特集 ●第4の権力―メディアが問われる  

介護保険、制度の持続性限界に

介護保険制度の抜本的改革へ・その1――抜本的改革へ議論と検討を始めよう

元大阪市立大学特任准教授 水野 博達

介護労働者の2年近くの状態は、マスクや手袋、消毒材も品薄、予防具はない。自前の工夫で感染症を拡大させないと踏ん張って来た。今も、高齢者や障がい者の命と生活を守るため、介護労働者は、必死で介護現場を守っている。

これまで、私は介護保険の問題点について本誌に度々論考(注1)を寄せてきたが、新型コロナ感染症の流行が明らかにしたケア労働の現実と介護保険事業の将来展望を考えた時、制度の改悪にストップを掛け、また、部分的な改善を求める取り組みでは、もはや限界に来ていると判断した。そう考えることが、なぜ自然で合理的なのか、さらには、介護保険制度の行き詰っている問題・課題は何かを短く、かつ、わかり易く説明することは難しい。そこで、今回「その1」として、きわめて常識的な話から始めることにする。 

老後不安の土台に自己責任論が

実際に支給される年金額に絡んで、「2000万円以上の預貯金が必要」との大臣や官僚の本音の発言を政府は必至に消し込みを図った。しかし、老後不安が世の中から消えた訳ではない。むしろ、週刊誌などでは、毎号、老後をどう迎えるかを企画し大々的に宣伝している。どれくらいの資産があれば安心で資産運用のコツは、財産管理や相続はどうするか、子どもとの関係は、どこに誰と住むのが望ましいか、葬式とお墓は、健康を維持するためにはどうするか、掛かりつけ医師は、食事は、睡眠は、運動は、趣味や旅行は、サプリメントは、寝具や装いは、性生活は・・・・とネタを変え、品を変えて読者を引き付けようとしている。

タ―ゲットは、団塊の世代とその後に続く定年前の高齢世帯予備軍である。一定の資産形成ができてきた、あるいは、できる階層の老後不安を煽りながら、それらの階層の「よりよい老後生活」の計画立案に寄り添う形で読者を獲得する戦略が取られているように見える。そこで描かれる老後生活は、かつて高度経済成長の波にのって夢見られた「マイホーム」の夢に似た「老後生活」、つまり、社会から隔離・分離された「私的生活空間」としての老後の心地よい生活の時空間の提示である。いわば、地域社会に開かれた老後生活ではなく、同じような社会階層(経済的・知識・文化的な水準)の気の合う仲間との(閉鎖的な)繋がりの中で充足する老後生活である。

今、流行りの「おひとり様の老後」は、男尊女卑の軛から解放された自立する女性の「老後生活」の新しい理想を紡ぎ出そうとする肯定面はある。だが、やはり、特定の社会階層(経済的・知識・文化的な水準)だけが実現可能な夢であることにかわりはない。

いずれにしても、マスメディアが煽る老後不安と「よりよい老後生活」の言説には、国の社会政策への批判の視点は弱く、あっても、自らが所属する社会階層の私的生活を享受する狭い立場からの批判であることに無自覚か、あるいは、あえて挑発的に『無自覚』に振る舞っているようにも見える。ありていに言おう。多くのマスメディアの言説は、先の老後のことでなく、障がいや病気のため、あるいは、非正規雇用であったり、シングルマザーであったりなどのため、今、現在の生活が苦しい階層の問題を排除した上で成り立っている、と。2000年の介護保険制度出発の前から、新自由主義的な個人主義、自己責任論が社会を徐々に飲み込み始め、今日に至っている。その結果が、上記のようなマスメディアの言説の氾濫を許している。

