特集 ● トランプの末路

大澤は言う、リベラルが高市を選んだ⁈

トランプは新自由主義・グローバリズムの「落し子」

大阪公立大学人権問題研究センター特別研究員 水野 博達

はじめにー2026年2月衆議院選挙の結果の読み方

2026年2月8日の衆議院選挙の結果について、学者や政治評論家などが、各種の論考を発表している。論考の多くは、この選挙で予想を超えて自民党が大勝した結果に驚き、その意味を捉えようとしている。

これらの論考をすべて検討することは、筆者の能力を超える。そこで今回は、2025年参議院選選挙以降、3回にわたって『現代の理論』(デジタル版)(注1)で論じて来たことと関わって、雑誌「世界」2026年5月号の二つの論考を切り口に議論を進めることにする。

なお、各政党の総括は、それぞれ党内「世論」にとって差しさわりのないものとなっている。その代表は、大敗した中道改革連合で、踏み込んだ敗北の総括を避けている。踏み込めば、中道連合が瓦解する危うさが孕むので踏み込めないのであろう。

いずれにしても、政党の議論は、「世間」に向かって発信しているというよりも、党内に向けた内向きの性格が強い。後から順次述べていくが、各党は、この選挙結果に表れた大きな時代の転換と「民意」(注2)の移動・移転について明確な評価を持てていない。その結果、議論は内向きにならざるをえない。だから、ここでは政党の議論は扱わない。各党が今後、実際にどのような活動をするかを評価する方が、日本の政治展望を考える上で、有効であると考えるからである。

1.加藤洋子:1930年代の「ナショナル・スイング」の教訓

筆者が見る限り、今回の選挙における自民党の大勝と立憲民主党の壊滅的な敗北を端的に見据えたのは、加藤洋子が『時代が地滑り的に動くとき』(「世界」2026年5月号)で、「立憲民主と自民党との間でナショナル・スイングが起きた」と指摘したことである。

「ナショナル・スイング」とは、1930年2月の選挙では、濱口内閣の民政党が、273議席を獲得して大勝し、政友会は、174議席にとどまった。2年後の1932年2月、犬養内閣の政友党が174議席から301議席と大躍進をとげ、民政党が273議席から146議席に転落した。この政治転換が地滑り的に起こった歴史的経験をもとにした主張である。1930年代は、金解禁政策と昭和恐慌による生活苦、満州事変に続き国際金融都市上海で「事変」が起こるなど、まさに日本帝国主義が欧米帝国主義と激しく対立を始めた時期であった。

加藤は、今回の選挙においても、1930年代の構造的な時代背景として同様な要因が指摘できる、とする。第一に、安保三文書において、中国の軍事動向に対して「これまでにない最大の戦略的挑戦」と位置づけ、中国の軍事的動向に対する国民の不安が広がっていた。第二に、米価の高騰などの円安・長期国債の金利高・インフレによるによる生活の困窮化と国力の衰退があると。

ところで、「時代が地滑り的に動く」とは、どのようなことか。時代を動かすような規模の地滑りは、ある日突然に起こる訳ではない。ジワジワと地盤を動かすエネルギーが蓄積されるように、社会の諸関係の中にエネルギーが蓄積されて、社会的・政治的な変動の条件が産み出される。この社会関係を揺るがし、社会的な支配関係を動かすエネルギーがどれ程、どの様に蓄積されているかを察知する能力を持った勢力が存在しているかどうか、さらに、察知した能力を持った主体の社会的力によって、その変動の規模や方向性が左右されるのである。

ここで大切なことは、自然界の変動ではなく、社会関係の変動であることだ。経済的・社会的矛盾が、自動的に社会の変動を生み出すのではない。経済的・社会的矛盾を社会的な関係の変動・変革に結びつけるのは、人々の目指すべき社会の創出に向けた主体的な活動によってはじめて可能になる。その人びとの政治意思に基づく活動を生み出すのは、今日では、政治勢力・政党の役割である。 

