連載●池明観日記─第16回

韓国の現代史とは何か―終末に向けての政治ノート

池 明観 (チ・ミョンクヮン)

≫ディケンズのアメリカ観≪

トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』の序文の最後の一言が深い意味をもって迫ってきた。日本語訳で読み終えて英語訳を見るとその意味がもっと鮮明に浮かんできた。「彼らが明日のことにかまけるのに対して、私は思いを未来に馳せたかったのである」。トクヴィルはこの直前で「私はこれを著わすにあたって、いかなる党派に仕えるつもりもなく、どんな党派と闘う気もなかった」といった。これはとても重要な言葉ではないか。トクヴィルは歴史家であり、政治家であった。彼はフランスの将来、アメリカと人類の未来に思いを馳せていた。

政治的党派によって現実を解釈するという考えに満ちているわが国の知的風土に嫌悪を感じながら私はその言葉を反芻している。今アメリカでは大統選のためのキャンペーンの真っ最中であるが、ここの落ち着いた雰囲気についてどう説明すべきかと考える。選挙など忘れてしまったようなこの静かな雰囲気を見ながら民主主義的政治風土はこうでなければならないのではなかろうかと思っている。

1960年代の騒然としたアメリカの選挙雰囲気を思い出さざるをえない。その時は世界的に異常な時代であったのだろう。今度のアメリカの大統領選挙は10月であり、韓国の大統領選挙は12月であるが、アメリカの場合は上院議員選挙と地方議員選挙も合わせて実施するというという。韓国では野党であれば選挙のために今までの国政を全て否定すべく 青瓦台(注:大統領官邸)の監査まで実施すると叫んでいるではないか。

自分たちのいわゆる政治行為はあらゆる美辞麗句をもって飾り立てながらである。今の大統領と与党の朴槿恵候補とはそれほどいい関係ではないといわれているので一層そういう方向に走っている模様である。できるだけ品位のある雰囲気の中で選挙を行うという政治風土はわが国ではいつごろになると出来上がるというのであろうか。私は正当であり、あなたは不正であるとする政治の雰囲気。選挙となればこの国の恥部をあらわにするような気がしてならない。そのために選挙自体が品位がないだけではなく選挙で選ばれる人も敗れる人も傷だらけになるのではないか。

政治の場は汚れに汚れ切って騒々しい限りである。選出される人はそのような空気の中で傷つき、その否定的なイメージは任期の間中消えることがない。そのために大統領は醜い人間として当選し、ただ手中にした現実的な力で5年間を保つというのであろうか(注:韓国では大統領は任期5年の単任制である)。こういう風土のためにまともな人は政治から遠ざかるといわれている。そこで政治の世界はいっそう濁ってきて、理念のない人々の利害関係を中心とした争いの場となるのだ。独立と愛国の場であるといわれた政治が、このように転落していくのをどのように食い止めることができるのであろうか。(2012年10月5日)

 

思想史の課題は歴史と共に変わっていくものであるといわねばなるまい。こういうことを今までなぜあまり考えなかったのであろうか。だから古い人は古い考えに捉われていて若い世代と対話することができないといわれるのであろう。本当に年寄りになったものだ。

隅谷三喜男教授の孫娘が訪ねてきたので話し合っているうちに思い出したことだ。彼女は環境問題について勉強がしたいという。私は環境問題とは人間生活と人間を取り巻く自然環境との問題であるのだがら、それは先進国も後進国もなく、どこでも同一の問題ではなかろうかと思った。それは現代のどこでも問題にならざるをえない普遍的な問題ではなかろうか。それは東京の問題でもあり、いま水力発電所のことでもめているネパールの問題でもあるわけではないか。だからそれはライシャワーが言っていた「身分志向性」「目標志向性」をあげて中国と日本の近代化を比較して先進国とか後進国とかいっていた時代の思想史的課題とは異なるものといわねばなるまい。

