論壇
続・「日本人」の主食は米であったのか?
歴史民俗資料学研究者 及川 清秀
はじめにー山村を問うこと
林野庁統計(平成29年度)の「森林資源の現況」によると日本の国土の森林面積は67.3%である。その内70%を超える道府県は21道府県に及ぶ。宮崎県は76.3%である。
『日本農業発達史1』(1953年)は、地租改正の意義を林野との関係性から書きはじめている。地租改正と林野のいわゆる「官民有区分」とは、明治維新における土地制度改革の二つの側面をなし、両者をきりはなすことができない。第二次大戦後における調査ではあるが農林省の調査によると、現在の全国市町村中、林野面積が総土地面積の75%以上に達する町村(奥山の村)と、75―50%に達する町村(山村)と、50―25%の町村(浅山の村)及び25%以下の町村(平坦村)との四つのグループにわけると、各々全町村数に対して、約四分の一ずつとなり、わが国では山村の比重がいかに想像以上のものであったかがわかると述べている。この分析によると、山を主たる生業の場としていた「奥山の村」、その幾分かは焼畑を行っていたと思われるが、我が国の農業の実態を探るうえでは避けてはと通れない問題なのである。
明治初期の水田と畑・焼畑の反別
水田と畑・焼畑のそれぞれ占める割合を1879年(明治12)の『全国農産表』(北海道は含まれていない。大隅国の内、大島・稲毛郡は未調査)において見てみる。米は全反別の45%を占めており高率であるが、畑での作物を見ると麦類は米に次いで約27.6%と高い数値を示している。それ以外の22.9%は、大豆・蕎麦・粟・稗・甘藷が主に栽培され、他に黍・玉蜀黍・蜀黍・馬鈴薯がある。これらは焼畑でも栽培されていた作物であるが、特に粟・稗・黍・蕎麦だけでも10.2%を占めていたことがわかる。
このように主食物としては、必ずしも稲作による米食のみに偏重していたわけではない。そして米は食物ではなく「年貢米」「流通米」として生産されていたことを見逃してはならない。それらを見比べると、稲作地帯と畑作地帯における食文化の相違、それは食文化における米の占める割合、麦・雑穀等の占める割合において浮かびあがってくるのである。畑地による畑作産物の生産を軽視してはならないのである。
焼畑はどのくらいあったのか
次に1888年(明治21)の『農事調査』(愛知・高知・和歌山・香川・熊本・鹿児島・北海道・沖縄を除く。塩田・宅地他・官有山林面積を除く)における民有地における田・畑・焼畑(切替畑)の反別割合を見てみる。それによると、全国民有地の地目別面積約11,903,324町歩に対して山林は約6,515,163町歩、水田は約2,459,347町歩で、普通畑は約1,842,958町歩、切替畑は110,532町歩である。山林の占める割合は約54.7%である。田畑の総反別に比して田は55.7%であるのに対し、畑地(畑・切替畑)の割合は44.3%である。
さらに切替畑(焼畑)が約11万町歩と広範に行われていたことがわかる。しかし民俗学者の宮本常一は焼畑について、「明治初年に水田三〇〇万町歩にのぼっていたと推定せられており、水田よりも畑の方がひろかった。もとよりこの数字は決して正確なものではない。このほかに焼畑がある。焼畑の面積はその実数をたしかめようがない。したがってきわめていい加減な推定であるが、およそ五〇万町歩くらいあったのではないかと思われる」(宮本常一「畑作技術試論」1968年)と推計したが、それに対し日本近代経済史家の丹羽邦男は、統計書類を駆使し、それがあながち「きわめていい加減」とは思われないとし、「明治前期には、わが国山間部・離島の多くの人々が、食料を焼畑に依拠してきたことがうかがえよう。もっとも、彼ら山の民・島の民の多くが、焼畑農業を主業としていたのではなく、杣・木地屋・漁師等々として山野河海の諸産物を採取、加工し、あるいは平野部へ出稼ぎ出るなどしてなりわいをたてていた」と、焼畑農耕のみならず列島に暮らす人びとの生活に問題の関心を広げていくことの必要性を説いている。(丹羽邦男『土地問題の起源』1989年 平凡社選書)
