論壇

ケアをめぐる平等性と民主主義を問う

『ケアするのは誰か?―新しい民主主義のかたちへ』(ジョアン・C・
トロント著/岡野八代訳・著)から考える

相模女子大学名誉教授 河上 睦子

コロナ禍のなかで注目されている重要な問題として「ケア」があるが、以下の本は「ケアのあり方」について多くの示唆を与えてくれるように思う。

『ケアするのは誰か?―新しい民主主義のかたちへ』(ジョアン・C・トロント(著)、岡野八代(訳・著)/白澤社/2020.10。

  1章:ケアするのは誰か?―いかに、民主主義を再編するか(J・トロント)

  2章:民主主義の差異性とケアの倫理―ジョアン・トロントの歩み(岡野八代)

  3章:ケアの倫理から、民主主義を再起動するために(岡野八代)

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この本はトロントのケア論を中心に、ケアと政治、とくに民主主義との関わりを、フェミニズムの視座(とくに「ケアの倫理」との関係)から問うことが主題となっている。だがトロントのケア論はアメリカの民主主義政治を土俵としているので、日本のケアの状況に必ずしも適合しない面がある。それゆえ訳者であり著者でもある岡野八代が日本的政治状況を踏まえて、トロントのケアの政治論を再設定して考えようとしたものである。この本の出版の意図を、著者自身が語っているので、確認しよう。

日本の政治を動かす者/権力者たちは、「日本の社会のケア配分とその価値づけを牛耳っている」にもかかわらず、「〈ケアするのは誰か? Who Cares?〉という問いかけ」に「〈自分が知ったことではない Who Cares?〉」として、「子育て・教育・介護・看護といったケアワークは、誰かがしてくれているのだと、固く信じて疑わない」。それゆえに、この本は、従来のケアワーク論やケア実践をめぐる現状分析とは異なり、「民主主義のあるべき姿から、ケア実践がおかれている政治状況を批判的に見直すために、ケアの倫理の入門書にあたるものを、日本でもぜひ紹介したいという強い思いから生まれました・・・」((女の本屋:<著者・編集者からの紹介> 岡野八代、2020.10.21 Wed)。WANホームページ

ケアとは人類的な活動・行為であり、子どもや高齢者や障がい者など、他者のケアを必要・不可欠とする者への関係的行為だけではない。ケアは人間同士の関心・配慮・ケアの提供と受け取りなどの相互承認のうえでの個人的関係ではなく、すべての人間がそれに無関係ではありえない人間相互の社会的活動の行為である。それゆえに各個人は正当な理由・根拠なしに、その責任と義務から免除されえない。そうしたケアの責任と義務とを、すべての個人に対して課す社会は、歴史的には新しいものであり、平等という理念に支えられる「民主主義」のもとでのみ成立しうるだろう。

日本では、こうした「ケア(ワーク)」に関する政治社会制度は20世紀までは低所得者や老人対象の福祉制度や保険制度のもとに考えられてきたが、2000年施行の『介護保険法』よって高齢者対象へと広がり、今日まで(要介護対象の)国民への福祉支援制度として考えられてきたといえる。もちろん「高齢化社会」の到来で少しずつ「ケアの社会化」が取り入れられているようだが、基本的には当事者中心主義を超えてはいないように思う。

つまり日本の社会的政治制度では、ケアの理念は「医療、看護・介護」が基本で、ケアを必要とする当事者間のケア行為、つまり「ケアする者」と「ケアされる者」との間の人間間の直接的間接的ケア関係という考え方を超えてはいない。それゆえ日本ではケアの責任や義務が国民全体の事柄であるとは考えられず、ケアの責任配分などについても社会制度的に問題化されてこなかったといえよう。

そうしたなかで、一昨年からの新型コロナパンデミックによって、私たちに外出自粛やステイホーム、人とのコミュニケーションや接触交流の制限などが課せられるようになって、ある意味で「新たな」ケア(ワーク)に社会的関心が向けられるようになった。とくにコロナ感染のリスクが高いながらも私たちの生命と生活を守護し維持するためのケアを不可欠とする医療・看護関係、介護や福祉関係、保育関係などの「ケア職業」といえるものだけでなく、日々の生活を支える食料供給関係、宅配業、スーパー業、ライフライン関係、清掃業、ゴミ収集業などの仕事(エッセンシャル・ワーク)の重要性が認識されるようになった。

