特集 ● 内外の政情は”複雑怪奇”

公式党史はどう書き換えられたか

『戦後日本共産党史を見直す』序

成蹊大学名誉教授・本誌編集委員 富田 武

執筆の動機

私が本書の執筆を思い立ったのは、ここ数年のことである。

すでに1990年代後半から和田春樹氏らと「コミンテルンと日本共産党」の研究を、科研費を得て立ち上げた。「ロシア現代史文書保存・研究センター」(旧ソ連共産党中央公文書館、現ロシア国立社会・政治史公文書館)に出かけ、G・アディべーコフ氏の協力を得て、遅ればせながら『資料集 コミンテルンと日本共産党』を刊行した(2014年)。2010年にシベリア抑留研究に進み、『シベリア抑留者たちの戦後』(2013年)を執筆しながら、コミンフォルム及び日本共産党のかかわりを調べ、戦後共産党史もやらなくてはと思った。しかし、従来のような綱領・戦略論争中心の狭い党史では魅力がなく、かといって労働運動、学生運動、原水禁運動、文化運動などを含めた総合的な歴史研究は手に負えないなと思って、断念しかかった。

ところが、中北浩爾さんが『日本共産党 「革命」を夢見た一〇〇年』(2022年)を出され、戦前部分は富田・和田編の上記資料集に依拠されたので嬉しく思うとともに、戦後共産党の議会政党への変化と政党政治の中での役割中心の叙述にモノ足りなさを感じた。1968年生まれの中北さんと45年生まれの私とでは、共産党観が異なって当然だった。

中北さんが、八回党大会で宮本顕治が確立した「民族民主革命」路線を先進国共産党の下ではユニークで、それこそが議会政党としての出発点になったとすることに違和感を覚えた。宮本の平和革命・社会主義への平和的移行論には「敵の出方」次第という大きな留保があり、構造改革派は階級闘争を忘れた修正主義者だと、学生時代から共産党・民青にレッテルを貼られたからである(中北さんも指摘しているが、当時の体験者、追体験者にとっては深刻だった)。

私は、この八回大会で離党し、除名された山田六左衛門や石堂清倫、安東仁兵衛や佐藤経明らと親しくなり、日本資本主義論争や天皇制研究、戦後革命論争を学び、スターリニズム研究を生業としてきたからには、いつか日本共産党史をと思ってきた、そこを刺激してくれたのである。

岩波書店で上記資料集編集の御苦労をかけた大塚茂樹さん(1957年生まれ)は『「日本左翼史」に挑む』(2023年)を出された。これは池上彰・佐藤優の『日本左翼史』三部作の批判だが、私はサブタイトルの「私の日本共産党論」として読んだ。

大塚さんは共産党の国会議員松本善明さん(妻が「いわさきちひろ」さん)の甥で、早くから民青で活動していた。どこで共産党に距離を置くようになったのか、年齢からして「新日和見主義」の頃なのか不明であるが、叙述に共感を覚える。「宮本氏は五○年問題の教訓を、徳田氏らによる民主集中制の破壊と絞り込んでいる」「一九八三年の上田・不破『戦後革命論争史』自己批判の衝撃」、「『戦後革命論争史』を凌駕する画期的な著作を上田氏と不破氏は生み出していない」「不破氏の著作の多くは、先行研究に言及しない」「大国主義・覇権主義批判という視点では狭くはないだろうか」等である。

そして、日本共産党員・元党員の有志/編『日本共産党の改革を求めて』(2024年)の刊行である。先の党大会での批判・異論封じは一般マスコミでも報道されたが、自民党が「裏金」問題で政権から滑り落ちるかもしれず、野党統一候補による政権獲得の可能性も生まれている時だけに、共産党が国民に忌避されるような閉鎖体質を示すのは困ったことである。

今や「民主集中制」の弊害は、共産党員自身からも公然と指摘されている。党内言論と党外発信の封殺、党員の横断的連絡の「分派」扱い、役員選挙の事実上の指名制と「党首非公選」などである。本書には、最近の異論封じ込めやパワハラ、セクハラだけではなく、原水禁運動ほか大衆運動におけるセクト主義など、あるいは高齢化した専従者への依存、党活動が「赤旗」拡販に偏っていること、理論の学習さえできていないことなどが、率直に指摘されている。

