特集 ●第4の権力―メディアが問われる
教科書検定に見られる「領土問題」
指導要領に反するような思考停止
河合塾講師 川本 和彦
あなたは今、暴走するトロッコに1人で乗っている。止める手段はない。そして、前方には左右に分かれる分岐点がある。そのどちらかへ進む以外に、選択肢はない。進行方向には、左右いずれにも人が横たわっている。右へ行けば1人を、左へ行けば3人を轢いてしまう。さあ、あなたはどうする?
――と、マイケル・サンデル教授が発するような問いがあれば、多くの人はどちらがよりマシか(悪い要素が少ないか)を考え、苦悩しながらも右へ進むことを選ぶのではないだろうか。
では右にいる1人がマザー=テレサさんで、左にいる3人がヒトラー、スターリン、ポル=ポトであれば?あるいは3人のうちの1人が俳優の宮﨑あおいさんだったら?悩むところですねえ。横たわっているのが森喜朗だったら、悩まないかも?いや、悩むか。悩む、ことに、して、おこう。
これは、多くの人を助けるためなら1人を犠牲にしてもいいかを問う思考実験、いわゆる「トロッコ問題」である。2022年度から高校で必修科目となる「公共」では、複数の教科書が(もちろんヒトラーや森喜朗という固有名詞はないが)このような板挟みの選択を問う問題を取り上げた。従来の知識丸暗記から思考力養成への転換を目指す試みとしては、保留付きで一定の評価ができる。保留については、後ほど述べよう。
ところが領土問題に関しては、日本政府の主張が正しいことを前提とした記述が圧倒的多数、というより全部なのだ。ここには文部科学省の教科書検定が、深くかかわっている。
「固有の領土」を強調
検定に先だって発表された新学習指導要領の本文では、北方領土(北海道)、竹島(島根県)、尖閣諸島(沖縄県)が「日本固有の領土」と明記された。前回までは指導要領を補足する解説書に記載があっただけだが、これが本文に格上げされたということで教科書への掲載が義務となったとされる。と言ってもこれは文部科学省の教科書課が一方的に言っていることであり、法的根拠はない。だが出版社はこのお触れを無視することなく、「公共」および、これまた新設科目である「地理総合」の2科目で使われる教科書18冊すべてに、「固有の領土」という表現を明記した。それでも検定でさらなる修正を求められたところもある。
当然ながらロシアは北方領土を、韓国は竹島を、中国は尖閣諸島を日本固有の領土とは見なしていない。そもそもロシアにとって北方領土は南クリル諸島であり、韓国にとって竹島は独島であり、中国にとって尖閣諸島は釣魚島なのだ。
なぜ、そのような食い違いが生じたのか。どちらの言い分が、どの程度正しいのか。どうすれば解決できるのか。これは思考力養成のために、格好のテーマではないだろうか。その機会を予め封じてしまうのであれば、文部科学省が掲げる思考力養成という目標そのものが、疑わしくなってしまう。事実、疑わしいのですがね。
相手を丸め込むのが狙い
典型的な例として、数研出版「公共」教科書を見てみよう。
この教科書は、国際司法裁判所の判決によって領土問題が解決した例や、ロシア(当時はソ連)と中国が話し合って国境を画定した例を挙げている。その上で北方領土と竹島の問題をどう解決するか、生徒同士で話し合うよう指示している。
何ら問題はなさそうだが、問題大ありです。第一に、尖閣諸島が取り上げられていない。これは日本が実効支配していることを踏まえ、日本政府の「日中間に領土問題は存在しない」という主張を、丸ごと肯定したことを意味する。第二に、「どう解決するか」と言っても、それは「日本の言い分をどう相手(ロシア・韓国)に認めさせるか」ということでしかない。いかにして誤っている相手を説得するか(丸め込むか)という方向が、初めから設定されているのだ。
なお、今回の検定がひどかったと言っても、従来の検定が良かったわけではないことは付け加えておくべきだろう。前回の検定で合格した第一学習社「現代社会」教科書には、「日本は、ロシアとの間に北方領土問題という大きな問題をかかえている。また、韓国が不法占拠を続けている竹島や、中国が領有権を主張している尖閣諸島も、日本固有の領土である」という記述があった。
某(読売)新聞の社説かと思いましたぜ。
日本と相手国、それぞれの主張を架空の対話形式で整理してみたい。
北方領土問題
日本「1855年の日露和親条約で千島列島に関しては、ウルップ島以北をロシア領、エトロフ島以南を日本領とし、樺太(サハリン)に関しては日露両国の混住地とした。つまりエトロフ島以南の南千島4島が、日本固有の領土であることは明白だ。ここで国境が画定したのだからな」
