映画評
『どうすればよかったか?』(藤野知明監督/2024年/日本/ドキュメンタリー/101分)
「家族」という物語
自治医科大学教員 吹田 映子
『どうすればよかったか?』(藤野知明監督、2024年、日本、ドキュメンタリー、101分)
統合失調症
今から20年ほど前、知人が突如として命を絶った。その人も私も20歳代半ばだった。事後にわかったのは、その人が統合失調症の治療を受けていたということ。そして、退院直後の時期に発作的にビルの窓から飛び降りてしまい、亡くなったということだった。その時まで、統合失調症なるものに意識を向けたことはなかった。かつては分裂病と呼ばれ、幻視や幻聴が伴うらしいのだが…。知人のおっとりした人柄と、激越なものとして想像される症状とがどうしても結びつかず、「掴みどころのない病」という印象だけが残った。
弟が姉と両親を撮る
『どうすればよかったか』は非常に稀有な映画である。統合失調症を発症した姉とその両親を、弟が映像に記録し編集した。お姉さんに最初の急性症状が現れたのは1983年で、最初の映像記録から遡ること18年。彼女は大学生(24歳)、弟は高校二年生だった。瞳孔が開き、「夢の中でうなされているような非現実的な」内容の叫び声を上げ始めた娘の異変に気づいた母親が、息子(弟)に相談のうえ、父親が単身赴任で不在のなか救急車を呼んだ。
この日の救急搬送を最後に、「まこ」さんは49歳になるまでの25年間、一度も医療機関を受診せずに自宅で年を重ねた。彼女には病識がなく、ともに基礎医学の研究者であった両親は、娘が統合失調症である可能性を受け入れられず、「問題ない」と否認し続けた。高校生だった弟は、姉の状態と両親の対応をめぐって孤独に煩悶しながら大学生になり、就職に伴いこれから家を離れるというタイミングで、姉の記録を残さなければと思い立つ。作品の冒頭で流れる音声は、そうして弟が初めて録音した姉の声である。
「知明、日本のバカだな。なんでそんなにゲレ(北海道の方言で「ビリ」の意)になってんの」
「早く上がんなさいよ。お前、できなきゃだめだ」
「お前の顔なんか病院に叩き込んでやるぞ」
「どうして家から分裂病が出なきゃなんないの」
発症前後に「まこ」さんが置かれていた状況に照らせば、これらは決して支離滅裂な言葉には思われない。むしろ極めて論理的で悲痛な叫びに聞こえる。
“父の娘”
「まこ」さんは“父の娘”だった。父親を尊敬し、その期待どおりに医学部を受験した。しかしすぐには合格せず、4年間の浪人生活の末、4度目の受験でようやく悲願を果たす。しかし二年生になり解剖実習が始まると、人間関係につまずいたことがきっかけで実習に参加できなくなってしまう。その頃の彼女は大学から帰宅する道すがら、両手にいっぱいのゴミを拾うのが習慣になっており、これが救急搬送される頃の様子であった。
解剖実習は、医学部のカリキュラムの中でもとりわけ心身に負担の大きい科目と聞く。さらに当時は、学年中の男女比が9:1。解剖実習には数人の班で臨むので、人間関係もまた大きな負荷となる。男性と接することに慣れていなかった「まこ」さんは「人間関係でつまずき、孤立してしまった」。一般に、統合失調症の発症時期は20歳代前半が最も多いとされ、受験や就職、さらには恋愛等による人間関係まで含め、環境が大きく変化したタイミングで発症することが多いと言われている。およそ100人に1人が発症する「ありふれた」病であり、運よく薬が合えば症状を改善できるということ等も現在では知られつつある。事実、上述の救急搬送から25年が経ち、弟の介入によって「まこ」さんが適切な医療にアクセスするやいなや彼女の状態が好転したことは、映像が余すところなく伝えている。彼女に処方された向精神薬は1996年に日本で認可されたもので、「もし姉がもっと早くに精神科を受診していれば、十二年早くその薬を試すことができた可能性」があったと、監督は考えている。