私は、日本共産党史の研究者でもあるので、ここで一人が触れた「五〇年問題」(ソ共、中共も介入した党分裂と武装闘争)も含めて、一般党員の苦闘と苦悩をも描く党史を書きたいと思っており、回想録などもかなり読んでいる。お節介かもしれないが、この著者たちの党改革の活動に応援のエールを送りたい。

目次

はじめに

第一章 公式党史はどう書き換えられたか

第二章 一九五〇年分裂と六全協  A 戦後民主化と平和革命論 B コミンフォルム批判と党分裂 C 朝鮮戦争と軍事方針 D 分裂下の大衆運動 E 五一年綱領と六全協

第三章 石堂清倫と佐藤経明  A 石堂の戦前・戦後体験と理論探求 B 佐藤の学生運動と社会主義研究 C 東大国際派細胞査問事件

第四章 七~八回党大会の綱領論争  A フルシチョフ報告と内外の議論 B 自立・従属論争と構造改革論争 C「自由論争」から組織的締め付けへ

第五章 スターリン批判と日本の新旧左翼  A トロツキー『裏切られた革命』の射程  B 新左翼運動から無党派の時代へ C「新日和見主義」と党内改革派

補章 日本のソ連史研究と私  A 日本のソ連史研究概観 B 私の研究 C 社会主義について

おわりに

本書の構成は『日本共産党の○○年』の情勢、運動、理論の系統だった叙述とは当然にも異なるが、まずは「公式党史はどう書き換えられたか」を検討し、戦後共産党史の問題点を整理することから始めた(第一章)。従来気づかなかった、加除修正された史実もあるが、重要なのは、この党の革命観と組織観の変化を跡付け、綱領論争を見直し、「自主独立」と「民主集中制」の実態を問うたことである。

自分の属した『現代の理論』派(章のタイトル中の表現―石堂と佐藤、綱領論争―で古い世代はお分かりだろう)についても反省を加えている。第五章は、新左翼諸派も「反スターリニズム」を掲げながら、革命観と組織観を受け継ぎ、内ゲバと暴力的査問に走ったことに対する考察である。補章は、日本のソ連論とスターリン観を歴史的に(戦前も含めて)再構成し、自分の研究の足跡、本書執筆に至るライト・モチーフを示したものである。

本書第一章を公開する

表1(クリックされたい)は、公式党史『日本共産党の五十年』(1972年)、『日本共産党の六十年』(1982年)、『日本共産党の七十年』(1994年、ソ連崩壊と野坂除名で遅れたか)、『日本共産党の八十年』(2002年)、『日本共産党の百年』(2023年)の綱領や人事にかかわる重要記述を表形式で示したものである(このほか『四〇年』『四五年』『六五年』があるが、多すぎても煩瑣になるので10年おき5冊に留めた)。このうち初期の1940-60年代は『五十年』がカバーしているが、それは不動のものではなく、その後10年ごとに書き換えられている。

A 徳田・野坂・袴田らの描き方

このうち最も分厚い『七十年』を読めば誰にでも分かる点は、従来も「五十年問題」で批判されてきた徳田球一(中央委員会書記長、53年北京で死去)、野坂参三(同議長、93年死去)が両者の違いにもかかわらず「徳田・野坂分派」として一括して非難されたことである。ソ連共産党でも、スターリンによってトロツキー、ブハーリンらが「左翼反対派」「右翼反対派」とされ、大テロル期に「人民の敵」として殺害されたが、徳田、野坂は党史で初めて「分派」の汚名を着せられた。徳田は「五十年問題」が解決したとされる以前に死去したので、長いこと「家父長制的指導」は批判されたものの、「獄中15年組」の指導者として尊敬もされていた。

他方、野坂は中国から帰国したあと「占領下平和革命」論で共産党をリードしたが、1950年1月にコミンフォルム(共産党・労働者党情報局)から批判され、その後は徳田とともに「極左冒険主義」路線に走り、六全協(第六回全国協議会)後に反省して中央委員会議長に収まった。名誉職的とはいえ、書記長の宮本顕治とともに綱領・路線をめぐる内外の論争を乗り切ったが、ソ連崩壊直後に『週刊文春』に、大テロル下のモスクワで同志の山本懸蔵をソ連保安機関に売ったことを示す機密文書を明らかにされ、党自身の調査により名誉議長を剥奪されたばかりか、党を除名された。それだけではなく「ソ連内通」を遡って調査され、1946年の訪ソの時から内通し、「北京機関」でも帰国後もソ連の資金を得て、影響力を行使したとされている。

