コラム/百葉箱
小日向白朗の謎(第7回)
国際情勢を見つめながらー65年日韓条約の闇
ジャーナリスト 池田 知隆
浮上してきた日韓国交正常化
日米安保体制が構築された後、日本社会が「政治の季節」から「経済の時代」へと巧みに転換していくなか、外交課題として浮上したのが韓国との国交正常化だった。池田内閣の情報機関の顧問、小日向白朗は61年初冬、妙な情報を耳にした。
「岸信介(前首相)と児玉誉士夫が韓国との間で怪しげな動きをしている」
韓国では朴正煕(注1)が61年の「5・16軍事クーデター」によって軍事政権を樹立する。だが、暴力的手段で政治の実権を握った軍事独裁者に対して、自民党の大物政治家たちは様子見をしていた。それでも児玉は有力政治家の大野伴睦と河野一郎に働きかけ、池田首相との会談を実現させようとしていた。
当時、世界最貧国レベルにあった韓国を軍事的・経済的に援助していたアメリカは、アジア一の経済国に成長した日本が韓国に経済・技術援助を与えれば、それだけアメリカの負担は軽減される、と考えた。そのために米国のCIA(中央情報局)と国務省は、日本の政治家を上回る影響力を持つ児玉を利用しようとした。
『児玉誉士夫-巨魁の昭和史』(文春新書)の著者、有馬哲夫氏(早大教授)によると、児玉はもともと韓国のためになにかをせずにはいられない「親韓家」という。児玉の父の破産によって一家離散し、児玉少年はソウル近郊に住む腹違いの姉に預けられ、孤児同然だった彼に唯一情けをかけたのが現地の韓国系日本人(当時)で、その恩を忘れることはなかった。児玉と親しい暴力団「東声会」首領で、在日2世の町井久之(鄭建永)もまた、日本の政財界の大物とパイプを築き、朴正煕大統領の信任も厚く、児玉と町井は日韓の裏交渉の道を開いていく。
そのとき、日本と韓国の間で障害になったのが竹島(韓国名・独島)問題だ。竹島は、島根県隠岐郡隠岐の島町に属し、隠岐島から約158㌔に位置する二つの小島。島の面積は、周囲の小島を合わせても約0.2平方㌔と小さいが、対馬暖流と北からのリマン寒流で周辺海域は豊富な漁場でもある。
外務省によると、日本政府は1905(明治38)年1月の閣議決定で竹島を島根県に編入。官有地台帳への登録、あしか猟の許可、国有地使用料の徴収などを通じた主権の行使を他国の抗議を受けることなく平穏かつ継続し、領有権が近代国際法上も諸外国に対してより明確に主張できるようになっている。
第2次世界大戦後の日本の領土処理などを行ったサンフランシスコ平和条約(51年9月8日署名、52年4月28日発効)によって、日本が放棄すべき地域として「済州島,巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定され、竹島はそこから意図的に除外された。しかし、同条約発効直前の52年1月に韓国は、李承晩ラインを一方的に設定し、そのライン内に竹島を取り込んで以降、「実効支配」を続けている。日本政府は同島の領有権について国際司法裁判所への提起を主張しているが、韓国政府は同島をめぐる領有権紛争は存在していないとの立場をとり、日韓の間で激しく対立している。
密談の場に乗り込む
李承晩ライン周辺での漁業をめぐって韓国側に拿捕される漁民は岸の地元である山口県が最も多かった。そんな選挙区事情を抱えている岸と児玉が韓国側と密談をするという裏情報が白朗のもとに密かに寄せられた。日韓で竹島周辺の海底資源を共同開発し、そこから上がる利益を分配する仕組みをつくろうとしているとの確かな筋からの情報だった。岸と児玉の動きを警戒していた池田内閣は、白朗にその情報を探らせようとした。
白朗の脳裏に疑問が膨らんだ。
「そういうことならば、韓国に竹島領有を認めさせることにもなりかねない。第一、そんな国家的な問題に総理を辞めた岸や、児玉のようなものがどうして、しゃしゃりでなければならないのか」
その謀議が開かれていた有馬温泉の旅館「池之坊満月城」(68年消失)を白朗は急襲した。白朗は語る。