両親の怪
両親はともに医学に通じていたはずなのに、どうして娘を医療から遠ざけたのだろうか。娘が救急搬送される時、母親から電話で相談を受けた父親は、自らが信頼する精神科開業医を搬送先に指定した。翌日、駆けつけた父親に付き添われて娘は帰宅。父親は家族に対し、「全く問題ない。医師からは『精神病院に入院すると心の傷になるから』と帰された」と説明した。が、これが実は嘘だった。20年以上経って弟が当の医師に確認したところでは、たった一度の診察で「問題ない」と判断することはありえず、父親が連れて帰ると言うので病院としてはそれ以上のことができなかったという。その医師の元に、「娘は元気でやっています」という年賀状が父親から何度も届いていた。
「心の傷になる」というのは、父親自身の心の傷になるということだろう。彼は自分が傷つくのを恐れるあまり、事実の受け入れを拒み続けた。“父の娘”は、実習に出られなくなり単位を落とすと、「自分には医師の勉強ができる能力はある。単位をもらえないのが耐え難い」と訴える手紙を単身赴任先の父親に送る。そうして留年しながらなんとか医学部を卒業した娘に、父親は言い続ける、「状況を改善するために、とにかく国家資格は取っておいたほうがいいんじゃないか」と。期待に応えて娘は医師国家試験を5〜6度受験し、次第に受けたがらなくなる。母親も夫の意を汲んで、「研究や勉強ができているから(娘は)統合失調症ではない」と言う。医学者でありながら両親が早々に医療の可能性を放棄してしまったのは、相手が対象化できない「家族」だからなのだろうか。彼らは、自分たちと同じように医学研究者になってほしいという娘への願望を優先し、本人の状態は放置したまま、彼女が研究者らしく見えるよう自分たちの活動に関与させた。
遅すぎた変化
発症と思われる時点から25年もの間、弟の働きかけも虚しく、娘の病を否定する両親の姿勢に変化はなかった。ようやく状況が変わったのは、母親が認知症を発症し、彼女もまた医療機関を受診しないまま、状態が悪化したタイミングである。「姉を入院させて母を家で看ることにしたらどうか」と弟は父親に提案し、素直に受け入れられた。この時49歳になっていた「まこ」さんは3ヶ月の予定で入院。主治医との相性は良く、入院中に薬を服用する習慣を身につける。予定どおり退院すると、症状は明らかに改善されていた。
「まこ」さんの退院から6年が経つまでの間に、母親は他界。残された姉と父親の暮らしを支えるため、弟は故郷の札幌に拠点を移していた。そんな中、思いがけない事態として「まこ」さんにステージ4の肺がんが見つかる。「もう時間がない」という思いで、弟は姉のしたいこと、行きたいところへ積極的に連れて行く。翌年、今度は父親が脳梗塞になり、さらには前立腺がんであることも発覚。姉に手伝ってもらいながら、父親を介護する日々。しかし「まこ」さん自身も転倒しては起き上がれないことが増え、食事もとれなくなって入院。転院後、死去。
「入院までかかった二十五年という歳月は、あまりに長すぎました」。
どうしてこうなったのか?