加藤が指摘したナショナル・スイングは、AからBへと政権政党の移動(スイング)を述べているのだが、その政友党の政治的内容については、「国民生活と景気回復に重点が置かれ、最後の項目として自主外交が掲げられたに過ぎなかった」と指摘しているが、その歴史的意味については述べていない。その後、日本の政党政治は、2・26事件等の軍部の圧力によって壊滅し、アジアへ植民地を広げる帝国主義的な世界戦争へ突き進んでいく。こうした戦争への道を食い止めるようなナショナル・スイングは、起こらなかった事には、言及していない。

彼女は、この歴史的事実については、はっきり述べていない。しかし、今回のナショナル・スイングも民主主義の危機を深めることになりかねないことを示唆している。この論考の後半で、「選挙の結果がもたらした憲政の危機」の節を設けているからである。「今回の選挙結果の衝撃は、・・・憲政史上初めて、単一の政党が衆議院の三分の二を占めることになった事実そのものからくる」と述べ、議会を秘密会としたり(憲法第五十七号)、議員を除名したり(第五十八条)、参議院で否決された法案を衆議院で再可決して法律に仕上げたりできる(第五十九条)と、指摘する。つまり、独裁的な政治を可能にする条件が整い始めている、と言うのだ。

2.大澤真幸:「トランプ」は、リベラルの極限に生まれた?

同じ「世界」2026年5月号で、大澤真幸が、『リベラルが高市を選んだ~グローバルに政治現象を読む』という、奇妙なタイトルの論考を寄せている。

結論から先に言えば、筆者は、この大澤の論考は、現実に展開される歴史や政治のダイナミズムを理解しない主張であり、実際の政治の展開についての認識や理解を迷路に迷い込ませる悪手の手筋だと考える。

1)大澤は、ニューヨークでの下院選挙と大統領選挙における有権者の投票行動が相反した結果を生んだことから議論を始めている。2018年の下院選挙において、ニューヨーク州第十四選挙区で、民主党のアレクサンドリア・オカシオ=コルテス候補が勝利した。29歳で史上最年少の女性下院議員の登場である。しかも、彼女は、サニー・サンダースや後にニューヨーク市長となったゾーラン・マンダムニ等と同じ民主社会主義者であり、民主党の中のいわば「極左」である。他方で、大統領選挙では、民主党のオカシオ=コルテス候補に投票した少なくない有権者が、民主党候補のカマラ・ハリスではなく、トランプに投票した。下院選ではコルテスに投票した有権者たちは、彼女もトランプも「エリートのエスタブリッシュメント(既成勢力)」ではない「私たち」を代表してくれていると答えた、という。大澤は、トランプが語ることは、嘘や誤り、あるいは「ハッタリ」の類に満ちているのに、両者に対して、同じく「誠実(シンシア)」だと感じていることに驚かされた、という。

この同じニューヨーク州の政治空間の中で、左右の両極端にいる候補が選ばれた奇妙な現実を分析・解説し、それを足掛かりに今回の日本の衆議院選で自民党の大勝を解明しようとした。

2)やや面倒な作業であるが、大澤が事態の解明のためにどのような「迷路」を設定したのか。アメリカの「リベラル」とトランプの関係性をどう見たかという点から、見てみよう。

この驚くべき現実を解くために、大澤が用意したトランプ理解の理屈は、第5節「道徳の擁護者なのか、破壊者なのか」に集約的に示されている。大澤は、次のように言う。(引用した文中の下線は筆者)

*「トランプ」なる人物は、リベラルが指向しているものの極限に見出される像である。いい換えれば、リベラルが理想としている状態を極端化し、戯画化して表現すれば「トランプ」なる像が得られる。

*道徳の本性は『禁止』にある。許容性の拡大は、したがって、伝統的な道徳から離脱していくプロセスである。・・・(中略)・・・「すべての道徳的な禁止を平気で、恥ずかしくもなく公然と侵犯する人物」という像が得られるだろう。・・・中略・・・トランプは、リベラルがめざしている許容的社会の誇張された真実である

*今日の右派―リベラルな民主党に反対している右派―には、単純に、伝統的な道徳の復活や保守を訴える戦略はアピールしない。なぜならば、彼ら自身もすでに、伝統的な道徳の大半を恣意的なものにすぎないと見なしており、それらが誰に対しても強制できるような妥当な規範ではないことを理解している。(この理解は、少し事実に反する。福音派は、宗教的倫理にもとづく強固な反進化論者であり、中絶や同性愛を認めない)