「われわれは、和服姿の三人だった。同道したのは植芝盛平、それに嫡男の吉祥丸で、二人はいわずと知れた合気道の達人だ。当日の午後、会合場所だという旅館の部屋のドアを問答無用で開けると、六、七人がいっせいに顔を向けた。背広を着た連中が長いテーブルを囲んでいたが、よほどびっくりしたのだろう、茶わんをひっくり返した者もいた。右側に岸信介と児玉誉士夫。その両脇に三浦義一(注2)と矢次一夫(注3)。向かいあって韓国人らしい者が三、四人いた。こういうときは相手の顔ぶれ、顔つきを見ればピーンとくる。ハハーン、やはり竹島のことだなと思った。おれは腹の底から声をあげた。
<なんの相談か! 竹島のことでなにやら企んでいるならば、ここから帰すわけにはいかん!>
岸らはすぐに立ち上がったよ。逃げるように部屋を出ていった。堂々とした相談事であれば、説明すればいいではないか。あっという間に勝負はついたということだな」
白朗に同行していた植芝盛平は、これまでにも何回か触れた合気道の創始者で当時、77歳。前年に紫綬褒章を受章し、ハワイ合気会の招きにより渡米、ハワイ各地で演武指導を行って帰国したあとだった。息子の吉祥丸(のち合気会二代目理事長)は40歳で、血気盛んな活動家だった。
その場にいた岸と児玉、そして三浦の3人はいずれも戦犯免責と引き換えにGHQと密接な協力関係を結んでいた間柄だ。矢次もまた、公職追放が解除された後に政財界や労働界の黒幕として活動し、日本・韓国・台湾を結ぶ反共連盟の強化を目指して動いていた。57年に日韓会談再開のための秘密交渉を行い、58年には個人特使として岸首相の親書を手に訪韓、李承晩大統領と会見するなど日韓の裏ルートとして暗躍していた。
この日韓の密談の場を襲撃し、大見えを切ったというのはいかにも白朗らしい武勇談だ。だが、その後、白朗がどう動いたのか、その詳細についてはわからない。白朗を政界工作に引き込んだ富田健治は63年の総選挙で落選し、政界を引退する。がんに見舞われた池田も東京オリンピック閉会式翌日の64年10月25日に退陣を表明、翌65年8月13日に死去した。日韓問題は佐藤栄作内閣に引き継がれていった。
白朗が弟子たちにこの襲撃のあらましを語ったのは、日韓条約が結ばれ、国交正常化が進んだ71年のこと。この武勇伝の一幕は関浩三著『日本軍の金塊―馬賊王・小日向白朗の戦後秘録』で、いかにも白朗らしい語り口で紹介されている。白朗による懐かしの自慢話として聞き留めておくだけでいいのかもしれないが、日韓の交渉はその後も秘密裏に進められていった。
裏チャンネルが導いた日韓条約
そして日韓基本条約は65年6月、締結される。予備交渉も含め14年かかった。日本の朝鮮半島統治に伴う補償は、韓国政府が一括して受け取り、個人補償義務を負うことで合意した。日本政府は、無償3億ドルと有償2億ドル(低利子借款)を韓国政府に支払ったが、韓国政府は資金の大部分を高速道路建設や送電線などインフラ整備に使い、個人補償に使われた額はごくわずかだった。
この正常化交渉の立役者は大平正芳(後の首相)や岸信介とされてきたが、表の政治家の正面切った外交交渉ではとても達成は無理だったといわれる。日韓双方の首脳との裏交渉を担った児玉は、竹島の主権について棚上げし、双方とも主張しないという「竹島密約」を引き出すことに貢献したという。児玉による気長で柔軟な裏取引とアメリカ情報機関の支援によって暗礁に乗り上げかねなかった難題の解決が可能となった。
これによって朴政権は日本政界に認められ、児玉は朴の恩人となった。日本から巨額の経済援助を引き出した児玉は、韓国政府から勲章を贈られ、韓国の財閥系企業のコンサルタントとなり、国交回復ビジネスから利益を得ていった。
こうした児玉を「利権右翼」の行動として批判的に見つめていた白朗は深い疑念を抱き、「民族右翼」としての意識を高めていた。日韓の間の不透明なやりとりこそがその後も韓国をして執拗に食い下がらせる遠因になっているのではないか。白朗は門下生たちに「民族的自覚」を持つように強調した。
