コラム/児童福祉の現場から
社会的養護と子どもたちの教育保障
施設と学校と家庭
保育士 林 栄理子
私たちの「普通」の暮らしのなかでは、子どもたちは次のようなステップを踏んで成長していきます。
各自の成長やそれぞれの家庭によって、保育園や幼稚園に籍を置き、6歳の春、学区内の小学校、中学校へ通い、集団での関わり方や、友だち関係、そして、国語や算数、英語など、生活に必要な知識や技術を学び、さらに続く過程を経て、進学や就職などと進路を選んでいきます。
当たり前の過程のなかでは、「家庭」の中での大人は通常子どもの絶対の味方であり、それが土台になって子どもの成長が支えられていくものであると思います。
しかし、児童相談所で関わる子どもの中には、不登校で何年も引きこもっている子どもや、学校には籍があるものの、行方がわからない子ども、学校や家庭で子どもの問題行動があり、両方が疲弊してしまっている、などという事例に巡り合います。どの案件も、それぞれの家庭によって問題は様々です。さらに家庭の問題だけでなく、教育のつまずきによる問題などに、繋がることがあります。
教育と福祉の連携を
私が関わった、当時中学2年生で外国籍の家庭の子どもがいました。小学校の頃から学校に行き渋りがありました。関わったきっかけは、夜中に家から飛び出したことで、警察に保護されたことからの通告です。両親ともに日本語が通じず、通訳を入れて話し合いを行うなかでで、親たちは、学校に行く子どもに何を持たせればいいのかがわからず、もちろん、子どももわからない、ということがわかりました。子どもには発達障害があり、通院していることもわかりました。
学校や、病院と児童相談所で話し合いを重ね、学校には絵のついた手紙を求め、そして通訳の方の好意で、わからないことは通訳をしてもらうこと、行政の支援サービスや、フリースクールにも繋げることができました。そして、受験時には支援学校の協力を得ることもでき、子どもはサポートを受けられる高校への進学を決めることができました。
昨今、外国籍の子どもや家庭が増え、それによる言葉の問題や、宗教、部族のしきたりなど、学校のあり方も随分と柔軟に動けるようになってきています。しかし、それを教育現場だけで担うのではなく、福祉の中でもできることを行い、両者が連携することで、子どもや家庭にとっても新しい教育の方法が入ってくることになります。
学校に行くことが楽しみだけど帰るのは怖い、そういう子どもの状態がきっかけで、虐待が行われていることがわかり、家庭から引き離して保護をする場合もあります。子どもはそれまで通っていた学校から離されて、全く初めての場所で、身につけるものや周りに置くものも、友だちとも、自分が大切にしてきたものが失われた環境で、生活が始まります。一時的な保護ではなく、長期の引き離しが必要と判断された場合は、一時保護所から児童養護施設や、里親、ファミリーホームへと環境が変わっていきます。
子どもは、いまの制度の中では生活する場所を選ぶことはできません。見知らぬ土地に行き、生活し、地元の子どもが通う学校に行くことになります。家庭にいた頃は学校にも行けなかった、あるいは行かなかった子どももみな一様に、年齢にあった学年に籍を置きます。わからないことや、嫌なことを言うことを恥じらう子どもは、周りに心配させないようにと、生活にも学校にも「慣れたふり」をすることがあります。しかし、それは長くは続かず、学校や生活の場で、生活する場所を失くしていくことに繋がる問題行動となっていきます。
先に述べたように、教育を受ける上では、絶対的な味方が必要です。手放さない(安心感)、問題に向き合う、正確な情報を伝える、などです。
ところが、施設では、子どもとの関係を考えずに、子どもの「担当」を決めます。
大人は子どもと関係を築くために力を尽くしますが、どうしても関係が取れないということも多々起こります。そのことが、子どものマイナス点になることもあり、居場所がなくなることに繋がることもあります。家庭から離れ、場所も選べない中ではせめて、「担当」は時間をかけて、子どもがこの人!と決めた人が「担当」として関わり、絶対的な存在になる。そしてそのことを施設内で認め、支えてほしいといつも願っています。
里親やファミリーホームは、大人が変わらないという利点はありますが、子どもにとっては、どこまで話していいんだろう、どこまで迷惑かけていいんだろう、自分のことは嫌になったら捨てるのだろうか、という不安の中で生活をすることには変わりがありません。虐待のある家庭より、施設や里親の方が安心だね、と考える大人は沢山います。しかし、実際の子どもの気持ちは誰もわかりません。子どもが大人になったときにやっとわかることかもしれないし、わからず仕舞いということもあるかもしれません。
ともかく、児童養護施設や、里親、ファミリーホームで子どもを支える大人は、彼ら自身も見えない不安を抱えながらも、支えてくれているということを教育現場は理解をすること、また逆に、教育現場のシステムの中で、いまの子どもに何をすればいいのか、何ができるのかを、施設や里親、ファミリーホームの方でも理解をして、時には、声を出して相談をすることも大切です。
