論壇

近世日本は高校でどう教えられているのか

高校「日本史」教科書を読む

元河合塾講師 川本 和彦

1 はじめに

10年ほど前、予備校の講師室で以下のような会話を耳にした。

生徒「さっきの授業で出てきたチューシングラって何ですか」
講師「お前なあ、忠臣蔵も知らんのか。要するになあ、47人でよってたかって一人の爺さんを殺した話だ」

NHK大河ドラマで1年かかる話を5秒でまとめる手際に感服したが、吉良上野介を被害者の立場に置いている視点にも感心した。歴史に限らず、物事はどの角度から見るかによって印象が大きく異なる。

教科書が一方的な立場からのプロパガンダになってはいけない。一方で完全中立・100%客観的な立場というのもあり得ない。そのバランスが問われる中で、高校の歴史教科書はかなり良心的に執筆されている(「政治・経済」の教科書なんてひどいものです)。とはいえ当然ながら限界はある。その限界を単に批判するのではなく、分析することで見えてくるものがある。本稿ではそういう視点を踏まえて、高校日本史の近世分野を検証してみたい。これまで同様、素材には山川出版社の教科書を用いる。

2 時代区分のあり方

その前に、時代区分について言及しておく。近世といえば江戸時代、すなわち徳川幕府成立から大政奉還・王政復古までの時期を指すというのが一般的な理解であろう。だが教科書は、織田信長・豊臣秀吉の織豊政権から天保の改革・化政文化までを近世という枠に入れている。黒船来航・開国以降は近世ではなく、近代の枠である。

これは見識ある姿勢と言える。江戸は単に徳川幕府が置かれただけの、つまりは日本の一地域に過ぎない。徳川幕府の将軍にしても権力者の一人であり、日本列島の住民すべてを代表するわけではないのである。時代・歴史は一つの地域、一人の権力者からの視点だけで語るべきではない。ただ、そのことは教室で触れておくべきだ。教科書のせっかくの見識を生かすかどうかは、教員の皆様にかかっているのですぞ。

3 緩い身分制度

❶「特権」という誤解

教科書の、「身分と社会」という小見出しがあるところから引用する。

〈幕藩体制において、武士は、政治や軍事、さらには学問・知識を独占し、苗字・帯刀のほかさまざまな特権をもつ支配身分である。〉

江戸時代初期に限定するならともかく、幕末までを俯瞰するならこれにはかなりの例外があると言わざるを得ない。二宮尊徳は農民の、石田梅岩や本居宣長は町人の出身であったが、「二宮」「石田」「本居」という苗字を持っていた。他にも松尾芭蕉や円山応挙など、いくらでも例を挙げることができよう。

帯刀にしても大刀・小刀の二本差しを許されたのが武士だけということであり、脇差は庶民にも認められていた。木枯紋次郎や助さん・格さんは、テレビドラマの中だけの姿ではなかったのである。

学問・知識に関しては、多数の寺子屋や私塾のことを連想されたい。「特権」という表記は誤解を招く。

❷商品でもあった武士

武士という身分そのものが、金で買えた時代でもあった。武士が持つ御家人株を買えば、農民や町人でも武士になれたのである。時代劇でおなじみの同心は下級公務員であるが、200両(今のお金で2000万円くらい)出せば、同心の身分を買うことができた。金に困って、あるいは気楽に生きたいと思って、御家人株を売って町人になる武士もいたのである。武士は身分・職責であると同時に、売買できる商品でもあったのだ。

4 農民の実態

❶豊かな水呑も

教科書の、「村と百姓」という小見出しがあるところから引用する。

〈村内には、田・畑をもたず、地主のもとで小作を営んだり、日用(日雇)仕事に従事する水呑(無高)や、有力な本百姓と主従制のような隷属関係のもとにあった名子・被官・譜代なども存在した。〉

水呑といえば「水を呑むしかないほどの貧しい農民」という理解がある。だが実態は必ずしもそうではない。1730年(享保20年)における奥能登・輪島では、村民の71%が水呑であった。数字だけ見ると極貧の村という感じだが、水呑の中には漆器職人や素麺職人、それらを販売する商人がいた。さらに、その商人の中には、北前船を所有する大商人もいたのである。これらの水呑は「土地を持てない貧しい百姓」ではなく、「土地を持つ必要がない豊かな百姓」であった。奥能登は日本海交易の中継拠点であり、日本有数の豊かな地域だったのだ。

