論壇

維新「財政ポピュリズム」論を検証する

吉弘憲介著『検証大阪維新の会』を読む—―カジノ計画と「教育無償化政策」の落差

大阪公立大学人権問題研究センター特別研究員 水野 博達

財政ポピュリズムと「身を切る改革」

本誌で、維新政治について折々に取り上げてきたが、橋下徹が大阪府知事選挙に立候補して政治の舞台に登場したのが2008年1月、そして、維新の会立ち上げが2010年4月であった。それから、15年以上の年月が流れている。時代の流れの中で、維新政治が何であったのか、改めて、現在とこれからの維新政治を考えて見ることが求められている。この作業を行う上で、今回は、この7月に出版された吉弘憲介著『検証大阪維新の会―「財政ポピュリズム」の正体』(ちくま新書)を手がかりに維新政治の解剖を行うことにする。

この著書は、従来の維新政治について重視されてこなかった財政分析に主眼をおいて分析・批判を行っている。新自由主義に対する理解や(経済学的な)「合理的個人」の用語の使い方については、疑問を持つが、この著書での分析と維新の会への批判には、学ぶ点が多い。是非、購読を薦めたい一書である。

さて、著者は、この書の目的を次のように言う。

「大阪維新の会をめぐる従来の政策分析において語られてこなかったのは、冷静に政策の内容を分析し、さらに各政策が誰からどのように支持を得ているかを明らかにすることである。」(中略)「大阪維新の会が行ってきた政策の財政的分析こそ、これまでの研究で十分扱われてこなかった内容であり、維新の会の政策の「強み」と根源的「弱点」を明らかにするカギだからである」(㌻011)と。

著書は、第5章「大阪の成長」の実態で、統計数値を検証して、「大阪の経済成長が図られた」とする維新の会の主張は、事実に反する主張であることを明らかにしている。

「大阪府の一人あたり県民所得の全国に対する水準は、2009年以降、全国平均以下となり、その後は基本的に横ばいで推移している。2020年の時点では、同じく横ばいで推移した兵庫県の水準を下回り、近畿圏で第三位に転落している。(㌻160)

「税収やGDP、雇用者報酬といった観点からは、維新が掲げるような「成長」の事実は認められない。」(中略)「実際、大阪市中心部では地価上昇が顕著である一方、南部の人口密集地域では必ずしも同様な成長は見られなかった。(中略)大阪府内の住宅地地価の上昇率は全国平均を下回っている。」「「大阪の成長」が全体に波及しているとすれば、府の一人あたり県民所得や雇用者報酬、税収なども上昇するはずであるが、こうした数値は全国的な水準と比較するとよこばいである。都市中心部に偏在した『成長』は、大阪全体を浮上させる結果にはつながっていないといえるのではないだろか」(㌻174,175)と。

この著書の「肝」である維新の「身を切る改革」について次のように述べている。

「政府による資源配分から排除された人々が、新たな政治的枠組みを通じて自らの利益を要求することはポピュリズム政治における重要な要素である。」(中略)「維新の会における『身を切る改革』は、既存の配分を既得権益と批判し、さらに均衡財政主義〔筆者注=税収の範囲内で歳出を行う財政運営〕を前提に削減した歳出をマジョリティに配り直す行為といえる。そして、既存の政治に不満を持つ人びとは、自分たちがサービスの受給者となる可能性が高まるため、この政策を支持することになる。つまり、財政ポピュリズムは自己利益を最大化する合理的個人からはごく自然に支持される選択肢なのである」という。

ここで「自分たちがサービスの受給者となる可能性が高まる」ことについて、著者は、維新の私学の授業料を含めた所得制限のない「教育無償化」政策を事例として取り上げているのであるが、続けてこう述べている。

「財政ポピュリズムが合理的個人にとって魅力的に映るとしても、それは財政の本質的な否定にほかならない。財政を信用できないからといって、財政を解体して個人に繰り戻ししても、社会全体は徐々に貧しくなっていくことになるだろう」(㌻148~149)と。

「排除されている」意識は、自然に産まれるのか?