*しかし、リベラルが推進している「寛容な社会」のさらにその先に予感される、道徳の真空地帯に対しては恐怖を感じる。このような心理状態にある保守派に対しては、どんな態度が魅力的なものとして現れるだろうか。

*リベラル派の実践に対して嘲笑的にふるまい、その価値を徹底的に貶める人物、つまりPC的な「社会正義」(注3)の規定を蹂躙し、蔑ろにするような人物が、「道徳の不在」を恐れる今日の保守派を惹きつけるはずだ。かくして、露骨に道徳を蹂躙する者が同時に、道徳の擁護者になる、という逆説が生ずる。

*ここでのポイントは「トランプ」は、リベラルの外部に突然現れたわけではない、ということだ。「トランプ」は、リベラルがー多文化主義やポストモダン的な相対主義を標榜するリベラルがーその極限に生み出した「モンスター」である。(リベラルが主語になっているこの主張については、後に批判的に取り上げることにする)

3)このようなトランプが対峙するリベラリズムの根底にある思想的流れについて、大澤は、第6節「恥の誇示」の節で述べているので、確認しておこう。

*さまざまな政策にかんして、「大義」のようなものにほとんどこだわらず、アメリカ一国の利害を目的としていることを隠さない・・・中略・・・恥ずかしいことをあからさまに表明するという行為も、同じ形式のリベラルな価値の否定である。

*リベラルな価値や理念の源流は、西洋の啓蒙思想(17世紀~18世紀)にある。その内的な限界は、一般的に、偽善・欺瞞のかたちとして現れる。たとえば、文明化や民主化を標榜しつつなされる植民地化や経済的搾取などがその典型である。

*あからさまに、私的利害を追求したらどうか。それは、もはや偽善でも欺瞞でもない。トランプがやろうとしていることは、まさにこれである。・・・中略・・・トランプの行動は、まさにその「恥」とされることを積極的に他者に示すことに執着している。

*トランプのMAGAやドンロー主義は、やはり一種のイデオロギーである。今日のリベラルに結実するような西洋啓蒙主義由来の諸価値を否定することに積極的な意味を見出すイデオロギーだ。・・・中略・・・トランプ的世界は、価値以前の原始的な状況への退行ではない。それは、リベラルな価値が通用していた時代よりもなおいっそう深くイデオロギーに規定された世界である。

つまり、「リベラルな価値が通用していた時代よりも」と、過去形で語られていることの含意は、トランプの世界は、西洋の啓蒙思想の有効性が限界点を越えた今日の「グローバリズム」(弱肉強食・「力こそ正義」等)の時代の先を見据えた新しい価値のあり方の一つを示していると言いたいのであろう。

3.トランプの価値破壊は、時代の先を行くのか?

大澤の論理の展開の仕方は、現象を抽象化し、概念的に整理・分析していく傾向が強い。しかし,表れている現象が、どのような社会的構造の諸関係の結果として現れているのかを事実に即して分析・評価していないように見える。だから、論理の飛躍や事実に基づかない主観的な事実の認定や物言いが目に着く。

近代資本主義は、富を産み出すために、各種の分業と多様な財の交換のネットワークを組織することによって、成長と発展を遂げてきた。近代社会は、分節化し、多様性に富んだ社会である。従って、人々の価値観や思想、さらには、支持する政治的見解も多種・多様で、テーマや時期によって、移動し、転移する。ある事象を理解しようとすれば、このことを押さえておくことが求められるのに、である。

まず一つ目として、筆者は、大澤が取り上げたニューヨークの政治空間における左右の両極端にいる候補が選ばれた奇妙な現実の理解の仕方に異議を申し立てる。「サラダ・ボール」と表現されて来た移民国家・アメリカの多文化社会、とりわけニューヨークの多様な民族・文化を集合させている「政治空間」の分析をスルーしていることに驚くのである。