「竹島が大陸棚とつながっていない以上、この観点からいえば日韓は同等といえよう。しかしこの事実によってのみ、その領有を論じようとしてもはじまらない。国土の領有権はあくまでも国家、国民の歴史と民族的自覚によって議論されるべきことだからだ。実効支配云々はそのあとのことだ。
竹島にしても尖閣にしても、日本の領土と海は日本人が守っていかなくてはならない。ここが民族的自覚の問われるところだ。民族的自覚とは、国家の主権と国民の利益を守ることを意味する」
この竹島問題で児玉が仲介したという密約はその後、破られる。韓国にとって竹島は反日のシンボルとなり、韓国大統領が人気回復のカードとして繰り返し振りかざすようになった。
辻政信と白朗
少し話題がそれるが、今年(2021年)5月、元陸軍参謀、辻政信(注4)がいくつかの週刊誌の記事になり、私の目を引いた。「失踪から60年、ラオスに消えた陸軍参謀『辻政信』は池田勇人首相の『密使』だった」(週刊新潮5月25日号)という記事や「謎の失踪から丸60年 元陸軍参謀・辻政信の波瀾万丈人生」(2021年6月8日、NEWSポストセブン)などだ。ノモンハン事件(注5)やマレー上陸作戦などを指揮し、「作戦の神様」と称された陸軍参謀の辻政信が61年4月に視察先のラオスで消息を絶ってちょうど60年目になる。
辻政信が池田首相の密使だったことはよく知られており、新事実は特にない。ただ小日向白朗と同じ時期、国際情勢をめぐって池田内閣の裏舞台で動いていたことにあらためて気づかされた。二人とも毀誉褒貶が激しく、歴史的な評価は定まっていない。また周囲の人々を引き付ける強烈な個性や正義感、さらには軍事的な策略が高く評価されている点でも共通している。二人の人生を交錯させてみると、おもしろい。
白朗は辻よりも2歳10カ月年長になる。辻が陸軍幼年学校、士官学校、陸軍大学を経てエリート軍人として中国大陸から太平洋各地の戦闘にかかわっていく一方、白朗は馬賊の使い走りから頭目に上りつめ、軍の特務機関で活動していく。片や陸軍エリート、片や馬賊あがりのたたき上げの特務機関員だ。
辻が第1次上海事変に初戦として出撃した32年、白朗は「東北抗日救国義勇軍」の総司令に推され、同年9月、英国少女誘拐の「営口事件」で少女を救出して国際的な話題になった。
37年8月、辻は北支那方面軍参謀となるが、同年10月に白朗が馬賊を率いた「興亜挺進軍」が日本軍によって壊滅させられている。辻が深くかかわったノモンハン事件の起きた39年には、白朗は特務機関の指示で上海の暗黒街に乗り込んでいく。中国の戦地で二人は多くの共通する高級軍人たちとの出会いを重ねているが、二人が直に会っていたかどうかはわからない。
敗戦後のその二人の軌跡も実に興味深い。
玉音放送の2日後、バンコクにいた辻(当時大佐)は僧侶に扮して寺での潜伏生活に入る。辻の手記『潜行三千里』によると、進駐してきた英国軍の追及が間近に迫り、辻は国民党特務機関「藍衣社」バンコク事務所に飛び込む。中国国民党と敗戦国日本による戦後工作(東亜連盟)を計画し、蒋介石総統の片腕で「藍衣社」総帥、戴笠との面会を求めてのことだ。数々の困難を乗り越え、メコン川を渡ってラオス・ビエンチャン、ベトナムのハノイ、昆明を経て翌46年3月に重慶入りした。戴笠はこの連載第4回でふれているように、白朗とも深いつながりがあるが、辻が面会する直前に墜落事故死する。「史政信(中国名)」の名で国民党政権の国防部勤務という肩書きを与えられていた辻は、旧日本軍の戦略や共産軍対策などの報告書を上申し、南京軍事法廷では白朗ら日本人戦犯が裁かれていく様子を国民党側から見つめている。
しかし、国民党の敗色が濃厚になり、帰国を決意した辻は48年5月、上海からの引揚げ船に乗り、佐世保に到着。戦犯容疑で英国から懸賞金が掛けられていたが、佐賀県の小城炭鉱で鉱夫をしたり、無住寺に身を潜めたりした。児玉誉士夫のもとにも一時身を寄せている。白朗が台湾経由で帰国した50年6月、辻は白朗とすれ違うように台湾を訪れ、その後、インドシナ半島に渡って国民党のための工作を行っている。