明治前期の焼畑はおよそ50万町歩であったと推定されていることである。それを見るならば、畑地の総面積も増え、焼畑農耕文化・食糧における雑穀の存在を無視して米ばかりに目を奪われてはいられないことが当然のごとくわかるのである。『農事調査』を見るに、中世史家の網野善彦は、米作地帯について「私は五〇%以上の地域も、日本列島全体では非常に少ないと思いますよ。耕地になりうる面積はきわめてパーセンテージは低いですし、特定の地域で耕地がたとえ五〇%になっても、食物は山野河海からもとれるし、とくに樹木が重要ですから、それを計算に入れないとまずいですね」(網野善彦・石井進『米・百姓・天皇 日本史の虚像』2000年 大和書房)と、指摘している。あながち網野善彦の説は間違っていないものと思われる。
ところで近代における都市化による米の増産の一方で平地での稲作が広まることによって衰退しつつある焼畑農耕は水田農耕の対極として特に近代農業史において浮上するのである。近代経済史家の井上晴丸の分析によれば商品経済の台頭において1890年代以降、自給的作物である雑穀は低下を始める。そして政府は1897年(明治30)の森林法制定によって焼畑地への火入れの許可制や材木の需要から植林への転換を促した。こうした農林行政の延長線上である1890年(明治23)に柳田国男は東京帝国大学法科を卒業し農商務省に入り農政官僚となって近代的な農事改良に努めたのである。
柳田国男が椎葉村で発見したもの
農政官僚の柳田國男にとって、1908年(明治41年)7月13日から一週間の宮崎県西臼杵郡椎葉村への旅は「大和民族の特性」・「我々祖先」(『山民の生活』明治42年刊)、民俗学者赤坂憲雄が言うところの「日本人の旧思想」(『山の精神史 柳田国男の発生』1991年 小学館)を知るうえでの「山民」の発見であったのである。柳田の学問の総論である山へと分け入った武士を末裔とする「山民」から「平地民=水田農耕民」へという移行において、焼畑の害獣である猪を猟する狩猟民との出会いは、「山民」への学問的な知的冒険であったと言えよう。
その学説を補完するにおいて『後狩詞記』(明治43年刊)の「序文」(明治42年)の「山民」論は極めて熱意に溢れている。要約するが、武士はそもそも山に棲み弓による狩りで獣を追う姿を探り、それが鉄砲の渡来によってがらりと一変、また猟の対象も鹿から猪へと変わったと叙述したが、それが武具や獣の変遷だけではなく、焼畑とその害獣としての猪狩りとの関係、さらに山の奥へ入ってもなお水田を開いたことに興味を抱いていたことが述べられている。しかし「序文」はいわば学説で、椎葉村という総体としての民俗の具体像を明らかにするものではなかった。柳田は〝椎葉村〟という地において「狩猟民俗」を切り取ったに過ぎないのである。
赤坂憲雄が指摘しているように柳田は「山民」に「日本人の旧思想」が残存しているものと確信していた。しかし柳田は「序文」で椎葉村について「主たる生業はやはり焼畑の農業である」と論じている。水田との関係においては言及することがなく地名としての山田・迫田・田代も椎葉村にはなかったことは見落としてはならない。はたして椎葉村には水田は見られなかったのであろうか。実はそこに「序文」での柳田の学説的文脈における「山民」と椎葉村の民俗的実態との間に極めて大きな間隙を我々は見出すことができるのである。それには同年に発表された『山民の生活』(明治42年刊)を合わせ読むことが重要である。
焼畑というジレンマ
昔の人は米が食へぬから村を作らねばならぬと云ふやうな贅沢は申しません。水田にする程の平地が無くても気候が寒くても、猶ずん〱と谷の奥へ上りました。うそのような話ではあるが、山国では兵役に出て始めて米と云ふものを口にした人が幾何もあります。冬中の糧には栗、ハシバミ、トチの類もやりますが、多くは山畑に粟稗大麦小麦の類を作つて食料にしてをるのです。