多文化主義的なリベラルが掲げて来た「Ⅾ(多様性)・E(公平性)・Ⅰ(包摂)」に関わって、現実の大統領選挙において、民主党の大統領候補(バイデン⇒カマラ・ハリス)は、どうであったか。イスラエルのガザに対するジェノサイト的な殺戮攻撃を「イスラエルの自衛の権利」として、バイデン⇒カマラ・ハリス候補はイスラエルを擁護し、支持をして来た。この裏切りに対して、中東やアジア出身のイスラム教徒や一部キリスト教徒は、ハリスを離れ、トランプ支持へ回った。移民政策についても、ハリス候補は、はっきりした態度を取らなかった。抽象的な「Ⅾ・E・Ⅰ」は語るが、ニューヨークで下隅の生活を強いられている多くのラテン系移民からも信頼を失うことになった。これが、下院選では、民主党左派のオカシオ=コルテス候補に投票したかなり多数の有権者が、トランプに投票する結果に繋がったのである。この事実関係をよく見れば、驚くべきことではなかったはずである。

二つ目に、道徳に関する議論である。

大澤の言うように、倫理や道徳を保持する人々は「道徳の真空地帯」が生まれることに、耐えがたい不安や恐怖を覚える。この指摘は、正しい。

その上で、大澤は、この不安に対処するため、トランプは、その価値を徹底的に嘲笑的にふるまい、その価値を徹底的に貶める人物、つまりPC的な「社会正義」(注3)の規定を蹂躙し、蔑ろにすることで対抗する。そのことによって、「道徳の不在」を恐れる今日の保守派を惹きつけるはずだ、という。リベラルを揶揄し蔑ろにすることで、保守派は溜飲を下げることになる。ここまでは、言い得るであろう。

しかし、「かくして、露骨に道徳を蹂躙する者が同時に、道徳の擁護者になる、という逆説が生ずる」とまで言う認識と理解には、論理の飛躍があり、事実とも異なる、と筆者は考える。ここでもトランプを支持する人々の道徳観は、一律ではなく多様であることを無視している。

大澤が言う、「彼ら自身もすでに、伝統的な道徳の大半を恣意的なものにすぎないと見なしており、それらが誰に対しても強制できるような妥当な規範ではないことを理解している」という考えを持つトランプ支持層は、確かに存在する。例えば、社会から見捨てられたと強く感じているラストベルト地帯の白人労働者の多く、そして、IT産業の起業者やその高級技術者など新自由主義者の塊がそうである、と推論できる。

しかし、トランプの岩盤支持層で、最も多数の南部のキリスト教福音派(注4)の人々は、伝統的な道徳の大半を恣意的なものにすぎないとは見なしていない。強固な宗教的信念に基づき、家族愛・一夫一婦制の堅持、中絶絶対反対、男女の自然な関係=同性愛や性的多様性を否定、神が創造した世界への強い信仰=反進化論など、伝統的なキリスト教道徳を守るだけではなく、公教育をはじめ公共の場において、それらの道徳の復権・普及を求め、州議会や地方議会での立法化や裁判闘争を起こしている。

彼ら福音派は、トランプが、「露骨に道徳を蹂躙する者が同時に、道徳の擁護者になる、という逆説の立場」だとは、到底考えられない。福音派にとって、彼らの宗教的信念の世界を壊そうとするリベラル派=民主党は、敵であり、その敵であるトランプは、乱れ行くこの世の「救済主」なのである。だから、トランプの口汚いリベラル派への蔑みや非難は、神の意志を害する「サタン」との闘いの徴(しるし)として支持されるのである。

ようするに、福音派にとってトランプは、古き良き伝統の世界へと復古する歩みの同伴者なのである。

三つ目は、西洋啓蒙主義の先にある新しいイデオロギーについて。

大澤は、トランプの政策は、「大義」のようなものにほとんどこだわらず、アメリカ一国の利害を目的としていることを隠さないという。そして、リベラルな価値や理念の源流は、西洋の啓蒙思想で、文明化や民主化を標榜しつつなされる植民地化や経済的搾取などがその典型で、偽善・欺瞞のかたちとして現れている。MAGAやドンロー主義は、やはり一種のイデオロギーで、それは、この西洋啓蒙主義由来の諸価値を否定することに積極的な意味を見出すイデオロギーだ、という。

ようするに、トランプの価値破壊的な行動原理は、今日の「グローバリズム」(弱肉強食・「力こそ正義」等)の時代の先を見据えた新しい価値のあり方の一つだと言っているようである。

はたして「トランプ」なるものは、西洋啓蒙主義の先にある新しい価値・イデオロギーであろうか。次節で検討する。

4.リベラルが「トランプ」を生んだのか?

