特集●コロナ下 露呈する菅の強権政治

近代を問う!排除されて来たケア労働

介護労働者の権利のために(その4)―感染と隣り合わせ、テレワーク

と無縁、でも未来への光

元 大阪市立大学特任准教授 水野 博達

違和感は、どこから来ているのか

「未来は、皆さんの行動にかかっています」

今日も、JRの駅で、マスク着用などのコロナ感染症対策を求める国土交通省のアナウンスが流れている。何か得体の知れない違和感を覚えていた。それは、「未来は・・・」という言い方が、大げさだと感じるからなのかと、はじめは思っていた。そのうち、感染症対策をしない者が未来を壊す。「あなたは破壊者になりますよ!」と脅迫されていると感じるようになった。

言い遅れましたが、筆者は、週3日、介護保険施設の仕事に通っている後期高齢者だ。

コロナ渦で、未来の話ではなく、過去から積み上がっていたが、これまでは、はっきりとは見えなかったこの社会の分裂した実相が、マスコミでも報道されるようになって来た、違和感は、ますます強くなった。このアナウンスには、現実の矛盾を覆い隠す国の「上から下へ」の意思を強く感じようになった。新型コロナウイルス感染症の拡大に対する恐怖をあおり、一人ひとりの自己責任を強く求めていると感じることが、違和感の本当の理由だと思えようになったのである。

さて、新型コロナウイルス感染症の流行で、通勤や密閉・密集・密接したオフィスを避けたテレワーク/リモートワークが推奨されている。それは、「外出自粛」という特殊な環境の下だけではなく、<with corona>の時期を超えた、これからの時代の新しい働き方になると宣伝されている。しかも、日本は、IT技術利用が他の国々から遅れた「デジタル後進国だ」とのネガティブ・キャンペーンを伴って喧伝されている。IT技術を使った合理的・効率的なデジタル社会の実現なくして「未来はない」と、脅迫じみた風潮が社会のあらゆる領域に押し寄せている。

その一方で、感染のが高い中で、人びとの命と生活を守り維持するための仕事に携わる人を「エッセンシャル・ワーカー」(不可欠な仕事に従事する人)だとして、医療従事者や介護・保育に関わる人、ゴミ収集に携わる人などがマスコミでもクローズアップされて来た。

コロナ禍で、テレワークやデジタル化が声高に推奨されることによって、世界が2つに分断されている<実相>に改めて気づかされる。テレワークが可能な仕事に就労する層と、それができない仕事に就く層に世界が2分されているのだ。人びとの命と生活を守る仕事に従事する者は、テレワークなどによって感染のリスクを避けることが不可能な労働実態の下にある。

今後、技術革新が進んだとしても、人との接触を避け、「3密」を避け、感染源から距離を置いて成り立つとは考え難い仕事群である。テレワーク、リモートワークに包摂できない、人びとの命と生活を維持するのに不可欠な労働を「エッセンシャル・ワーク」とカタカナで一纏めにして呼ばれることに、やはり、筆者は抵抗感を持つ。それぞれの仕事・職種の形成過程は、それぞれの歴史と文化があり、現実社会の中で、階級的・階層的な、文化的差異が厳然とあるからだ。

感染爆発の中で、医療崩壊が進み多数の死者が出たイタリヤやスペインなどでは、医療従事者の奮闘に、ロックダウンで自宅に閉じ込められた市民たちが、自主的に定時になるとしめし合わせて、窓を開け、テラスに顔を出して、感謝の気持ちを歌や拍手で意思表示している姿が日本でも報じられた。このような光景は、日本では例外で、ほとんど見られない。

むしろ日本では、「コロナウイルスを持ち込むかも知れないから、登園(登校)させないでほしい」などと看護師などの医療従事者や介護労働者とその家族に対して、地域の日常生活から排除する深刻な事態が報道されもした。そして、「コロナ自粛警察」と名付けられた、営業を続ける飲食店へ非難や嫌がらせをあたかも社会正義の行使であるかのように行なう事例も多発した。こうした差別や社会的排除によって、生活困窮が極限的に高まるのは、低賃金で不安定な就労条件で働くシングルマザーや非正規労働者などであるが、排除する側は、そのことに思いを致さず、非情で利己的だ。

