連載●池明観日記─第28回

韓国の現代史とは何か―終末に向けての政治ノート

池 明観 (チ・ミョンクヮン)

 

≫歴史に対する私の幻想≪

11月16日の新聞報道によると日本の週刊誌『週刊文春』の最近号は「韓国の『急所』を抑える」という記事が現れて、騒乱が起きているという。“中国は嫌な国であるが外交はなしうる。韓国は交渉もできない愚かな国だ”と書かれているという。そこで日本政府の代弁人は記者会見において「いろんな報道が現れているが、それ(総理の発言)はありえないというのがわれわれの正式な見解」であるといったというのである。

こういう話と共にその一方で官房長官という人が「竹島や慰安婦問題に関する事実関係については確かにカウンター・パンチを飛ばすであろう。各省部局長クラスが集まって戦略を練っている」と語ったという。そして総理の側近と言う人は日韓関係の膠着状況を打開するためにはウォン貨の買い占めをするなどの問題を引き起こすことを検討していると発言したそうである。このような状況を綜合してみれば、こういった騒ぎは日本の右寄りの政権が持ち出すほとんど常套的戦略から出てきたものというべきではなかろうか。それを否定するように見せかけては圧力を加える。このように日本政府が実に古い日本的な手管を使うほど日韓関係は転落したのだと思わざるを得ない。

1973年金大中が日本から拉致された頃の日本政府が使っていた実にあいまいな応酬振りを思い出さざるをえない。朴権恵は国内外的に朴正煕政権の終わり頃の姿をあらわにし、日本はその頃の対韓政策を再び行使しようとするような感じを与えてくれる。北東アジアに再び訪れた国際関係の危機、政治外交が地に落ちたとでもいおうか。

中国も対日関係において難局にぶつかっているといわざるをえないようである。北東アジアの時代を展望しなければならないというこの時期に日中韓の関係が40-50年も後退したように見えると言えるのではなかろうか。北東アジア内にはそれを調整する力がなく、またアメリカが介入するようになるというのであろうか。北東アジアの貧弱な政治力と外交力をあらためて見せつけられたような気がして、将来を憂え嘆息をつかざるをえない。実に政治指導者の矮小化、劣化の時代であり、政治力が無力化した外交不在の時代である。北東アジアにおいては歴史の進歩を嫌悪しているように見える。新しい時代が迫ってくる時、先ず保守政権で対応するという悲しい歴史ではなかろうか。それでわれわれは朴槿惠政権ではないかと現実を唾棄したくなるというのか。 (2013年11月16日)

『「韓国からの通信」の時代』(影書房、2017年)

旧約聖書を読みながら感ずることであるが、どうしてそのように簡単に大量の人間を虐殺したのであろうか。20 世紀が世界的な戦争を二度もしたといっても、これまでの世紀に比べれば比率的に人間虐殺がもっとも少なかった世紀であったというのではないか。しかし現代は核兵器で人類絶滅までも可能にしうるという。それで核兵器のためにかえって戦争を起こしえないといわれるのか。力がその極限に達して無力に転換したと言おうか。歴史とはそのようなアイロニーを含んでいるといわざるをえない。その中で今でも核兵器で他者を脅迫する国、そのような政治があるではないか。そのような狂的な人間集団が恐ろしい災厄を起こすだろうかと世界的に監視せざるを得なくなっている。

2000年前のキリスト教の起源にはこのような叫びが含まれていたではないか、天下よりもっと貴い個人のいのち。それはそのような非人間的な時代に対してそれこそあまりにも異常な福音であった。しかし長いヨーロッパの歴史ではそのようなキリスト教を掲げ人間虐殺の歴史を追い求め、敵という名において人間を多量に殺害してきたではないか。キリスト教はそれを合理化し励ましてきたではないか。今日のような人間歴史の条件、その環境がととのうまで人間が人間を殺害しながら歓呼する歴史が続いてきたではないか。そこにキリスト教も動員された辛くて恥かしい歴史があった。

