コラム/若者と希望
個人的世界の終わりと鏡の向こう側
Michael Jacksonが提示した“Man In The Mirror”の可能性
社会人 能登 塔子
「彼はわたしに、現在どこに住んでいるかと尋ねた。わたしが、ウィーンに住んでいると答えると、『ではウィーンの正確な市街図を、一本一本の道路に至るまで書いてくれないか』といった。わたしが悪戦苦闘しながらウィーン市街図を思い出し、取材ノートに書きはじめると、彼はじっと私の表情を見ていた。そしてわたしが、やっぱり無理だ、正確になど書けるはずがないと投げ出すと、書きかけの私の地図を手にとった。『ここはウィーンのどの辺りだね?』彼は尋ねた。わたしは、恥ずかしながら自分の住居の辺りですと答えると、『では、ここがきみにとっての街の中心、いや、世界の中心ということだ』」
(ヴェルナー・ウェーバー/浦沢直樹『「もうひとつのMONSTER」MONSTER』)
私が世界の終わりについて考えるとき、それは全くの暗闇を意味する。瞳を永久に閉じるとき、火葬場のなかで焼かれるのを待つとき、あるいは封をされた棺桶のなかから見るだろう景色である。ここでの世界の終わりは、地球の終わりを意味するのではない。
例えば、スマートフォンで[世界]と打ち込めば、青い球体、すなわち地球の絵文字が予測変換に出てくるだろうが、地球の終わりは私にとっての世界の終わりではない。極端なことを言えば、たとえ、地球そのものが終わろうとも、火星移住計画が順当にいけば、世界は終わらない。我々人類は、それが困難であろうと、火星を中心にして、新たな世界を生み出すだけでよい。
ここで私が思うのは、極めて個人的な世界の終わりについてである。知覚する【私】が死に絶えたとき、私の世界は永遠の終わりを迎える。私の死後、地球が回り続けようと、人類が生まれ、滅びようと、すでに私の世界は終わりを迎えている。それ以降、我々個人が関知できる世界の範囲ではないのである。
* *
冒頭で引用した文章に戻るとして、我々の世界は非常に狭い。意識をしようがしまいが、我々個人が気に掛けることのできる範囲はその個人を中心にして、非常に限られている。暖かな南の国に生まれた子どもに、あなたの世界(あるいは思い浮かぶ景色)を描いてくださいといったとき、遥か東のしんしんと降り積もる雪に覆われた銀世界を描くことはおそらくないだろう。その子どもにあの冬のつらさは分かるまい。その苦難はその子どもの世界には存在しないのだから。
続いて、仮に地軸を揺るがす大事件が起きたとして、わが身の安全が確保されたとき、まず次に思うのは家族であり、恋人のことかもしれない。それに次いで、親しい友人たちをひとりひとり、思い起こし、その身を案じるだろう。そこで思い浮かばれた人たちこそ、我々個人の世界に住まう、たった少しの収容人数である。そのほかの大勢は、その世界には存在しないも同然である。
私自身、世界を思うとき、それは身近にいる人々の幸福を願うことと同義である。なくしたものに気づかないうちは、それはなくなっていないも同然である。その不在に気づいたとき、そのものは本当の意味で消失したといえる。他者の不幸を知らぬうちは、その不幸も苦しみも無同然である。我々個人の持ち得る世界など、小さくささやかで、ほんの一握りの幸福と不幸のみを感じるだけのちっぽけなものに過ぎないのである。そして、それはその個人にとってかけがえのない、個人的な世界の全容である。
* *
ここで、少し話を転換させよう。自分のなかの個人的な世界を打ち破る、あるいはそんな大それた話ではなく、ほんの少し自らの世界を他者に打ち明ける、心がけの話である。本稿のタイトルにもある通り、そのカギは鏡にある。厳密にいえば、鏡に映る自分の姿、ここでも結局行きつく先は個人に過ぎない。
マイケル・ジャクソンという歌手はご存じだろうか。言うまでもない、あとにも先にも生まれることのない、永遠のKING OF POP。ただ、悲しいかなその名前も次第に忘れ去られつつある。如何せん、KING OF ROCKのエルヴィス・プレスリーに然り、私の同世代にはあまり彼らの偉大さが伝わらないのである。彼らがこの世を去って、四半世紀以上、永遠に閉ざされたネバーランドというひとつの世界。そんな時代の流れを感じるからこそ、敢えて、私はマイケル・ジャクソンの提示してくれたひとつの自己革命の可能性に注目したい。
マイケル・ジャクソンは一貫として、彼の音楽人生において、個人的な世界ではなく、いわゆる青い地球、我々人類が住まい、ともに紡ぐ〈世界〉に想いを馳せていた。その代表的な一曲には、アルバム『デンジャラス』に収録された、”Heal The World”があり、そのなかで、あらゆる人種への祈りを歌っている。彼の個人的な世界(あるいは、彼が愛した子どもたちが住まう特製のネバーランド)は、常に大きな世界へと密接に結びついていた。彼の個人的な世界はそれこそ、全人類も抱擁し得るかもしれないほど、大きかったのかもしれない。
しかし、我々そのほか大勢の持ち得る世界は何度も述べるように、恐ろしく狭い。我が心に手を当て、世界の平和というものと、個人的な世界の安寧を天秤にかけるとき、おそらくほとんどの人は後者を選ぶのではないか。だが、マイケル・ジャクソンは、“Another Part Of Me(もうひとりの僕)”よろしく、我々にもっとも簡単な方法で、自らの世界を押し広げ、変革するすべを教えてくれている。それこそが、サブタイトル通り“Man In The Mirror”の可能性である。