帰国後、戦犯追及を逃れて炭鉱などに身を潜めるなど白朗と同じことをしている。辻は戦犯指定が解除されるや、さきの手記『潜行三千里』を「サンデー毎日」に発表、単行本はベストセラーとなった。52年10月の総選挙で当選し、鳩山一郎政権下の55年9月、中ソ訪問議員団のメンバーとして北京を訪れ、周恩来と会談。57年1月にも中近東14カ国を視察した後、北京に立ち寄って周と再び会談している。その年、白朗は『日本人馬賊王』を刊行し、戦前の中国大陸での活躍が注目を浴びていく。
インドシナの”闇”に消える
台湾の国民党政権や中国本土の共産党とも交流を重ね、インドシナ半島の現地事情にも詳しい国会議員の辻に、池田内閣が裏情報の収集を依頼したのもごく当然のことだ。日米安保体制のレールを固めてきた池田は61年6月、米国ケネディ大統領と会談することになっていたが、その席で話題になるインドシナ半島情勢について十分に知識がなかった。辻を呼び、池田は「ほんとうの姿をみてきてくれないか」と頼み込んだ。宏池会からは大平正芳、宮沢喜一の二人が同席していた(『日本の地下水脈』岩川隆)。日頃から「アジアはアジア人の手で、ベトナムとラオスはホーチミン政府でまとめることだ」と考えていた辻は密使を引き受け、池田はその資金として2度に分けて200万円を手渡した。
辻は61年4月、参議院に40日間の休暇願を提出し、インドシナ半島へ渡航する。ベトナム戦争を回避するためホー・チ・ミン(注6)と会談することが主目的だったといわれるが、身内にもその“重大任務”については告げていなかった。 しかし、空港で見送った知人の目には、その行く手に待ち受けるなにごとかを予感したように辻の背中にわびしい影が消えなかったという。
辻はベトナムのサイゴン(現ホーチミン)、カンボジア・プノンペンからタイ・バンコクへ入る。いずれの地でも現地の大使と会い、インドシナの軍事情報を精力的に収集したあと、ラオス入りする。当時のラオスでは、右派・左派・中道の3勢力の間で内戦が繰り広げられ、辻はラオス北部のジャール平原でソ連・中国共産党の支援を受けていた左派のパテト・ラオ軍に捕えられ、消息を絶ったといわれる。
2005年に機密解除されたCIA極秘文書によると、辻は62年8月8日時点で存命だったという。中国共産党に拉致され中国雲南省に抑留されていること、辻に何らかの宣言をさせて日米関係や日本の東南アジアにおける地位に打撃を与えようと画策していること、中国共産党右派が辻を釈放して日本政府から支援を得ようとしていること――などが記されているが、国民党などからの秘密情報を主としていると見られ、それらの真偽はよくわからない。
このほか、アジアの政治に介入するのを怖れたCIAが暗殺した、ベトナム戦争回避を狙っていたために米軍に射殺された、辻が僧衣をつけていたことや軍歴・経歴からスパイと疑われ、フランス軍将校の関与により処刑されたといった説まで流れた。先の「週刊新潮」の記事で辻の二男、毅さんは、「父を殺したのは軍事産業の手下の者ではないでしょうか。ベトナムでの戦争回避に動いた父が、おそらく邪魔になったのです」と話している。
辻が消息を絶ったインドシナ半島の北部山岳地帯はビルマ(現ミャンマー)、タイ、ラオスに接し、かつて「ゴールデン・トライアングル」(黄金の三角地帯)と呼ばれ、世界最大のケシの産地であり、ヘロインの供給源でもあった。第二次世界大戦後、中国共産軍に追われた国民党の師団が、ビルマ政府の支配が希薄なシャン州ワ族地域に入り、少数民族を率いて「半独立国」を形成し、活動資金源にした。追撃してきた中国共産軍を追い出そうとする土着民シャン族、ビルマ軍、タイ軍との間で激しい闘争が展開されていく。やがて国民党軍で訓練を受けていたシャン族の兵士、クンサが国民党を離れ、麻薬王となる。ベトナム戦争を機に米軍兵士に麻薬を販売したクンサは、米国市場を掌握し、ビルマで独立を夢見たシャン族の軍閥と結託して強力な基盤を築いたといわれる。