吉弘が、「財政ポピュリズムは自己利益を最大化する合理的個人からはごく自然に支持される選択肢」だとしている点を検討してみる。

実は、維新政治の特質を理解するうえで、ここが重要であると考えるからだ。吉弘が言う「資源配分から排除されている」という意識は、自己利益を最大化する「合理的個人」から、ごく自然に生まれてくるのであろうか。やはり、そう考えるのでは、維新政治の特質を捉えることができないと筆者は考える。

人々は、現実の生活の中で、様々な希望とともに、不安、不満、疑問を持ちながら生きている。この不安、不満、疑問を一定の「社会意識」として取りまとめていく作用が働くことなしに、自然に、「社会意識」⇒「政策選好」が作り出されることはない。マスコミによる報道やインターネット上の情報、新自由主義や保守主義などを信条とする学者・評論家や政党・政治家による問題提起と論争、あるいは、煽動という「世論形成」の作用によって、人々の「社会意識」⇒「政策選好」が産まれてくるのである。この重要な「世論形成」の働きを見ないで、「自己利益を最大化する合理的個人からはごく自然に支持される」と語ることは、社会的な存在である人間を、社会関係から独立した「自然人としての個人」の利害の競合・集合として、いわば、万人の万人による競争という「見えざる手」」によって社会は、成り立っていると理解することを意味する。つまり、人は、生きてきた環境、歴史、文化等の社会関係の中で、自己の現在のあり方と未来を予感しながら現在を生きている。この現実のトータルな姿を見ることが必要である。いうならば、政治・思想・文化などイデオロギーの働きを無視しないことである。

新自由主義とは、1970年代初頭のオイルショックを契機に、全世界的なスタグフレーションの状態に陥り、戦後資本主義の行き詰まりが顕在化した。この停滞状態を脱却して、再び資本蓄積を最大化することを可能にするための「世界戦略思想」で、政治経済的考え方であり、また、それは、人間の社会関係の在り方にまで及ぶ考え方である。

戦後の相対的に安定した経済成長は、資本が労働者の権利を大幅に認める階級協調の体制を築いたことや、ケインズ主義による国家の金融・財政の機能を使って経済成長を持続させたこと、新植民地主義の考えに基づいて安価な資源などを第3世界から安定的に得る体制を作り上げたこと、さらには、国際連合などの国際的機関の機能を生かした諸民族の権利、女性や障碍者の権利擁護を国際的に推し進めてきたことなどが条件となっていた。すなわち、国家間の利害対立を抑制し、強欲的な資本の動きを様々なレベルで規制して階級協調の体制を維持することによって安定的な経済成長を持続させてきたのである。

しかし、この戦後資本主義の経済成長が行き詰まりを来した。新自由主義は、戦後資本主義の「福祉国家」的なありかたを解体し、国家の役割を小さくして公共事業などを民営化すること、国の規制を取り外し、緩和して資本の自由な移動と競争による経済成長を図ること、人々は国に頼らず個人の責任で自立して生きることが正しいことである、などの考え方である。要するに新自由主義のイデオロギーは、戦後資本主義において、労働者をはじめとする人民の社会権を広く認め、社会福祉政策を支えてきた社会民主主義的考えを排斥することでもあった。だから、新自由主義は、経済の側面では「自由(な競争)」を声高に主張するが、政治的には反社会主義であり、人権思想を忌避する保守主義なのである。

戦後の経済成長とともに膨らんだ中流階層は、社会の多数者となったが、新自由主義の考え方が、政治・経済・社会のあり方に浸透すると、資本主義諸国における社会の「安定帯」であった中流階層が分解し、没落への危機感を抱くようになる。この中流階層が抱える不安感こそが、自分たちは「政府による資源配分から排除されている」という社会意識を生み出す階級的土台であった。こうした社会の多数者である中流階層の不安を社会意識へとまとめ、政治的な方向性へと導いたのが、新自由主義的なイデオロギーであったと言える。

アメリカでは、アファーマティブアクションへの非難や女性や性的マイノリティ、あるいは黒人やヒスパニック、少数民族や先住民の権利へのバックラッシュが吹き荒れた。イギリスや北欧でも福祉予算の抑制や移民の排斥、労働組合への弾圧の動きが活発となった。

さて、橋下が政治舞台に登場した2007年~2008年は、1990年代からの長期の経済停滞で「就職氷河期」が続いており、2008年9月には、リーマンショックの世界金融危機が起こっている。

橋下が政治の舞台に登場する以前に、大阪では、行政との馴れ合いの公務員の勤務実態や賃金・福利厚生の優遇への批判、乱脈と利権の「同和行政」への反発がマスコミなどで取り上げられ、また、生活保護受給者や公営住宅入居者に対する差別的攻撃などが、インターネット上などで顕在化していた。すなわち、「既得権益」にアグラをかいているとみなされる集団は、すでに、多くが特定されていた。

