほんの一滴でもあっただけで、生まれてこない方の良さが、生まれてきた良さよりも勝る。そう。「スープにハエが落ちたという不幸は、スープの美味しさによっては相殺できない」。この点が彼の主張の核心だ。
たしかに親が子どもを産むとき、子どもは一方的にこの地上に誕生させられる。それは生まれてくる子にしてみれば暴力とすら言えるのかもしれない。誰も「生まれてきたいです」と言って、その声を聞いた親が「じゃあ産みましょう」と産むわけではないだろう。出生はつねに出生させる側の暴力として、ある存在を地上に生み出す構造になっている。そこに正当性はあるのかとベネターは問うのである。いわば、反出生主義とは、すべての人間あるいはすべての感覚ある存在は生まれるべきではないという思想ともいえる。
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だが、注意しよう。よくある極端な誤解を解くことを通じてベネターの理論枠組みを確認してみたい。「生まれてこなければ良かったのなら、自殺すればいいんじゃないか」というものである。たとえば「生きるに値する人生」という言葉はよく聞く表現だ。が、これは極めて曖昧であって、ベネターの理論枠組みにおいて決定的に重要なのは、今はまだない「始めるに値する人生」(生の〈開始〉)と今ある人生としての「続けるに値する人生」(生の〈継続〉)とを徹底的に区別して議論しているところである。
つまりベネターが「存在してしまうことは常に害悪である」というとき、明確に前者「始めるに値する人生」か否かを問うているのである。だから、「自殺すればいいんじゃないか」とは後者すなわち「続けるに値する人生」の位相にかかわる問いであり、ベネターは自殺を促進しているわけではないだろう。
またときに安楽死とも結びつけて議論される向きもあるが、同じくそれらはすでに存在してしまっている私たちの人生の〈内部〉において「続けるに値する」か否かにかかわる問題であり、ベネターは〈始まり〉そのものという圧倒的に規格外に〈外部〉を問題としているのだ。ここにベネターの大きな特徴がある。いわば「ガチャを回す」という行為自体を常に害悪としているといえよう。
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ところで、あなたはこう考えたことはないだろうか。「幸せになりたいわけではないけれど、不幸にはなりたくない」。幸福は抽象的で曖昧であるが、不幸は具体的で現実的である。肌感覚で実感がある。だからふと、そのような考えも浮かぶ。その感覚は彼のロジックへの入り口になると思う。
ベネターは、シナリオAとして人物Xが実際に存在する場合とシナリオBとしてXが決して存在しない場合を設定し二つのシナリオの快苦の比較を行う。彼の理論の核となるこの快苦の非対称性論証について本稿では詳しく触れることはできないが(詳細については、ぜひ末尾の参考文献を参照されたい)、ベネターの結論はこうだ。
存在における快楽は非存在における快楽の欠如に対して優越性を構成しない。なぜならば、そこでは誰も奪われないからであって、苦痛を回避することは快楽の実現に対して優先性を構成するのである。消極的義務論の立場といってもいい。端的に言えば、誕生するとは次のことを意味する。そう、私たちは“痛み”の不在を奪われて、いまこの地上に存在しているのである。
同書を通読するに、どの章を読んでも「奪われる」という言葉が折りにふれて語られる。“奪われること”へのセンシビリティというのが、ベネターの思想では通奏低音になっているともいえる。〈奪われ〉への着目は、彼自身の思惑を超え、はからずもこの「生産性」の時代へのラディカルな対抗メッセージともなっている。等しく「存在してしまうことは常に害悪である」ことは、この〈生〉という事実に“属性”に基づく価値の序列をつけない。よく誤解されるが優生思想とはむしろ真逆にある思想といってもいいのかもしれない。
もとより行きつく先は誕生の否定であったとしても、そのセンシビリティは〈何か〉に風穴をあけることになるのではなかろうか。
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それにしてもやはり、つまるところ「スープにハエが落ちたという不幸は、スープの美味しさによっては相殺できない」のか。だが、ここまで読み進めてきたあなたは、いくつもの疑問をもっていると思う。そもそもベネターはいったいどの視点から語っているのか。「生まれてこないほうが良かった」というとき、それは誰にとって良いのかということである。たとえば、私にとって私は生まれてこないほうが良かった、ということと、しかし私以外の誰かにとって私は生まれてきても良かった、ということは両立しうる。視点の設定がベネターの議論にとっては弱みとなっている感はいなめない。