かつて筆者は、介護保険が施行されてすぐの時期に「人は生きてきたようにしか死ねないのか」(注2)という言葉で、ある新聞社の論説委員が、老後生活の格差を「自己責任論」で正当化したことを批判したが、人口の大きな部分を構成する団塊の世代が、後期高齢者に近づいている今日、老後のことではなく、現に、今、日々の生活に喘いでいる人々の存在を排除した議論には違和感を覚えるのである。マスメディアが繰り出す安心で快適な老後生活実現の秘策やノウハウを集め、追いかけること自体が、社会的な困難層の存在を見えなくしているのであり、また、実際には、多くの人々にとっては、ますます老後の不安と孤立感を煽ることになっている。

政府の施策や社会的批判を伴わない「老後不安」の喧伝とは、自立というコインの裏側に張り付けられた「自己責任」論をいつの間にか自然に人々が身体化してきた日本の世相が生み出している社会現象の一つであるのだ。

介護保険、誰もがあてにするがその実際は

日本の人口の寿命が延び「人生100年時代」を迎えている。老後の不安が人々をとらえるのは、言うまでもなく日本の社会保障、社会福祉政策の貧しさにその原因がある。誰もが「よりよい老後生活」を願うのは当然だし、生存権・幸福追求権は、高齢だから消滅したり、自粛させられたりすることがあってはならない。高齢者の権利を改めて、しっかりと確認しておきたい。(注3)

先にあげた理想の「老後生活」を描く人々も、心身の状態が老化に伴って、誰かに援助されないと生活ができなくなることを予測する。介護保険の訪問介護とデイサービス、訪問看護、ショートステイなどを組み合わせれば、負担もさしてかからず、在宅の「ひとり老後」が可能であると、明るく楽天的な提案もなされている。しかし、実際はどうか。

2000年以前、介護は家族の責任であり、実態は、嫁、妻、娘などの女性が介護責任を担わされた。こうした一方的な自己犠牲をしいる社会の仕組みを変える「介護の社会化」の闘いが介護保険制度を作りあげたわけであるが、介護保険は、家族の役割を前提として設計された制度である。保険で給付される「介護サービス」には、社会参加の保障は含まれないだけでなく、数々の制限・限定が付いている。例えば、清掃・掃除であるが、庭やベランダ、玄関周り、ガラス戸の外側などは除外され、また、同居人がいる場合は、被保険者が起居する部屋だけである。もちろん、ペットの世話などは禁止事項である。

介護保険の給付外のことは、家族や友人の世話になるか、ホームアテンダント等民間の家事援助サービスを購入することになる。公共料金などの納入や役所との書類のやり取りは、地域の社会福祉協議会の権利擁護事業にお願いできればいいが、十分な体制がないことの方が多い。

民間のサービスを買う余裕のない人や家族や友人に頼めない人は、実際どうなっているか。高齢化率が高く、単身高齢者の多く居住する大阪市西成区の実態を見てみよう。

高度経済成長期に地方から、あぶり出されるように釜ヶ崎にたどり着き、建設や港湾等の日雇いの仕事に従事してきた労働者の多くは、生まれ育った故郷との縁は切れていて、ほとんどが単身高齢者。生活保護を受けている者も多い。彼らにとって、介護保険と介護労働者との繋がりは、生きていく上での命綱である。もちろん介護保険外サービスを購入する資力はない。デイサービスのある日の昼食は確保でき、入浴もできる。夕ご飯は、訪問介護のある日はヘルパーさんに作ってもらうことができ、それ以外の日は、デイサービスの帰り等を利用して買い物をしてもらう。毎日の朝食は、ヘルパーさんやケアマネジャーが出勤の途中に届け、ゴミ出しもする。病院の入退院時も同様な支援を受けることになる。こうした介護労働者の「やりがいの搾取」とも言える「保険外サービス」の支えによって生活が成り立っている。もちろん、一部の悪徳業者をのぞいて西成区のほとんどの介護事業所は、介護労働者が自らの職業的プライドと倫理にかけて単身高齢者の生活を支える保険外サービスの提供を黙認、ないしは、事業所の社会的使命と考えているようである。どこの事業所でも介護職員と利用者である高齢者の信頼関係と友情は篤い。

