論壇
テキヤ政治家・倉持忠助の「電力問題」(下)の③
フリーランスちんどん屋・ライター 大場 ひろみ
テキヤと露天商
ここまで、テキヤの存在について、自明のもののように扱ってきたが、そもそもテキヤとは何なのだろうか。
普段、私達が「テキヤさん」と認識するのは、寺や神社のお祭りや縁日で、ワタあめ、たこ焼きなどの食べ物や玩具の販売、また金魚すくいや射的などのゲームの屋台を営業している人達(さらにお化け屋敷や見世物小屋の仮設興行も含めて)のことで、それに間違いはない。フリーマーケットや臨時のマルシェなど以外、露店で物を売る人をあまり見かけない現代では、テキヤイコール露天商として自明の存在であるように見えるが、時間を遡ればことはそう単純ではない。
ここではテキヤの沿源などに触れるのは避けるが、少ない資料を掘り起こしてテキヤの定義を求めた代表的なものは、今までも引用してきた和田信義『香具師奥義書』、横田弘三『露店研究』、東京市『露店に関する調査』の3冊だろう(添田知道『てきやの生活』は1970年刊で上記3冊からの引用が多いのでここでは割愛)。この内『香具師奥義書』は1926(大正15)年から1929(昭和4)年までの間に書かれている。『露店研究』は1931(昭和6)年出版、『露店に関する調査』は同じく1931年7~10月に調査実施されている。この短い時期に文献が集中するのは、特に露店やテキヤを巡って様々な社会的問題が起こり、世間の関心が集まったこと、そして彼等の間にも危機意識が高まったことによる。でなければ、倉持忠助も立候補しなかっただろう。
ここでは、以上の3冊から、テキヤとそうでない露天商の違いについて区別する。その後、1920~30年代にかけて起こったテキヤ・露天商を巡る諸問題を時間軸に沿って追い、さらに常設店舗を構える小売商と比較して、テキヤ・露天商との共通、また相反する立ち位置を、「反デパート運動」を通じて考える。
テキヤは「神農を奉ずる者」
テキヤには何々一家・○○会のような組織がある。それぞれ親分子分兄弟分の紐帯で結ばれ、神農という神を奉じている(注1)。これが最も大きな区別だ。これは3冊に共通する説明だ。逆にいえば、これ以外はテキヤとテキヤでないものを一見して区別するのは難しい。
和田信義は、商売のネタを列挙して、それがテキヤかテキヤでないか判別しているが、商品を見ただけではわからず、「商品と其れを商う人の態度と、それに依って判別したものである」。時は1927(昭和2)年の新宿三越近くの路上、ヒラビ(平日)と呼ばれる常設で出る露店でのことだ。ヒラビに対し、祭礼・縁日などに出るのは縁日商人として区別され、こちらは現代と同じくテキヤさんが主だ。
またテキヤの商売の形態には、コミセ(古店。起源が最も古く、寺社に一番近い所に店を張り、飴、風船などを売るおとなしい店)、サンズン(三寸。台の上に商品を並べ、焼きそばや玩具などを売る)、コロビ(口上で面白おかしく商品を売る、映画『男はつらいよ』の寅さんがこれ)、オオジメ(芸を用い客を回りに集めて売る、蝦蟇の油売りなど)、タカモノ(仮設興行、サーカス・見世物小屋など)、植木(文字通り植木屋)などの区別があり、それぞれ組合もあったりするが、端から見れば、当時でもコミセ、サンズンの区別は「業態から云っても業種から見ても殆ど不能」(『露店調査』)。現在ではサンズンがほぼイコールテキヤのイメージだろう。
しかも、『露店調査』では、「明治に入ると共に三寸は早くも親分子分の規範より脱し且つ香具師仲間の交際を離れて、東京市内に10組合を組織し組合長及世話役を選挙して仲間の統制を図り植木商も亦全市の親分を打って一丸とする大東京植木商組合を組織し」「平日及臨時露店亦然り、而して組合長と組合員間の関係は飽くまでも自由なる対人関係を以てしてコロビや古店の様に親分と子分の関係をもたない」。