先ほどの事例などでみていると、教育のシステムや環境がもっと柔軟に対応できるようになることで、子どもたちの実質的な学ぶかたちが増えてくるのではないかと思います。
義務教育
6歳から15歳までの9年間、子どもたちは必然的に住居のある学区の学校に籍を置きます。1日も通わなくても、義務教育期間は小学校課程・中学校課程の修了と、証書を受けとります。子どもが成長する中で、家庭での変化や、学校と合わないなどの問題が9年間起きないということは、まず考えられません。子ども自身が、自分が好きなことに没頭したい気持ちがあっても、学校を休むことに罪悪感を抱き続けることもあります。社会的養護を受けるこどもの現実は実にシビアであり、支援をする側としても、非常に辛いことも沢山あります。
それは、中学校までは、学校を休んでいても生活の場所は保障されていますが、15歳を越えてしまうと、高校に通っている場合は別にして、社会的養護を受けられないということになるからです。
義務教育期間には、社会人になったときに必要ないくつかの要素が詰め込まれています。
例えば、前の日に準備をして忘れ物がないように確認をすること。登校時間を守って、家をでる時間を計算するということ。集団での動きかた、時間に合わせて授業が変わり、その科目にあった準備や行動を行うこと。先生たちがいる職員室や校長室などは、ノックをして、「入っていいですか?」と伺ってから入室をすること。廊下の歩き方、挨拶、全校集会での挨拶やお辞儀、指示を受けてから休むこと。細かいこと全部がルールとして成り立ち、自分の気持ちをどう整理して、ルールを守る方法や、辛いときなど、わからないことは、先生に聞くということも学校で学びます。そして、学校の外に出たときの礼儀や、学ぶ姿勢も順を追って学んでいきます。
この期間は、子どもの心の変化や、身体の作りなども大きく成長し、自分自身だけでは解決できない悩みも沢山でてくる大切なときでもあります。
悩み多い性の教育―施設と学校と家庭
近年、LGBTQなど性の自由化に合わせて、制服を揃える際に、女子はスカートかスラックスを選択できるようになってきています。しかし、まだ、男子がズボンかスカートかを選ぶということは、認められていないのが現状です。性の自由化の形が次第に認められてきていますが、実際の教育現場では、まだ混乱していることも多く、何が一番いいのかを模索している様子が見られています。
LGBTQを考えるときには必然的に、性教育についても触れなくてはならないのが一番の困惑するところではないでしょうか。保健体育の時間には、生命の誕生として、胎児の様子を学ぶことや、実際の妊婦さんに話を聞くことなどがあります。動物の交尾や出産の様子はテレビや研究結果から実際に目にすることがありますが、同じ人間の性のこととなると、正確な情報を伝えることは、とても限られてしまっています。教育のなかでも、一番触れたくない部分でもあり、省略されてしまう流れとなってしまいます。
しかし、大人が避けることで、子どもたちはネットや、雑誌、AV画像で面白おかしく理解し、性について軽い意識が生まれてしまいます。子どもだからこそ、学校と家庭が情報を合わせて、避妊具の使い方や、性病についてなど、自分を大切にしていくことを、真剣に伝えていく必要があります。性のことを知ることは恥ずかしいことではなく、知らないということが恥ずかしいことなんだよと大人が伝え、予期せぬ妊娠を防ぐことや、性病を防ぐこと、そしてなにより、犯罪に巻き込まれたときに、自分を守る方法を知ることが大切です。
性交渉は、ダメなものでも嫌らしいことでもなく、自分を傷つけるものではないということを、教育の現場でしっかり向き合って伝えて行かないと、誤った情報のまま、大人へと成長していきます。LGBTQの問題は、いま、突然取り出された問題ではなく、昔からある問題が理解されはじめてきたものであり、いま人間として、どうしても向き合わなければならない授業ではないかなと感じています。
児童養護施設の中では男女が分かれて生活をしているところもありますが、大抵の場所では、一緒に生活をしています。家庭から離され生活をしている子どもは、自分がダメな人間、大事にされない人間、または汚い人間なんだと思いこみ、苦しむ子どもがいます。
自分の穴の空いたところを埋めるように、人との繋がりを過剰に求め、自分を傷つけることを繰り返してしまうことがあるため、施設によっては、性教育の時間をもち、自分と向き合うことを試行したりしている所もあります。しかし、この問題は施設だけでは解決できない部分もあり、子どもたちの理解を深めていくにはどうしたらよいのかと職員は悩んでいる問題でもあります。
当たり前の「社会生活」をするために必要なこと
子どもが安全に生活をする上で必要な行政機関は、私たち大人にとっても、重要な生活のための機関です。特に、福祉や医療などを担う厚生労働省、教育を担う文部科学省、少年法を扱う法務省と、支援の求め方や、行政の関わり方で様々な省をまたぐ体制が必要となっていることがわかります。