この山本「売り渡し」の件は和田春樹が疑問を呈しているし、著者も同じである。野坂問題を考える場合は、徳田、宮本をはじめ「獄中十五年組」が出所の際に、今後も「32年テーゼ」(天皇制絶対主義/まずブルジョア民主革命、ついで社会主義革命の二段階革命)で行こうと話したのに対し、野坂はモスクワにいて「反ファシズム人民戦線」(1935年)を知り、中国での反戦日本人工作の経験からも「狭隘なセクト主義」を嫌ったという経験の差も大きいと思われる。それに、野坂がモスクワとの連絡に好都合だったのは、ロシア語を話せ(書くのは英語)、ソ連共産党幹部(旧コミンテルン指導者ディミトロフら)にも友人がいたからであって、ソ連が「内通」エージェントに最初から仕立てたと考えるのは無理である。こうした経歴の悪用はソ連でも、トロツキーが当初はメンシェヴィキ(国際派)に属していたことを意図的に強調された前例がある。

袴田里見は「五十年問題」のさい、宮本から中国経由ソ連に送られたにもかかわらず、スターリンに屈して北京機関に合流した弱みがあったが、戦前最後の中央委員だったこともあって、7回大会で中央委員会幹部会員に選ばれている。1963年に野坂とともソ連に「内通した」とされる。伊藤律の件は後述するが、彼の告発理由のうち戦前のゾルゲ事件における最初の被検挙者に関する情報の官憲への通報は、そもそも検察によるデッチ上げだったことが判明している。

こうして、公式の戦後共産党史は、徳田・野坂「分派」の支配6年ののち、宮本、ついで不破哲三が指導し、ソ中いずれの共産党にもつかず、党内のソ共派、中共派を排除し、「自主独立」を誇るようになったが、これまた多難な道だったのである。

B 「自主独立」への長い道

そもそもコミンテルンは中央集権的な国際組織=世界共産党として結成されたが(日本共産党は日本支部)、大戦中の解散を経てコミンフォルムが1947年に結成された。冷戦が進行する中で結成されたソ連・東欧の共産党・労働者党の連絡機関だが、ユーゴスラヴィアを除く各国にソ連軍が駐屯していたこともあって、事実上ソ連共産党の指導下にあった。フランス、イタリアの共産党はオブザーバーであり、中国、日本、北朝鮮等のアジア諸国共産党も同様の扱いだった。日本共産党は、ソ連共産党中央委員会対外政策委員会が連絡に当たっていた。

日本共産党は戦後の再出発に当たり、コミンフォルムからも情報と資金を得ていた。野坂主導の「占領下平和革命」論はソ共の支持を得ていたが、冷戦の進行、米軍占領政策の転換に伴い、共産党の議会での伸長(衆議院35議席獲得)に対抗するレッド・パージの中で、強硬路線に転換するよう求められた。それが1950年1月のコミンフォルムによる批判であり、批判を受け入れるも自立性を確保しようとした徳田、野坂らと、批判を全面的に受け入れる宮本、志賀義雄らとに党は分裂した。双方ともソ共と革命を達成したばかりの中共への支持を得ようと競ったが、徳田らが党の主導権を獲得した。民族解放・暴力革命路線は、実際には6月開始の朝鮮戦争における北朝鮮と中国に対する後方支援の役割だったが、日本の党と大衆運動に大きな打撃を与えた。

ようやく六全協後に「極左冒険主義」と徳田の「家父長制的指導」が批判され、党の統一が回復されたが、その回復過程にもソ共の介入は続いた。ソ共は1956年の「スターリン批判」後も国際共産主義運動の主導権を維持しようとしたため、以前からこれを肯んじないユーゴスラヴィア党やイタリア党、さらには中共も加わり、日本の党も国際論争に関与せざるを得なかった。教条主義か修正主義かの闘争は党内論争でもあった。宮本(7回大会から書記長)は「二つの戦線」における闘争で、伊共を評価する春日庄次郎らを「修正主義」として排除し、ついで部分的核実験停止条約をめぐってソ共支持派、さらに文化大革命評価をめぐって「教条主義」の中共支持派を放逐して、ようやく「自主独立」を標榜できるようになった。