大澤は言う。「トランプ」は、リベラルがー多文化主義やポストモダン的な相対主義を標榜するリベラルがーその極限に生み出した「モンスター」である、と。つまり、「トランプ」を産み出した「犯人」は、リベラルになるというのである。ここにも、現実の社会の構造を踏まえない論理の飛躍がある。

MAGA(再びアメリカを偉大に」)のスローガンは、もはやアメリカの現実が、豊かでも偉大でもなくなっていることの表明であり、古き良きアメリカへの復帰を願う「標語」である。覇権国家としてのアメリカは凋落し、やがて中国に、その位置を奪われる危機意識を表している。だから、政策の基調は、国際主義や「法の支配」ではなく、「アメリカ(の利益を)第一に」となる。

改めてトランプを支持する社会的層は、どんな人々なのかを問うて見よう。

a トランプを支持する多くのラストベルトの白人労働者。かつては、自動車や鉄鋼などの産業を支えて来た誇りある労働者階級だ。民主党の最も多い支持者の塊であった。この層は、アメリカンドリームの夢破れ、今は、社会から呼びかけられもせず、尊敬もされず、世の中から忘れ去られた存在だと感じている。アルコールやドラッグに手が伸びやすい。ルサンチマンに苛まれている。

b 豊かで幸福な生活を求めてアメリカに移住してきた多くの非白人移民者達も、1980年代後半からグローバリズムの時代が始まると、例外なくアメリカでの夢を掴むことはできなかった。民主党主流派が謳う「Ⅾ・E・Ⅰ」は、彼ら、彼女らの生活にとって、呪文の効果すらなかった。

c 南部のキリスト教福音派の人々は、伝統的なキリスト教の道徳の中で、幸せに過ごした古き良き時代の復興を求め、「主」の再臨さえ願っている。

d 他方で、グローバリズムの波に乗って、金融資本と結びついて、富を急速にかき集めることができたIT産業の起業者や金融や広告・コンサル業界等に関わる技術者や専門職の階層である。こうしたデヴィット・グレーバーいうところの「ブルシット・ジョブ」(注5)の職層も、生き残り、上層階層へのラダーを登る激しい競争に晒される。

a、b、cは、新自由主義のグローバリズムによって産み出されたアメリカ社会の変動の否定的な実相である。これらの層は、人々に未来への夢や希望を与えてくれたアメリカへの回帰・復興を望んでいる。

ⅾは、1980年代より急膨張した新中間層である。自らの経済的・社会的上昇が、アメリカの世界での地位の上昇と結びついていることを知っている。だから、ドンロー主義による西半球での帝国主義的・地政学的な権益の確保というトランプの外交政策に異議を挟まない。この層の多くは、「力こそ正義」であり、「今や理念や価値やイデオロギーは、意味を持たない」というトランプの行動原理に親和的である。しかし、この層は、自らのブルシット・ジョブの社会的意味のなさに苛まれ、多くは、不安な身心の状態のバランスを取ることに、いつも気を使っている。

以上のように、トランプを支持する人々の側からトランプ像を投射すれば、「西洋啓蒙主義の先にある新しい価値・イデオロギーである」とか、「リベラルがその極限に生み出した『モンスター』である」とかいう、大澤の認定は虚妄であることが解る。トランプに抗議してアメリカの数十万の人々が、繰り返し街頭に出て「No Kings」(王様はいらない)と叫んでいる。大澤の練りに練って作り上げたトランプ=『モンスター』像よりも、このアメリカの民衆が叫ぶ「No Kings」が、端的に真実を突いていると、筆者は考えるのである。

では、トランプを産んだのは何か。世界の資本主義は、1970年後半からスタグフレーションに陥り、利潤率の低下を来たした。そこから脱却するための資本主義の再編・再生戦略こそが、新自由主義・グローバリズム(注6)であった。この大転換が、アメリカにもたらした人々の生活の変化とその意識について要約的にa、b、c、dに示した。