明らかなことは、家族の存在を前提として設計された介護保険サービだけで、快適な在宅の老後生活はできない。家族・親族、知人の支援や民間のサービスを購入することが必要なのである。高齢者になれば、誰もが介護保険をあてにするが、実際は、介護保険サービスだけでは老後生活は危ういのだ。

欠乏する介護労働力~制度破綻の第一のあらわれ

前節で、介護保険の在宅サービスを組み合わせれば、費用もさしてかけずに在宅の「ひとり老後」が可能であるとする楽観的な見通しが実際的ではないこと、介護保険を誰もがあてにしているが、あてにできない制度上の問題があることを述べた。

利用者側の制度に対する楽観的な話ではなく、制度の存立を支える担い手の問題で危機が迫っていることを直視する必要がある。何よりも第一に、現状の制度の枠組みでは、介護の担い手である介護労働者の量と質の両面の欠乏は解決できないのである。近い将来、保険制度の担い手がいなくて、制度そのものが機能しなくなる厳しい現実について真剣に、かつ急いで検討することが問われている。(第一の問題と密接に関連する第二の問題は、保険料及び利用料の問題で、それは次回に述べる)

厚生労働省は、この7月、65歳以上の高齢者がピークを迎える2040年には、介護職員は約280万人が必要になり、現在の数からいえば、約69万人不足するとの推計を公表した。20年先の推計はあまりあてにならないが、団塊の世代が全員後期高齢者になる2025年では、高齢者は3,677万人の見通しで、必要な介護労働者は約243万人にのぼると推計される。この数値は現実に近い数値であろう。

2020年では厚労省は、2019年度の介護労働者約211万人であるので約32万人を5年間で充足するためには、毎年6万人近くの増員をする必要があるとしていた。実際、毎年6万人の増員は、可能な数値であるのか。介護労働者の高齢化と新型コロナ感染症の流行で、介護事業所の倒産と事業の縮小や休業・廃業も進んでいる。現状の統計数値は、発表されていないので確たることはいえないが、増員する以上に、職員の退職や転職の方が多くなる可能性がある。しかも、国は、日本の若者が介護の仕事に就いてくれることを諦めているようである。

介護人材不足の解消で国が頼りにしている第一のことは、東南アジアから労働力の移入である。しかし、技能実習生や介護福祉士養成機関への留学生は、これも新型コロナ感染症の流行で入国が制限されて上手くいっていない。実は、新型コロナ感染症の流行だけではなく、韓国やカナダなどの介護労働者の受入れ条件と比して日本の条件が悪いために、今後、日本の政府が描くようには外国人介護職員の移入計画は、かなわぬ願望であるとも言われている。日本は、アジアの人々から就労先として選ばれない国になっているのだ。

第ニに国が期待するのは、技術革新とコロナ禍によって、製造業や飲食業・旅行業等から介護労働市場へ労働力の移動が起こることである。これはほとんど見込みのない期待である。

介護保険が始まる2000年前後は、介護労働市場へ多くの優秀な若者が入ってきた。当時は、グローバリゼーションによる世界的な資本移動、産業移転の中で、日本国内は長期の不況に陥っていた。「就職氷河期」という時代の中で、介護保険制度の開始への期待と相まって福祉関係の大学・学部や介護関係の専門学校、ヘルパー資格取得の講習会も活況を呈しており、若者の介護・福祉の仕事への夢や期待が高まっていた。「主婦の戦力化」という国の政策もあって、子育てを終え始めた女性も在宅介護サービスに吸収されてきた。こうした2000年を挟んだ数年間の経験から「不景気になればタクシー業界に人は集まる」といった経験則になぞらえるように「不景気になれば介護労働市場に人は流れてくる」という勘違いが、国や介護業界団体の人材確保の願望の中に生まれ、それが今も生き続けているようだ。実際、リーマンショック後の不景気でも介護労働力の不足は解決せず、大学の福祉系学部への入学者は急減し、介護専門学校の閉鎖や規模縮小がそれ以降も続いてきたことを国は教訓化していない。