こうした日本の排外的・差別的で、非寛容な態度を基底的な日本文化のあり様から説明することは麻生副総理が、日本の感染者と死亡者が少ないことを「日本の文化と民度」の高さだと言ったことと同じように誤りであろう。1990年代からの行政改革至上主義の政治基調が、感染症に対する準備を阻害して来た。その結果、公衆衛生の担い手である保健所などの縮小とPCR検査体制の未整備を生み落としていた。新型コロナ流行以前の政治的な条件がまずある。

その上に、何の科学的根拠も準備もなく、安倍前首相によって、突然発表された「全国一斉休校」要請によって、新型コロナウイルスへの恐怖心だけが煽られた。正しい知識に基づいて、新型コロナウイルスを「正しく恐れる」のではなく、PCR検査体制のない中、誰が感染しているのか、自分も感染しているかも知れない、という不安と感染したら社会から排除されるという恐怖が組織された。つまり、日本社会の否定的な現象を生み出している事態を政治の責任の問題として解明することを優先すべきで、政治的な責任をあいまいにしてしまうこれまでの日本の風潮や文化を変革することはできないからだ。

医師は表の玄関から、ヘルパーは裏の勝手口へ

人びとの命と生活を守り維持するのに不可欠な仕事といっても、一律に論ずるのは実際的ではない。それぞれの職種の形成過程には、それぞれの歴史と文化的な背景があり、現実社会の中で、階級的・階層的な差異が厳然とあるからだ。

初めて訪問介護の利用者の家で、インターホンを鳴らすと家族が出てきて、「あ、ヘルパーさんね。裏の勝手口に回ってちょうだい。表玄関はお医者さんと看護婦さんね」こんな事例を川口啓子(大阪健康福祉短大学)が紹介している。(「朝日新聞」6月3日【オピニオン】)

今日では、昔のような玄関と勝手口が画然と分かれた住宅は稀である。介護に関わってきた25年以上を振り返っても、こうした言動に傷ついたというヘルパーの話を聞くことは、あまりなかった。私が仕事をしてきた地域には、高級住宅が少なかったからかも知れない。上記のような事例は、「世間」の格差付けを、あからさまに示している事例に過ぎない。しかし、人の命と生活を守る職業に対して、医師は玄関、ヘルパーは勝手口からという露骨な格差付けの差別待遇は稀だろうが、今も、差別待遇は、陰に陽に現れて来る。それは、川口が上記の紙面でいくつか紹介している通りである。

ここでも注意がいるのは、格差付けを「世間」一般の風潮のせいにしないことである。ホームヘルパーという仕事の源流は、戦後の『戦争未亡人』の就労対策から始まった「家庭奉仕員」制度である。しかし、1990年代後半から、高齢者や障がい者の在宅生活を支える重要な役割を担う専門職として国や地方自治体が育成してきた職種である。介護保険制度が始まってから、すでに25年以上が経っている今も、在宅サービスの重要性を国・地方自治体は言い続けている。にもかかわらず、国・行政のヘルパーの仕事への評価は、その重要性を語るに足るような内実を伴うものではない。ここが、問題なのだ。

今、ヘルパーの人材不足は、破局的なレベルに至っている。2019年で、有効求人倍数は15.03倍に達した。今年は、コロナ禍の条件も手伝って、16倍を超えことが予測さる。一人のヘルパー応募者に16以上の事業所が群がり、奪い合うという数値である。だから、ほとんどの事業所は、新規採用をあきらめざるを得ないのが現実だ。

事態はさらに厳しい。ヘルパーの年齢構成がそれだ。2018年介護労働安定センターの調査では、60歳以上が39.2%で、その内訳は、60~65歳未満が14.0%、65歳~70歳未満が14.7%、70歳以上が10.5%となっている。他方、20歳未満が0.2%、20歳~30歳未満が4.0%、30歳~40歳未満が14.2%、40歳~50歳未満が19.2%、50歳~60歳未満が24.3%である。今や、ヘルパーの4人に一人が65歳以上の高齢者であり、40歳以下のヘルパーは、18.4%である。抜本的改革がなければ、あと数年するとヘルパー事業は消滅に追い込まれることになる