ここにおいて、昔の人は「水田にする程の平地が無くても」、すなわち稲作をしなくても谷の奥へと分け入り深い山に棲んで、そして粟・稗・大麦・小麦や木の実を主食としていたのであると客観的に述べている。この文脈においてはおそらく椎葉村の焼畑民の生業を確かに直視している。しかし柳田は「山民」である粟食人種・焼畑人種は「平地民」である米食人種・水田人種に「馬鹿」にされるという構図に迫るのである。
後年武士が平地に下り住むやうになつてからは、山地に残れる人民は、次第に其勢力を失ひ、平地人の圧迫を感ぜずのは居られなかつたのであります。言はゞ米食人水田人種が、粟食人種、焼畑人種を馬鹿にする形であります。此点に付て深く弱者たる山民に同情を表します。
赤坂憲雄が言うように、柳田の思想においては「米食人種・水田人種である平地人に対して、粟食人種・焼畑人種である山民が対比されるのである。」(赤坂憲雄、前掲書)しかし「山民」である粟食人種・焼畑人種に柳田は「同情」するが、それは「山民」が「大和民族の特性」を保持しているからである。そこには農政官僚としてそして民俗学者として、「平地民」の「大和民族=水田稲作農耕民」を描き立証すために、その前史として「山民」という「焼畑農耕民」に眼を据えなければ「狩猟民俗」を描くことが出来ないというジレンマに陥っているのである。そして『山民の生活』において「山民」である粟食人種・焼畑人種を一刀両断せざるを得ないのである。
唯焼畑を作つて衣食を営むと云ふことが決して大和民族の特性とは言はれぬばかりです。然らばその新参の我々祖先が生活の痕跡は何れの点に求めるかと申しますと、自分はそれは稲の栽培耕作だと答へたいのであります。
こう断言し、その眼はあくまでも米食人種・水田人種へと向いていくのである。ゆえに柳田は焼畑農業について農政官僚として「所謂農事改良とは丸々没交渉で二千年来の勝手放題な食物の得方をして居るのが焼畑切替畑であります」と、焼畑農耕への冷徹な態度へと転じるのである。農政官僚として、土地利用法の知識として焼畑民と稲作民との相違を念頭に置くが焼畑は「略奪農法」「強盗」であると、極度に軽蔑しているのである。
仮定としての稲作イデオロギー
それでははたして「山民」である粟食人種・焼畑人種に「大和民族の特性」を抽出することは出来たのであろうか。
假に前の居住者も焼畑を作つて居つてとしても、之を我々の祖先が学んだとは申しません。疑なく祖先はどこかの山国から来た人でありますから、夙くから山地の利用法には長じて居たのでせう。唯焼畑を作つて衣食を営むと云ふことが決して大和民族の特性とは言はれぬばかりです。然らばその新参の我々祖先が生活の痕跡は何れの点に求めるかと申しますと、自分はそれは稲の栽培耕作だと答へたいのであります。之も一種の假定説で他日反證が出ぬとも限りませんが、今は先づその假定の下に山民の生活の他の方面を説明して見ようと思います。……我々の祖先の植民力は非常に強盛でありました…如何なる山腹にも住む気はある。食物としては粟でも稗でも食ふが、唯神を祭るには是非とも米が無くてはならぬ。…そこで神には粢なり神酒なり必ず米で製したものを供へねばならぬ故に、假令一反歩でも五畝歩でも田に作る土地の有ると云ふことが新村を作るに缺くべからざる條件であつたのです。
柳田は「我々の祖先」である大和民族はどんな山腹に住み雑穀を食べようが、「唯神を祭るには是非とも米が無くてはならぬ」とし、そのためには「一反でも五畝でも田を作る」必要性を説くのであると論を進めるのであるが、「大和民族の特性」においてこの一文は柳田民俗学の核心ともなるのである。しかし「假に」・「假定説」「假定」は、確かに柳田の思想のゆらぎを物語るもので、余りにも恣意的な論法である。『後狩詞記』の「序文」における「山民」論と椎葉村での実地見聞には空論的差異があるのである。さらにそこにおいて不思議なのは、椎葉村については何故か反別は極少でも「大和民族の特性」である「水田」を作るという視点が抜け落ちているのである。
柳田は明治41年5月24日から8月22日まで福岡〜熊本〜鹿児島〜宮崎〜大分を廻って、途中に椎葉村へ足を踏み入れている。この旅での体験が『山民の生活』の学説の基礎にある。極少な水田反別、神を祭るための田へのくだりなどは、もしかしたら椎葉滞在において培われたと思われる。が、「序文」では触れずじまいである。柳田は〝椎葉村〟を恣意的に見落としているのである。