2021年度予算で、国は介護人材の参入促進策として「介護分野就職支援金貸付事業」を立ち上げた。他業種(製造業や飲食業、旅行業等がターゲット)から介護分野への就労を促進しようというのである。上限20万円の支援金を貸付け、就職にかかる経費(転居費等)にあて、2年以上介護職員として継続従事すれば全額返済免除にするという事業である。この貸付金受給には二つのパターンがあり、この事業と職業訓練受講給付金(月10万円生活支援金の給付)との関連が結構複雑でもある。そんなこともあり、本当に介護分野への就労を誘導できるどうかハッキリしない。現在、職安を通して介護分野に求職する人数は微々たるもので、民間の派遣業者・紹介業者を通じての応募の方が圧倒的であり、職安の介在がどこまで通じるかが読めない。つまり、これも「絵にかいた餅」となりそうだ。

第三は、ロボットやAIの導入を含めたデジタル化、IT化などによって介護の仕事の「生産性」を上げ、人手不足を解決・緩和しようという期待である。

そもそも機械化、デジタル化によって介護の仕事の生産性を上げる、という発想には問題が多い。国が定めた介護施設での利用者と常勤介護職員の「3対1」基準や、夜勤の職員数の「25対1」の基準は、施設利用者の要介護度の低かった1990年代に定められたものであり、有給休暇の取得を勘案して打ち出された数値でもない。全国の特養施設の実態は、「2.1対1」で何とか安全・安心な介護を実現できているのが実態である。こうした実態について、財務省などが「いまだに『3対1』基準を順守している」と生産性の向上を声高に叫んでいる。

同じように、見守りセンサーや見守りロボットを導入すれば、夜勤の「25対1」の基準は緩和すべきである、との主張も行われる。見守りセンサーは、異常を知らせることはできる。しかし、利用者のもとに赴き、異常の内容を確認し、対処するのは生きた介護職員である。センサーの設置は、より安全を確保するための役目をある程度果たすことができるが、実際の介護はセンサーがするわけではない。「生産性を上げよ」との主張・提言は、介護現場を知らない権力者の戯言という以外にない。

また、介護記録や各種書類をデジタル化によって、簡素化・効率化することはある程度可能である。しかし、IT化による記録の簡素化が行き過ぎると、それぞれ個別性を持った利用者一人ひとりの記録や書類がパターン化され、介護記録の意味をなさなくなる恐れがあり、パターン化が習慣化されると介護技能の低下にも繋がる。

要するに、デジタル化・機械化は、腰痛防止やうっかりミスを防いだりするなど、あくまで介護の質を高めるための補助的な役割であって、導入すれば労働者を減らしても効率を上げて『生産性向上』ができるというものではない。

第一も、第二も、第三も、国の施策は、介護労働力不足がなぜ起こり、解決されてこなかったのかを正面から検討することを避けた弥縫策である。理由は、はっきりしている。国は、介護に必要な社会的コストを抑えることに集中してきたからだ。だから、介護の仕事の社会的評価がいつまでも低いままに放置され、賃金・労働条件を大きく改善する基本施策も取られて来なかったのだ。介護労働者の平均賃金は、ここ数年の処遇改善加算の支給にもかかわらず、全産業労働者の平均賃金より、なお月7万円から8万円低い。これは、年金を含めた生涯所得を考えれば、介護労働者がいかに冷遇されているかが想像できるであろう。しかも、介護労働者の不足によって、(サービス)残業や休日出勤が多く、休みが取れない。さらには、施設では、夜勤回数が多くなり、月7~10回夜勤をこなす介護職員も増えており、訪問介護では、移動時間、待機時間が正当に労働時間としてカウントされない状態が放置されている。こうした労働条件が悪い上に、低賃金なのである。