環境問題を中心に人間生活について考えるとすれば、それは伝統的に異なる文化背景を取り上げて考えるのではなく現代において起こっている自然破壊という共通の問題に取り組むことであるといわねばなるまい。それはややもすれば先進的、後進的と差別しようとした近代化の時代とは違う現代的な普遍的課題であるというべきではなかろうか。

以前はその社会がもっている異質性を探し出して問題を立てたとすれば、今は同質性を軸に人類的な社会問題を探し出してみんなが一緒に解決を模索しているといえるかもしれない。たとえ伝統的に社会が異なり、貧富の差が甚だしいといってもである。日本、中国、韓国の社会を比較するといっても問題になるのは先進・後進のようなものではなく、現代工業という面において技術力とか資本力、そしてその生産性などではなかろうか。それに伴って開発と環境問題も当然起こってくるであろう。

このような意味においてもかつての近代化論議のようなものはその意味を失って久しいといわねばならない。それは、1960年代、70年代の議論であり、多分にイデオロギー的なものであったというべきであろう。私もちょうどそのような時代の一人の論客であったといえるかもしれない。日本の丸山真男のような学者もそうであり、その時はそのような論理で日本がアジアの他の国々に比べて優位を誇っていた時代であったのではないか。

思想史的研究がただその社会の文化とか特異性を説明しようとしたとすればどうであろうか。それが人間的または国際的理解を増進してくれるものであってほしい。個人が違うように歴史を異にする社会は人間関係を異にするであろう。社会の先進性・後進性ではなく、ただおのおのの社会の特異性を説明しながら、北東アジアの文化圏の将来のための相互理解に貢献できればと思うのである。思想史的研究の脱イデオロギー的姿勢が改めて要請されているといえよう。(2012年10月16日)

 

日本語では『アメリカ紀行』となっているディケンズの『American Notes』(1842 年)を読んでいる。トクヴィルとは違ってアメリカに対してとても批判的である。アメリカの制度を見るよりはアメリカの現実を見ているからといえるかもしれない。ディケンズはこの本の第3章においてアメリカの慈善事業、障害児の施設などがいかに優れているかを詳細に紹介した。イギリスに比べてとても優れた施設で、多くの実験で成功を収めていることを詳しく紹介した。

しかし南部に向かうと多くの悲惨な情景を目にせざるをえなかった。黒人奴隷の母と子どもたちが父を残したまま泣きながら売られていく。「子供たちは道中ずっと泣き続け、母親は悲惨そのものといった有様だった」と書きながら「同じ汽車に乗っている〈生命〉〈自由〉〈幸福の追求〉の擁護者」といわれる白人がこの奴隷夫人と子供たちの主人であることを嘆いたのであった。そして「小屋のドアの前の地面で犬や豚と一緒に転げまわっている黒人の子供たちである」と書いた。

ワシントンというところは「各州の相対立する嫉妬と利害を避ける手段」として選択された場所であって「噛みタバコ」を吹き飛ばしたり痰を吐きだすので清潔なところを探すのが難しかった。自己利益だけを求める群で国会は混乱を極めていた。両院の外では、「〈彼は何を言ったか〉ではなく、〈彼はどのくらい長く話したか〉」が問題であったという。もともと民主主義とはそういうところから成長するものかと考えて、韓国の民主主義に期待したほどであった。ほんとうに民主主義とはそういった道を経て奇跡のように成長するものであろうか。

『池明観自伝 境界線を超える旅』(岩波書店、2005)

プレデリックバーグに至って荒廃した土地をながめたディケンズは実に冷たい皮肉を口にせざるをえなかった。「一帯の外観は荒廃として無味乾燥だったが、この恐ろしい奴隷制度が持つ呪いの一つが降りかかったものを見出して心から喜んだ」。彼はここで実にはっきりと「奴隷制度を育んでいるほかの全ての土地と同じように、ここでも破滅と退廃の空気がみなぎっている……」といった。奴隷制度の下では人間も自然も荒廃し廃墟と化するというのであった。