椎葉村における焼畑と水田開拓について
椎葉村をめぐる支配・行政区の歴史は非常に複雑であるが、1656年(明暦2)に人吉藩の預り地になると藩は椎葉山84か村を大河内組・下福良組・松尾組・向山の4組に大庄屋を置き管轄支配した。「日向国臼杵郡椎葉山村々様子大概書」によると焼畑面積は約489町であった。焼畑農耕にいかに依存していたことがわかる。同史料において柳田が滞在した旧大河内組について見るに1748年(寛延元)と1867年(慶応3)の反別は、畑6町余から畑9町余・焼畑88町余へと変わっている。慶応3年には焼畑が丈量されているが、これは1814年(文化11)に焼畑が高入れされたことによる。(数値・史料は『角川地名大辞典宮崎県』参照、以下同)
しかし1806年(文化3)の「椎葉山御成箇郷帳」年によると大河内組には高外れの見取田2町1反歩に当たり1升7合余の上納米が賦課されている。見取田とは開発直後の新田や山間地や原野などの地味の劣悪な田で、反別だけを丈量しておよその見当で年貢を課した土地である。このことから椎葉の村々でも文化年間から水田開拓の動きがあったことがわかる。柳田国男の訪れた旧大河内組の小崎集落でも「日向国臼杵郡之内郷村御村高帳」によれば見取田2反余、桑弓野集落でも1832年(天保3)に見取田6畝余がある。しかし柳田はそのことには触れずに「主たる生業はやはり焼畑の農業である」と見詰めていた。何故か「一反でも五畝でも田を作る」という「我々祖先」の日本人の姿には触れていないのである。さらに柳田の興味の対象は「焼畑」ではなく「狩猟民俗」であった。椎葉村は奥山に棲んだときには稲作はしていなかったが、近世後期になると確かにわずかでもあるが水田は拓かれつつあった。柳田國男はそのことを『後狩詞記』の「序文」では何故か封印しているのである。
食糧としての米―植民地、朝鮮・台湾からの移入米への依存
柳田國男が追い求めた「大和民族=稲作農耕民」という「大和民族の特性」探しは、『山民の生活』において一つの「仮定」に過ぎなかった。都会人において米は日常食としての〈ケ〉の食卓に溢れている状況、すなわち〈ケ〉の米食は肥大しつつあるものの、明治中期には日本は米の輸入国であったこと、台湾・朝鮮からの移入米にたよらねばならなかったという現実があった。「移入米の内地市場における内外地米出廻数量」、わかりやすく言うならば市場で売買されるために出荷された米の量は、1922年(大正11)では37%、1931年(昭和6)では80%を占めていたのである。(『日本農業発達史6』表26参照)さらに内地米と移入米の増加指数を大正元年を100として見るならば大正期を通して内地米はおよそ110余で推移するのに対し、移入米は大正5年に449、同15年には823であって移入米なくしては国内の米の需要にはこたえられなかったのである。(農林省米穀局『米穀摘要』をもとに算出)柳田國男は溢れる〈ケ〉の米食ではない、信仰としての〈ハレ〉としての米文化において、「大和民族の特性」探しに没頭したのである。しかし柳田國男は『海上の道』(昭和17年刊)において次のようにも述べている。
米を主食といふ言葉は軽々しく用ゐられて居るけれども、今も全国を通じて米食率は恐らくは三分二以内、僅か半世紀以前までは、それが五十%を少し越える程度であり、しかも其中には都市と工場地、貴族富民其他の非農民階級の、米しか食はぬ者の多数を包含して居た。主として貧窮の為、年貢の苛斂だつた為と、解せられたのにも根拠はあるが、今一つの理由は、是が本来は晴れの日の食物であつたことで、年に幾度の節日祭日、もしくは親の日身祝ひ日だけに、飽くまでそれを飲み食ひして、身も心も新たにしようといふ趣旨が、古くからついて廻つて居たことは、決して水田に乏しい地方だけに限らなかったのである。
