特集 ● トランプの末路
昭和のプリズム-西村真琴と手塚治虫とその時代
連載・第8回――不安な時代に科学の目をー昭和モダンから満州事変へー
ジャーナリスト 池田 知隆
大正デモクラシーと称される「大正」はつかの間の自由の時期だったともいわれるが、「昭和」は恐慌に始まり、戦争とファシズムへの道に突入していく。人権意識の高まりで「男子普通選挙制度」が実施される一方、「治安維持法」による弾圧が強化される。新聞・言論界にも苦難の波が打ち寄せるなか、1927(昭和2)年12月、西村真琴は大阪毎日新聞社(以下、大毎)に入社した。北海道帝国大学の自然科学系の教授から未経験のジャーナリストへ。そのとき、44歳。今風に言えば、「文理融合の総合知」を期待されてのことだった。
芥川の死
西村の役職は「学芸部顧問兼論説員」となっている。当時の大毎の学芸部はどんな職場だったのだろうか。
芥川龍之介
西村が入社する半年ほど前の7月24日、大毎の客員社員だった作家、芥川龍之介が亡くなった(大毎の社籍簿によると、月報酬160円の給与が支払われ、死亡時に香典として金300円と花輪一対40円が贈られている)。「唯ぼんやりした不安」と遺書に記した芥川の死は、大正から昭和へと変わりゆく社会に広がる漠然とした恐怖や閉塞感を象徴するものと見なされた。
その芥川を大毎に招いたのは学芸部長で詩人の薄田泣菫だった。芥川の師、夏目漱石が朝日新聞社に入社して活躍しているのに対抗して、大毎では森鴎外が専属となって「渋江抽斎」「伊沢蘭軒」などの史伝を次々と発表した。ただ、新聞小説としては不評で、販売店から猛烈な反対の声が上がり、もっとくだけた小説の掲載要望が高まった。そこで薄田が芥川と、芥川の友人の菊池寛に入社を勧めた。芥川は大毎、菊地は東京日日新聞(以下、東日)の社員になり、2人は「出社を免除し、年に何回か小説を書く、他の新聞社には執筆しない、月額報酬130円」という破格の待遇。芥川は「地獄変」、菊地は「真珠夫人」などを書き、評判を呼んだ。
社会不安のなかで
薄田は病気によって40代の若さで休職し、新聞小説の書き手は社会部長、阿部真之助(のちのNHK会長)が決めていた。阿部は、昭和の国民的作家といわれる吉川英治を抜擢し、その小説「鳴門秘帖」が爆発的な人気を呼んだ。西村が入社した前月からは、都新聞で連載が中絶していた中里介山の「大菩薩峠」を夕刊1面で再開。幕末という時代の転換期に生きる主人公、机竜之介は、理由なき殺人を犯す「虚無」の象徴と見なされ、先行きの見えない社会の不安と虚脱感を体現していた。混沌とした世相を長期にわたって描いた「大菩薩峠」は、いまでは大衆小説の古典とされている。小説や文芸は、特定の特権階級や専門家だけでなく、社会の大多数を占める「大衆」が享受する「大衆文化」の花が咲き始めていた。
また当時の新聞社の出版は、大阪中心だった。日本で最初の総合週刊誌として22(大正11)年4月、『サンデー毎日』が創刊され、『週刊朝日』と共に日本の週刊誌が広く読まれるようになった。その出版編集は大毎が中心で、東日は委託の形で売りさばくだけだった。(41(昭和16)年、東日内に出版局が生まれるころから東京でも出版編集が活発化したが、それまで東日に出版部門はなかった。『毎日新聞百年史』)