つまり『露店調査』の執筆者によれば、ヒラビ商人と臨時露店(臨時については後述)はもとより、サンズンは縁日に出ていてもテキヤでないことになり、植木商は組合を結成したことによって同じ親分でもテキヤとは違う組織段階に入り、テキヤ的規範を維持するのはコロビとコミセだけになったことになるが、和田によるヒラビの観察を見ても、もっと混沌としているし、組合結成も彼等の対外的ポーズであるところが大きいのは、今まで倉持らがやたら組織づくりをしてきた経緯を見てもわかるだろう。つまり、外側から当てはめようとしても、露天商をはっきり分別するカテゴリーがない。ただ一つ、現在でもテキヤは神農を奉ずる者である(鵜飼正樹他編『見世物小屋の文化誌』新宿書房参照)。
何故テキヤとそうでない者の区別にこだわるのかといえば、露店での商売を巡って何度も衝突が起こるからだ。
露店の取り締まり
権力が露店に対して制限を加えるのは江戸時代から明治にかけてもあったが省略する。
『露店調査』によれば、1926(大正15)年2月、警視庁は交通取締規則第40条、41条によって露店の規制を発表。40条は所轄警察署が指定した区域内以外は出店不可。41条は店の広さの制限、読売(連載第41号参照のこと)の禁止、魚介など腐りやすいものの販売禁止、道路を汚すな、午後11時以後は閉店、など。この法令の実施は1929(昭和4)年1月1日からだったので、都下露天商が一団となり、1928年12月14日付けで警視庁に陳情書を提出した。
この規則が実施されれば、「全市3万の露天商と12万の其家族は餓死するの已むなきに立ち至るは明らかであります」という切実な訴えは、それぞれ植木商、道具商、おでんすし等飲食商、玩具商飴菓子商、果実商バナナ屋商、説明販売商、文房具新古書籍日用品、雑貨商、青物商から出されている。どの店も共通して訴えるのは出店範囲の規制(間口2メートル奥行き1メートル)が狭すぎて致命的であること。植木商、道具商、飲食関係は閉店規制時間の11時から12時が最も売れる時間帯なので12時までにしてほしいといい、すっかり夜店として定着していることが窺える。それにしても昔の人は随分宵っ張りだ。また説明販売商(コロビのこと)は読売禁止が引っかかるので、「説明販売も考え方に由っては露店の花であり其地域に顧客の足を迎うる余興であります」と、自らの業態を露店の魅力の一つとして強調している。そうだろう、コロビのタンカバイは庶民の娯楽でもあった。ちなみに演歌師出身の倉持は無論コロビである。
陳情のかいあってか、「警視庁第5号発令以前より露店商人となれる者に対してのみ従来の慣例を認むるも発令後の露天商はこれが規定に従うべきことを内示されるに至った」。警視庁第5号発令とはこの40、41条を含むものか(読売新聞1926・1・21号に、48か条に亘る「警視庁が誇る新交通取締令」交付の記事が見える)。
取り締まり対策ということか、1929年1月4日、新年会を兼ね、本所公会堂にて「東京市内の露天商を打って一丸とした組合」として、「東京露商会」を発会した。『露店調査』にはその宣言と規約が載っているが、組合を作る、役員を置く以外に内容がない。相変わらずの対外的結束のポーズだろう。会長に「海原清平氏」が就任したが、この人は添田知道『てきやの生活』によれば、陳情のあっ旋をした元代議士である。
臨時露店の出現