辻がどうしてインドシナで消息を絶ったのか。かつてアヘンの流通に深くかかわっていた白朗は、消息を絶った辻政信の影にベトナム戦争と麻薬組織とのつながりを見ていたようでもある。ベトナム戦争とインドシナ情勢のゆくえをめぐって、白朗は門下生たちに「ベトナムの問題には決して深入りしないように。命にかかわることになる」と戒めていたという。
「日本的なドン・キホーテ」として
63年の夏、白朗のもとに1人の作家が訪ねてくる。のちに白朗の話を「事実談」としてまとめ、『馬賊戦記』(66年刊行)を書きあげる朽木寒三氏だ。本名は水口安典。筆名は「くち(口を)きかんぞう」と読める。1925(大正14)年北海道生まれで、東京農工大を卒業。在学中に召集され、中国戦線に従軍し、「馬」を扱う兵士の苦しみを体験したことが『馬賊戦記』を生む下地になったという、著書に『馬賊と女将軍』『馬賊天鬼将軍伝』がある。
その取材、執筆は1年半に及んだ。朽木は、白朗が語る物語を「いわゆる小説家的空想力のとうてい及ばぬものにみちみちている」と、あとがきでこう書いている。
「圧倒的なスケールの大きさ、けた外れの面白さは、『事実談』の魅力でもあるが同時に、それは主人公・小日向白朗の、人間としての魅力なのに違いない。殊に、かれが絶体絶命の障害や困難に出合ったときの反応は、進退ともに常にひとの意表をつき、大胆と細心の入りまじった心理と、決断と行動は、逆にわれら平凡な日常的人間の心にも、共鳴と共感をよぶのはふしぎなほどであった」
66年に刊行されるや、馬賊物の傑作として爆発的な人気を集め、ロングセラーになった。この小説の面白さは、白朗による「事実談の魅力」にもあるが、これを壮大なロマンとして仕上げたのは朽木寒三の作家的力量によるものだ。この本の解説で芥川賞作家、八木義徳が「たとえどんなすばらしい記憶力を持った人間でも、自分のすべてを語り尽くせるものではない」と語るように、コマ切れのように語られる話し手(白朗)の記憶の集積を整理し直し、記憶の欠落した部分を想像によって補いながら、物語としてつくりあげなければならないからだ。
八木によると、朽木の取材ノートは、一冊60ページの大学ノートが40冊。それに細かいペン字がぎっしりと詰まっていた。これをそのまま400字詰め原稿用紙に書き写したら、おそらく9000枚は超える。それを1640枚に圧縮したことで、小日向白朗を主人公とした伝奇的ロマンの物語が強烈な迫力をもって生まれた。
この物語は、日本の中国侵略という政治史的視点を主軸にして書けたかもしれない。あるいは、主人公を結果的には日本軍部の謀略に踊らされた一個の悲喜劇的人物として描くこともできる。しかし、朽木は「主人公を一個の浪漫的人物の典型として描く視点」を選び、朽木がその視点を選んだのは、「現代日本にたいする一種の皮肉(アイロニー)であったかもしれない」と八木は述べている。
「現代社会は管理社会であるという。ここからは浪漫的人間は生まれない。また現代日本は、豊かな物質生活のなかで、かえって野放図な夢を喪失している時代でもあるという。ここからは浪漫的人間は生まれない。
浪漫的人間とは、夢想のなかに生きる人間である。夢想を行動化する人間である。われわれがあのドン・キホーテを愛するのは、彼が浪漫的人間の典型であるからではないか。とすれば、わが朽木寒三も、小日向白朗という実在の一人物を借りて、少年の日の憧憬である日本的なドン・キホーテを創出しようと試みたのではないか」
この「日本的なドン・キホーテ」の物語に白朗自身、すこぶる満足したようである。白朗は「私が、自分の大陸生活の全貌を初めて人に解き明かしたものである。朽木君はそれを些末な対話とか描写に多少の潤色をほどこしただけで、殆んど忠実に記述している」と序文を添えている。