学芸部は、薄田の病気休職もあって23(大正12)年12月、サンデー毎日編集課と調査課に分かれ、一時廃止。大衆文学のみならず、市民の文化的な記事、連載を求める要望が高まり、学芸部の再建、充実が余儀なくされていた。そんなときに大毎の本山彦一社長の目に西村の存在が留まったのは当然のことだろう。西村は、科学者と芸術家と文学者を一緒に供え持ち、学芸部の顧問として最適な人物だった。いつしか人は文系・理系・芸術系など3つに分けられるようになっていくが、「博物学」から学び始めた西村はそれらのジャンルを自由に行き来できる識見を備えていた。「ぼんやりとした不安」な時代にこそ、西村のもつ科学的、芸術的な視点が求められたのである。
人類の理想を掲げた「学天則」
新聞社入社して最初の仕事は、人造人間(ロボット)の製作の指揮を執ることだった。翌28(昭和3)年秋、京都で行われる昭和天皇の即位式に向けた京都市主催の博覧会に大毎も協賛出展することが決まっていた。その場で日本初、ひいては東洋初となる人造人間を披露しようという大胆な企画だ。最先端の科学知識を結集し、科学の未来を多くの人に衆知させる使命感に燃え、西村は大いに張り切った。
人造人間を製作中の西村真琴
「生物の発生や進化にならえ――簡単から複雑へ」
大毎本社内に設けられた人造人間創作室の壁の一面にこんなモットーを掲げた。その詳細については本連載の第1回目で紹介した通りだ。
そのころチェコの作家カレル・チャペックによる戯曲『人造人間ロボット』が世界的な話題を集めていたが、西村の頭に浮かんだのは「人間の奴隷としての機械人間」でない。「未来を人間と共に開いてゆく、創造力を秘めた共働体を念頭に、表情豊かなロボット」を創り出すことだった。生命の進化の法則を活かした人造人間で、これを「学天則(がくてんそく)」と命名した。
この「学天則」の製作の意義について、西村は二つあげている。
一つは「分析知から総合知へ」。こう語っている。
「作者は平素生命の問題に興味をもつ一人である。これまでの学者の生命に対する研究は大概生命の分析学であった。だんだんと細より微にと検べてゆくうちに、生命の組み立てている単位ともいうべき細胞を一生懸命に研究の対象とした。遂に細胞を組成する成分の化学的研究となった。一面において『一切の物質は電子から』という学説が有力になって来て、その電子の配列次第では何でも出来るという万物同根の思想が学術の立場から証明せられそうになった。処で生物は生命のない物質を食べて生命のある物質にする働きをなすのである。」(「人造人間の生命」、以下の引用は『大地のはらわた』から)
生物の体内に起こる科学作用を研究すれば、生物を創り出すことはできなくはない。生命を探究するうえでの二つ目の課題は「科学と芸術の交流」。
「学天則」と共に(写真左が西村)
「この時代を飛んで企てられつつある人造人間は所詮機械人形乃至は電気人形の範囲を脱し得ない。……今までのようなぎこちない人形でなく、人間らしい表情をもつ円滑な動作を人造人間に求めるとすればそれは既に大変なことで、創意であり創作であるのだ。
人形を人間らしく認めさせることのためには、必ずや表情がなくてはならない。その表情が観衆をひきつけ得るためには『あれは機械的な運動だ』と感知せしめる以上の芸術の力が伴わねばならない。ここにおいて人造人間は科学と芸術の交流によって成り出ねばらない。」
そして最も肝要なのは、「天則に学ぶ」ということ。「宗教的にも、哲学的にも亦科学者の対象としても重大である。我等の人造人間の創作もやはり天則を学ぶに外ならない」と西村は強調した。
この「学天則」は博覧会場で多くの人を魅了し、合掌し、賽銭を供える人も相次いだ。後に西村は「日本のロボットの父」といわれるまでになったが、それからしばらく「ロボット伝道師」の役割を担わされた。