日本は第1次世界大戦(1914~18年)中・後の好景気から一転、戦後恐慌(1920)、関東大震災(1923)、金融恐慌(1927)、昭和恐慌(1930~31)と、「それぞれの時期に多くの企業が倒産・事業縮小を余儀なくされ、多数の労働者が解雇されたので、失業問題が一気に大きな社会問題となった」しかも「1930年~31年の昭和恐慌の時点は景気が最も落ち込み、失業問題が最も深刻に意識された時期であった」(加瀬和俊『失業と救済の近代史』吉川弘文館)。
その対策の一環として、「失業者や無産者に露店を開かせる」。警視庁は1930年7月22日、「各署に対して既存夜店指定地域以外の各町に臨時指定地域を許可し與うるよう通牒を発した」「従来露店業者間には親分がいてそれぞれなわ張りなるものを有し、新規開業する時には不当の金を絞られる等の弊害が行われているので、今後はこの種親分の存在を許さず厳重に取締る」(1930・7・24東京朝日新聞夕刊)。あっという間に申し込みが殺到し、「早くも87ケ所 『露店時代』の現出 家財を売払って悲壮な甦生へ 救われる失業者群」(1930・8・21読売新聞)。
この件については『露店研究』にも『露店調査』にも書かれている(『露店研究』は上記の新聞を引用)が、そもそも『露店研究』は臨時露店に触発されて書かれた。著者の横田弘三は生活苦の末、1930年5月、五反田のテキヤの親分に挨拶して、組合に入れてもらっている。ネス公(素人)ではあるがテキヤ傘下での出店ということになる。すると臨時露店が始まったので、「その生活方法を初心者と共に研究せんとするものである」と、素人向け露店入門を主旨としたのである。横井のような素人とテキヤの中間に位置する人がいるのが、テキヤとそれ以外の曖昧さの証明にもなっているが、奇妙な客観的視点を得てもいる。彼には、臨時露店の出現が、「等しく、貧しき露店ではありながら、前者(テキヤ)は親分の世話になり、生活に活路を得たのと、後者(臨時)は、デモクラテックの時代が、やむなく政府の手によって実行された臨時露店」と、利害と共にアイデンティティーの対立の到来として見えていた。
横田によれば、臨時露店の出店者は、所轄に行って許可願いを出し、許可証をもらい、希望した指定区域へ夕方行って露天商の世話やきに許可証を見せると場所を決めてくれるのだそうだ。世話やきは『露店調査』によれば、「町内から人を出して場所割り其他の世話に当らせ」た。何故なら臨時露店の許可は希望する各町が出願する。失業者だけでなく不況に悩む小売商人が、「吾も吾もと町内有志と相図って次々に出願に及ぶもの市内外171ケ所の多数に上り」、警視庁は「此の度の臨時露店開設に際しては該商人(テキヤのこと)の出店を断然禁止し、純然たる失業者又は素人のみを許す事とした」からである。
町会は臨時露店の集客効果に期待し、前宣伝、余興を開催、出店者に対し電灯料を負担し掃除代を補助するなど優遇した。開店後しばらくは物珍しさもあって「夏の夕涼みに一時は露店をたどって東京市内が一巡出来るとさえ云われた程に盛況を極めた」(『露店調査』)。
しかし、早くもその年の内にさびれて11月には出店は3分の1以下に減少、「どれ位消費者が集まるかを考慮せず無暗に許可した結果で退職金や僅の貯金を資本として露店を開いた失業者たちの中には虎の子の金を元も子も失ったものなど悲劇が続出している」そこで警視庁は「失業露店を整理することになった」(1930・11・24東京日日新聞)。警察の安易な試みはさらなる転落現象を引き起こして失敗に終わった。