すでに、答えは出た。トランプを支持する人々は、リベラルに同調できない、違和感を持つという人たちであることは確かであろう。リベラルの諸言説が自らの生活実感からみて偽善・欺瞞と感じ、それらの考えや政策が、自分たちの状態を改善するものでなく、自分たちから距離のあるエスタブリッシュメントの利害だと感じてしまうからだということは、間違いない。しかし、そうした意識を生み出す社会的土台は、この資本主義の再編=新自由主義・グローバリゼーションによって引き起こされた社会の再編・変動である。言うならば、「トランプ」とは、新自由主義・グローバリズムの「落し子」なのである。

5.「時代が地滑り的に動く」の理解とその先にあること

大澤は、「日本人の中で、急激な右傾化などは生じてはいない。リベラルが減ってはいない。むしろ大規模な意識調査(注7)から判断すると、リベラルは多数派なのだ!」と述べて論を進めている。

大澤は、橋本健二と橋本努・金澤悠介の二つの調査は、同趣旨であり、今や「新しいリベラル」が最大の多数派であると述べている。(字数の関係で、詳しく述べることができないが)筆者は、二つの調査結果の差異は大きいと考える。「新しいリベラル」についての規定で、橋本努・金澤悠介は、その核心に「社会的投資型」を置いていることことに問題ありと、感じている。

この問題は、さておき、大澤が「多数派であるリベラルの人たちも、高市自民党に票を入れた」という、この一見「ねじれ」に見える現象をどう整合的に説明するか」である、という。

ここで大澤が持ち出したのは、2節の1)で述べたニューヨークの政治空間における左右の両極端にいる候補が選ばれた奇妙な現実の理解の仕方であり、伏線として「高市自民党の大勝利が、トランプの登場に代表されるポピュリスト的陣営の伸長の一環であるとするならば、(中略)そうしたグローバルな傾向を説明する一般的な論理によって説明されなくてはならい」とする。そして、「トランプを触媒にして、民主党の唱えるリベラルの理念に内在する偽善・欺瞞を発見したアメリカの人々。これに近いことが日本でも生まれたとするなら、それはどんな心的な過程があるだろうか」と論を進めているが、その後の論述は、いかにも苦しい。

筆者は、加藤が指摘した「ナショナル・スイング」にあらためて注目する。時代の転換点では、従来、人々が保持していた政治的見解や感覚が、移動・移転する。歴史や政治のダイナミズムである。

加藤は、今回の選挙で高市自民党の大勝利と立憲民主の敗退を「地滑り」と評価した。まだ、大地震を起こす「地殻変動」とまでは言っていない。つまり、革命的な変動とは言っていないことが味噌だ。

筆者は、本誌43号で、参政党の躍進に象徴される参議院選挙前後の政治的流動を「見えない左、右への落石は山体崩壊の兆か」と題して論評した。2026年の衆議院選挙では、立憲民主党が、自らの革新的理念・政策を削り落して公明党と「中道改革連合」することによって、民主党(1998年結成)のリベラル革新の潮流を自滅に追い込んだことを論じた。

さて問題は、日本の最大多数派の「リベラル」は、どうであったか。立憲民主の支持者が、アメリカの政治のように、リベラルの偽善・欺瞞を発見して、高市自民党に投票し、大勝利をもたらした、という大澤の筋書きには、あまり説得力がない。実際は、革新の旗がはっきりしなくなり、支持者が棄権に回ったり、あるいは、投票での選択肢を失ったり、さらには、支持者の内心で「リベラル革新」の政治的アイデンティティが自壊したりなどといった、まさに、リベラル革新の潮流が自滅の道へと自らを追い込んだと読む方が実際的であろう。

ここで重要なのは、調査結果で最大多数だとされた日本の「リベラル」についての評価である。「民意」、つまり政治意識は、政党や言論等のイデオロギー的装置の働きかけによって、その時その時の時代やテーマに関わって表出される人々の政治的な考え方を意味している。働きかけを受けるだけではなく、自ら政治実践(集会や学習会への参加、選挙活動や投票行動、デモ・宣伝活動等への参加)をすることによって、政治意識は確かめられ、更新され、強化されるものである。