4月23日付けで講演部兼務となり、学術的な人脈を活用して積極的に事業を展開する役割を求められた。10月15日事業部長の職を兼務して各地を動き回る。京都博覧会に続き、広島昭和博覧会、朝鮮大博覧会で「学天則」を披露し、西村は朝から晩まで動き回った。
「科学者よ、技術者よ、研究の成果が絶対に人類の殺戮に使われることの無いように努力して行こうではありませんか」
西村は「学天則」の掲げた理想を人類と地球、宇宙のありかたを「天」からの視点で語り続けた。だが、博覧会のもつ宿命なのか、一大イベントが終わると、それらの理想も熱気も次第に忘れられていった。
「鯉の骨」としての科学記事
西村は、事業部長を兼務しながらも活発に執筆を続けた。社会的なさまざまな事象を科学的な視点をどのように伝えていくのか。そのための手法として、中華料理の「鯉の骨」に例えてこう説いている。
中国料理の中に鯉の丸煮がある。鯉はおいしい魚の一つとされているが、骨のうるさい魚でもある。しかし、中華料理にかかると、この骨の舌ざわりがよくなり、ぼりぼりとうまく食べられる。
「人間生活の中に最も根本的な骨となり、養分となる可き科学が、これまでどうも特別扱いにされがちで、学者はこれを平易に説くことを一種の堕落であるかの如く考え」られて、世間でも「学術の事は専門家の領分である」とされている。それはちょうど、科学は「鯉の骨」と決めているようなものではないか。
「科学と限らず、堅いために親しまれないが、しかし滋養分のある記事の如きは、大衆に示す前に支那料理の秘伝のような術を、その表現の上に工夫す可きである」
まずは「鯉の骨」を食べられるように森羅万象の事柄をわかりやすく、かみ砕いて書こうと試みた。
さらに記者の心がけとして「社会の裸体」を描くことの大切さを強調している。
かつてレオナルド・ダ・ビンチが死刑者の体を貰いうけ、自ら解剖した結果を芸術解剖学の立場から発表した例をあげている。
ルネッサンス末期には「裸体に関する解剖学的研究は、絵画にも彫刻にも大切にされていたことを証拠立てている。けれども裸体というものには一種の魅力が劣情を伴うからとの理由で我国は屡々展覧会場から撤回されたものだが、こうした痛し痒しの焦慮は社会の裸体描写の上にもやはり同じこと」がいえる。
「社会のまる裸のスケッチといえば、新聞記事に如くものはない。その記事にも書くべからざる部分まで克明に書いて問題にされる一面には、なぜもっと克明に書かないんだーーなまぬるいぞ! と突っ込まれる場合もある。……それはともかくとして、記者の心がけは、単に表面的な描写で満足せず、そこはダビンチ流に、解剖探求のメスを立てねばならない。」
「……今日では裸体画なり裸像彫刻なりが、厳然として美術展覧会の中核をなしている。これを思うと、社会の裸体に対する鑑賞眼は、もっと進歩してもよさそうに思われる。……当面の責任のがれの安価な根性が、十把一からげに取り扱う傾向のあることは悲しまずには居られない。何はさて審美眼が低級だったり、規則の奴隷的不融通であったりする間は救われない。
社会が、どれだけ抵抗力を持っているかをよく診断してから手術のメスを執って欲しいということだ。
これは医学者が、大手術を施す前の常識であった。」
政治、社会の姿を科学的な知識、思考を通してありのままに見つめること。その重要性を熱く訴える姿勢が見て取れる。
中国への畏敬
世界に目を転じると、中国大陸では各地の軍閥が激しい戦いが繰り広げていた。27(昭和2)8月には毛沢東が率いる中国共産党は南昌など各地で暴動を起こし、中国工農紅軍(紅軍)をつくった。蒋介石による国民政府との戦闘が激化し、日本軍も満州の地に権益を拡大させていた。