1970年代になると、68年ソ連によるチェコスロヴァキア軍事介入に反対し、73年チリ社共連合政権に対する軍部クーデタを教訓にして、イタリア、フランス、スペインの共産党が結束した「ユーロ・コミュニズム」=先進国革命をめざすグループが生まれた。これに日本共産党も加わったが、協力は短命に終わった。80年代半ば以降に東欧革命とペレストロイカが始まると、東欧諸党とソ共の社会民主主義化に反対し、ソ連の大国主義・覇権主義を批判して自主独立を達成したが、市場化とグローバル化の中で共産党の存在意義自体が問われるようになった。

C 宮本・不破「主流派」の思考様式

共産党が1961年8回大会で綱領を「修正主義者」を排除して採択するまで、厳密には58年7回大会以来の論争の過程で鮮明になったのは、宮本主流派の国際共産主義運動の伝統を継ぐ思考様式であり、論争方法だった。「二つの戦線」は教条主義及び修正主義との闘争のことで、時には左右の「日和見主義」との闘争とも表現されたが、思い起こせば、戦前の1927年テーゼは、左の「教条主義」福本イズムと右の「修正主義」山川イズム(本人は党外)とに対する闘争と規定された。むろん、起草者ブハーリンの表現であり、他ならぬソ連共産党の党内闘争―まずはトロツキーの左翼日和見主義、ついでブハーリンの右翼日和見主義との闘争―がモデルだった。ソ共では対ブハーリン闘争は、右テーゼが日本に伝達される28年に開始されたが、スターリンの「正統レーニン主義」が結局のところ勝利した。

日本では、徳田の「極左冒険主義」のいわば反動で「右翼修正主義」が台頭した。前者がアメリカ帝国主義に対する民族解放闘争を、後者が日本独占資本に対する社会主義革命を主張したのだが、宮本主流派は、日本は独占資本が復活しつつあるが、なおアメリカに軍事的・外交的に従属しているという認識であった。従って反帝一本やりでも、反独占一本やりでもなく、まずは前者を優先し、統一戦線の成熟に応じて後者にも取り組んでいく「反帝・反独占」戦略こそが社会主義への道だと主張した。先進資本主義の革命は社会主義革命だというのは機械論的で、とくに日本はサンフランシスコ講和条約と安保条約により、米軍基地が置かれ、中でも沖縄はアメリカ軍政下にあるから、反米民族解放闘争に重点を置くべきだというのである。

この過程は、日本資本主義が戦後復興を終えて1955年以降高度成長期に入り、企業間の競争による技術革新と政府の財政・金融支援を受けて産業再編成を進めつつ、独占支配を強めていたから、反独占の社会主義革命論にも説得力があった。しかし、この時期は労働運動が後退し、体制に取り込まれていく過程でもあったから(エネルギー革命下の三池炭鉱闘争が頂点)、反独占戦略の展望が容易には立たなかった。その分だけ安保条約及び米軍基地と闘う反米闘争の方が分かりやすく、共産党の主張に分があったと言ってよい。あるいは、当時のソ連が人工衛星スプートニクを打ち上げ、大陸間弾道弾ICBMを試射して「社会主義の優位性」を誇ったものの、「北方領土」占有、シベリア抑留というマイナス・イメージも、国民に「社会主義」へのいわば直進を懸念させるに十分だった。

もう少し立ち入ると、この綱領論争は、51年綱領はアメリカ帝国主義との闘争の点で「一定の積極的な意義を持った」とする宮本と、日本帝国主義復活を前提に構造改革を通じた「社会主義への平和的移行」を唱えるグループに、上田耕一郎・不破哲三が同調したため、複雑な様相を呈した。7回大会(58年7-8月)は少なくとも代議員の三分の一が宮本主流派に反対で、綱領採択はできなかったが(51年綱領は廃止)、宮本主流派の優勢が目立ってきた。59年6-7月の第6回中央委員会総会は、議題が国政選挙と安保闘争だったにもかかわらず、異例なことに会期は12日間にも及んだ。公式党史には何も書かれていないが、直後の『アカハタ』(8月7日)の六中総の総括で『現代の理論』を修正主義者の結集軸として批判している点から見て、同調した上田・不破も批判されたものと見られる。短い文章ながら「党外の雑誌との協力」により、分散主義・自由主義をもたらし、分派を生みかねなかったという表現がそれを示している(詳細は後述)。