ところが、日本では、政治行動は、1980年代以降、衰退しており、厳しく言えば、日本国民は、自らを政治の主体・主権者としての自覚を喪失している。その現実をふまえれば、橋本努・金澤悠介が解析した6つの集団で、23%と最大を占める「新しいリベラル」(次世代支援を優先する。社会的投資を重視する。が、戦後民主主義的論点には関与しない)は、リベラルというより、もう一つの類型の「成長型中道」(13%)と同じく、高度経済成長が生んだ「生活保守」を信条とする人々と見た方が適切だと考える。

筆者が、言いたいことは、意識調査などで「リベラル層」と解析される集団に分類される圧倒的多数は、実は、政治的には受動的で、主体的なリベラル意識は希薄で、「浮遊する市民」と見た方が良い。そうした自らの希薄な政治意識を「リベラル的なもの」として対照化させてくれていた政党(例えば立憲民主党)が姿を消してしまえば、多数派と言われている「リベラル層」は、雲散霧消してしまうのである。

このような曖昧な政治意思の現実を見れば、「推し活」や「ファンダム」の現象についても言及する必要があるが、少し触れておく。「社会から呼びかけられることもなく、尊重されることもなく日々を生きているだけ」と感じるような孤独感・孤立感を抱く人が、「推し活」的な活動に参加することによって、仲間を見つけ、同じ目的に向けて活動し、自尊感情を獲得できる場となっている。この現象は、中国の若者文化にも深く根を下ろしていることの政治的・社会的・文化的意味をしっかり押さえておくことが重要である。

さて最後に、ナンシー・フレイザーが1997年に出版した『中断された正義―「ポスト社会主義的」条件をめぐる批判的省察』(注8)を取り上げる。

1989年(ベルリンの壁の崩壊)後、広い意味での社会主義の脱正当化が進行する中で、アメリカのフェミニズムをはじめとするリベラリズムが、どのような困難を抱えていたか、また、それをどう超えるのかを述べている。それは、今日の社会改革へのあるべき努力のあり方を示唆している。

彼女は、序論で、多くのアクターが、正義の中心が再配分である社会主義の”政治的なイマジナリーなもの“から、正義の中心が承認である「ポスト社会主義」の”政治的イマジナリーなるもの“へと移動しているように見えるという。あたかも配分的正義への闘争が、もはや有意義ではないかのように、「再配分から承認」へのシフトを称揚している人たちがいる。階級のポリティクスかアイデンティティのポリティクスか?平等か差異か?再配分か承認か?こうした問題設定によって、社会的平等か多文化主義かを選択しなければならず、再配分と承認は結合し得ない、ということになるが、こうした対立関係は誤りである、と彼女は断言する。

実際、平等へのコミットコミットが後退するなかで、全面的にグローバル化しつつある資本主義が、次第に社会的関係を市場化し、社会的保護を侵食し、数十億人もの人たちのライフ・チャンスを悪化させつつある。・・・事実上世界中の全ての国で、不均衡が、収入や富だけではなく、「潜在能力」(清浄な水と空気へのアクセス、教育、避妊、ヘルス・ケア、賃労働と栄養価の高い食事、拷問とレイブからの自由によって測定される)の面でも上昇している。しかし、信頼するにたる包括的な解決のプログラムが不在である。また、現行の秩序へのオルタナティヴについての信頼に値する進歩的ビジョンが不在である、とも言う。

こうした下で、私たちは、現時点では、向こう側に何があるか正確には知り得ない。しかし、にもかかわらず私たちは、可能性を諦めさせるイデオロギー的圧力に抵抗することはできる。このことは、「ポスト社会主義」的常識が、現在構築しつつある、受け入れがたい二者択一を拒否することを意味する。「ゴールは、もう一つの「ポスト社会主義」的な道を開くことである」と言っている。

サンダースやゾーラン・マンダムニ、あるいは、若きAOCこと、アレクサンドリア・オカシオ=コルテスらアメリカの民主社会主義者たちの闘いは、このナンシー・フレイザーが目標とした努力を実践していると言えよう。

このアメリカの彼ら、彼女らの姿と比べれば、日本の立憲民主党の「リベラル」の中味は、階級のポリティクスから目をそむけ、しかも、アイデンティティのポリティクスも不明瞭にして来た。まさに、歌(社会改革の夢)を忘れたカナリヤになっているのであり、その表れが意味不明な「中道改革連合」の結成であった。