西村は26歳から32歳にかけて6年、満州で暮らし、中国各地を旅している。それだけに中国社会への愛着は深い。
「現代の支那は、一般の人々には思想的の過渡期に際して、軍閥につけ込まれ、罷業と内乱とを一手専売にしている国であるかのように映っているが、単にこんな変調を眺めて評価することは、四千五百有余年の齢を重ねた体験者なる支那民族に対する態度ではない」
独角の麒麟の置物
西村は、自宅に二つの「独角の麒麟(きりん)」を飾り、いつも中国の動向に注目していた。
麒麟は、紀元前から中国に伝わる伝説上の聖獣。姿は鹿に似て、牛の尾、馬の蹄、1本の角を持ち、百獣の長とされる。平和で穏やかな世に現れる幸福のシンボルであり、「仁」の心を持つ聖人が出現する前兆ともいわれる。慈悲深い“仁獣”として孔子廟にもおかれ、正月や五月五日の節句には、聖代を祝福する意味から「麒麟舞」が活発な男児二人によってふるまわれる習慣があるといわれる。
角の多いのは家庭内には禁物だ。だから、西村は、一本角の麒麟二頭で一対とする「和合麒麟」として飾り、家庭の和合を願った。
「東洋文化の本源」は支那にある。東洋道徳の根源を涵養したものとして、孔子や孟子の影響力をあげている。羅針盤、文字の制定、火薬の発見、印刷盤の考案などの文化的遺産も数えきれない。奉天の宝物殿にある陶器を見た時、西村は「その中に殆んど透明に近いものを認めて、ガラスは西洋よりも先に支那に於て発明された」ことを考えさせられたという。
武人としては元朝に欧州を征服した成吉思汗、詩人として李白、杜甫、書道芸術の王義之、画として呉道子、王磨詰らを列挙。さらに三民主義を掲げた孫文を「支那のレーニンと呼ぶ可き傑物」と評価している。
「支那が歴史的にも地理的にも東洋の平和に非常な力を持っていることはいうまでもない。この国士が民族の活躍を四千五百年も続けて、今なお辛酸苦行を受けつつある国民の正体に生まれて来るⅩに対して、私は或る期待をかけながら、思い出してはこの独角麒麟の背を愛撫するものである。」
中国の芸術に魅せられた西村は、欧米での暮らしを通して各国の芸術を対照的に鑑賞し、そのことで中国の芸術文化の真価をより深く感じてきたと強調している。
国際協力を指針に
中国大陸の混乱に心を痛める一方、国際協力の重要性を強く訴えている。「北を指す」と題した文章ではこう書いている。
「支那の事変」は、「低い野望的争闘」であり、「嫉視、反目、意怨、喧噪あらゆる醜さを堆積するところの不経済的、非衛生的、没情的行動である」と断言し、当時、北極探検をめぐって繰り広げられた国際協力は「尚い求知心に因る懸命」であると讃えた。
この国際協力は、28(昭和3)年5月26日、イタリアの探検家・飛行船設計者のウンベルト・ノビレ少将の飛行船が北極点到達の帰路に遭難し、国際的な救助活動が行われたことを指している。ノビレ少将から「逆風と濃霧の虜になれり」との無電を知った時、西村の心は混乱に陥らんばかりだった。その救助活動の顛末はこうだ。
遭難した飛行船「イタリア」号
「イタリア」号は北極点に到達後、低気圧に遭遇し、海氷に墜落する。ノビレ少将は脚と腕および肋骨を骨折、頭も負傷。乗組員はゴンドラの残骸から使えそうなものを回収し、救助を待った。遭難から日が経つに連れ、生存者を乗せた海氷は漂流していく。極点到達後の事故はいち早く世界中に報道され、北半球の各国の救助隊が動き始める。生存者たちは飛行船の無線機でSOSを発信、テントを赤く染めて目印とし、救助を待った。イタリアを含むソビエト連邦やノルウェー、スウェーデンやフィンランドなどの国々が極域初の空と海の両面から救助活動にとりかかる。西村はいう。