このように読み進めながらフランス人トクヴィルとイギリス人ディケンズを対照にして考えざるをえなかった。トクヴィルはフランス革命後の反革命の渦巻の中でアメリカにおける新しい政治の成功に期待をかけていたためであっただろうか。トクヴィルがアメリカを初めて訪ねたのは1831年であったし、ディケンズのそれはその11年後の1842 年であった。トクヴィルは彼の最初のアメリカ紀行を終えて、『アメリカのデモクラシー』第1巻第1部第8 章の終りに次のように記録したではないか。

「人間が自分自身以外に敵を持たないですむ新世界とは、なんと素晴らしい場所であろうか。幸福で自由であるために、人はただこれを望めばよいのである」

これは国内外的に常に敵に囲まれて、彼らとの戦いに明け暮れしなければならなかったトクヴィルとしては避けることのできない感懐であったであろう。

ディケンズのアメリカ紀行においてアメリカに対する暗い描写を取り上げようとすれば実に数多いといわねばなるまい。二人のアメリカ紀行文をもっとたがいに比べてみたい。自分が抱いている先入観によってそのように他を見る目が異なってくる。ひとをながめるということは私を延長して見ることであると言わざるを得ない。私自身がアメリカを見てきた目もそうであったのではなかったか。私の政治的な考えによって、それは時には晴れたり、曇ったりして見えたであろう。ここに人間の目の限界があり、またそれが独自性でもあるといえるのではなかろうか。これに比べて日本に関する東洋や西洋の紀行文はどのように書かれてきただろうかと考えるようになる。ディケンズはその紀行文17章において「奴隷制度」を論じてその章を次のような言葉で結んだ。

「……その鋭い切っ先と刃でもって、アメリカの〈自由〉は奴隷たちを叩き切り、切り刻むのだ。そしてその気晴らしが果たせないとなると、その〈自由〉の息子たちはそれらをもっといい用途に、つまりお互い同士に向け合うのだ」

このことは1861 年に起こってくる南北戦争に対する予言であったといえるかもしれない。南北戦争はそのような大きな非難のためにも起こらざるをえなかったといえようか。アメリカはそのような奴隷制度の後遺症を今日もまだ患い続けているといえようか。(2012年11 月1日)

 

≫30年単位の韓国現代史≪

ディケンズの『アメリカ紀行』を読み終えてからは、別に読みたい本を持っていないので、東京に岩波文庫をあれこれ送ってくれるようにと頼んでおいてからミネソタ大学図書館の東洋文庫に行ってみた。日中韓の本を別々にしないで主題別にいっしょに配列しているのが面白かった。これから東洋について勉強するとすれば日中韓を一つにして勉強しなければならないということであろう。

大学図書館には西欧の本を翻訳したものがほとんどないので、島崎藤村全集第3 巻と第4 卷を借りてきた。まず第3 巻から『春』を読み出したのであるが、この作品は藤村が36歳の時即ち1907年の作品であるが、東京朝日新聞に連載された小説である。日本の新文学は彼がいっている通り明治20年代に始められたものであるならば、1880 年代末から90 年代初めではないか。1907年といえば韓国では新文学がようやく始まる頃である。『少年』に崔南善(チェ・ナムソン)の詩「海から少年に」が現れたのが1908 年であるから、藤村の『春』はこれに先立つこと1年である。

1897年に始まる明治30年においても日本文学において西欧文学とは遥か遠くで営まれている見慣れないものであったという。イプセンの戯曲などもごく少数の研究者の間においてのみ知られている程度であった。『春』の主人公岸本の周辺の人物たちが使っていたという文章は文語であった。このように日本の新文学は文語で始められたものであろうか。詩人たちの作品では文語の詩が1945年の終戦の時まで続いたのではないか。韓国の新文学ではほとんど最初から文語とは訣別したものであった。そこで従来の韻文詩調(シジョ)は衰退の道を歩まざるをえなかった。このように日韓両国の新文学の起源と言語問題等を比較しながら論じてみる必要があるのではなかろうか。