そしてコロナ禍でのそうした仕事を通して、私たちは改めて「社会的ケア」の必要性を知らされているが、現実はそれらの社会的ケアワークに従事している人びとが社会的に正当に評価され位置づけられてはいないことに、あまり関心を払ってはいないようである。それら社会的なケアワークおよびケアワーカーに対する社会的評価の低さを始め、その職種への差別や賃金報酬等の不平等の問題こそは、コロナ下で取り組まなければならない政治的な課題であるだろう。いや社会的「ケア」に関するそれらの諸問題は、コロナ下だけの問題ではなく、現代日本の「ケア社会」が抱える「政治的問題」なのである。

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ところでこうしたコロナ下にあるケアワーク(エッセンシャル・ワーク)のなかで、あまり問題視されていないものとして、家庭内での家事、食事、育児、親の介護などのケア(ワーク)がある。これらはコロナ下の社会的活動のリモートワーク推奨や外出自粛などで、人びとの居場所が家庭に置かれるようになり、家庭でのケア(ワーク)が重要になっているにもかかわらず、十分には社会問題化されていないようである。とくに女性たちが担ってきた(いる)子育てや食事や家事などのケアワークは注視されていないといってよい(コロナ下の食事の問題については、本誌『季刊 現代の理論』23号論壇、拙著「新型コロナと食の資本主義」参照)。

もっとも近年、男女共同参画社会実現や女性の社会参加をめぐる問題のなかで、家庭におけるケアワークも少しずつ論議されるようになったが、これが政治的な主題として取り組まれているとはいえないだろう。単身の高齢者や要支援者のための家事のケアや食事ケアなどは「ケアの社会化」のもとで社会的関心事となり、家庭外で担われるようになってきたが、家庭でなされる多くのケア(ワーク)は、基本的には家庭の問題や「女性」の問題とされ、政治的な課題として取り組まれることがなく、ある意味では放置されたままであるように思う。つまり家庭のケア(ワーク)はケアの領域であっても「社会的ワーク」とみなされず、依然として家庭問題、親子・母子問題、愛情問題、教育問題、男女問題などとして、「社会的ケア」の「外部」に位置づけられたままだといえるのである。

こうした日本のケア状況のなかで、家庭のケア(ワーク)問題が「社会的なケア」の問題であり、しかもそれは性別役割分担の問題、ジェンダー平等の問題、女性差別等の問題でもあると少しずつ認識されるようになったのは、第二波フェミニズムによる問題提起からであるといえよう。「個人的なものは政治的なものである」というテーゼによって、これまで家庭を始めとした「女性」固有の領域とみなされてきた「ケアワーク」が、プライベートな個人や男女の差異や家庭の問題ではなく、不平等や差別にかかわる政治的な問題であり社会的課題として取り組む必要があると、フェミニズムを中心に提起されたのである。

しかしそうした「ケアワーク」における性差主義や家庭主義への異議が提起されてからすでに長い年月がたっているにもかかわらず、日本ではそれに関する認識が深まったり、制度的に取り組まれたりしてきたとはいえない。もちろん家庭のケアワークのなかの「介護」などは少しずつ社会化されてきたが、それでも子育てや家事(とくに「食事のケア」など)は、従来通り「女性」の領分とされているようだ。コロナ禍でのステイホームでも、家庭での主たるケアの主体は依然として「女性」であるようだ(拙著「コロナが変える〈食〉の世界」『季報 唯物論研究』第155号、2021/5)。それはなぜなのか。

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岡野八代はトロントとともに、そうした「ケアと女性」をめぐる「社会的・政治的問題」に、『誰がケアするのか?』と問いかけている。

「ケアの責任や応答」は「個人レベルの問題」ではなく、「社会的・政治的な問題」である、と。そして同時に(家庭のケアを含む)「ケア」問題は、「女性の問題」でも「倫理・道徳の問題」でもないと断言し、その考えからギリガンの『ケアの倫理』の読み替えに挑戦した。

それによれば、ギリガンの「ケアの倫理」は、一般にいわれているような「ジェンダーの差異」、つまり男性と女性との自己アイデンティティ形成や道徳意識確立におけるジェンダー差異(社会的意識形成の差異)だけを単に主題にするものではない。そこにはフェミニズムで議論されてきた「差異か平等か」の論議を超える「政治的」論議がある。つまり「ケアの倫理」論は、ジェンダー・イシューだけではなく、以下のような政治的イシュー、「政治的問題」にかかわる「ケア論」でもあるというのだ。