この悲劇に巻き込まれる失業者とは、どんな人か。或る調査によれば6大都市の工場労働者被解雇者4563人の内、副業あるいはその他の収入のある者は52%、その内商業が17%、その商業の内の50%186人は露店商人・行商人・呼売商人である(注2)。また加瀬和俊前掲書によれば、「工場労働者らは失業しても土方仕事には就きにくかったため、代わりに各種の行商を行うことが多かったようである」。行商と露店商はイコールではないが、移動先で店を広げて売ったら露店だし、前記の調査のように無店舗小売としては同種に分類される。
また、読売新聞1930・11・17号夕刊によれば、小石川砲兵工廠前の臨時露店は9月から始まり、45軒の時もあったが11月には僅か3軒に。染物屋だった男が不況に困り抜いて、親類から僅かの資本を借り文房具屋を始めたが、問屋が素人と見縊ってろくでもない商品ばかり渡し、同業者も多いので立ち行かなくなったという。元々は堅実だった生産加工業からの流入もあった。大岡聡は『昭和恐慌前後の都市下層をめぐって』において、小資本で比較的容易に始められるので、「昭和恐慌下の失業者や廃業を与儀なくされた商工業者の受け皿の一つは露天商であった」と説明する。
横田弘三は「露店で一家が喰べてゆかれたのは震災前後でした」「露店は1人1個の生活が、出来る位と思うているべきです」という。また「縁日は平日の2・3倍、又は3・4倍にも売れるそうだ」と、テキヤが仕切る縁日とヒラビの売り上げの違いを挙げる(彼自身はヒラビの古本屋)。それはそうだ、毎日売り方も慣れない素人が変わり映えのしない商品を並べていたって飽きる道理だ。縁日や祭礼はたまに出現するハレの日であり、テキヤにはテキヤの、商品の仕入れから陳列、売り込みまでの一貫した腕前がある。それらが揃って人を呼び込む空間が生まれるのだ。1930・11・24の東日の記事でも、「高田馬場駅付近の本職の露店が客あつかいがうまいので駅付近はおかげで繁盛」と、素人露店がテキヤのおこぼれに預かる様子が描かれる。
不振の臨時露店への対策としてか、「昭和6年10月に至り73箇所の臨時露店を常時露店に変更し遂に一般の露天商の出店を許可するに至った」(『露店調査』)というが、その前に警視庁は夜店開設区域600ケ所の内新宿、銀座、浅草馬道、上野広小路などの盛り場や、湯島天神の縁日などの古くからのテキヤのニワバ(縄張)を含む「260ケ所の露店を大整理 今月一杯の許可期限を機に3万の商人大騒ぎ」(1931・3・12読売)、大正15年4月に許可したものが今月限りで期限切れになるので整理するというのだが、テキヤが失業させるのかと騒ぐと「整理は控えて存続さす」(1931・3・16読売)とすぐ撤回。ことある毎にかこつけて、テキヤ排除を試みる警察の目論見と、失業者救済を理由にテキヤの出店・介入を禁止した臨時露店の開設は無関係ではないだろう。
親分の搾取?
大岡聡は前掲論文で「警視庁の取締主義に対して、東京市は露天商への『社会政策的』対応の必要性を認め、業界の改善について露天商の自主的な動きを評価し、それに期待を寄せる認識をもっていた」という。その背景にあったのが、恐慌による極度の不況が「小売商人、露店商人の生計を脅かすに至」る状況であり、対策のための研究として『露店調査』が31年に行われたのだ(注3)。この調査には組長・親分が各地に散在する組員・乾分に対し、調査票の配布・記入に協力するよう尽力したと感謝の念が述べられている。つまりテキヤ自身も不況に苦しみ、改善する意思を持っていたのだ。