そして藤村が彼の文学において自然主義を掲げて時代性を脱色した政治回避の道を歩んだことも、日本の近代文学に現れた重要な傾向ではなかっただろうか。マルクス主義の文学を除いては日本の伝統文学も近代文学もほとんどがそうであった。戦争となって日本文学の主流は政治に巻き込まれざるをえなかったといえよう。韓国の文学の場合は最初から政治と取り組んで暗中模索しなければならなかった。日本の近代文学の主流には李光洙(イ・グァンス)の『無情』(1917 年)に現れた政治的背景のようなものはなかったのではないか。李人植(イ・インジク)の新小説『血の涙』は1906年の作品で文語の作品であるといえよう。このような開化期の日韓の文化を比較研究してみたいと思う。

藤村は『春』という小説の中に西欧の詩を取り入れながらその原文までも引用した。彼は身辺小説のような文章を続けたが、時にはそれも行き詰ったのか、不必要な内容で穴埋めしたようなところもあるような気がした。第3 巻に収録されている短編もそのような水準をあまり越えていないように思えた。(2012 年11月8 日)

 

この頃はどうしてか終戦以降の左翼の問題、そして北と南の問題を度々頭に浮かべるようになる。それを回避して書いてきた戦後史は正しい歴史ではないではないかと思えてならない。私も日本語で『韓国文化史』『韓国近現代史』を書いてきたが、北がソ連軍によって占領され南がアメリカ軍政の下に入っていた終戦直後の情勢についてわれわれはあまり掘り下げていないような気がしてならない。歴史とは実際のところ自分の考えに従って事がらを取捨選択して羅列したものではないかという考えを禁じ得ない。

1946年10月 1日には大邱(テグ)で10.1暴動事件があった。1979年10月16、17 日には釜馬事件(注:南の釜山と馬山における軍事政権反対闘争)があって朴正熙政権は倒れる。終戦後、慶北(注:慶尚北道)一帯と大邱では社会主義同調勢力が強かった。しかし、1961 年以降の朴正熙統治時代以降は慶北は庇護勢力として彼にかかえこまれてしまった。そのためにその地方における反政府勢力は非常に弱くなった。一方慶南(注:慶尚南道)と釜山地域は大邱地域とは多少異なっていたようである。そのために朴正熙の晩年に慶北・大邱は比較的平穏であり、慶南・釜山は大きく反朴運動に動員されたようである。朴正熙の暗殺もこれと関係があるといえよう。それほど韓国の近代史には地方色がしみ込んでいる。

このような面から今日の慶北の朴槿恵と慶南の釜山地域における文在寅と安哲秀との対立があると考えることができるのではないか。韓国の政治版図、その対立の構図がそのように縮小されたといえよう。大統領選は彼らが他の地域からの支持をどれほど勝ちとるかによって決まるわけである。盧武鉉の時代(2003年~2008年)にも慶南勢力は全羅道の湖南勢力と手を握ったではないか。今度は、文在寅と安哲秀は最終的には候補単一化にこぎつけるだろう。

終戦後、李承晩政権(1948年~1960年)は南の方で盛んであった左翼勢力を抑えるために旧親日勢力と手を結んだではないか。1987 年の民主化以降においても、東南部の慶尚道では朴正熙は肯定しながらも李承晩は否定しているといわれてきた。彼らは1945年の終戦直後、その頃も李承晩政府に参与することはためらいがちであった。そのために1950年前後には慶尚道出身ではない、北出身の人ですらその地方で国会議員選挙に出馬したほどであった。南全体において南の政権に参与するのを肯定的に考えるようになったのは、大体において朝鮮戦争後しばらくしてからであったと考えなければなるまい。そしてだんだんと政府と国会において東南部の嶺南勢力と西南部の湖南勢力が大きな座を占めてきた。そして嶺南勢力が湖南勢力を押さえて圧倒的になるのは朴正熙統治下であったといわねばなるまい。

終戦後、韓国における政治勢力は北から越南してきた勢力が優位を占めていた時代から南部勢力優位へと移り、そして嶺南勢力がほとんど独占するようになったかと思うと、その中でも慶北と慶南が対立するようになってきた。南の勢力は漸次李承晩の主張した単独政府路線(注:北を除いた南だけの単独政府を主張した路線)を政治的現実として受け入れたというべきであろう。