前号で触れたように、百姓イコール農民とは限らないのである。

❷百姓一揆の現実

教科書の「大塩の乱」という小見出しがあるところから引用する。

〈農村や都市には困窮した人びとが満ちあふれ、百姓一揆・打ちこわしが続発したが、幕府・諸藩はなんら適切な対策を立てることができなかった。〉

白土三平『カムイ伝』の影響か、私は百姓一揆といえば百姓が竹槍を持って突っ込んでいく、殺すか殺されるかの凄惨な死闘を思い浮かべる。これもどうやら、事実は異なるようである。江戸時代に起きた百姓一揆は3710件が記録されているが、竹槍で殺された役人は一人しかいない(誰だか知らないが気の毒な気がする)。竹槍一揆が目立つのは、むしろ明治時代になってからである。これも明治10年代には見られなくなった。

江戸時代の一揆で百姓は鍬や鋤、鎌、鳶口などを持ち出しているが、これらの農具・大工道具は、武器というより商売道具である。農民の中には害獣駆除用の鉄砲所持を認められていた者がいたが、一揆に鉄砲を使った例は記録されていない。悪代官をぶっ殺すための武装蜂起というより、年貢軽減など「仁政」を求めるデモンストレーション、請願というのが実態といえよう。

また、幕府や藩主を弁護するわけではないが、肥前藩では鍋島直正が均田制を実施して、直轄地の小作料納付を猶予した例がある。まったくの無策というのは、言い過ぎだと感じる。

5 非人の変質

再び「身分と社会」という小見出しがあるところから引用する。

〈非人は、村や町から排除され集団化をとげた乞食を指す。しかし、飢饉・貧困や刑罰により新たに非人となるものも多く、村や町の番人を努めたり、芸能・掃除・物乞いなどにたずさわった。非人は、居住地や衣服、髪型などの点で他の身分と区別され、賎視の対象とされた。〉

教科書では、ここまでのページに非人は登場しない。そうすると、非人は江戸時代に初めて出現したように思われてしまう。実際には11世紀後半に書かれた朝廷の文書に「非人の長吏」という語句が出てくるので、非人そのものは平安時代か遅くとも鎌倉時代、つまり中世には存在したことがわかる。

当初、非人は、賤視というよりは畏怖の対象であった。正月の元日から3日間、御所(天皇の住まい)付近で世のケガレ(死や病気など)を清める芸能、千秋万歳を祈る芸能を非人が行うことが室町時代から始まり、江戸時代初期まで続いている。掃除もケガレを清める行為であり、非人とはケガレを清める特殊能力を持った存在とされていた。

朱子学の普及もあって次第に人びとの思考が合理的になるにつれて、ケガレという概念が薄まり、ケガレを清める行為への畏敬の念も消えていった。その延長上に賤視つまり差別が始まるのだ。幕府の意図的な政策だけに差別の原因を求めるのは、いささか無理がある。

歴史は時代によって断絶する面と、時代を超えて連続する面とがある。近世という時代の枠内だけで理解することは避けてほしいと思う。

6 「鎖国」下の交流

❶朝鮮通信使

学会ではもはや、江戸時代を「鎖国」と規定していない。教科書にも「いわゆる鎖国の状態」という文言はあるものの、その次に以下の記述がある。

〈こうして幕府は四つの窓口(長崎・対馬・薩摩・松前)を通して異国・異民族との交流をもった。〉

また、見開き2ページを使って朝鮮通信使について解説している。そこでは高校生が自主的に考える手がかりとして、「日本側から説明してみよう」「朝鮮側から説明してみよう」「東アジアの動向も視野に入れて総合的に説明してみよう」という項目が置かれるなど、なかなかの内容である。そのことを評価したうえで、問題点を挙げてみたい。

建前としての朝鮮通信使は、李氏朝鮮と徳川日本の対等外交を示すものとされる。だが心情レベルまで対等であったかというと、疑問が残る。林羅山が中国福建省総督宛てに送った手紙には、日本の周囲の国々が日本の徳を慕っているとして、「朝鮮入貢」という文言を記している。朝鮮側が貢物を捧げているという認識である。新井白石は朝鮮通信使との筆談において、「朝鮮が清国の風儀を強制されないですんでいるのは、南方の日本の存在があるからだ」と、相当恩着せがましいことを述べている。ここにも、ある種の優越感が透けて見える。