ちょうど「食糧管理法」の制定の年であるが、かつて農政官僚であった柳田の米をめぐる経済的・時代的に分析する眼は決して曇ってはおらず米をめぐる近現代史を冷静に見ているのである。同法において米は戦時における国民の食糧の配給の基準として位置付けられ、国民の日常すなわち〈ケ〉の食糧として制度的に確立されたのである。柳田は米が〈ケ〉の食料として広まることに対して、あくまでも「晴れの日」の食物としてあるべきと懐疑心を抱いていたのである。「主食」云々よりも、その信仰的な意味における「大和民族の特性」としての米の持つ儀礼的・信仰的意味が薄れつつある現状を憂いているのである。しかし、〈ケ〉の米も植民地からの移入米によって保持せられていたに過ぎないが、柳田はそのことについては目をつぶっている。そして「古くから」という表現は極めてあいまいなのである。
粟・稗文化と米文化の浸透
『日向地誌』(明治12年)によると椎葉の大河内村は「田圃稀少自カラ養フニ足ラス故ニ山背険阻ノ地ニ就林莽ヲ芟リ草茅ヲ焼キ禾稗大小豆蕎麦ノ類ヲ植ヘ…獣害多シ之ヲ防クノ術或ハ鉄砲ヲ発シ…」とある。椎葉村の水田は江戸末期に2反余、畠・屋敷が50町歩、焼畑500町歩で焼畑栽培による稗・粟・小豆・大豆・蕎麦・里芋などを主食にしていた。小正月14日の「小歳の祝い」では集落ごとに相違もあるが、例えば川沿いに水田を拓いていた不土野集落では小歳祝いのメージョ(小正月の祝い飾り)は「向山日添や戸屋の尾その他焼畑作の盛んであった地区でヒエボと共に必ず飾るアワボがなくそれに代わってコメボが飾られる」(「荒神にはアワボ・ヒエボを上げる」)と述べられている(『椎葉村史』参照)。椎葉村では焼畑文化と米文化の浸透が行事や食文化における民間伝承の随所に見られる。はたしてそれはいつからであったのか問われるが、あいまいな「古く」からではなく、おそらくは水田を拓き始めた近世後期から近代以降であると思われる。
最後に
稲作・米食の問題を考えるには古文書「御年貢割付帳」にある「見取田」に着目するという実証的な作業や、いつから米を食べるようになったのかという歴史的な研究が必要となる。そういう意味で雑穀・麦食を中心としてきた焼畑地域の研究が俟たれるのである。何も列島の歴史・民俗は稲作・米でおおい尽くされていたのではないのである。
ところで、椎葉村の松尾地区・下松尾集落の尾根沿いに切り拓かれた棚田が観光地として脚光を浴び、天空に浮かび上がるその姿から「仙人の棚田」「マチュピチュの棚田」として話題を集めている。「古来、水源確保が難しく、焼畑農業が主流だった集落に水路が引かれたのが約150年前。当時の庄屋が中心となり、地域住民が一体となって人力で整備されました。以来、米の生産が可能となり、日本の原風景のような類い希な棚田の風景が生まれました。」(宮崎県農政水産部農政企画課中山間農業振興室)棚田が開拓されたのはたかだが明治初頭に過ぎないが、椎葉=焼畑ではなく棚田に「日本の原風景」をもとめる何気ないキャッチコピーには「日本人=稲作」という幻影がひそんでいるのである。
はたして柳田國男は椎葉村滞在において何を食べていたのであろうか、米で歓待されていたのではという思いが生じるのであるが、これは民俗的に極めて興味を抱かざるを得ない問題である。
おいかわ・きよひで
歴史民俗資料学研究者。1965年、神奈川県生まれ。神奈川大学法学部卒、経済学修士。歴史民俗資料学博士(神奈川大学 2021年)。資格:学芸員。
著書に『山のむらから―歴史と民俗の転換期』(2007年 近代文芸社)。『寒川町史通史編近・現代』(共著、2000年)。資料紹介―「青年会における支部活動―田端青年会活動日誌「記録」」(「寒川町史研究」1993年)。「伊勢参宮日記」(「倉橋町史研究報告2」1990年)。論文に、「地方における青年会政策とその動向について―神奈川県の事例から」(「地方史研究」2001年)。「神奈川県下における青年団誌の発行状況と農民文芸」(「神奈川地域史研究」2001年)。「倉橋町の絵馬文化とその流行」(『倉橋町史 海と人々のくらし』2000年)。「積雪地方研究所と民芸運動」(『日本地域の歴史と民俗』2003年)など。
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