こうして、宮本主流派は「右翼修正主義」を排除すると、力点をしだいに反独占に移しながら、社会主義への「平和的移行」に「敵の出方」論(敵階級の暴力行使への対抗暴力は相手の出方しだい)で歯止めをかけつつ、移行実現の統一戦線への主体形成として「人民的議会主義」を打ち出すようになった(1970年)。折しも、党内では安保条約自動延長と沖縄返還を前に「日本軍国主義復活」論が登場した。大学闘争への党中央の介入に対する不満も背景に、民主青年同盟幹部年齢制限を直接の契機として「新日和見主義」グループが生まれたが、彼らも排除された。宮本後継と目された不破書記局長のリードにより「人民的議会主義」路線の障害となる「プロレタリア独裁」も(一時「執権」と言い換えたうえで)綱領から削除された(73年)。「自由と民主主義」宣言が1976年に大会決定されたのも、国内の反共世論を意識し、国際的にはユーロ・コミュニズムの一翼であることを示したものである。こうした路線修正の結果として、共産党は議会勢力として軽視できないものになった。

マルクス・レーニン主義は「科学的社会主義」と言い換えられ、主要な概念は次々と放棄された。かつては、宮本主流派は「プロレタリア独裁」と「前衛党」、そして「民主集中制」の原則を「錦の御旗」に党内闘争を進め、不破は、構造改革派が依拠したグラムシを評価しつつも、哲学や革命論ではレーニン主義から外れたことを強調した。不破が田口富久治や藤井一行の「民主集中制」見直し論を批判したのも、レーニンの党内闘争に対する絶対視が基準だった。その「マルクス・レーニン主義」をも放棄したのは、『七十年』によれば、個人の名を冠するのはもはや適切ではないし、スターリンによるレーニン主義の定義と不可分だったからである。しかし、「科学的社会主義」とは「空想的社会主義」に対してマルクス、エンゲルスが優位性を示すために名付けたもので、19世紀の刻印を帯びていることには留意しないのだろうか。

こうして「階級闘争」と「民主集中制」だけが共産党の存在証明となってしまった。1980年代に中国の「改革・開放」が本格化し、ソ連でペレストロイカが始まると、もはや「教条主義」は北朝鮮を残すだけになった。中ソは「修正主義」どころか「市場経済」導入を始め、それでいて「大国主義・覇権主義」を続けていると、日本共産党には認識された。内外に敵を設定し、これと闘って党の統一を維持する思考と行動に変わりはなかった。国内では「右転落する」社会党を批判し続けたが、自党内に反対派は存在しないので、ソ連崩壊による機密文書の部分的公開を利用して、野坂、袴田らの「旧悪」暴露に異様なほどエネルギーを傾注した。それが若い世代にどれほど影響したかは不明だが、党の屋台骨とも言うべき地方の専従活動家の引き締めには役立ったものと思われる。

D 不破における「指導者史観」への傾斜

不破は『日本共産党にたいする干渉と内通の記録 ソ連共産党秘密文書から』上・下(1993年)と『スターリン秘史 巨悪の成立と展開』全六巻(2016年)を刊行した。

前者は『週刊文春』による「野坂=ソ連スパイ」説のスクープに驚いてモスクワに派遣された調査団が、コワレンコ(ソ連共産党国際部副部長、在ソ日本人抑留者教育の責任者だった)から入手した「大統領公文書館」機密文書に基づいて、不破が『赤旗』に連載執筆したものの書籍版である。『赤旗』に出典(文書館名、分類記号・番号)が示されないのは仕方ないとしても、この著作に示されないのは、反論するにも論拠を与えず、研究者の筆者には理解しがたい。野坂名誉議長の除名は書籍刊行前の92年12月に決定されていたから、当時大統領公文書館はエリツィンの顧問ヴォルコゴーノフの独占的管轄下にあったため「出典を示さない」約束が交わされたのかもしれない(機密解除初期にはまだ見られた)。また、ソ連側が対日共工作に諜報機関(国家保安委員会=KGB中央と在日大使館要員)をも動員したため、不破も「秘密作戦」「スパイ活動」等の表現を乱発し、スターリン時代を彷彿とさせるような両党関係の陰湿な記述には、不快感を禁じ得なかった。