橋下・維新が行った「行政の無駄を省く」「身を切る改革」とは、ことは、こうした既に醸成されていた社会的機運を与件として、紡ぎ出され、現実化された政策であると言える。

民主党の「行革論」と維新の「身を切る改革」との比較

維新の「身を切る改革」とは、彼らの「行政改革論」を象徴的に示すキャッチコピーである。政権の座から滑り落ちていった民主党の後に、それに入れ替わるように大阪の地で登場した維新の会。その「行革」論と民主党の「行革」論と比較してみると、維新の「行政改革論」の性格が浮き彫りになる。

民主党の行革論を象徴的に示すキャッチコピーは、「コンクリートから人へ」であった。自民党政権によって、年々建設国債発行高を積み上げながら進められてきた公共事業の利権構造に切り込み、無駄をなくすこと。その財源を人の育成や人々の生活の充実に廻すことを民主党政権は目指した。それは、必ずしも十分な成果をあげられなかったが、民主党の「コンクリートから人へ」の行革は、田中角栄政権を引き継いで行われた自民党政権の公共事業に税をつぎ込み景気浮揚を図るという経済・財政政策を是正しようとするものであった。

しかし、民主党は、「聖域なき行政改革」を掲げたが、公共事業に関わる国と大企業、そして、その間を取り持つ国・地方のボス政治家の馴れ合い関係を洗い出すことには、必ずしも成功しなかった。国家予算に群がる利権構造は、与野党の有力議員にも広く跨っており、その「金権構造」には踏み込めなかった。そして、一つ一つの公共事業の目的や社会的効用を、関係する住民や専門家の意見などを取り込んで、十分に吟味・検討することにはならなかった。だから、問題点を洗いだして無駄を省くことよりも、民主党政権が行った国会での「事業仕分け」は、人々には、ただただ、各省庁の官僚を糾弾し、巨大プロジェクトを止めることだけを狙ったパフォーマンスと映ってしまったのである。

しかし、民主党政権の行革は、労働者の賃金や権利を抑制したり、外国人の権利を見過ごしたりはしていない。女性の権利や障碍者の権利を重視し、生活保護や年金などの社会保障費を大幅に削り取る政策は取らなかった。そして、民主党の行政改革論の中には、市民やNPOなどの自主的な活動と協力・連携して閉ざされた行政を市民・住民に開き、地域の自治を育てようとした。また、ホームレスへの支援や障碍者の権利の増進、あるいは、無権利状態に置かれている非正規労働者の実態を明らかにすることなど社会政策の充実を目指していた。だが悲しいかな、民主党の「マニュフェスト」に掲げた各政策を実現する財源の裏打ちを欠いていたのである。

他方、維新の「身を切る改革」は、維新が「既得権益」と認定する領域・対象の予算・権限を解体し、多数の住民(吉弘がいうところの「マジョリティ」)に配分することである。

この点に関して吉弘は、次のようにいう。

「人びとが持つ財政や政府に対する不信感を梃子に登場した政党だからこそ、彼らは何としても既存の配分が『無駄なもの』であると主張しなくてはならない。また、追加の税負担を市民に強いることは極力避けなくてはならない。この性格は、維新の会の財政運営が極めて均衡財源主義的であったことからもうかがえる。」「以上の制約の中で生まれるのが財政ポピュリズムである。」(中略)「こうした中で、自らの支持者に分配するための資源を確保するには、マイノリティへの配慮を欠いていても既存の配分を解体するしかなくなるのである」(㌻145,146)と。

維新の会は、まごうことのない「新自由主義」政党

筆者は、吉弘が、維新の会の財政上の特徴を実際の統計数値を検証して明らかにしようとしたことには、大いに評価するものである。しかし、財政分析から、前節のように、維新の会の政治的特性を「財政ポピュリズム」として描き出そうすることには、違和感を覚える。維新の政治的なイデオロギーが新自由主義である、ということを避けたいがために、あえて、「財政ポピュリズム」という、脱イデオロギー的な財政政策の在り方の一つで維新政治を総括しようとしているのではないか、と疑うのである。

「排除されている」意識は、自然に産まれるのか? の節で見たように、新自由主義は、戦後資本主義の福祉国家的なあり方を解体するイデオロギーとしてアメリカの「シカゴ学派」が中心になり、マッキンゼー・アンド・カンパニーなどによって、練り上げられて来たものでる。