そもそも朝鮮から通信使が来ても、日本から通信使を送っているわけではない。これで対等外交と言えるのだろうか。

他の窓口、例えば薩摩にしても琉球王国は表面的には独立国家の体裁を保っていたが、実際には薩摩藩の支配下に置かれていた。松前藩はアイヌと貿易していたが、シャクシャインの戦い以後、アイヌは和人に使役される存在であり、対等な貿易相手とは言い難い。長崎・出島におけるオランダおよび清国との貿易のみが、辛うじて対等と言えるものだろう。

日本人の海外渡航が原則として禁止されていたことからも、この時代の日本は、実はやっぱり鎖国状態であった、と言いたいところである。だが‥‥‥。

❷歯に残る交流の気配

それを根本的に否定するような研究成果が、歴史学ではない分野で報告された。人類学には、人骨の歯を調べて民族集団の変化を解明する分野がある。日本列島から出土した歯の形質を近い順に並べると、以下のようになる。

 種子島弥生人―縄文時代人―北海道アイヌー北部九州弥生人―古墳時代人―
現代日本人―鎌倉時代人―江戸時代人

おわかりだろうか。現代日本人の歯の形質をみると、古墳時代人や鎌倉時代人よりも江戸時代人のほうが遠い、つまり差が大きいのである。文献上の証拠はないものの、江戸時代に(あるいは室町時代に)異民族との大規模な交流があった気配を感じさせる。今後の研究が待たれる分野である。

7 重商主義と重農主義

経済分野にも触れておこう。「田沼時代」という小見出しがあるところに以下の記述がある。

〈田沼意次はゆきづまり出した幕府財政を再建するために、年貢増徴だけに頼らず民間の経済活動を活発にし、そこで得られた富の一部を財源に取り込もうとした。そのために、都市や農村の商人・職人の仲間を株仲間として広く公認し、運上や冥加などの営業税の増収をめざした。またはじめて定量の計数銀貨を鋳造させ、金を中心とする貨幣制度への一本化を試みた。〉

金は江戸を中心とする関東、東海、中部地方、銀は京・大阪を中心とする近畿及び西国(中国・四国・九州)、日本海地域で通用していた、田沼政策はこれを統一することを目指したものである。続いて、「寛政の改革」という小見出しがあるところにある記述を引用する。

〈松平定信は国内外の危機がせまるのを感じとって田沼時代の政策を改め、幕政の改革に着手した。飢饉で危機に陥った農村振興によって幕府財政基盤を復旧し、打ちこわしを受けた江戸の治安問題を解決し、ロシアを中心とする外国勢力に対応するための諸政策を実行していった。〉

田沼意次が重商主義、松平定信が重農主義の立場から改革を進めようとしたというのはよくいわれることであるし、基本的にはその通りだと思う。ただ、田沼意次が導入を図った統一通貨は両替商の反発を受けた。これに配慮した松平定信は通貨統一政策を放棄している。賄賂の噂もあって田沼意次は巨大商業資本と結託していたといわれるが、通貨に関しては、商業資本の利益を擁護したのは松平定信である。

もともと西洋の経済思想である重商主義や重農主義を、そのまま日本に当てはめることはできないはずだ。このあたりに唯物史観の名残を感じるのは、私だけであろうか。

8 おわりに

歴史には時に転換点があり、あるいは飛躍とさえいえる局面がある。ただし、突然の変化のように見えても、実際には前の時代からの伏線がある。明治維新の直後に大正デモクラシーが来ることはあり得ない。前段階としての自由民権運動や足尾銅山の戦い、大逆事件などが必要であった。

近世の歴史においても、近代以降への伏線を見ることは可能である。朝鮮通信使に対して優越感を抱いた日本人がいた。そのような朝鮮蔑視の延長線上に、征韓論や韓国併合があったのではないか。近世の重商主義的発想は、昭和の軍部と財閥の結託を思わせるし、重農主義的発想は後の農本主義・超国家主義とまったく無縁であるとは言えない。

タモリは今の日本を「戦前ですね」と表現した。それが事実となることを防ぐためには、今の日本に存在する戦争への気配を確認しなければならない。近世に潜む近代(の過ち)への芽を見出す試みは、その一助となるであろう。教科書の執筆者、教科書を使って授業する教員に留意していただきたいことである。

かわもと・かずひこ

1964年生まれ。新聞記者、予備校講師を経てフリー校正者、大学入試問題アドバイザー。

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