「幾多の人々が同じ心にこの危難を救わんとして出発し、その背後には熱愛を以てこれ等の人々の上に幸あれと願う心は北極の氷原をも解かさまじき状態である。
何たる近代の人間情熱の高潮の姿であろう。
私はかつてスカンジナビアの山川に交わって、その人情に接したときのことを思い起し、今更の如くスェーデン、ノルウェーの人々がかくも落ちつきを以て、秩序と勇敢とにおいて次ぎ次ぎ捜索の手をつくした事実を深く肯く次第である。」
48日後、最後の乗組員たちがソビエトの砕氷船に救出されたが、この救助に投入された総力は航空機23機、船舶20隻、犬ぞりチーム3隊。乗員16人のうち助かったのは9人だった。
この国際的な救助活動のなかで、ノビレ少将の友人であり、ライバルでもあったノルウェーの極地探検家、ロアルド・アムンゼンは事故を知るや、自家用飛行機をチャーターして、救助に向かった。だが、途中で墜落し、行方不明となった。前年の6月、来日したアムンゼンと札幌で握手を交わした西村は激しい衝撃を受けた。
「我等は尊かるべき人間のかくの如き壮烈なる実例を前に、徒なる争闘の報道を読むべきあまりに静思と黙念との力が強すぎる。
聞くところによればローマ法王は木製の十字架を北極に樹てることをノ少将に託したとある。この度ノ氏を中心として現れたくさぐさの事柄は、正に十字架の精神を彼の地において人間史上に永くとどむるゆえんでなくて何ぞ。磁石がことごとく北をさすという物理的の事実に加えて、今後北方は我等に一種特別の力を以て働きかけるであろう。」
国際的な協力は、極地探検における人道的な側面を強調し、探検家たちの連帯感を生む要因となった。その時の感動を西村は熱く語っている。
蘇峰と新渡戸
西村は「学芸部顧問」だけではなく、「論説員」として本山社長の近くで一流の人物と交友を重ねた。国際的な時流に敏感に向き合い、知見を深めていく。
徳富蘇峰
29(昭和4)年には、徳富蘇峰(1863年~1957年)が、本山社長の引きで大毎・東日に社賓として迎えられた。蘇峰は池辺三山、陸羯南とともに明治の三大記者とも称されたジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家。2年前に、弟の蘆花(作家)が死去したあと、蘇峰は自ら創立した国民新聞社を退社し、『近世日本国民史』連載の場を大毎、東日両紙に移した。
そのころの蘇峰は、大正デモクラシーの隆盛に対し、外に「帝国主義」、内に「平民主義」、両者を統合する「皇室中心主義」を唱えていた。普通選挙制の実現も国民皆兵主義の基盤として肯定的にとらえ、日本ナショナリズムや皇室中心主義的な思想によって軍部と結んで活躍していくが、西村はそんな蘇峰と親しく交際を重ねた。
新渡戸稲造もまた、大毎・東日の招請に応じてこの年、英文毎日監修として入社した。西村が欧州各地で研修中、ロンドンに滞在し、国連事務次長をしていた新渡戸の知遇を得て、北海道帝国大学教授の道を開いてくれた恩人でもある。新渡戸はその後、「太平洋の架け橋となる」となるために、アメリカ滞在中も英文毎日に執筆を続けていた。
西村は科学記事を精力的に書き続けながら、各種事業にも携わっている。富士山に登山し、台湾各地に何度も出かけて現地の民俗、文化を紹介し、当時の人気作家たちを率いた文芸講演会も企画運営した。
30(昭和5)年3月の宮崎市で行われた文芸講演会でのこと。西村は、当時の人気にあった新居格、加藤武雄、高田義一郎の一行を率いたときの愉快なエピソードを挿絵付きのエッセイを書いている。題して「類人猿もどき」。