吉弘自身も認めるように、新自由主義の「小さな政府」論は、実際には、各国でも、財政上の「小さな政府」であったことはほとんどない。

維新が「身を切る改革」を標榜しながら、現実的には財政規模は小さくなっていない。だから、維新の会は、新自由主義ではなく、「財政ポピュリズム」だということにはならない。

新自由主義の「小さな政府」は、福祉国家の「大きな政府」とは違う財政規模の小ささだけを言うのではない。政府が経済活動や社会関係に介入・規制・調整するその権能の大きさを解体し、国を超えた資本の自由な移動・競争を確保することが本質的な意味である。すなわち、戦後の世界的な経済成長の結果、フロンティアを失った資本主義が、再び自由に活動できる「市場」を再生・創出することを求めたものである。

だから、「自らの支持者に分配するための資源を確保するには、マイノリティへの配慮を欠いていても既存の配分を解体するしかなくなる」という、社会の少数者(マイノリティ)から社会資源をはがし、マジョリティ(多数者)に配分すると言うだけではないのだ。

戦後の福祉国家において、例えば、都市政策を見れば、上下水道、電気・ガス、ごみ処理、公営交通機関、道路、病院や学校、図書館、市民センターなどの整備を図るだけではなく、労働者の住宅難を解消する公営住宅の整備や貧困対策などに多くの財源が投入された。この公共政策によって積みあがった社会的資産と制度を市場原理によって解体・再編することで、新自由主義の求める「市場」を再生・創出することなのである。つまり、「選別主義」によって社会の少数者(マイノリティ)に支給されていた社会資源をはがし、所得制限のない「普遍主義」によってマジョリティ(多数者)に配分するというだけではない。公共政策によって積みあがった社会的資産とその制度を市場原理によって解体・再編すること、つまり、「公共」を解体することなのである。

現に、維新の政策によって、大阪地下鉄を民営化したし、水道事業も民営化しようとした。また、文楽への助成を取りやめ、大阪府立国際児童文学館(吹田市)を廃館し、大阪市音楽団の民営化を行った。芸能・文化活動に理解のない「身を切られる」改悪なのである。

さらに問題は、財政的な根拠からというよりも、維新の人権思想への嫌悪や排外主義による破壊的攻撃とでも言うべき事業の圧殺である。2008年、橋下が府知事に就任直後、女性総合センター(ドーンセンター)廃館・売却と運営主体の大阪府男女共同参画推進財団の廃止を提案した。女性たちの闘いによってドーンセンターの廃館・売却は阻止しえたが、運営費は半減となり、法律相談や女性のためのカウンセリング講座を開催できなくなるなど活動が大幅に制限されることになった。これに続いて、大阪市の女性の生活と活動を支援するクレオ会館も一個所を除いて閉館となった。市内の被差別部落の市民交流センター(人権文化センター、青少年会館、老人福祉センタ―32館)を10館に統合し、後に市民交流センターを廃止とした。また、大阪人権博物館(リバティーおおさか)の運営費補助金廃止、後に、同館の用地を返還させられ閉鎖。「ピースおおさか」も、侵略戦争を扱った展示内容がふさわしくないと攻撃され、内容を大幅に修正し「大阪空襲を語り継ぐ平和ミュージアム」として再開。さらに、朝鮮学校への私学助成を橋下大阪市長により打ち切られ、運動場として近隣の公園を使用してきたことも止めさせられた。民族教育権への干渉と圧迫攻撃である。この政策との陸続きで、2013年5月13日、記者会見において橋下市長は、「慰安婦制度」を容認する差別的な言辞を堂々と述べている。

要するに、財政の配分からのみ維新政治の特質を言い当てようとすると、行権力の言動を含めて、その税配分がいかなる政治的、あるいは、思想的狙いや目的によっているかを見落とすことになる。すなわち、「公共性」を破壊する暴力的なイデオロギーの側面を見ないことになるのだ。

なお、補足的に、民主党のブレーンと維新の会の主要なブレーンを文末の「注」で記しておくことにする。ここからも両者の相違が読み取れるはずである。

万博やIR・カジノ、市中心部の開発は、共同の利益を産むのか?