なぜ、こんなことになるのか。

拙稿「介護保険制度「崩壊」が訪問介護から始まる―ヘルパーの国家賠償訴訟はなぜ起こされたのか」(『現代の理論』2020春号・22号)で詳しく論じたが、国はヘルパーが在宅サービスの重要な柱だと言ってきたが、ヘルパーの賃金・労働条件などは、それに見合うものではなかった。介護報酬が低額に抑えられているので、正規職員でも賃金・労働条件は低い。それ以上に、正規職員ではない「登録型ヘルパー」と言われる時給・実績払いの非定型非常勤職員によってヘルパー事業は、実質支えられている。待機時間や移動時間、あるいは、キャンセル手当なども十分に支払われていないのが現状である。つまり、第一に、賃金・労働条件等の処遇の悪さである。

第二に、ヘルパーの仕事に対する正当な評価がなされていないことである。

政権の中枢を担う政治家や官僚の多くが、ヘルパーの仕事は「誰にでもできる仕事」という誤った認識を持っている。「専門性は要らない」との意見が公式の会議などの場でも平然と話される。こうした家父長的な女性蔑視の意識も背景にあって、捻りだされたのが2015年からの「介護予防・日常生活支援総合事業」計画である。

介護人材の欠乏は、介護保険制度開始後15年間、ヘルパーの処遇を改善してこなかった結果産み落とされたものである。そのことに対する国の責任には触れず、介護保険財源の切迫と人材難を理由にして、要介護度が高く身体介護や認知症への対応が求められる高齢者に十分なサービスを提供するために専門的な人材を集中する必要がある。

他方で、地域の自主性を活かしたサービスの多様化・柔軟化を図るとして「介護予防・日常生活支援総合事業」を地方自治体の責任で作らせた。そこへ全国一律の介護保険制度によるサービスではなく、要支援や介護度の低い利用者を移行させるという転換をしたのである。この[悪手]は、当然成功を収めていない。介護保険制度のヘルパーよりもさらに安価な処遇で、この総合事業のサービスをボランティア的に担う人材は、どの地域でも、とりわけ大都市では掘り起こせなかったからだ。

要するに、高齢者や障がい者の生活環境を整える清掃をはじめとした細々とした仕事、食事の介助、排泄介助や汚物処理、入浴・清拭介助、衣服の洗濯と着替え等、骨の折れる汚れ仕事を命と生活を守り維持するのに不可欠な仕事だと正しく評価されて来なかったのである。生活に関わる骨の折れる汚れ仕事は、女、子ども、下女の仕事だ、という家父長的な女性蔑視の意識を福祉サービス制度の設計と具体的な運営の中で温存され、再生産してきた政治の責任が問われなければならないのだ。

逃げ出せない、命と生活を支える仕事

東京商工リサーチによれば、1月から8月の介護事業者の休廃業・解散は313件で、前年同期(263件)から19.0%増えたという。深刻な人手不足の上に、サービスの利用控えやコストの増加を招いた新型コロナウイルスの影響も大きいとみられる。また、事業がなかなか軌道に乗らず、体力が残っているうちに撤退を決めるところもあるという。

休廃業・解散に追い込まれるのは圧倒的に小規模事業所で、とりわけ高齢化した職員で事業を成り立たせていて、一人二人と年齢的な限界を感じたヘルパーが離職すれば事業が存続できない。だから、実際は、自主廃業や一部事業の廃止・休業をする事業所は、相当数あると考えられる。何とか持ちこたえきた事業所も年末年始にかけて地域から消えて行く数が増えると予測できる。

しかし、多くの事業者とそこで働く介護職員は、この報いられない処遇にもかかわらず、コロナ禍の下でも逃げ出さない。「私たちが仕事を辞めたら利用者はどうなるか」と切実に考えるからだ。

利用者(高齢者や障がい者など)と長年連れ添って生きてきた介護労働者の誇りと意地が、彼女たち、彼らたちを支えている。これは、訪問介護のヘルパーもデイサービスの職員も、入所施設の介護労働者も共通の思いであり、意地であると言えよう。