韓国の南部では朝鮮戦争初期においては南の政府に対して模様眺め的姿勢が優勢であったといえよう。そのために南の山々における北寄りのゲリラ活動も活発であった。しかしその多くが李承晩時代の反共一辺倒的政府によって犠牲にされた。それで私は今日においてもアメリカの影響を排除した統一勢力云々の政治を掲げる人々の間には南の反共勢力によって犠牲にされた人々と歴史的に何らかの関連がある人が多いのではなかろうかという考えを拭い去ることが出来ないでいる。

若い頃大学において私達を北の政治を避けて南下した者だと言って白眼視していた勢力、そして朝鮮戦争の時に間もなく北による統一が到来すると公言していた人々を想起せざるをえない。その後彼らの多くは南の体制に身を寄せるのだが、それでも北から南下した人といえば忌避していた人々もいた。北が彼らの考えている民族主義を標榜していると考えた過ぎし日に対する郷愁が残っていたためであろうか。朝鮮戦争後、だんだんと南の人々が積極的に政府に参加しながら、北から南下した人々は追放されたといおうか。それで南下した人々は1960年代に入って渡米の道が開かれるとそれほど思い残すこともなくアメリカ移民という道を選んだ。彼らは官庁からも経済界からもだんだんと追放されたのであった。

日本統治時代に抵抗したということを掲げて国会議員になろうとした時代は過ぎ去ってしまった。そのような人々もそのような家系を掲げる時代もすべて過ぎ去った歴史であり、今は金と人間関係を適切に動員できる人々がのさばるような時代であるといわねばならない。愛国運動をした過去があると言っても、民主化運動をしたということがあっても、選挙戦となれば語るというよりはかえってそれを隠そうとする時代になった。このような変化といおうか、そういった深層の歴史、影の歴史を掘り起こして考える歴史をしたためるべきではなかろうか。

そのために私が書いた近現代史というのは年表的なものであり、胸に迫ってくるもののないものとして私自身否定したくなる。李承晩に対しては否定的な視線を投げつけながら、朴正熙に対してはそのような立場から救いだしてみようとする民心がどうして存在するのかと思わざるをえないような時がある。彼に対する庇護勢力が今日もその娘朴槿恵を支えているではないか。それは確かに否定されるべき勢力であるのにと思いながら今度の大統領選挙こそ嶺南勢力の中における北と南の対立ではないかという思いで眺めている。二人の慶尚道の候補がそれ以外の地域に向かって訴えるのである。はたしてどちらが成功するだろうかと注目している。

そのような多分に人間的な感情を超えて歴史は進行するのにと思いながらも現実に目をこらしている。北であろうと南であろうと、この国民は終戦後与えられた現実に反発しながら北ではソ連の力に、南ではアメリカの力に反発しながら虚妄ともいうべき歴史を描いてきた。それでも時にはそのような現実を超えて北出身の私が南出身の友人と語り合ったこともあったのにと過ぎ去った日々に対する回想に浸ってみるのだ。(2012 年11月10 日)

 

私は盧武鉉(ノ・ムヒョン)執権の時代に、あまりにもあきれた政権だという思いに駆られて責任内閣制を思ったことがあった。しかしこの頃は再び大統領優位の体制を考えている。大統領優位の体制でなければ多少でも改革を国民に約束できないのではないかと思うのである。もちろん今日においては革命とは不可能であり、漸進的な成長のみが可能であると考える。革命が虚妄な夢であるというのは今の北の状況があまりにもまざまざと見せてくれているのではなかろうか。それはソ連の革命が失敗しながらわれわれに示してくれた模様を再生産して見せているといおうか、一層悪化した姿で見せてくれているようだ。

息の長い民主主義の道しかないのだ、急成長、急変化とは人間の夢に過ぎない。すべての生命においてそうであるように、人間社会とは一つの生命体であるから、それ以外の道などはありえないのであろう。 