『ケアの倫理』は「性差」という属性が被る社会的な地位の不平等や差別に関する問題提起であり、社会の外部におかれてきた私的領域の「ケア」を取り上げた「政治論」なのである。この見解は「ケア論」を「倫理」がもつ内面性や心情的レベルの問題から、規範や制度にかかわる外面性・活動行為の政治のレベルに引き上げることを意味する。と同時にケアにかかわる人間関係性を、「性差」の問題枠組から「平等」「差別」などの問題枠組に組み替えることでもある。それはこれまでのケア論を支えてきた「公私二元論」の考え方、つまりケアを私的な領域と公的領域(私的ケアと公的ケア)とに分けてきた分類法に支えられるケア政治の超克を意味しているだろう。この新ケア論の提唱は、畢竟、現代のケアの政治制度の変革を示唆しているのである。

こうして岡野はこの本で、「ケアを共にすること」という「新しい民主主義の理念」に支えられた政治がいまや必要であるという。そうした「ケアの共有」は民主主義の「平等」と関係しているものであり、ケアへの人びとの関わりにおける不平等があるかぎり達成されないものである。かつてケアは「不平等」に支えられていたが(ケアに従事していたのは、使用人・下層階級・女性・移民・奴隷であり、それらは人種・階級・財・ジェンダー・権力の不平等な制度のもとにあった)、これからは「ケア責任の平等性」と「ケア配分の正当性」(これはケアワーカーの正当な社会的評価を意味する)とを追求する政治のもとで可能となるだろう。そしてそのためには少なくともケアについての討議の「平等性」を保障する民主主義が不可欠なのである。

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だが最後に、今日の日本のケア界の現実を確認してみよう。

21世紀以降日本のケア界は大きく変貌しているように思う。ケアはいまや人間間のケア関係だけではなく、一方で動植物・愛玩物・自然物・「環境」・地球などの対象とのケア関係へ広がっており、他方で親子・家庭・生活・仕事上のストレス解消のための自己の心身のヘルスケアやセルフケアなど、健康中心の「ケア的」関心が大きくなっている。そしてこうした拡大・変容し続けるケア関心に相応して、ケア職業(ケア関連「資格」)、ケア産業、ケア施設(温泉・スポーツセンター・美容・エステ等)、ケア商品、ケア器具、ケア飲食、ケア旅行・交流、ケア経済、ケア教育、ケア制度、ケア文化・芸術などを含む、大きな「ケア界」が出現し発展しつつあるようである。それらはまさに現代人の関心・志向に相応した「ケア産業社会」の到来を表示しているように思う。

もちろんこうした拡大する多様な「ケア界」の出現の背景には、高度資本主義的産業経済社会が現代の個人的社会的「ケア」関心や欲望を社会システムの一環として組み込み商品化してきたことがあるわけだが、そのことで「ケア」本来の内容が変容するだけでなく、ケアワークの役割・機能も不明瞭になってきているようである。これは、現代社会における「ケア」の射程距離が大きくなるにつれ、「ケア」の内容が変化し、ケアの社会的役割や位置づけもみえなくなってきていることではないだろうか。

こうしたことについて、岡野はケアが「市場第一民主主義のもとでの個人的問題」となっているからだと説明するかもしれない。そしてこの現に進行している「ケア界」のあり様、とくに「ケア産業」の「自己ケア中心主義」に対して、〈平等思想にたつ民主主義に依拠するケアの共同化構想〉の意義を主張し、ケアの市場性からの脱出を要請するだろう。ケアとは本来「自他の相互ケア」を基礎としているからである。

ケア政治の現実が高度資本主義的市場社会のただなかにいるという、重い現実の前に立ち止まっている筆者に対して、この本は「<ケアするのは誰か?> その答えは私たちのなかにある」と問いかけているようである。

かわかみ・むつこ

相模女子大学名誉教授、総合人間学会理事。主要な研究テーマは、フォイエルバッハ哲学、食の哲学思想、ジェンダー問題。著書に『いま、なぜ食の思想か』社会評論社。『フォイエルバッハと現代』,『宗教批判と身体論』御茶の水書房。「『食の哲学』入門」『生きる場からの哲学入門』新泉社、「現代日本の『食』の問題とジェンダー」鳴子博子編著『ジェンダー・暴力・権力』晃洋書房、など。

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