大阪の「介護福祉総がかり行動」は、2020年3月24日とかなり早い時期に、こうした介護労働者をはじめとしたケア労働者の意志を「緊急の要望と提案―高齢者・障がい者の介護・看護及び保育の現場から」として取りまとめ、大阪府知事/大阪市長(各市町村長)に提出している。

1.サービス提供の停止・中止の処置に関する要望

一人住まいの高齢者や障がい者にとって、介護・看護サービスは、生きて行くために不可欠なサービスであり、また、家族にとっても介護サービスや保育サービス等は、仕事を続けていく上で、欠くことのできない条件です。

・上記の観点から、行政は、感染の拡大を防止するためとして、感染者や疑いのある者が判明したことをもって、全行政区域、あるいは近隣地域のサービスを一律・一斉に停止する処置をとる安易な指導・指示を行わないことを強く求めます。また、サービス提供事業所が、合理的で十分に説得的な理由のない条件の下で、感染予防を理由にサービスを中止したり、休業したりする過剰な対応が起こらないよう指示・指導されることを求めます。

・サービス提供の関係者に感染や感染の疑いのある場合には、行政は、利用者と家族の状況を把握している事業所、保育所と速やかに協議し、介護・看護・保育を受ける権利、衛生的で安全な生活をおくる権利を保障するため、代替えサービスなどの提供等きめ細かい対策を講ずることを求めます。

2.要介護者、要支援者を孤立させない措置に関する要望

・介護者・保護者が感染し、要介護の高齢者や障がい者や児童等が濃厚接触者となる可能性が高くなる場合には、当該要介護者と児童の介護・看護・保育などによる生活を支える態勢の整備・確保を求めます。

・また、感染症対策で家族・支援者の入院患者への面会を画一的に禁止することのないように医療機関などに指導を求めます。認知症高齢者や障がい者、児童などで、自分の状態や意思を本人が上手く伝えられない個別の事情を抱える者に対する適切な配慮を求めます。

3.特別な介護サービス等の提供に対する補償の要望(この項、要約)

・マスク、消毒材など衛生資材を/感染や感染の疑いのある利用者へのサービス提供に関わる防護服等の支給を公費で。

・「特別危険手当」(放射能除染作業手当相当額の一労働日2万円)の支給を公費で。

4.一斉休校を取り止め、校園の柔軟な地域への解放の要望(省略)
5.「緊急支援チーム」(仮称)を各地域で組織することの提案(省略)

こうした要望に対して、マスクや消毒材などの衛生用品の支給や必須の防護服などの支給は各事業所任せとなっている。国は、介護現場にたずさわる職員に一律5万円の「慰労金」をばら撒くのみで、介護現場で真に必要かつ有効な感染症対策を取ろうとしているとは思えない。

高齢者や障がい者の命と生活を支える仕事、とりわけ身体介助は、どんなに工夫しても密接して実施することを避け得ない。マスクや消毒材などの衛生用品、防護服などの支給は欠くことができないのに国や地方行政の施策があてにできない。介護の現場は、感染を防ぐために、日々施設や備品、持ち物の消毒に神経と労力を使い、ゴミ袋を加工して防護服を作り、クリアファイルをフェースシールドに利用するなどの知恵と工夫によって、この難局をしのいでいる。

ケア労働者(介護労働者、保育労働者、看護師も)は、自分が感染源にならないために、家族に感染者を出さないために、日常生活を厳しく律する努力を行っている。にもかかわらず、ケア労働者は、社会的に正当に評価されていない。「まさに身を粉にして働くという理由で蔑まれている」(デヴィット・グレーバー著『ブルシット・ジョブ』)のである。

テレワーク/リモートワークとケアワーク

1990年代後半から、多くの論者が共通して農業、製造業、サービス業についで「第4次部門」の成長に着目してきた。その中心は、情報関連の仕事である。モノの生産から、「知的生産」、情報社会時代の到来と語られて来た。「このような仕事は、金融資本の増大と関係しておりウオールストリートの利潤が、貿易や製造業関連企業からではなく、負債や投機そして複雑な金融商品の創造から得られるようになるにつれ、労働者も抽象物を操作することで生計を立てるようになりつつある」と、デヴィット・グレーバーは言う。(前掲、同書)