娘が統合失調症であるという事実を否認し続け、自らの願望に固執した父親。そのことは葬儀の場において顕著だった。弔辞では、「まこ」さんが統合失調症を発症していたことには一切触れず、自分の「研究を手伝ってくれた親孝行な娘」であり、その「一生は充実していたといえるのではないか」と語った。納棺された娘に手向けたのは、自分と妻と娘の名前が入った二つの研究論文だった。
「まこ」さんの死後、生存中の父親に監督は、姉の受診を拒んだ理由を尋ねる。「病院の治療に期待が持てなかったから」か?――否。「(病院では)虐待も行われる可能性もあるから」か?――否。「病気を恥じて、統合失調症だと診断を受け止めることができず、連れて帰ってきた」のか?――驚くべき回答がくる。「それはママなんだ。パパにはそういうことを考えたことはなかった。ママは統合失調症だと言われることを極端に嫌ったんだよ」。作品を観る限り、また、監督の著作を読む限り、この回答は事実に反しているとしか思われない。もし父親が、“死人に口無し”で妻に「責任」を押し付けたのであれば、少なくとも彼は自らの過失を、娘を受診させなかった己の判断が間違っていたことを、いつしか認めていたということだ。
監督が伝える限り、両親は決して一枚岩ではなかった。母親は当初、娘の身に生じた事態を問題と認識していた。また、少なくともある時点からは、娘に対する自分たちの行いが「教育虐待」に該当するのではないかという認識を持っていた。「(娘は)統合失調症ではなくて、医学部へ行くことを強要し、勉強ばかりさせた親の教育虐待を恨んでいる。だから統合失調症のふりをしているんだ」と息子に説明するようになっていた。病を事実として認めない姿勢に変化はなく、その点では最後まで夫と一心同体のように見えるが、母親には母親なりの考えがあったようだ。彼女は当時としては珍しく「主婦」ではなく、研究者としての収入を自ら管理し、研究のことでは夫と侃々諤々の議論を交わす「先進的」な女性だった。しかし娘のことでは、夫の意見に従った。
これは私の家だ
スクリーンには、両親が定年退職してから建て直したマイホームに暮らす四人家族が映し出される。当初は広々と感じられたはずの二階建ての一軒家も、いつしか大量の物に溢れて手狭になったのだろうか。かろうじて残った通路を縫うようにして人とカメラは移動する。家族構成は異なるものの、また、研究用の実験室があるという点も異なるが、私自身が生まれ育った家庭環境と大差がない。最大の共通点は、マイホームの内側ですべてが完結する閉鎖性である。ここに映し出されているのはきっとごく普通の、典型的な核家族の姿に違いない。家は一見きれいな外観だが、内部には物が溢れ、そこでは物や埃が溜まっていくのを放置するように、互いが抱えているはずの「問題」に気づいても見て見ぬふりをし、いたずらに時を過ごす。それは優しさであり、遠慮であり、恐怖であり…。
近所付き合いは、おそらくほとんどない。日常的な人間関係が家の中で完結しているため、家族の誰かに「問題」が生じた場合、その「責任」がすべてその家庭内にあるかに見えるのは当然のことかもしれない。とはいえ、「問題」はそもそも「外」に仮想される世間体に対して生じているのではないか。だから隠したり否認したりする。あるいはむしろ、隠したり否認したりすることで「問題」が生まれる。窓を開ければ外へは簡単に出ることができるのに、また、そうすれば「問題」は日の光を浴びて霧消するかもしれないのに、その選択肢が失われている。家族の「問題」を後生大事に抱え込む。私たちは恐々と外出する。周囲の、近所の目が怖い。最近の住宅に窓がほとんどないのは、気温に関して快適に過ごしたいという願望だけでなく、そういった傾向の高まりをも反映しているように思えてならない。スマホの画面を一心に見つめるのも、視線が周囲に向かうことを忌避するためだ。
「家族」という物語
どうして私たちは、かくも「家族」という牢獄の中に押しやられてしまうのだろうか? DV、児童虐待、自傷、過食嘔吐、パーソナリティ障害、引きこもり…。それぞれの参考書を紐解けば、「問題」の根底にはいつも「家族」というテーマが横たわっている。
私にも弟がいる。25年もの間「まこ」さんがほとんど軟禁状態に置かれ、病を放置されたのは不幸なことであった。しかし、愛情ある弟の手によって人生の断片が記録され、時期は遅くなったけれども弟の働きかけによって適切な医療につながり、最終的に彼の作品の中で生き続ける「まこ」さんは、「家族」という物語のなかで幸せであるようにも見える。
【参考文献】
藤野知明『どうすればよかったか?』文藝春秋、2026年。
『どうすればよかったか?』公式プログラム、東風+動画工房ぞうしま、2024年。
すいた・えいこ
1982年、青森県生まれ。博士(文学)。自治医科大学医学部総合教育講座(芸術学)に教員として勤務。専門は19世紀末から20世紀にかけてのベルギー美術。『わたしを忘れないで』(翻訳、アリックス・ガラン著、太郎次郎社エディタス)、『ベルギーを〈視る〉:テクスト―視覚―聴覚』『ベルギーの「移民」社会と文化:新たな文化的多層性に向けて』(ともに共著、松籟社)。