韓国の現代史とは30年単位で考えることができるような気がする。終戦から朴正煕の死までの30年間は民主主義のない日本統治の残滓の中で喘いでいた時期であった。そこには6・25の朝鮮戦争もあった。その後今日に至るまで30年間は軍政とその残滓の下で喘いできた時期であり、今はようやく民主主義へと踏み出した時代ではないか。何よりも全面的な不正選挙など独裁の残滓はなくなったと見るべきであろう。朴正煕の娘が現れるということは、すぎ去った時代の最後の反動ではなかろうかと思うのである。それは歴史の急変を求めて失敗したそれこそ民主勢力が生み出した反動ではなかろうかと思うのである。

これからは北東アジアの時代といえるかと思うのだが、このような道はヨーロッパも歩んできた道ではなかろうか。今ヨーロッパのEUも危機に直面しているといわれるようではあるが、歴史の進歩のために訪れてくる危機、解決して前進すれば危機が訪れる。これが歴史というものではないか。そのようなサイクルを歴史は歩んで行くものだ。

これからの北東アジアの時代においては韓国の政治的現実の方が中国や日本より進歩的な道をたどるといえるのではなかろう。中国の立ち遅れた政治形態と日本の保守的な政治形態を考える。しかし日本との友好関係は韓国にとってはとても大事なことであろう。民主主義という点からしてもそうであるが、何よりもアメリカと中国との関係からしても韓国は日本ともっとも近い関係を保たねばならないし、日本と接触する方法を慎重に考えねばなるまい。

独島(竹島)問題は騒ぎ立てないで静かに見守りながら、歴史的に自然と定着するように図ればいいではないか。韓国と日本の国民的な情緒からしても、それを今解決することはできないであろう。わが方の主張のみを声高く叫ぶのではなく、相手の立場にも耳を傾けることができてこそ現代政治であると思うのだが、民族主義的な声を張り上げて国内政治の安定をはかるというのが政府の立場であろう。独島問題も日中間の尖閣諸島の問題も国際的共同所有を認めてこそ知恵ある時代であると私はひそかに考えている。それでこそ北東アジア共同体の時代であるといえるのではなかろうかと。(2012年11月13日)

池明観(チ・ミョンクワン)

1924年平安北道定州(現北朝鮮)生まれ。ソウル大学で宗教哲学を専攻。朴正煕政権下で言論面から独裁に抵抗した月刊誌『思想界』編集主幹をつとめた。1972年来日。74年から東京女子大客員教授、その後同大現代文化学部教授をつとめるかたわら、『韓国からの通信』を執筆。93年に韓国に帰国し、翰林大学日本学研究所所長をつとめる。98年から金大中政権の下で韓日文化交流の礎を築く。主要著作『TK生の時代と「いま」―東アジアの平和と共存への道』(一葉社)、『韓国と韓国人―哲学者の歴史文化ノート』(アドニス書房)、『池明観自伝―境界線を超える旅』(岩波書店)、『韓国現代史―1905年から現代まで』『韓国文化史』(いずれも明石書店)、『「韓国からの通信」の時代―「危機の15年」を日韓のジャーナリズムはいかに戦ったか』(影書房)

池明観さん日記連載にあたって 現代の理論編集委員会

この連載「韓国の現代史とは何か―終末に向けての政治ノート」は、池明観さんが2008年から2014年にかけて綴ったものです。TK生の筆名で池明観さんが1970年代~80年年代に書いた『韓国からの通信』は雑誌『世界』(岩波書店)に長期連載され、日本社会に大きな衝撃と影響を与えました。このノートは、折々の政治・社会情勢を片方に見ながら、他方でその時々、読みついだ文学作品、あるいは政治・歴史にかかわる書籍・論文を参照しながら、韓国の歴史や民主化、北朝鮮問題、東アジア共同体の可能性などを欧米の歴史・政治と比較しながら考察を加えています。

今回縁あって、本誌『現代の理論』は、著者・池明観さんからこの原稿の公表・出版についての依頼を受けました。第12号から連載記事として公開しております。同時に出版の可能性を追求しています。この原稿の出版について関心のある出版社は、編集委員会までご連絡ください。

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