この情報関連の仕事は、新自由主義「経済活動」の起動力であり、申し子である。デヴィット・グレーバーによれば、それらの仕事は、ほとんどが「ブルシット・ジョブ」(被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、有害である有償の雇用である。ただし、「本人はそうではないと取り繕わなければならないように感じている」ことが雇用の条件)であると言う。簡単にいえば、詐欺的でどうでもいい仕事、ない方が良いような仕事であるのだ。こうした仕事に就くのは、たいていホワイカラーで、高額な月収を得ており、専門職として敬われており、成功者として見なされている。「にもかかわらず、かれらは、自身が何の功績もはたしていないことに、ひそかに気付いている」と述べている。

彼の論理に従えば、テレワーク/リモートワークに最適な仕事は、この「ブルシット・ジョブ」ということになるだろう。デヴィット・グレーバーの理論全体を承認するか否かの結論は、ここでは保留するとして、「ブルシット・ジョブ」の対極にあるのが、真に人びとの生命と生活にとって不可欠な仕事である。

歴史的なコロナウイルスの世界的流行によって、国境封鎖、ロックダウン、外出・移動の「自粛」による遮断で、グローバルに展開していた経済が止められた。にもかかわらず私たちの前に、止めることができない仕事・労働がその姿をくっきりと浮上したのだ。冒頭に述べた「エッセンシャル・ワーク」と呼ばれた仕事群である。この仕事に就く者は、社会の役に立っていることを自覚している。だから、低賃金や劣悪な処遇であっても仕事を投げ出すことができない。『やりがいの搾取』にあっているにもかかわらず、である。

それらの労働のほとんどが、「再生産労働」と言われてきた労働でもある。マルクス主義を含め近代経済学では、労働こそが富の源泉である。つまり、生産を第一価値に置く社会(観)である。再生産労働は生産労働の従属変数であった。

ここでは、その再生産労働の中心であるケア労働に限って考えることにする。ケアの現場から見ると、「ケアされる側」とは、子どもであり、高齢者であり、障碍者であり、病者などである。他者に依存することなしには、程度の差はあるが、その生存は危うい。しかし、依存される他者(=社会)は、生産に第一価値を置く社会であるので、そのケアのコストを最小限にすることを望む。と言うよりも、そもそも、ケアは、有史以来、ドメスティックな家族・地域の領域内の誰か(多くは女)によって担われて来た。誰もが、ケアのコストなどは考えもしないアンペイドワークとして行われてきた。

日本の高度経済成長期においては、男が外で働き家族を養い、女が家事・ 育児・介護を担うという中産階層の「幻想の家庭規範」を形作って来た。しかし、経済成長が止まり、 家族・家庭の変貌、少子高齢化が進むと、この「幻想の家庭規範」は壊れ、多くの女たちは、賃労働と家庭の「義務」の二重の労苦に追い込まれることになった。このケアの負担を軽減したり、社会化したりするために、保育を含めた大量のケア労働を「労働市場」に巻き込むことになった。

そこでは、ケアワークの社会的コストを抑え、不足するケアワークを担う人材が、経済的落差を使って、貧困層から、農村から、外国から組織される。つまり、『近代の自由な人間関係(契約関係)』から排除する圧力を受け続ける階層にケア労働が押し付けられて来たのだ。この見えていなかった現実がコロナ禍で私たちの眼前に開示された。例えば、感染と死亡が多数集中して発生したヨーロッパの高齢者介護施設は、実は、旧植民地出身者や東欧出身の女性ワーカーによって、かなり劣悪な状態の下で支えられていた。日本でも、感染防護体制が未整備に放置された環境・条件の下で、孤立しながら歯を食いしばってケア労働者が現場を守っていた。

今、「ケアの現場」 の視座から、つまり、生命存在の価値(尊厳)の側に視座を置いて、この社会の実相を見れば、生産労働に第一価値をおく「近代の論理」がコロナ禍の下で、破綻していることを明らかにしている。真に必要な労働は、社会の片隅か底辺に押し込まれ、社会的に排除されて来たのである。