その後、朽木は引き続き多くの馬賊物を書き続けるが、白朗の戦後の軌跡について「あまりにも謎が多い」としてほとんど触れることはなかった。2019年5月22日亡くなり、93歳だった。
白朗はベストセラー『馬賊戦記』のロマンあふれる主人公の元馬賊王として自らの体験談を各雑誌などで積極的に語り続ける。やがて戦前の中国をよく知る右翼的な人物として広く知られるようになり、米国政府に通じたルートから訪米への誘いがかけられた。
「米国で中国とアジア情勢について教えていただけませんか」
1969年4月のこと。中国との関係正常化に向けて密かに打開の道を探っていたニクソン政権周辺からの打診だ。中国共産党と、台湾の国民党政権の思惑について白朗の意見を聴きたいというのである。キッシンジャー米国大統領補佐官が訪中(71年7月)し、世界を驚かせる2年余り前のことである。
【脚注】
注1 朴正熙(パク・チョンヒ、1917年~1979年)韓国の大統領。軍事クーデターで国家再建最高会議議長に就任し、1963年から1979年まで大統領を務めた。「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を実現させる一方で、「独裁者」との批判的評価も受け、暗殺された。朴槿恵・前大統領の実父。
注2 三浦義一(みうら・ぎいち、1898年~1971年)大分県出身。日本の右翼。フィクサー。日本銀行総裁・一万田尚登の親戚筋の立場を利用して、戦時中に日本金銀運営会に入り込み、その組織と利権を掌握した。父の三浦数平は大分市長、衆議院議員を務めた。終戦後、東條英機の家族の世話をする。
注3 矢次一夫(やつぎ・かずお、1899年~1983年)佐賀県生まれ。人夫、沖仲仕など放浪生活を経験し、一時は北一輝の食客に。大争議の調停にあたり、無産運動家から軍人に至る幅広い人脈をつかみ、国策研究会をつくる。韓国・台湾の政財界とのパイプ役として力を発揮した。
注4 辻政信(つじ・まさのぶ、1902年~1961年以降消息不明)陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍大佐。ノモンハン事件、太平洋戦争中のマレー作戦、ポートモレスビー作戦、ガダルカナル島の戦いなどを参謀として指導。衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)を歴任し、1968年に死亡宣告。
注5 ノモンハン事件。1939(昭和14)年5月~9月、満州国(中国東北部)とモンゴル人民共和国の国境、ノモンハンで勃発した軍事衝突事件。日本とモンゴルと相互援助協定を結んでいたソ連がそれぞれ軍を投入し、大規模な戦闘に発展した。
注6 ホー・チ・ミン(1890年~1969年)ベトナムの革命家、政治家。植民地時代からベトナム戦争までのベトナム革命を指導した建国の父。初代ベトナム民主共和国主席、ベトナム労働党中央委員会主席。
いけだ・ともたか
一般社団法人大阪自由大学理事長 1949年熊本県生まれ。早稲田大学政経学部卒。毎日新聞入社。阪神支局、大阪社会部、学芸部副部長、社会部編集委員などを経て論説委員(大阪在勤、余録など担当)。2008年~10年大阪市教育委員長。著に『読書と教育―戦中派ライブラリアン棚町知彌の軌跡』(現代書館)、『ほんの昨日のこと─余録抄2001~2009』(みずのわ出版)、『団塊の<青い鳥>』(現代書館)、「日本人の死に方・考」(実業之日本社)など。本誌6号に「辺境から歴史見つめてー沖浦和光追想」の長大論考を寄稿。
コラム
- ある視角/欧州―極右・右派ポピュリストの動向龍谷大学教授・松尾 秀哉
- 深層/失敗の本質は何か―経済か、政治か、思想か市民セクター政策機構理事・
宮崎 徹 - 沖縄発/沖縄併合50年へ詩人・批評家・高良 勉
- 百葉箱/小日向白朗の謎(第7回)ジャーナリスト・池田 知隆
- 児童福祉の現場から/社会的養護と子どもたちの教育保障保育士・林 栄理子
- 児童福祉の現場から/性教育・命の授業の必要性看護師・あかね 渉