今や核兵器の時代に入ってきて人間の残忍性が最高に達するようになるとかえって人間はその無力をかこつようになったとでもいおうか。どのような名目においても人間が人間の生命を奪うことはあってはならない。今までの歴史を動かしていきながら人間の人間に対する配慮と愛を実現すべきであるという目に見えない手が働いてきたと言おうか。人間が平和を作り出したのではなく、まさに目に見えない手がこのような歴史を造り出しているといわねばなるまい。それにもかかわらず人間は核兵器を手にしたことを誇りながら、人類の歴史を壊滅へと導くのだろうか。またはこのようなアイロニカルな歴史を謙虚に受け入れるという素直な姿勢で立とうとするのか。

今日は宗教的な呼びかけに人類が当面している時代ではなかろうか。人間の手によって歴史は進行する。しかしその手を引いて行く巨大な力、それを神というのであろうか。我々すべての人間はその狭い地球の上で短い人生を生きて終えるだけである。みんなが自分の人生という実に微小ともいえる点を生きていくだけなのだ。それでもそれがすべて今までめんめんと流れてきている世界史に合流し、その歴史の意味を実現しているとは、なんと驚くべきことであろうか。個人の人生はほとんど無のように見えるのに、彼らが生きて行く悠久な歴史はわれわれの知らない驚くべき意味を帯びているというこの理解し難い歴史をどのように受け止めることができるのだろうか。2000年前の昔に人間の生命を奪う恐ろしい悪徳を告発しながら、人間は人間を愛しながら生きて行かねばならないと教えた。このことばを今や人類的に受け入れざるを得ない。そのような今日が歴史上かつてない非宗教的な時代であるというこの矛盾、このアイロニーはいったいなにを意味するのであろうか。

人間の生命は無に過ぎないと思いながらこの時代において人間の生命を無として処理することができないようにする強い力が働いている。人間が人間の生命を尊重したいというのではなく、自分ではない他者はなくしてしまいたいという思いで原始から受け継いできた剣を握っている手を使えないように強く差し止める力が働いているのであろうか。それを認識して解釈することができずにいるのに、それに対して敬意を示す人間も思想もないというのに、そのように生きて行かざるをえなくなったというのはいかに驚くべきことであろうか。この運命を受け入れなければ唯一人の例外もありえない人類の滅亡がやってくるというのだ。このようなわれわれ個人が理解しえない運命の前で、人類の皆がたたずんでいるのが今日の世界史ではなかろうかと思うのである。

誰がこの運命を自覚的に生きることが出来るだろうか。救い主は誰であるというのか。非宗教的、反宗教的時代の極限ともいうべきところにかえって宗教の光が隠されているといおうか。これはほんとうに暗黒のなかに隠されている光明ではなかろうか。人類史とはもともとそのようなものであり、それをあらわにして解き明かしてくれるのが啓示といえるものではなかろうか。私は今や福音の啓示が明らかになってきたと思うのである。旧約聖書の世界は人間殺傷のクライマックスを示してくれるものではなかろうか。それに光を照らしその姿を明らかにしてくれるもの、それが暗黒であることを明らかにしてくれるのが、イエスの世界であり、新約聖書といわねばならない。その御言葉が啓示とりわけ特殊啓示であろうというよりほかないのではなかろうか。今日の歴史の背後にある恐ろしい歴史に今日の世界はこれからどのように対応するというのであろうか。われわれはただ恐れを抱きながら、表面に現れてくる単なる歴史を日一日と受けついでに行くというのであろうか。それは火山の爆発する日を待ちながら、恐れを持って生きて行く人生ではなかろうかと思うのである。

どうして終末的な歴史が追ってくるのに人間はますます非人間化していくというのであろうか。これが終末論的人間状況であろうか。聖書に終末に対する準備の無いところにその日が突然やってくると書かれているではないか。私はますますこのような想念から離れられずにいる。そのために強い恐れにとらわれると言おうか。人類史の終末はやはり破局的なものであろう。あの向こうに見える人間像、とりわけ政治的な人間像は反人間的なものの極限ではなかろうかという思いをほとんど打ち消すことが出来ないでいる。これこそ私自身の終末的な想念ではなかろうと思うのである。(2013年11月20日)

 

『韓国文化史 新版』(明石書店、2011年)