「人類猿ごっこ」の挿絵(西村筆)
奇岩「鬼の洗濯板」や亜熱帯の植物が生い茂る青島。その森のなかで、西村と新居が裸体で争った。
「君の裸ん坊一つだけでこの森を占領するとは、余りいい気がすぎるよ」
こういいがかりをつけて、ゴリラのように肩をいからせながら、しのび腰でやってきたのは、「モダンおやじ」と九州巡りの旅で綽名がついた裸体の新居格。
びっくり仰天して、後ろを振り返りさまに、禿の額をしたたか平手でたたいて、足を躍らせた裸体の主はかくいう筆者(西村真琴)である……。
この青島での「類人猿ごっこ」が夜の講演会で加藤が披露したものだから、聴衆の笑いを誘い、おおいに沸き立った。
この文芸講演会一行の三人は、今ではすっかり忘れられた存在だが、新居格は、読売新聞や東京朝日新聞などの記者を経て文筆業となり、評論家として活躍。モダニズム文学や当時の風俗に造詣が深く、新感覚派の一人だと目されて、評論家大宅壮一によれば、「モガ・モボ(モダンガール・モダンボーイ)」の流行語を生みだしたのも新居だという。
次いでにいえば、加藤武雄は新潮社の編集者として活躍したあと、通俗小説家として一世を風靡していた。高田義一郎も医学博士の立場から医学関連書を発表する一方で、性科学や犯罪科学をテーマとしたユーモア・エッセイ、SF怪奇小説で知られていた。このエッセイの終わりに西村はこう付け加えている。
「私はもしも人間生活から破産したら、アフリカの珍奇な生物群に交って、そこに新しい経験圏を拓いて、きっとおもしろおかしい生活が営み得られるのだと信じてゐます。」
西村は、大学教授の時代と異なり、新聞人として多彩な分野の一流の人物との交流を謳歌していた。
モダンな阪急文化
西村は阪急宝塚線服部駅から徒歩5分の穂積村(現・豊中市)の田園の中に住居をかまえた。応接兼書斎の天井は、丸太がむき出し。尊敬するリンカーン(アメリカ大統領)が少年時代に丸太小屋で苦学したことを偲んで建てたという。晃(のちの俳優)の弟、昭三も生まれた。母、妻と5人の子に囲まれた暮らしは穏やかだった。六甲山に棲息していたというカメレオンを自宅で預かって家族みんなで飼育したりしたほか、自然環境や動植物への愛着を込めた科学随筆を精力的に書き続けた。
この西村宅からほど近い豊中町(現・豊中市)で手塚治虫が28(昭和3)年11月3日、生まれている。明治天皇を偲んで設けられていた「明治節」の日で、それにちなんで「治」と名付けられた。手塚の父親、手塚粲(ゆたか)は大阪の住友倉庫、住友金属工業で働き、写真や映写機を愛するモダンで多趣味な人物だった。漫画にも理解が深く、『のらくろ』や『冒険ダン吉』を買ってきては、読み終わると治虫少年に与え、手塚治虫は父を、「日本で一番初めに、電車の中でマンガを読んだ人間だと思う」と称賛している。母文子も、治虫にマンガを好きなだけ読ませるだけでなく、読み聞かせもした。キャラクターによって声色を変えるなど、迫真の読み聞かせだったという(手塚治虫『ぼくのマンガ人生』)。手塚治虫は33(昭和8)年、5歳のとき兵庫県川辺郡小浜村(現・宝塚市)に引っ越すまで豊中町内で暮らしている。
そのころの大阪市は、人口、面積、工業出荷額ともに日本一を達成し、東京市をしのぐ世界有数の大都市。「大大阪」と呼ばれた時代である。阪急沿線は「清潔で快適な郊外ライフスタイル」に向けた宅地開発が進み、宝塚歌劇の人気も高まっていた。27(昭和2)年の「モン・パリ~吾が巴里よ~」の大ヒットによってレビュー時代が開幕。29年(昭和4)年、大阪・梅田に開業した阪急百貨店は日本初のターミナルデパート。「いい品をどこよりも安く」というコンセプトで、駅直結の利便性とデパ地下の先駆けとなる食料品売り場(阪急マーケット)を融合させた。30年(昭和5年)には『パリゼット』初演され、『モン・パリ』をしのぐ人気となり、主題歌「すみれの花咲く頃」がヒットし、化粧法が一新したのもこの作品からだといわれる。