しかし東京市の露店改革は、元々露店が常設ではないために粗悪な商品を詐欺的商法をもって売る、買う方も露店を市場でなく歓楽境のように考えているので、それから脱却し、「露店商品を安心して買える」ようにイノベーションしていかなければならない、そして「未だ親分子分の覊絆を脱しえず」とし、それに伴う弊害を挙げている。他とテキヤを区別する親分子分の紐帯に踏み込んでいるのだ。古参の者がいい売り場を取る、仲間内の問題は表沙汰にしないためゴタゴタが絶えない、そして「規約以外の会費の徴収が行われ之が往々にして親分の私生活の費用、或は一部不良の徒に私用せらるる事もあると聞いている」(『露店調査』)。規約内の月会費は50銭、1円程であるが、他に「ヅメ」と呼ばれる臨時徴収がある(後述、次号にて)。
はたして、東京朝日新聞1931・8・5号に、「露天商を泣かす4百名の親分連 毎月のさく取30万円 豪奢極まる生活振」なる記事が載った。
この記事は東京市の『露店調査』を予備調査終了の段階で参照して書かれている(調査は1931年7~10月に亘る)。
それによると、ヒラビや臨時露店を除き、コロビ、サンズン、コミセ、植木等は「大部分親分子分の関係」を持ち、市内で親分4百人、その内顔役は2,3百人の子分商人を持ち、1ト月20日の稼働で1日3円も売ればよい方なのに、電灯料、場代、掃除代等で1夜1店40銭を徴収して親分が搾取していると。この記事では「市内約300ヶ所の夜店縁日に働く露店商人は1万5千人という多数」という数字を挙げているが、調査と微妙に違う(調査では慣行地⦅許可された区域⦆数は平日・臨時を除くと約340ヶ所、人数は臨時1000人を加えて14000人程)。親分400人というのも市内の組合・一家の合計数340を大きく割り増ししたのだろうか。売上もバラバラな商売で無理やり調査が平均を取った金額は1店当たり3円60銭である。調査では1日当たり、電灯料、掃除代、地代、車借費、車預費、交通費等で約50銭の経費を見積もっている項があるが、それを全て親分が搾取しているとみるのは誤りである。調査でも「東京市内に於ては縁日、平日、臨時の区別なく掃除代若くは道路占用料なるものは実費を徴収し、決してこれによって親分の私腹が肥える等と云う事はない」といっている。しかし問題は電灯料である。
記事は「殊に右の電灯料の如きは電灯会社がたった3名の中間取扱者に、市内3百ケ所の露店街電灯料金一切を委託し、会社間の毎月の収入は約5万円であるのに電灯料と称して右取扱者が商人から徴収する金額は毎月12、3万円に達している」と書く。あれ、この電灯料金を中間業者が搾取するって、連載43号に書いた、テキヤが電灯会社を設立して一部電力を直接取引するようになる話の前のことか?と思うが、実はこの話には続きがあった。
『露店調査』では、「而して露店電灯会社の設立に依って中間搾取は絶滅し得たであろうか」と続く。そこでその前に示した料金表の通り、「未だ多くの中間搾取の事実を知る。尤もこの差額は畑商会(中間業者)より買収したる権利金の償却に充当する事を以て理由としているが今や十分償却し盡されている丈の期間を得」たとして、一般露店業者に過重の負担をかけているが、「露店電灯会社を組織する理事者の多くは何れも組長親分である」。記事はこの指摘を根拠として書かれている。
43号にこの件について書く時、私も電灯料金表を参考にしたが、これを露店電灯会社の調査時点での徴収金額を示したとは思わず、他の中間会社の料金と思い込んでいた。が、別の項で、露店電灯会社の使用燈数を示した資料を、市会議員倉持忠助氏蔵とことわっている。とすると、この料金表も倉持が提供した可能性がある。ちなみに調査は市街電灯(中間業者)と東京電灯が交わしたと見られる資料も挙げている(注4)が、こちらの中間業者の徴収料金表も露店電灯会社(かも知れない料金表)と同じ金額である。つまり、記事の指摘通り、畑商会から買収した後も、同様な料金を露店商人に負担させ、他の2つの中間業者同様、親分が搾取していることになる。Why?倉持!