後者は、スターリンの「巨悪」を暴くためで、こちらは2012年11月から12月にかけて「スターリン問題研究会」を10回重ねたとあるが、有力な典拠がディミトロフ日記と彼に関する研究書であり、そこから記述が始まるので、不破のコミンテルン、コミンフォルムへの強い関心を反映した著作と見てよい。独裁者スターリンの全貌を把握するには、もう一つ依拠したメドヴェージェフ兄弟の著作だけではなく、欧米のデーヴィス、タッカーやコーエン、ロシア若手の第一人者フレヴニューク(大テロルの研究書は1998年拙訳)など、ペレストロイカ以降の好著に学ぶべきであろう。また、日本の研究者でも溪内謙や和田春樹、次の世代の塩川伸明や不肖私の著作を参考にすべきだが、溪内の主著には全4部で1ヵ所しか言及せず、朝鮮戦争研究ではトルクノーフより優れた和田の著作も挙がっていない。塩川のソ連崩壊に関する一連の業績も、拙著『スターリニズムの統治構造』(1996年)も無視された。

総じて両著は、不破の強調する「科学的社会主義」の立場からも逸脱する(それを転倒した)「指導者史観」に陥ったものと言わざるを得ない。この表現は溪内が『現代の理論』1964年10月号に寄せた「歴史としての中ソ論争」において、両党の論争が指導者間のマルクス主義教義(引用)論争に過ぎず、対立が社会の構造とその変化に根差したものと捉えられていないことを痛烈に批判したもので、日本の新旧左翼に対する歴史家としての警鐘に他ならなかった。不破が同論文を読んだか否かは知らないが、少なくとも私のソ連研究の出発点はここにあったと断言できる。

最後に、最新の『百年』についても批判がある。第一に、『六十年』『八十年』のような「徳田・野坂分派」表現は引っ込めたが、「分派」だったとの認識は変えていない。第二に、こうした「分派」の説明に従来なら付された「四全協」「五全協」等に関する史実が消され、すべてソ共および中共による一貫した「大国主義・覇権主義」的干渉と徳田らによる「内通」で説明される「本質顕現的」発想になっている。第三に、「五〇年問題」以降の歴史は「大国主義・覇権主義」と「科学的社会主義」との闘争の歴史と描かれ、後者が勝利するという、いわば予定調和的な歴史観に陥っている。これが「不破史観」の完成である。

そのほかの「部分修正」(天皇、自衛隊の扱い、核兵器および抑止論批判)は措くとして、「現存した社会主義」が「大国主義・覇権主義」 のような他国や他党への干渉だけではなく、それこそ自国民の「自由と民主主義」を弾圧した点は、明示的に表現すべきである(76年「宣言」は抽象的に過ぎる)。「階級闘争」や「社会主義」の名において、レーニンを始めとする独裁者のもと、治安機関が言論・信仰等の自由を踏みにじり、銃殺、強制労働や強制移住をほしいままにしたことに対する反省を欠いて、「科学的社会主義」と言えるのだろうか。

最近、志位和夫委員長が『Q&A 共産主義と自由―「資本論」を導きに』を刊行したようだが(未見)、上記の不破路線の延長にあり、19世紀半ば過ぎのマルクス、エンゲルスの古典に依拠する他なくなった日本共産党の理論的貧困を端的に示すものではなかろうか。

とみた・たけし

1945年生まれ。東京大学法学部卒。1988年成蹊大学法学部助教授。教授、法学部長などを経て2014年名誉教授。シベリア抑留研究会代表世話人。本誌編集委員。著書に、『スターリニズムの統治構造』(岩波書店)、『シベリア抑留者たちの戦後』(人文書院)、『シベリア抑留―スターリン独裁下、「収容所群島」の実像』(中公新書―2017年度アジア・太平洋賞特別賞)、『日ソ戦争 1945年8月』(みすず書房)、『ものがたり戦後史 「歴史総合」入門講義』(ちくま新書)、『抑留を生きる力―シベリア捕虜の内面世界』(朝日選書)、『日ソ戦争 南樺太・千島の攻防―領土問題の根源を考える』(みすず書房)など。

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