ロシア「条約の有効性は認める。しかし、そもそも『日本固有の領土』の日本とは、どこまでを指すのかな。日露和親条約締結時、琉球は独立した王国だった。今の沖縄県は『日本固有の領土』に含まれないのかね」
日本「それを言うならシベリアだって、どこまで『ロシア固有の領土』と言えるのかい。アメリカ大陸は、元々誰のものなのか、それはもはや不毛の議論だ。
話を戻そう。1875年の千島樺太交換条約でオール千島が日本領に、オール樺太がロシア領になった。条約名を見たまえ。樺太と交換された千島とはウルップ島以北であり、エトロフ島以南はやはり日本固有の領土だ」
ロシア「条約名と言っても、それは日本国内の話だろ。ロシアではサンクト・ペテルブルグ条約と呼んでいる。大体さあ、1951年のサンフランシスコ講和条約で、日本は千島列島を放棄したではないか」
日本「だからあ、エトロフ以南は千島列島に含まれないんだって」
ロシア「でも、外務省の西村熊雄・条約局長は当時、『条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むと考えております』と、国会で答弁しているぞ。議事録にも残っている」
日本「公文書改ざんが日本の得意技であることを忘れたか。そんな発言は、明日にでも議事録から削除してやる」
竹島問題
日本「日本にある1618年の文書には、『伯耆藩の大谷・村川両家が幕府から竹島を拝領した』とある。この時点で、既に日本領ではないか」
韓国「その文書は疑わしいなあ。そもそも伯耆藩などという藩は存在しない。因幡国・伯耆国を領有する鳥取藩があっただけ。その鳥取藩は1695年、老中・阿部豊後守からの『竹島はいつから因幡・伯耆の附属になったのか』という質問に『竹島は因幡・伯耆に附属するものではない』と回答しているじゃないか」
日本「では、これはどうだ。日本は1905年、竹島を島根県に編入することを閣議決定した。これに対して、当時の大韓帝国は抗議をしていない、ということは、認めたということだろ」
韓国「当時は日露戦争の最中であり、大韓帝国の首都ソウルは日本軍に制圧されていた。抗議などできる状況ではなかったのだ。第一、閣議決定した独島編入をわが国に通告せず、官報にも載せず、島根県に通達しただけじゃないか。そんな閣議決定は無効だ」
日本「だからといって第二次世界大戦後、韓国がいきなり占領するのは不法ではないか」
韓国「無人だったわが国の領土に、国民が住むようになったというだけだ」
日本「この領土問題についてわが国は、国際司法裁判所の裁判で決着をつけようと主張している。困ったことにこの裁判、双方の同意がなければ開始できない。自分たちの主張に自信があるのであれば、裁判に応じたらどうだ」
韓国「では『対馬は元々韓国領だ』と我々が主張して裁判を求めたら、日本は応じるのかね。日本の主張は我々にとって、それくらい荒唐無稽なのだ。それに、これは領土問題ではなく歴史問題だ。独島奪取こそ、日本帝国主義がわが半島を支配する第一歩だった。その認識さえ共有できないのに、国際裁判など噴飯ものだ」
尖閣諸島問題
中国「無人島の領有権に関して中国政府は、先発見主義をとっている。釣魚島は16世紀半ば、明の時代の『籌海図編』に記載がある。この時点で釣魚島は台湾の領土であり、台湾は中国の領土である。よって釣魚島は中国領である」
日本「かなり無理があるなあ。日本政府の立場は先占守主義、先に住人が住んだ国のものという立場だ。先に発見したのはそちらさんかもしれないが、アホウドリの繁殖を目的に居住したのは、日本人の方が早かったぞ。それに台湾は中国の領土と言えるのだろうか。歴史的には、台湾全島を初めて占領したのはオランダ領東インド会社だ。1624年のことだけどね」
中国「北海道だって、その頃はほとんどアイヌの土地だったではないか。第一、日本は1972年の日中共同声明と日華平和条約破棄で、台湾を主権国家とは見なさないとしている」
日本「しかし、北京の主権が台湾に及んでいないのも確かだろう。とにかく、わが国固有の領土である尖閣諸島の領海に、そちらの公船が侵犯するということを、まずやめてもらおうではないか」
中国「いやいや、そこは中国の領海だ。百歩、いや万歩譲って日本の領海だとしても、どの国の船舶も相手国に危害を加える意図がない限り、他国の領海を航行できる無害通航権を持つ。これはお宅の国でも、複数の大学で入試問題に出ているぞ」
いかがです?
