特集 ●第4の権力―メディアが問われる
せこく、いじましく、こざかしい政治の不幸
愚かな政治家による愚民化政策がもたらす棄民の悲惨
神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長 橘川 俊忠
空費された一年半の時間
コロナウィルス感染症が国内に広がり始めてから、一年半の時間が過ぎた。
全世界に広がったコロナウィルスは、次々と変異を重ね、感染者は二億人を越えて、今なお日に数十万人規模で増加し、蔓延の勢いは依然として衰えていない。また、死者は、各国政府の発表を集計すると約四百三十万を数えているが、その集計の方法には問題があり、実際にはこの二倍、三倍にも上るとの推定もある。
この間、日本では、感染者も重症者、死者も、欧米諸国と比べてかなり少ない事態が続いた。その科学的根拠は、確定的には何も明らかではないにもかかわらず、そのことが強力で徹底的な感染防止対策をとることを妨げる要因として働いたように見える。しかし、一年が過ぎ、三波、四波と感染の波が襲ってくると、感染者数をグラフにした波の高さは次第に高さを増し、現在の第五波では感染者の数は一日に一万人を越え、増加する勢いは収まるところをしらない有様である。世界各国と比べてみると、特に蔓延のひどかったアメリカ合州国、ブラジル、インドなどはともかく、全体的に見ればけっして少ないとは言えない水準に達してしまっている。
政府は、感染が拡大するたびに蔓延防止措置の適用や緊急事態宣言の発出などの手を打っては見るものの、その効果はだんだん低下し、オリンピックの強行開催や変異株の抑え込みに失敗したこともあって感染の拡大は爆発的と形容するしかない状況に陥りつつある。そうした感染状況は、急速に医療の逼迫を招き、さらに医療崩壊による犠牲者の増大を招くことになる。
こうした医療危機寸前の状況下で、政府は、突然、感染者の入院治療についての方針を転換すると発表した。入院治療を受けられるのは、重症者および重症化リスクの高い患者に限り、中等症以下は原則自宅療養にするというのである。政府は、この方針を、医療崩壊を防ぎ、国民の命を守るために先手を打ったものだと強弁したが、世論とくに医療現場からの厳しい批判にさらされ、撤回にも等しいほどの修正を加え、一応、中等症の入院を認めるにいたった。
この政府方針は、感染症対策のために政府が設置した分科会にも諮っていないという。また、自宅療養を最低限可能とするための、見守り、緊急連絡体制も、民間クリニックによる訪問加療システムも、必要な場合の保健所による迅速な入院方法も定めておらず、そのシステム構築のための医師会等との連絡調整もこれから取り組むというお粗末な内容であること等が、次々と明らかになった。その上、重症、中等症、軽症の認定基準も全国的に統一されておらず、一般の感染患者の実感とも甚だしい乖離があるという。
このままの政府の対応では、多くの感染者の治療機会を奪い、命の危険にさらすことになるのは火を見るよりも明らかであろう。これには、感染の「予想を上回る」急速な拡大に慌てて対応しようとした結果であろうとか、政府が、これまでと同じように「根拠のない楽観論」にとらわれていたためであろうという声もあるが、このような対応には、もっと根深い問題が潜んでいるのではないかと思われてならない。
これまで、一年半、世界中で最悪の事態を想定させるような様々な事態が発生し、国内的にもそうした事態に対する対応に備えるべきであるという提言もなされてきた。政府も、それを知らないはずはない。しかし、ここに来て、このていたらくである。「予想を上回る」とか、「想定外」という言葉が通用するはずはない。以下、政府のこれまでのコロナウィルス感染症への対応の経過をたどって、何故一年半もの時間を空費する事になったのかという問題を掘り下げてみよう。
「せこく、いじましく、こざかしい」と評するしかない
中国武漢でコロナウィルス感染症が猛威を振るい始めた頃、問題になったのは武漢在住の日本人をどのように帰還させるかということであった。政府が帰国希望者用のチャーター機を武漢に派遣したのは、二〇二〇年一月末であり、武漢の状況は深刻の度を加えていた。遅きに失した可能性も否定できないが、何よりも帰国希望者には、搭乗費及び国内隔離期間の滞在費の負担を求め、隔離施設も国内移動の手段も明確に確保されていなかった。このような緊急時に費用負担を求めるというのは、その負担が困難な日本国民には危険を甘受せよということにしかならないではないかという批判を受けて、やっと改めたというせこさであった。
さらに、二月にはクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号で感染が発生した。その場合にも、感染防止の観点からは重大な問題があるにもかかわらず、数千人の乗客・乗員を船内に閉じ込め、クルーズ船内での感染を拡大するという失態を演じた。検査し、感染者を探し出し、隔離することによって感染経路を遮断するという基本的方針が徹底されなかった。費用と人材を初期段階で大量に動員する準備も、「度胸」も日本政府にはなかったのである。