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【If you wanna make the world a better place, Take a look at yourself】
もし世界をよりよくしたいのならば、まず自分を見つめてみよう。
我々は狭い個人的な世界でしか生きていけない。しかしながら生きている限り、我々は移動し続け、人々と触れ合い続ける。
例えば、我々は、真実ウィーンの中心にだけで生きているわけではないのだ。個人的な世界といえども、そのうちにひとりきりで籠ることはできない。その外側には私という個人の範囲を超えた、様々な他者の持つ世界がある。自らの持つ個人的な世界の範囲にいる他者にも、その人だけの世界がある。それぞれの国が交易なくして成り立たないように、人自身もまた、世界同士の関わりのなかでしか生きていけないのではないか。人々が手にできる世界、始めは狭いからこそ、広げる価値があるのではないか。あるいは、広げることに意義があるのではないか。そして、我々は無自覚のうちにも日々世界を広げることが可能なのだと感じる。
例えば、テレビで流れるニュースの向こう側、どこかの国で小さな子どもが飢えているとして、そのとき自らの心に何か小さくとも動くものが芽生えたとしたら、その個人的な世界でたとえ、物理的には不可能でも、その小さな子どもを招き入れることが可能である。あるいはその子どもの持つ世界と、少しでも重なることができるだろう。
たかだか心がけの問題だと、個人が持ちうる一瞬の感情に過ぎないと、一蹴することはたやすい。だが、何よりも重要なのがその心がけ、あるいは悼んだその瞬間の自分の姿なのである。
【I see the kids in the street with not enough to eat Who am I to be blind】
道端に飢えている子どもたち、見て見ぬふりをする僕は一体何者だろう。
【I’m start with the man in the mirror I’m asking him to change his ways】
まずは鏡のなかの自分から始めよう、彼に変わろうと問いかけるんだ。
* *
ほんのささやかな問いかけ、個人的な世界からその世界の外側、遠くにある他者の世界に内在する苦しみに目を逸らさず、その事実に気づいた瞬間、自らの関知する世界の拡張というほんのわずかな一歩にこそ、重要な意味があるように、この曲を繰り返し耳にするとそう信じられるような気がするのである。
しかし、地球の裏側で起きる不幸を憂うとき、あるいは幸福を祝福するとき、私個人の世界は全地球をも掌握できたと言い切るのは、さすがに思い上がりである。
だが、それを知るとき、その個人的な世界は確かに少しずつ大きくなっている。あるいは他者の持つ世界とつながっていく。個人的な世界を抜け出そうと、鏡の自分に問うたそのとき、その一歩の大小はどうであれ、間違いなくあなたは個人的な世界を打ち破っているのではないか。
我々はいわゆる世界を救えない。特に私なんかは救おうとも思わない。だが、自分のなかにある世界、大切な人たちを大事にしていきたい、という気持ちは間違いなく、私のなかにも、誰のなかにもあるだろう。そのちっぽけな範囲をあらゆる人たちがその個人を中心にして、生きていく限り広げて、揺れる感情を基に重なることができたのなら、いずれ人類が住まう地球を覆うことができるかもしれない。
とはいえ、人類は多面性の生き物である。何も悼む心、あるいは他者に対する前向きの気持ちだけを持ち合わすはずもない。憎悪や嫌悪、あらゆる悪感情が渦巻く。個人の世界に他者を迎え入れるとき、それは必ずしも良心からではなく、黒々しい悪意ゆえのこともあるだろう。見過ごせない人間であるからこそ、自ら掌握せねば気が済まない。残念ながら、これもまたひとつの拡張の可能性であり、世界を覆うことができるかもしれない、陣地掌握の在り方である。
だからこそ、我々は心がけひとつ、鏡のなかの自分をよりよくしていく必要があるのかもしれない、と感じるのだ。私の世界はいつか終わり、永遠の闇に沈むだろう。それ以降の世界など、知ったことではない。
それでも、生きているうちは鏡の自分のなかくらいは、と思わずにはいられないのである。そして、そんなささやかな一歩で、マイケル・ジャクソンが残してくれた、見出してくれた我々個人の可能性が芽吹くのなら、きっとすてきなことだろう。
【I’ve been a victim of a selfish kind of love It’s time that I realize】
今まで僕は独善的な自己愛のえじきだったんだと、それに気づく時が来た。
【引用・参考】
・ヴェルナー・ウェーバー/浦沢直樹『「もうひとつのMONSTER」MONSTER』
株式会社小学館 2002年8月1日初版第1刷発行
・マイケル・ジャクソン「マン・イン・ザ・ミラー」1988年リリース
・マイケル・ジャクソン「アナザー・パート・オブ・ミー」1987年リリース
アルバム『BAD』収録(拙訳)
のと・とうこ
2001年生まれ。一般企業勤務。
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