「介護の社会化」~改めて問われる担い手問題

前節では、国が予測した介護労働者の全体の需給に関する推計と、介護人材の不足に対する施策を見てきた。ここでは、介護の現場の実際に、もう少し接近してみよう。

コロナ禍以前でも、介護労働安定センターなどの調査では、人手が足りないと感じる介護事業所は全体で 65.3%。訪問介護員の不足感はもっとも高く 81.2%、次いでデイサービスや介護施設の介護職員は 69.7%である。さらに見ると、在宅生活を支える訪問介護の人手不足が最も深刻で、有効求人倍率は 2020 年 9 月で15.47 倍であった。 2018 年調査では、訪問介護職員の年齢構成は、20 歳以下の人は、僅かに 0.2%で、平均年齢は、54.3 歳。65 歳以上のヘルパー が 40%に迫っている。あと数年で、訪問介護は、なり手がいなくて事業が消滅しかねない深刻な現状である。 在宅サービスが基本だとしてきた介護保険制度は、まず、訪問介護の崩壊から始まろうとしている。 地域の高齢者福祉と介護を支えてきたデイサービスなどの小規模事業所も、新型コロナ禍もあって経営が成りたたなくなっており、訪問介護につづいて地域密着のデイサービスや小規模事業所が地域から消え始めている。

では、施設系の介護事業は安泰か。

実は、統計上ではなかなか判らないサービスの収縮が、少なくとも大都市では進行している。介護職員の補充が出来ず、入所者を施設の定員以下に抑え、利用者と常勤介護職員換算数の「3対1」基準を何とかクリアーする「合法的経営」手法が取られているのだ。職員の充足状態に合わせて、入所制限をする処置である。人員不足の中で、職員の労働安全や利用者の安全を考えれば、やむを得ぬ手立てであると言える。しかし、施設の経営側は、この入所制限について、世間体が悪いので公表していなし、行政もこの実態をつかもうとはしていない。

問題は、これまで国の制度運用上で経営が比較的守れて来た大規模施設の経営が、今回の新型コロナ感染症の流行によって、ほころびを見せ始めていることである。筆者の知る大阪の特別養護老人ホームの事例を紹介する。

その施設は、職員の補充がいき詰まっていたので、経営の判断で稼働率を97~95%の目標を思い切って、75~70%まで落すことを緊急処置として決定。利用者や地域の関係団体に公表して実施した。当然、赤字経営覚悟の処置である。新型コロナ感染症の流行への対策を取りながら、職員の補充状態が少し改善して来た2021年から、稼働率80~85%の目標を設定して経営の立て直しを開始した。そこへ4月中旬、クラスターに襲われた。保健所の機能はパンクしており、保健所へ通報しても1週間以上、何の連絡もなかった。主任、副主任クラスは、施設の医師や看護師の指導と協力を受けながら、感染拡大防止のため、2~3週間施設に泊まり込み、職員と必死に業務をこなすことになった。幸い、10日後には、厚労省直属のⅮMAT(災害救助の医師団)が施設の指導に入り、約1カ月かけて感染症を抑えることができた。

ここで示されている問題は、施設系の事業所もじわじわと介護人材不足で事業が縮小し始めていること、人材の補充は先の見通しがないこと、その上に、新型コロナ感染症で大きなダメージを受けていることである。国の感染症対策事業で予算を付け、介護報酬等についても特例措置などを取っているが、事業の危機や経営困難の底辺に、介護の担い手である介護労働者の量・質両面での欠乏問題の解決への施策からは遠い。感染症対策事業の予算は、結局、IT関連製品を「感染症対策」という名目で購入するのに費やされたのである。