昨今、「こども庁」の案がでてきていますが、果たしてどこまでのことを政府が理解し、どのように動こうとしているのでしょう。現状を変えるために必要なところなのか、それともいまのままでは、連携が取りにくいから、新しく作るのかがわかりません。子どもを取り巻く体制を整えていくには、いまある形の矛盾しているところを、切り込んで変えていく必要があります。
例えば、義務教育のあり方について、基本9年間の軸はずらさず、学年に応じて学ぶ必要なカリキュラムもずらす必要はないと考えます。しかし、休んだ月日や年数を習得できる保障をつけ、義務教育期間の学習は守れるようにすることは必要なことだと感じています。福祉中心で動くハンディキャップのある児童においても、どう学びを保障するのか。どういったカリキュラムならば学習の習得ができるのかを考えることが大切です。子ども一人ひとりを中心に、福祉や教育などの専門家が知恵を出しあえる環境をつくることができるようにするのはどうでしょうか。
夜間中学は、15歳以上であっても、義務教育で必要である授業を行い、実際に中学の通学証明がでていると話にきいたことはあります。しかし、中学を卒業したすぐの子どもが通学している例は少なく、年配の方で、社会情勢の中、 学校にいくことができなかった人や、外国籍で学習ができていなかった人が多いと聞いています。
教育現場や、福祉現場の中でも夜間中学の存在がまだ、広まっていないため、社会的養護が必要な子どもの進学先に、選択肢として上がってきていないのが現状です。中学を自動的に卒業したあとの進学先として、生活が安定できる機会が持てることは、子どもにとっての安心に繋がります。基本的な知識がないまま、高校進学や就職をしても続けることができず、生活の場所も不安定な状況に追い込まれてしまう子どもは、自分自身に自信もなくなり、自分を求めてくれる方へと強く惹かれ、それまで関わっていた行政機関とは音信不通になることもあります。
家庭の問題から社会的養護を受けていても、自分自身に自信が持てないことで自分を傷つけ、妊娠をして、傷ついてまた福祉制度の利用・・・ということを繰り返していく子どもと接していると、義務教育や児童福祉として制度が確立されている日本のなかで、このような子どもの実態があってよいのかと、仕事をしている中で感じ、なんのための教育や福祉なんだろうと頭を抱えることは少なくありません。今ある制度を大人が理解を示し、どこに籍をおいても認められていくことが必要だと感じています。
子どもは一人ひとり個性があります。集団で学ぶことも必要ですが、子どもが何をもって、義務教育を卒業するのか。基本的な社会的な習慣を身につけられるようにするにはどのようにしていけばいいのか、いまのシステムに合わないのであればどう変えていくのか、等などを考えていかなければ、社会を担っていく大人へと繋がっていかないのではないでしょうか?
福祉の現場として、子どもの生活の場所としての児童養護施設に居続けられるためには、高校への進学を求められるために、必然的に机に向かうことになります。勉強の習慣がなかったり、受験を考えると同時にその先の進路や居場所をどうするかを考えることになるので、勉強に身が入らない子どももいますし、自分が何をしたいのかがわからず、気持ちが押さえられなくなり、問題行動となり、職員を困らせてしまうこともあります。
勉強をするうえで必要なこととして、「塾」が必要なことはわかります。子どもが施設や里親、ファミリーホームで生活をするために出される措置費として、塾の費用が認められていますが、サッカーや、スイミング、絵画、ピアノなどの習い事の費用は措置費の中では認められていません。法人の意向で経費が出されることもありますが、子どもが入所する施設などの運営状況によって差があるのが現状です。また、ボランティアでできることもありますが、職員が送り迎えなどできないため、施設内だけでお願いすることもあります。
自分の家庭の中であれば、何かをしたい!と強く思ったとき、行き方や、電車の乗り方や、よその人との関わりによって、社会を知るということが自然に行われ、自分が知りたいことに夢中になることもできます。しかし、施設内でボランティアさんが来て行うことは、安全は守られますが、社会に触れる機会を逃してしまうことや、夢中になることの機会を逃してしまうのです。
何かをしたい!ということは、子どもが伸びていく機会としてとらえ、自分で電車を使うことや、大人から離れても自分のことができる機会をもてるような措置費のあり方を考えてほしいと思います。そして、社会的養護を受ける子どもには、安全が守られることはもちろんですが、家庭と同じように、守られている間に社会に触れ、沢山の失敗や、人間関係の保ち方や、自分自身を守る方法を学び、自分自身の可能性もより広く伸ばしてほしいと思います。
はやし・えりこ
1980年生まれ。保育士、幼稚園教諭免許を取得後、福祉系大学に編入。児童相談所の児童福祉司、児童福祉施設等で相談業務、養育業務に就き、現在は、関東近郊の乳児院で保育士として養育業務にて勤務。シングルマザーにて、中学生の二児の母親。
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