吉弘は、こう述べている。

「世界には、歴史,民族、規範、環境の異なった多様な社会が存在する。その中で、多種多様な財政支出が構成されるためには、個人利益を超えた多様な価値観の共有が必要になる。」(中略)「しかし、ある価値に即して共同負担で購入された財やサービスであっても、自己利益追求の観点からは「既得権益」と映ることもあるだろう。」

「財政ポピュリズムは、価値によって集合した経済行為を個人の利益に繰り戻すことで支持を調達する手法である。それは、『集合的経済行為=財政』の根源的否定をはらんでいる。」

(中略)「大阪維新の会が有権者から高い支持を取り付けながら、なぜ都構想の住民投票が否決され、万博やIR事業への機運醸成に必ずしも成功していないか、その理由が明確になるであろう。財政ポピュリズムは、財政の本質的価値を否定することによって政治的支持を取り付ける手法である。しかし、万博や都構想は、共同の負担によって共同の利益を実現しようとする。まさに財政そのものといえるプロジェクトである」(㌻186)と。

だが、吉弘がいうように、万博やIR・カジノ、大阪市中心部の開発は、共同の負担による共同の利益を実現しようとするプロジェクトなのであろうか。1990年代に、大阪府・市が競って追求した人と物が集まる国際ハブ都市、国際集客都市構想による24時間稼働する関西国際空港と連動した「花の万博」や大阪湾岸の開発は、その成果を十分に上げることができず、むしろ、大阪府は財政破綻に苦しむことになった。この経験からも、巨大開発計画が共同の負担によって共同の利益を実現するものではなく、公共財である税を投入して、一部の独占資本の利益のために市場を用意するだけのものであることが知られているのだ。とりわけ万博やIR・カジノの計画は、本誌38号(2024年4月)で詳しく論じたが、全く杜撰なものであり、吉弘がいうような「共同の利益を実現しようとする財政そのもの」だと言える代物ではない。経済効果は○〇〇億円だという触れ込みであるが、万博は、みすぼらしい催しになることが予測され、皮算用する来場者も少なく、赤字がどれだけ生まれるかが心配されている。IR・カジノは、事業者が計画から撤退する可能性まで語られているのが現状である。

吉弘が説く「財政論」の枠組みは、かつての古き良き時代の本来あるべき財政の原型ではないかという疑念をもつのである。新自由主義の時代の財政の姿は、そもそも「公共」概念が通用しなくなっている。

しかし、同時に、世界を風靡した新自由主義の綻びが顕在化し、また、ロシアのウクライナ侵攻とパレスチナ・中東危機の中で、国連安保理の機能不全が明らかとなり、戦後の国際秩序が動揺している。だから、世界の動揺と変動の中で、次の時代に向かう地殻変動を読みながら、従来の理論の枠組みを革新していくことが求められているとも考えるのである。

(注)

*民主党のブレーン: 

神野直彦 専門は、財政学・地方財政論で、社会保障制度にも詳しい。金子勝と共著『「社会福祉政府」の提言』(岩波書店)で、そもそも社会保障の存在理由は何かという問いに今一度立ち返り,抜本的かつ現実的改革案を提案した。

*維新の会のブレーン

堺屋太一 通商産業省入省、1970年の大阪万博を提唱し、その後、1975年沖縄海洋博、1990年大阪・花の万博。2005年愛知万博などに関わり、「イベント資本主義」の推進者

上山信一 アメリカ留学でマッキンゼー・アンド・カンパニーに所属。国鉄⇒JR九州の民営化、福岡県の行政改革その後、大阪府、大阪市及び維新の会の顧問を務め、大阪府立大学と大阪市立大学の統合の陣頭指揮を執るなど、維新の会の政策の執行に深く関与

竹中平蔵 小泉内閣の経済財政政策担当大臣就任を皮切りに金融担当大臣、郵政民営化担当大臣、総務大臣などを歴任。新自由主義的経済政策を推進

みずの・ひろみち

名古屋市出身。関西学院大学文学部退学。労組書記、団体職員、フリーランスのルポライター、部落解放同盟矢田支部書記などを経験。その後、社会福祉法人の設立にかかわり、特別養護老人ホームの施設長など福祉事業に従事。また、大阪市立大学大学院創造都市研究科を1期生として修了。2009年4月同大学院特任准教授。2019年3月退職。大阪の小規模福祉施設や中国南京市の高齢者福祉事業との連携・交流事業を推進。また、2012年に「橋下現象」研究会を仲間と立ち上げた。著書に『介護保険と階層化・格差化する高齢者─人は生きてきたようにしか死ねないのか』(明石書店)。

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