露店商人の「近代化」と倉持
『露店調査』は、親分子分などのテキヤ内部の弊害を改善するために、「完全な組合組織への到達」を求めている。単なる対外的ポーズでなく、規則や活動を細部まで取り決めた中身のある商業組織を指すのだろう。この調査の姿勢と関わりがあるのか、法律の上でも動きがあった。「大道商人にも商法適用」(1931・7・12読売)。商法改正案の「総則」中に、「商法の適用を受ける商人の範囲を拡大し一定の店舗を有せざる大道商人、行商人にも及ぼすこと」の一文が入ったことを、最も重要な眼目の中の一つとして記事は挙げている。
その一環か、「伝統の露天商も愈近代経営化へ 来春組合認可の段取」(1932・12・24東京朝日)。「商工省が前議会で通過した商業組合法を実施するや、早速大東京常設露店連盟の13組合が同法による正式認可の申請を提出していたが、府の商工課でも露店商人の義に堅くて伝統的な統制のあるのを認めて口添えの結果、商工当局でもいよいよ来春早々にでも右組合に認可指令を発する段取りとなった」。売上が数年前から半分より下に減って、高利に悩むという悲況を伝え、「今度の組合法による新型式の団結ができれば当局から基本金の貸付も受けてまず金融方法の合理化をはかり、商品や屋台の共同倉庫を設けたり共同仕入、濫売防止、暴利取締、価格協定など露店経営もスッカリ近代化になるわけで」。
長々と引用したのは、重要な内容が複数含まれているからだ。正式認可を求めた「大東京常設露店連盟」の名は、添田知道の『てきやの生活』に出てくる。倉持らの露店電灯会社を、「中間搾取といいふらす者が出た」「その動きは、『大東京常設露店連盟』なる名義を用いたものであった」。東京日日新聞がそう報じたというが、まだその記事を発見できていない。常設、つまりヒラビの「13カ所の、その場所ごとに組合をつくったのは、政府の低利資金の融資をうける必要から、そもそもその融資獲得の運動に、同じ露店商人の立場から」、倉持が、「率先して当局側にあたってもいたのである」。知道のいうのが正しいか疑ってもいいが、ただ先の東朝記事中の「露店商人の義に堅くて伝統的な統制のあるのを認めて口添え」辺りが、いかにもテキヤ内部にいるものの主張を匂わすではないか。口添えは倉持の訴えを受けてのものではないか。
「商品や屋台の共同倉庫を設けたり共同仕入、濫売防止、暴利取締、価格協定など」の近代的改革は、東京市調査が推奨していた項目だ。そして、最も大事な融資を受けられるようにしたこと。「近代的親分」と呼ばれた倉持は、伝統的テキヤの相互扶助精神を守りつつ、露店の改革に賛成し、組合認可を後押ししたように見えるが、ヒラビの組合は彼と電灯の利害を巡って対立した。
だいぶ時がたった1936・4・27の東京朝日に「輝く勝利 夜店の商人が電灯を我手に 搾取なしの会社」という記事が出た。「銀座、四谷、新宿、神田、上野、浅草の露店商人2万5千人が結束して『中間搾取絶対反対』の電気料金値下運動は3年越しの抗争の結果」「従来の売電会社を一切解消して今回、新たに資本金25万円全額払込の『東京露店燈取扱株式会社』を設立」。小林一三東電社長13万円、益田東西電球社長2万5千円、露店商人組合代表眞鍋儀十(衆院議員)7千3百円他各露店組合代表らが出資した。「これで従来売電会社が東電から1晩100燭につき約4銭5厘で買入れた電灯用電力を16銭で露店商人に売付けていたのが」「直接東電と契約設備器具料を含み1晩100燭につき11銭内外で全市の露店に供給されることになった」。つまり露店電灯会社も解消されたということだが、4銭5厘で卸していた電気を11銭で売る東電は得をしても損はしていない。出資も東電が多額であり、この辺りのことを、知道は「後年この露店電灯が、せっかくの奮闘もあだにむなしく、大資本に吸収されてしまった」と嘆いたのだろう。
知道によれば、「『中間搾取絶対反対』の電気料金値下運動」に対し、1934年9月の『上野浅草新聞』で倉持は反論している。曰く、“我が露店組合連合会”(露店電灯会社を倉持は組合連合会としている)は買収金と東電への保証金、設備費一切の減価償却の責務があり、営利業者ではない、配電地区が大東京の外郭、新市街が大部分のため設備費・人件費も甚だしいのに、よく3分の2もの原価償却をこそしてきたものだというべきである。露店電灯は元来総合した1つのものとして、他の市街電灯・成電社との一体化ではじめて電灯料の最低下が図れるので、そこに我が連合会の理想はある云々。