 

(注1) 42・夏号(2025年8月) 『2025参院選――組織された細切れの「民意」~社会を産み直す梃子は、無数の取組を繋ぐ《大きな物語》』
  43・秋号(2025年11月) 『 見えない左、右への落石は山体崩壊の兆かー継続する参政党現象とN党の凋落、石丸新党は消滅へ』
  44・冬号(2026年2月) 『「中道」の旗、寒風に翻らずー民主党(1998年結成)・リベラル革新の潮流は自滅へ』

(注2) 「民意」とは、「現代の理論」(デジタル版)42号の拙著『参院選―組織された細切れの「民意」』の第2節で述べたように、「人々が自然に抱く考え方ではなく、政治勢力やマスコミ、あるいは言論界等の働きかけによってはじめて可視化され形となって表出される人々の『意思・意志』のことである。」それぞれが所属する階級(経済的・社会的利益を共通するクラス)が、自然に(必然的に)抱く考え方なるものではなく、政党や言論等のイデオロギー的装置の働きかけ(作用)によって、その時その時の時代やテーマに関わって表出される人々の政治的な考え方を意味している。もちろん意思形成において、各人が所属する社会集団(階級、職業、学歴・知識、地域や地方の歴史的自然的環境、宗教など)の特性が大きく影響していることは言うまでもないが、人々の政治意思は、所属する階級の経済的・社会的利益を反射的に映しだすものではない。

(注3) PCとは「Political Correctness - ポリティカル・コレクトネス」で、政治的意識のこと。だから、PC的な「社会正義」とは、政治意識の(高い人が持つ)社会的正義のことをさし、政治意識が高い人のことを貶すためにも使われるようになっている。

(注4) 『福音派―終末論に引き裂かれるアメリカ社会』 加藤喜之著(2026年、中公新書)

(注5) 『ブルシット・ジョブークソどうでもいい仕事の論理』 デヴィット・グレーバー著、酒井隆史、芳賀竜彦、森田和樹訳(2020年、岩波書店)

(注6) この再編は、従来の「福祉国家」のあり方を捨て、新自由主義に基づく資本主義の再編・再生を目指し、グローバリズムによる<金・物・人・知識・情報>が自由に国境を越えて、世界の隅々まで「市場経済」に組込んだ。新自由主義・グローバリズムは、世界を2極化した。富める者と貧しい者の2極化だけでない。健康で文化的豊かな生活をおくる者の対極に日々の食べ物に飢え、病気や障害に苦しみ、文化や教育から遠ざけられる等経済的・文化的・健康と生命の維持等など、人間生活あらゆる側面にわたった。

(注7) ・『新しい階級社会―最新データが明かす<格差拡大の果て>』 橋下健二著(2025年、講談社現代新書)~ 調査は、2022年、東京・名古屋・大阪の3大都市圏のインターナネット調査。有効回答数は、4万3820人
 ・『新しいリベラル ー大規模調査から見えてきた「隠れた多数派」(橋下務、金澤悠介著(2025年、ちくま新書)~ 調査は2022年の参議院選挙の投票結果、7000人の調査を中心にしたもの

(注8) 中断された正義―「ポスト社会主義的」条件をめぐる批判的省察』 1997年ナンシー・フレイザー著、仲正昌樹監訳(2003年、御茶の水書房)

みずの・ひろみち

名古屋市出身。関西学院大学文学部退学。労組書記、団体職員、フリーランスのルポライター、部落解放同盟矢田支部書記などを経験。その後、社会福祉法人の設立にかかわり、特別養護老人ホームの施設長など福祉事業に従事。また、大阪市立大学大学院創造都市研究科を1期生として修了。2009年4月同大学院特任准教授。2019年3月退職。大阪の小規模福祉施設や中国南京市の高齢者福祉事業との連携・交流事業を推進。また、2012年に「橋下現象」研究会を仲間と立ち上げた。著書に『介護保険と階層化・格差化する高齢者─人は生きてきたようにしか死ねないのか』(明石書店)。

特集/トランプの末路

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