さらに、感染が拡大すると医療資材の不足が露呈してきた。感染防御のためのマスク、防護服、消毒用アルコールなどの不足は病院のみならず、買い占め、価格の高騰など市民生活のレベルでも深刻な問題となった。政府は、四月初め、国民一人当たり二枚の布製マスクを配布することを発表した。これは、不安心理に駆られた国民の批判の矛先が政府に向かわないようにと、首相側近の官僚が発想した事らしい。そのマスクは子供用かと思われるほどの大きさで、それを発想した者のいじましさ、こざかしさを象徴するばかりで国際的にも失笑を買う始末であった。さらに、実際に配布され始めると不良品が頻出し、その調達を担当した業者のいかがわしさも暴露された。
パニック寸前の状況になって、政府は特別定額給付金の支給を決め、国民一人当たり十万円を配ることにした。これは、パニックを防ぎ、事態の深刻さを自覚させるという点ではたしかに効果をあげた。これを機会に、ベーシックインカムへの関心が高まり、パンデミックの被害を最も受けやすい格差社会の弱者をどのように救済するかという問題への取り組みが強化されるかに見えた。
しかし、問題はそういう方向に向かって深化されず、感染症対策か経済活動の再開かという方向に誘導されていった。あたかも、感染症対策と経済活動再開とが、二者択一であるかのように論じられることも少なくなかった。そういう雰囲気の中で政府が打ち出したのが、いわゆるゴーツーキャンペーンである。旅行をする者にはゴーツートラベル、食事をする者にはゴーツーイートで破格の料金割引をするという制度である。政府は、これによって緊急事態宣言で打撃を受けた旅行業・宿泊業・飲食業を援助し、利用する国民にも割引の利益を享受してもらうという一石二鳥の政策だと自画自賛していた。
しかし、この制度は、国民の「儲かった」「得した」感を刺激し、普段は泊まれないような高級ホテル・旅館に泊まり、高額な旨いものでも食ってみるかという、いささかいじましい感覚を刺激し、大事な問題から目を逸らさせる効果をもった。したがって、ゴーツーの実施に合わせるかのように感染が増加しても、人々の動きを抑制することができず、昨年秋から冬にかけての第三波の到来に繋がってしまったのである。
その頃、政府(この場合、閣僚たる政治家・官僚)や政府寄りの「学識経験者」と称する人々からよく聞かれたのが、「ゴーツーが感染を拡大しているというエビデンスはない」という言葉であった。たしかに、ゴーツーが感染を拡大しているということを実証することは極めて難しい。コロナウィルスは目に見えるものではないし、感染は事後にしか分からないし、タイムラグも大きい。だから三密を回避だの、ソーシャルディスタンスをとれだの、マスク着用・手洗い励行という対策しか対策はないのである。エビデンスがどのようなものなのかも分からないにもかかわらず、それがないというのは議論自体が成立しない。せいぜい、ゴーツー実施時期と感染の拡大時期が、発症のタイムラグを考慮に入れて相関性があるかないかで判断するしかない。もし相関性があるなら、それを避けるというのが当然の判断であろう。
「エビデンスがない」という言い方は、あたかも事実認識に関わるかのような印象をもたらすが、実は、論争になっている本当の論点をずらすための、まさに論争のための言葉なのである。それは、こざかしく、姑息な官僚が使う、論争のためのテクニックに属する言葉でしかない。
上述してきたような批判は、それを加えること自体が批判の対象と同じ水準に合わせているようで気が進まない作業であるが、もう一つ、オリンピックとの関連については触れないわけにはいかないだろうから、簡単に触れておこう。
オリンピックの現状は、すでに多くの批判者が指摘しているように商業主義とナショナリズムの混合物でしかない。「世界平和のため」だの「スポーツの力」だのという美しげな言葉で飾り立てようとも、その実態は、一々あげないが、招致から開催にいたる過程で現れた数々の疑惑・不祥事によって明らかであろう。また、その過程に関わった者の「開催すれば皆盛り上がって、国民の一体感も醸成される」「金メダルを取れば、一気に雰囲気は変わる」というような発言に、その本質が込められている。ついでに言っておけば、この人物は、酷暑のオリンピックの問題や原発事故の未解決の問題の指摘に対して、「招致するためには、そのくらいの嘘をつくのは当然である」とうそぶいていた。
そのオリンピックの開催中に、日本ではかつてなかった感染の拡大が始まった。それについて、国際オリンピック委員会の会長も日本政府も口をそろえて、「オリンピックと感染の拡大とは関係はない」と言明した。「関連はあるかもしれないが、それにもまして開催した事には意義がある」というならまだしも、「関係がない」という言明は、噓の上に成り立つ現在のオリンピックを象徴していると言わざるを得ない。
背後に潜む愚民観と棄民への道