韓国においては朴槿惠が自分は不正選挙を安企部に指示したことが無いので、それに対する謝罪など言及する必要がないとしらを切っているそうである。日本では特別機密法が衆議院を通過したという。このように国民の良識の声は敗北するという現実である。そのような時代を生きて行く国民の声がこれからどのような方向に向かうのであろうかと考えるようになる。そのような政府であるならば、なぜ対政府闘争のみを唯一の道であるかのように考えているのか。国民がいっしょになって自らの道を切り開いて進もうとしなければなるまい。政治の力は一層弱くなり不道徳的になっていくことだろうと思われる。反動的政府と国民の良心の声との間の隔たりはどこにおいても拡大して行くであろう。執権勢力というのは一層腐敗した集団に転落していきながらますますその力を低下させ、市民の両心の力は拡大して行くであろう。市民の力はその中心を固めながらいっそうその力を強化していかなければならないのではなかろうか。

現実政治に対応できる市民の力が政治的現実の中心を占めるようになることは出来ないであろうか。かつての批判的な知識人らの散発的な声を今一度引き起こして、それを暫時発展させて民間の政治的中心を生み出すなど出来ないであろうか。そこで現実政治とは異なった良識と良心を国民に示しうるようにである。たとえば日韓関係の場合であるとすれば、日本の国民的良識を代表して、日本の政治勢力の場合とは異なる新しい関係をそれこそ市民的立場から公けに要求しながら実質的に関係を拡大して行くのである。そこに韓国側も呼応するという日韓の市民的連帯を築いていくのである。日韓の政治的現実においてはすでにこのように市民が統治権力を超えていきつつあるのではないか。

それは決して硬直化した政治勢力として固定されることでなく、時には現実政治の関係者と対話することもできれば、時にはそれに参加することも出来なければなるまい。そういう勢力が成長しうる展望が開かれるとすれば、それこそ新しい歴史の方向と言えるのではなかろうか。市民的、個別的な抵抗を指導しうるとともにそこに力を加えることのできる市民の力の中心、その意味において一種の市民政府が要請される事態であるが、これが可能であろうか。ヨーロッパ連合はそのような方向への重要な試みであったと思われるのであるが、単なる組織にとどまるのではなく、時代に従った自己変化を試みることができなければなるまい。でなければ発展する歴史から取り除かれるのではなかろうか。

北東アジアにおいては、一方では連合のことが語られるのではあるが、現実政治の場合はそれは単なるスローガンに終わり、一層醜悪な国家主義へと傾いているように思えてならない。これとは異なる市民の動きがなければならない。このような状況を放置しておくとすれば、過去のような歴史をくり返すことになりはしないか。これに抵抗する良識の動きはどこで可能になるのであり、それを可能にする市民的連帯は可能であるだろうか。深く思いをいたさねばなるまい。(2013年11月26日)

 

『韓国近現代史ー1905年から現代』(明石書店、2010年)

昨日金KからEメールが来た。一か月半以上音沙汰なしであったが、腰の痛みのために身動きができなかったという。私もそのような経験をした話をしながら、回答のEメールを送った。彼はアメリカが日本に対しアメリカの武器を買うように求めるので中国は警戒の視線を送るという問題があるという。私は日本が対米貿易においておおきな黒字を出しているのでアメリカがそのような要請をするのではなかろうかと答えた。アメリカが一般的な貿易においてそのような状況であるならば、それも仕方がないであろう。中国もそうは言っても自分の方も対米貿易において大幅な黒字を出しているのだから仕方のないことと諦めざるをえないだろうと。武器における優位をもってアメリカは世界を支配する。そしてアメリカは通常の貿易における赤字を武器輸出で回復しようとする。このような戦略をアメリカの頭脳集団が計っているのではなかろうか。この政略にはアメリカの大統領も従わねばならないであろう。カーターはこれに抵抗しようとしたが失敗したのではなかろうか。オバマは多分これを受け入れているのであろう。

そのような現実政治の背後にあるいわば恒久的頭脳集団などの働きはほかの国では考えることもできないことなのかもしれない。このような点から民主主義を建前とする国々がかかえている政治構造の不安定を問題にしなければなるまい。大統領に絶対権力を与えるとすれば、4、5年の任期が過ぎてしまうと新たな政権がどの方向に向かっていくかわからないといえるのではなかろうか。民主主義における政権交替と政策の一貫性という問題はとても重要な課題であると言わざるをえない。アメリカではこの問題に対する政治的配慮がいろいろとなされているのではなかろうか。