「介護保険制度の抜本的改革へ―その1」をまとめることにする。

介護労働力の不足は、東京や大阪などの都市部で2005年頃からはっきりした傾向があらわれていた(注4)。ところが、当時の国の考え方は、介護の専門性を高めることによって社会的評価を上げて、介護の仕事へ人材を呼び寄せられると考えていた節がある。2006年の第7回「介護福祉士のあり方及びその養成プロセスの見直しに関する検討会」では、樋口恵子委員は、「高齢社会をよくする女性の会」のアンケート調査に基づいて、利用者の家族が求める介護職員像と国の考え方とは乖離があることを指摘した。また、堀田聴子委員は、経営側が職員のキャリアアップをさせたいとおもうような報酬を含めた制度の考え方がいる、と批判的意見を述べていた。(注5)こうした批判的見解をそれ以降国が検討し、取り入れた形跡はない。

介護の責任を家族に、つまるところ嫁、妻、娘に押し付けてきた日本社会と国は、「介護の社会化」という要求と運動に押されて介護保険制度を用意した。しかし、今日から振り返れば、介護の担い手は市場原理に基づいて組織されるはずである、と考えていたのであろうか。介護保険の出発時点で、福祉関係の大学・学部や介護関係の専門学校、ヘルパー資格取得の講習会も活況を呈した状況が、そのまま続くと考えたのであろうか。

国だけではなく、「介護の社会化」を求めた運動側も、介護事業で急成長を遂げることを考えた介護業界も、介護の担い手について介護保険制度の出発点から十分に考えてきたとは言い難いのである。また、介護労働者自身も、より良い「介護の担い手」でありたいという願いを持ちながらも、労働者としての権利をキチンと求めてきたと言えるであろうか。

いずれにしても、『介護地獄』からの脱却を求め、「介護の社会化」を求めてきた私たちは、改めて、介護の担い手、介護労働者の状態と権利の問題を基礎に置いた介護保険制度の見直しが求められている。

次回は、危機の第二の問題である介護保険料の問題と結びつけた検討を行なう予定である。

 

【注】

(注1) 2020年11月以前に、本紙『現代の理論』デジタル版に発表の論考は以下の通り。
24号「近代を問う! 排除されて来たケア労働」/感染と隣り合わせ、テレワークと無縁、でも未来への光
22号「介護保険制度「崩壊」が訪問介護から始まる」/ヘルパーの国家賠償訴訟はなぜ起こされたのか
21号「受難の時代へ~問われる介護支援専門員」/良心貫くケアマネか、サービス抑制の実行者か
20号「介護労働者の処遇は改善されているのか?」/介護現場に分断と混乱もたらす新「処遇改善加算」
19号「介護保険、変貌する制度の「持続性」」/第8期介護保険事業(2021年度~)計画への批判
13号「迷走する介護の社会化と自立の強制」/国際高齢者デーから11・11に介護労働者決起行動
10号「起ちあがる 介護労働者」/「介護労働者の権利宣言」運動の開始に当たって

(注2) 「介護保険と階層化・格差化する老後」の第4章に収録 (明石書店、2015年)

(注3) 「高齢者のための国連原則」(5つの原則)~1991 年 12 月 16 日 国連総会決議

(注4) 「介護の革命の第二段階を目指す改革試案」(共生社会研究no,2,/大阪市立大学共生社会研究会、2007年)

(注5) 「重大な問題はらむ介護労働者の資格と人材確保指針の変更」(共生社会研究no,3、2008年)

みずの・ひろみち

名古屋市出身。関西学院大学文学部退学。労組書記、団体職員、フリーランスのルポライター、部落解放同盟矢田支部書記などを経験。その後、社会福祉法人の設立にかかわり、特別養護老人ホームの施設長など福祉事業に従事。また、大阪市立大学大学院創造都市研究科を1期生として修了。2009年4月同大学院特任准教授。2019年3月退職。大阪の小規模福祉施設や中国南京市の高齢者福祉事業との連携・交流事業を推進。また、2012年に「橋下現象」研究会を仲間と立ち上げた。著書に『介護保険と階層化・格差化する高齢者─人は生きてきたようにしか死ねないのか』(明石書店)。

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