以上、政府の対応が「せこく、いじましく、こざかしい」実態について述べてきたが、それはいわば政治家の性格の指摘であって、ある意味ではどうにもならない事に属する。本当の問題は、そういう性格の政治家をそうあらしめている原因・根拠は何かということであり、そうした性格による施策がもたらす結果である。
結論から言えば、「せこく、いじましく、こざかしい」施策の背後にある発想は、三つある。一つは愚民観であり、もうひとつは新自由主義的社会観であり、そして国家第一主義である。
不足しているマスクを配れば、国民の不安は解消し、事態は落ち着くという発想、割引というお得感を与えれば、国民は食いついてくるという思惑、オリンピックが始まり、メダル獲得情報が流れれば、オリンピックに反対の意見はあっという間に引っ込み、やって良かったという声が圧倒する等々、国民の意見など簡単に操作できるという思い上がり、これを愚民観と言わずして何というか。政府を支持する立場に立つと思われているある国際政治学者は、最近、「マスコミは感染者数を大きく扱うべきではない、重症者の数を中心に報道すべきだ、ワクチンの普及によって死者も重症者も減少しているからその実態を中心に報道すべきだ」という主張を繰り返している。
この主張の背後には、国民はマスコミの報道の仕方でどうにでも変えられるという判断があるのだろう。現代版「知らしむべからず、由らしむべし」ではないか。感染症の蔓延を防止するには、感染症についての正しい情報を伝え、デマ情報を抑えることが必須の条件であることは言うまでもない。その原則すら無視しようというのである。
そういう愚民観は、経済活動を優先させようという主張にも通底している。経済活動を重視しようという主張には、多くの場合経済活動が停滞し、破産企業が増えれば、失業者も増加し、生活困窮者も増える、そういう事態が続けば、必然的に自殺者も増えると、<停滞―破産―失業―困窮―自殺>があたかも当然の帰結であるかのように論じられる傾向がある。しかし、この過程には、段階ごとに公的になすべきこと、なしうることがあるはずであるが、そのことは議論の中で検討されることはない。
支援・援助ではなく、自助を基本とする発想は、自助でなければという思いを浸透させることによって、自助が困難になった者の選択肢を狭めることになる可能性があるともいえるかもしれないが、国民は必ずそうなるというほど愚かではない。
にもかかわらず、経済活動を引き合いに出して、感染症の危険性を低く評価しようとする議論は、感染症との共存を言い、多少の犠牲は覚悟すべきだという議論と重なってくる。アメリカのトランプ、ブラジルのボルソナロまでの距離は、ほんのわずかである。
さらに、経済活動を再開し、回復させるという主張には、経済成長至上主義的発想と経済成長なしには国際競争に敗北するのではないかという自国第一主義者の焦慮がある。自国第一主義が重視するのは、何よりも国家という組織であって、一人一人の国民ではない。一人一人の国民は、国家に従属し、国家に奉仕すべきとは言わないまでも、国家あっての国民であると考えるべき存在であるとされる。感染症に過剰に怯え、経済活動を委縮させれば、経済成長は停止し、国際競争に敗北し、ひいては国民の生活も破壊されることになるというのが自国第一主義者達の主張である。
政府やその支持者が、感染症蔓延の危険を冒してもオリンピックを強行開催した背後には、そういう国家優先の自国第一主義が明確に存在している。その政府やその支持者が中等症以下の感染者の入院は認めないという、事実上の感染症対策の方針転換を言い出したのは、彼らが、ナショナリズムが高揚する、と判断したオリンピックの真最中であったことは象徴的である。コロナウィルス感染症を感染症法の二類指定から外し、インフルエンザと同等の扱いに変更せよという主張は、この感染症が蔓延し始めた初期からあった。厚生省の医系技官を中心とした官僚、一部の御用経済学者・評論家によって唱えられていた方針が、政府の方針として明確に姿を現したのである。
今は、八月。毎年戦争を思い出させられる季節。第二次世界大戦が開始されると、何十万の移民を見捨てて、本国にさっさと引き揚げてしまったブラジル駐在の日本外務省の役人達。ソ連の参戦を知るや居留民を置き去りに南下逃亡した関東軍の軍人達。国民の生命と安全を守ると豪語していた者たちの卑怯極まる行動と、残された者たちの言語を絶した悲惨と苦難を忘れることはできない。そういう記憶を留めようと努力をしてこなかった者が、いかに「国民の命と安全を第一に」などといっても、到底信用することはできない。ましてや医療放棄につながる状況を発生させておきながら、反省の言葉一つなく、医療を確保するためだという強弁。もはや言うべき言葉もない。
きつかわ・としただ
1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任。現在名誉教授。本誌前編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)、『丸山真男「日本政治思想史研究」を読む』(日本評論社)など。
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