私は反日左翼ではない(つもりだ)が、熱烈な愛国者でもない。日本政府の主張だから無条件に正しい、あるいは間違っているという態度はとらない。領土問題についても双方に言い分があり、全肯定も全否定もできないと考える。
ここで冒頭の「トロッコ問題」に戻る。私は保留つきで一定の評価をしたが、その「保留」とは何であるか説明しよう。
課題を問い直す
考える力とは与えられた課題に対して、合理的・論理的に思考を進めて正解に至る力、というのが大方の理解であろう。
だが、これは与えられた課題に対して、詰め込んだ知識を吐き出して正解に至る力と根本的な相違はない。本当の考える力とは、課題そのものを問い直す力である。トロッコ問題でいうなら、なぜ自分は他人を轢く側にいるのか?もし轢かれる側であればそれを回避するために、トロッコの乗り手をどう説得するのか?そこまで考えることができる若者が増えないと、労働生産性を向上させて日本経済を成長させることは困難であろう。別に成長しなくてもいいのだが。
最初から「わが国固有の領土」という枠組みを作ってしまうと、考える幅が限定されてしまうのだ。もし枠組みがなければ、様々な解決策が考えられる。
考えられる解決策を、いくつか挙げてみよう。
その他の解決策
両国いずれの領土でもないことで合意する
昨年亡くなった元朝日新聞記者の柴田鉄治さんから生前頂いた名刺には、「世界中を南極にしよう」という語がある。南極条約は南極を、どこの国も領有権を主張できない土地と規定している。実現可能性は別にして、紛争領土についてこの考えを適用するというのは、文部科学省検定がとりあえず求めている「平和的解決」に合致するのではないだろうか。国連の信託統治理事会に管理してもらってもいい。信託統治理事会は現在活動停止中だから、どうせ暇だろう。実際、第二次世界大戦後のイスラエル建国にあたっては、各宗教の聖地であるエルサレムを国連が管理することになっていた。
両国の共有財産とする
当該地で年に1度、両国の国会議員それぞれ20名の選抜チームで綱引き大会を主催する。勝った方が1年間領有でき、負けた方が管理費を支払う。毎年やれば平和的祭典として、意外に盛り上がるかもしれない。
地元住民を協議の主体とする
岩下明裕・北海道大学教授の調査によると、根室や境港などでは「大きな声では言えないが、漁ができるのなら島の帰属はどちらでもいい」と言う漁民が少なくないそうだ。確かに協議が政府主導で進み、その周辺で生活する人々の声が反映されないというのはおかしな話だ。これは相手国にも言えることだろう。
北方領土についてはアイヌなど、少数民族の声も尊重されるべきだと思う。
これ以外にも、いろいろな意見が出てくるかもしれない。その可能性を予め封じこめてしまう検定とは誰の、何のための制度なのだろうか。
私は教科書検定を否定しない。うまく活用すれば、とんでもない教科書が採用されることを防ぐ防波堤にはなりうる。それはある程度実現しているようだが、その検定制度が学力育成の妨げになるのは……。
残念です。
かわもと・かずひこ
パレスチナ解放機構結成年(1964)に福岡県で生まれる。新聞記者を経て現職。アムネスティ・インターナショナル日本会員。
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