かりに私が生きるなかで生まれてこないほうが良かったという思想にとらわれたとする。だが、私が生きるなかで、私が存在して何かをしたことによって、喜びを感じたり幸せになったりした人たちがいるだろう。生まれてこないほうが良かったという思想は、その誰かが感じたところの/感じるであろう喜びや幸せを私の存在とともに“奪っている”。一見すると私の人生をゼロにしてしまうだけの思想のように見えるが、じつはそうではなく、他者の喜びや幸福をも巻き込んでしまっている。その暴力が発揮される範囲は私を超えて他者にまで広がるのである。反出生主義はこのような暴力性をはらんでいる。
一方で、存在させることによる苦痛/不幸の不在を奪うという暴力性があり、他方で存在させないことによって私を超えた他者の快楽/幸福を奪うという暴力性を反出生主義は炙り出す。この文章を読んでいるあなたは、存在してしまって居る。そのことによって、ただそのようにそうとしか言えない仕方でこの世界にかくじつに在る。ベネターの思想への批判的検討とは同時にそうしたことにも気づかせてくれるのかもしれない。
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そうだ。「生まれてこないほうが良かった」という言表は、先にみたように生の〈始まり〉そのものを否定的に捉えているだけで、生の〈つづき〉は否定していなかったことに注意しよう。「生まれてこないほうが良かった」=「今すぐ人生をやめたい」では決してないのである。ベネターの反出生主義という思想には、まだ「生きるということ」を肯定する余地が残っている。
この世界は苦痛に満ちていて、良くない場所だとしながらも、そのような世界でそうとしか言えない仕方で、いま、「生きているということ」に関しては、別に良いと言ってくれている。人生の〈始まり〉を肯定できなくとも、人生の途上すなわち〈いま・ここ〉で生きているということを肯定することはできるはずだ。「生まれる」ということと「生きるということ/いま、生きているということ」は違う。
そもそも、もし私が生まれてこなかったならば、私はいまここにいるはずはないのであり、この問いを考えることすら不可能だ。したがって、「私が生まれてくること」が「私が生まれてこなかったこと」よりも「良い」のかについては、何の結論も導くことはできないだろう。
そうなのだ。私たちはすでに生まれてしまっている。いまから「生まれてこないほうが良かった」といくら嘆いたとしても、それは実現不可能であろう。だとしたら、いまから人生のなかで、「生まれてきて良かった」というふうに変えていく道筋はないのだろうか。先にみたように、ベネターの思想は、すでに始まってしまった私の〈生/物語〉までは否定していなかったはずだ。
この時代に生まれてきてしまったということ。たとえそこに“痛み”があったとしても、それでも人生にイエスと言えるならば、あなたはとりもなおさず、産むことと生まれることとの間にある溝をそっと照らしていると思う。あなたは、きっと、光になれる。
【参考文献】
・朝倉輝一編/小館貴幸・近藤弘美・米田祐介『なぜ生命倫理なのか――生と死をめぐる現代社会の見取図』(大学教育出版、2024年)/・川上未映子『夏物語』(文藝春秋、2019年)/・『現代思想――反出生主義を考える』(47〔14〕、青土社、2019年)/・小島和男『反出生主義入門――「生まれてこないほうが良かった」とはどういうことか』(青土社、2024年)/・品田遊『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』(イースト・プレス、2021年)/・高橋翔太『親になる罪――反出生主義を乗り越えて』(つむぎ書房、2023年)/・ベネター, D./小島和男・田村宜義訳『生まれてこないほうが良かった――存在してしまうことの害悪』(すずさわ書店、2017年)/・森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?――生命の哲学へ!』(筑摩書房、2020年)/・森岡正博『生きることの意味を問う哲学――森岡正博対談集』(青土社、2023年)/・森岡正博・蔵田伸雄編『人生の意味の哲学入門』(春秋社、2023年)
(付記):本稿は、拙稿「奪ってはいけない――デイヴィッド・ベネターの反出生主義に向き合う」朝倉輝一編『なぜ生命倫理なのか――生と死をめぐる現代社会の見取図』(大学教育出版、2024年)を短く改稿したものです。引用・参考頁数は省略させていただきました。
まいた・ゆうすけ
1980年青森県生まれ。本誌編集委員。東洋大学ほか非常勤講師。著書に『なぜ生命倫理なのか――生と死をめぐる現代社会の見取図』(共著、大学教育出版、2024年)、『ケアの始まる場所――哲学・倫理学・社会学・教育学からの11章』(共著、ナカニシヤ出版、2015年)、『歴史知と近代の光景』(共著、社会評論社、2014年)、など。
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