そして手塚粲は、宝塚倶楽部の会員でもあった。宝塚ホテルの中に結成された紳士のための社交の場(ゴルフ倶楽部)で、阪急沿線の高級住宅地開発とともに上流階級や財界人が集っていた。後に、治虫少年は父に連れられて宝塚ホテルのレストランで食事をしたり、母と宝塚少女歌劇に通っており、手塚漫画の母胎には宝塚歌劇や阪急のモダンな文化が浸み込んでいる。
しかし、国内では「昭和恐慌」による深刻な不況と政治的緊張に見舞われ、企業の倒産や失業者が相次ぎ、特に農村部ではより深刻な貧困が問題となっていた。同年4月、ロンドン海軍軍縮条約の調印をめぐり、「統帥権干犯問題」として政府への批判を招く。11月には浜口雄幸首相が東京駅で狙撃される事件が起きた。都市のモダンな生活と、忍び寄る世界規模の不況・軍靴の音が交錯する、まさに「嵐の前の静けさ」のなかで西村は新聞人として暮らしを満喫していた。
満州事変が勃発
『大地のはらわた』
そして同年9月、西村がそれまでに書き溜めた随筆、記事を収めた『大地のはらわた』(刀江書院)を刊行すると、一躍ベストセラーになった。
その目次を見ると、「黒潮に乗りて」、動植物を通して語った「季節の断面」「自然を食む」、自然科学小説「蟻供養」、各地の暮らしや情景を描いた「南から北へ」「胡笛に聴く」、自らの交友歴を語った「足跡」、そして生命と文明、学天則について論じた「生命を語る」などの章立てとなっている。生命学、医学、健康法にはじまり、食品衛生、嗜好品、天文・気象におよぶ実に幅広い内容だ。
翌31(昭和6)年7月には西村は北千島学術探検(2カ月間)にも加わり、学術分野への関心を失ってはいなかった。
だが、9月に満州事変が勃発する。まるで国全体が世界情勢を冷静に、合理的に判断する能力を徐々に失っていくかのようにして、それから15年に及ぶ戦争の時代に入っていった。激動する政治や社会に対して科学者が果たすべき責任とはなにか。政治家や官僚が科学への理解を持たないことには国の将来にとって危うい、との思いを西村は深くしていく。日本の科学者たちも軍部の委託を受け、最先端の基礎科学を応用した兵器開発を含め、国家への協力体制に組み込まれていった。
蘇峰と新渡戸、国粋主義と国際主義、ナショナリズムと合理的思考……それらの間で悩みながら、西村真琴は新聞社の真ん中で多くの事業に関わるなかで、時代の大きな潮流に巻き込まれていった。
いけだ・ともたか
大阪自由大学主宰 1949年熊本県生まれ。早稲田大学政経学部卒。毎日新聞入社。阪神支局、大阪社会部、学芸部副部長、社会部編集委員などを経て論説委員(大阪在勤、余録など担当)。2008~10年大阪市教育委員長。著書に『謀略の影法師-日中国交正常化の黒幕・小日向白朗の生涯』(宝島社)、『読書と教育―戦中派ライブラリアン棚町知彌の軌跡』(現代書館)、『ほんの昨日のこと─余録抄2001~2009』(みずのわ出版)、『団塊の<青い鳥>』(現代書館)、「日本人の死に方・考」(実業之日本社)など。本誌6号に「辺境から歴史見つめてー沖浦和光追想」の長大論考を寄稿。
特集/トランプの末路
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