まあ、後年の一体化は彼の手ではなく、東電と組んでかなったということだ。しかし、この反論の中に、悔しさが滲み出ている言葉がある。「旧市内(注5)の主要部分の而も平日の者が、自分達だけが選ばれたる露店商人であるかの如く思いあがり、行動するものとは、連合会は全く正反対の立場にある」。露店商人全体のために努力してきたつもりであったのに、ヒラビ商人は、旧来の露天商(テキヤ)、神農の民を別物として差別している、そう感じたのだろう。「古手の代議士などかついで」というくだりもあるが、眞鍋儀十(民政党)のことを指すとすれば、担ぐ神輿の違いによる政治的対立も匂ってくる。
1933年初認可以来、ヒラビの正式認可を受けた露天商組合は14に達し、37年組合連盟を結成した(1937・4・14東朝)。東京府商工課も「露天商を集め良品廉売の秘策」(1937・4・20読売)と、正式認可14組合に対して商売の知恵を授け援助する。「近代的」なヒラビが、露店商のこれからのスタンダードとして名乗りを挙げ、行政もそれを後押しするということか。テキヤは警察にもにらまれながら、蔑視と低い地位に置かれたままなのか。いや、彼等の親分子分という紐帯が改められなければいけないのか。お題は次回「反デパート運動」へと続く。
前回の訂正(連載44号):前回触れた小河内ダムの竣工(1957年)の前に、倉持は亡くなっていたとしたが、大岡聡によれば、倉持の享年は1958年。小河内ダム竣工の頃にはまだ生存していたことになるので、ここにお詫びして訂正する。
(注1): 神農とは、古代中国の想像上の存在で、頭に角のような突起物がある異形の姿で描かれている。数多の草木を食して薬効を調べたので医療や薬、また農業、市(交易)の神様のようにも扱われる。香具師、ヤシ、テキヤ、的屋(この呼び名も幾つもあるが便宜的にテキヤを使用している)は薬売りや市場との関連からか、この神を信仰している。添田知道『てきやの生活』に詳しい蘊蓄が載っている。私は日本仮設興行協同組合理事・松坂屋興行部の西村太吉氏から、テキヤさんは年に1回集まって、湯島聖堂の神農廟にお参りに行くんだと伺ったことがある。
(注2): 社会局「失業者生活実態調査」(鈴木安昭『昭和初期の小売商問題―百貨店と中小商店の角逐』日本経済新聞社)より。鈴木によるとさらに元の引用は竹本庄太郎『日本中小商業の構造』(1941年)、確認したところ、同本の35頁に掲載されている「失業者生活状態調査」であり、「失業者生活状態調査要綱」によれば1932年9月から33年3月にかけて実施された。
(注3): この調査自体が「知識階級救済事業の一として本調査を敢てした」のであって、インテリ層にも深刻な失業問題があり、対策として調査事業が行われたことは、加瀬和俊の前掲書にも触れられている。注2の「失業者生活状態調査」もその一つ。
(注4): 何故市街電灯との契約と推測するかというと、この東電との「電気使用承認書」に記された「使用区域」が、「東京営業所電気供給区域内に於て大震火災の際焼失したる地域中当社が承認したる地域」であり、『露店調査』によれば大震災後焼失した区域の供給権を獲得したのが市街電灯とされているのによる。
(注5): 東京市は以前15区だったが、「20世紀に入り急激に進んだ都市化の結果、昭和7年(1932)10月1日、周辺5郡82町村を東京市に編入し、これを改編して新たに20区を設置し、それまでの15区と合わせて35区としました。いわゆる「大東京市」の成立です」。https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu-archives/07edo_tokyo/0714tokyo_ku
おおば・ひろみ
1964年東京生まれ。サブカル系アンティークショップ、レンタルレコード店共同経営や、フリーターの傍らロックバンドのボーカルも経験、92年2代目瀧廼家五朗八に入門。東京の数々の老舗ちんどん屋に派遣されて修行。96年独立。著書『チンドン――聞き書きちんどん屋物語』(バジリコ、2009)
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