アメリカにおいては政権が民主党の方に行こうと共和党の方に行こうと、この点に置いては一貫しているのではなかろうか。私は韓国の場合もこのようなことに対して懸命に対応しなければならないといってきた。政権がどちらの方向に向かおうとも、少なくとも北朝鮮問題のようなことに対しては政策の一貫性がなければならない。対米貿易において黒字を出しているならば、アメリカの武器をある程度購入せざるをえないのかもしれない。アメリカがそのような要求をつきつけることは避けられないことかもしれない。武器は使用しないでも時間がたち古くなれば使用できないものになるといえるのかもしれない。しかしそのような取引はいたしかたないものではなかろうか。

これがいわば自由世界というものであろうか。反米は批判勢力の姿勢としては可能かもしれないが、政府がそのような姿勢であればどこかで反撃を受けて崩れるかもしれない。国民的批判と国家利益という二つの側面をうまく処理しうる賢明な政治的智慧という点では金大中もアメリカの共和党の前で失敗したのではなかろうかと私は思っている。朴槿恵はどのようにそのことを処理できるのであろうか。

日本の安倍政権はどのように対処して行くことか。今の安倍政権の下では長い間構築されてきた北東アジアの国々の対日政策がこなごなに崩れ、日本はアジアにとって信頼しえない国になるのではなかろうかと心配でならない。北東アジアに今までその程度の理解と協力の場を築き上げるのにどれほどの善意の努力が必要であったのであろうか。アメリカのオバマはアメリカの戦略集団とどのように関係しているのであろうか。アップルというアメリカのコンピューターが中国で生産されて世界に広がっていくという状況にもアメリカの戦略がしみこんでいるのではなかろうか。アジアでは日本のつぎに中国がアメリカのリードする世界秩序の中に組み入れられていくのではないか。日本がアメリカ産の優れた武器の所有国になるとすれば、中国もそれに配慮した軍備拡張をしようとせざるをえないであろう。私は中国の軍事産業がアメリカを追い越すことはありえないことだと考えている。

このようなアメリカの戦略が東アジアの次にはどちらの方に向かうだろうか。アメリカの現代世界に対する政略の問題がある。今は戦争をひき起こして武器を売る時代ではない。

しかしいろいろな国際的対応のなかで武器は売れて行くであろう。このようなアメリカの政略の背後に目に見えない歴史の手が働いていると私は感じる。現代史終焉の道といおうか。アメリカは軍需財団の巨大な国ではないか。何がこれに抵抗しえようか。しかしそれに関係する人びとはそのすべてが歴史にしばらくいては去っていかざるをえない存在ではないか。そのようなアメリカ主導の平和を導いていく目に見えない手があると考えることもありうるのではないか。

私は人間の考えを超えているいわば目に見える歴史を超えている世界史の手を考えるのであるが、それはほとんど宗教的なものであるといわなければなるまい。私はそのような考えをかみしめながら、このことは私の幻想であろうかと自問するようになる。歴史の行為者は替わっても歴史の連続性はそのまま続いていく。このような現代史の意味とはなんであろうかと考えざるをえない。明日はもはや今年の終わり12月の初めだというではないか。(2013年11月30日)

 

池明観さん逝去

本誌に連載中の「池明観日記―終末に向けての政治ノート」の筆者、池明観さんが2022年1月1日、韓国京畿道南楊州市の病院で死去された。97歳。

池明観(チ・ミョンクワン)

1924年平安北道定州(現北朝鮮)生まれ。ソウル大学で宗教哲学を専攻。朴正煕政権下で言論面から独裁に抵抗した月刊誌『思想界』編集主幹をつとめた。1972年来日。74年から東京女子大客員教授、その後同大現代文化学部教授をつとめるかたわら、『韓国からの通信』を執筆。93年に韓国に帰国し、翰林大学日本学研究所所長をつとめる。98年から金大中政権の下で韓日文化交流の礎を築く。主要著作『TK生の時代と「いま」―東アジアの平和と共存への道』(一葉社)、『韓国と韓国人―哲学者の歴史文化ノート』(アドニス書房)、『池明観自伝―境界線を超える旅』(岩波書店)、『韓国現代史―1905年から現代まで』『韓国文化史』(いずれも明石書店)、『「韓国からの通信」の時代―「危機の15年」を日韓のジャーナリズムはいかに戦ったか』(影書房)。2022年1月1日、死去。

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