さらにケアの特質に注目して考えて見る。

ケア労働は、ずーっとドメスティックな領域の内側の営為であり続け、交換市場の外にあった。それもあって、資本主義の商品化に馴染まない特質を持つ。物の生産は、出来上がる商品のゴールに向けて、労働対象の加工の仕方を予め定めてから行われる。ところが、ケアは、労働を投下する対象自体が生きた人間である。従って、人間と人間の応答関係を通じた働きかけが労働となる。

物の生産のように、予め定めた目標と方法によって労働を制御することにそもそも馴染まない特性がある。しかも、猪飼周平が「ケアの社会施策への理論的前提」(『社会保障研究』vol.1 2016年)で述べるように、社会の多様化・複雑化とも関わって、個別化した課題を一人ひとり探りながら行われる。言葉をかえて言えば、ケア労働は、人間の個と個との応答関係を通じて行われるので、計画化やモデル化を(秘かに)逸脱する労働者の能動性・自主性が求められ、職場のワーカーによるケア内容の自主管理とも言える「自治」が求められると筆者の私は考えてきた。

つづいて、高橋紘士は『社会保障研究』vol.1で、「新自由主義がケア政策と敵対する関係にあるとするなら、ケア政策は社会的倫理の問題と関連し合いながら、技術的政策ではない新たな批判的政策を必要とするかもしれない。このような視点は社会政策を市民社会の構成原理の中に改めて埋め込む作業が必要とされることを示唆している」(「ケアの社会施策のために」)と述べている。

「社会政策を市民社会の構成原理の中に改めて埋め込む作業」とは何かを高橋は明示的に述べていない。おそらくそれは、資本主義的な関係を本来的な人間の自然な関係性―「助け合い」とすら感じない自然に結び合っている関係性―に埋め戻すことを言っていると考えられる。もちろんケア労働を、かつての家父長的な親密圏のアンペイドワークに戻すことではないであろう。とするなら、それはさしあたり自主的な地域自治の空間と結びついた、ケアワーカーによるケア内容の自主管理とも言える職場の「自治空間」へ埋め戻すことが考えられるであろう。そのことによって、ある程度「賃労働」に伴う非倫理的なケア内容への干渉をはねのけることが可能になる。

ところで、ポスト・コロナは新しい時代の幕開けだとも語られている。コロナ騒動が、明らかにしたこの世界の実相をしっかりと見定めることが、時代の転換を本当に準備することになるはずである。その実相とは、新自由主義がもたらした貧困と格差の現実であり、住む所/仕事の種類などでこの世界が二極化していることだ。

この現実から目をそらして、一部の階層が田園でテレワークの夢を描いている。都市の現場に貼り付いて働く多くの労働者と、テレワークが可能な階層とへ二極に分裂しているのが実像だ。<命と生活を支える労働>である医療、介護、保育、清掃、物流など近代の産業社会で「再生産労働」と言われた労働と、他方で、<テレワーク>ができる金融、事務管理、企画・コンサル、知識・技術開発など新自由主義の「申し子」である階層の二極分裂である。 

だから、新しい時代の幕開けは、私たちが、新自由主義の終焉へと時代を導くのか、あるいは、新自由主義の生き残りと延命に道をあけてやるのかのせめぎ合いを通してである。人々が距離を取り合い、記号化されたバーチャル空間の中で繋がり、AIやIT技術をふんだんに使った監視・管理社会に喜んで参画していくのか、それとも一人ひとりの身体的感性を大切にして向き合い、連帯する社会を望むのかが、問われている。<命と生活を支える労働>の価値と高齢者・障碍者の尊厳を社会的に認知させる闘いの前進なくして未来はない、と考えるのである。

最後に、私たちの仲間の介護職場について報告をしたい。誠実な団交を求める地労委命令の履行を無視し組合敵視を続ける経営側に、<命と生活を支える労働>に携わる観点から、コロナ感染対策に集中するための労使の「休戦」を提案した。しかし、医療法人側はそれを拒否し、争議行動に対して名誉棄損の賠償訴訟を起こす等、一層組合潰し攻撃を強めている。

コロナ感染対策を疎かにした結果か、その法人の病棟で感染クラスターが発生した。人の命を預かる医療法人の責任と倫理をないがしろにした利益第一の経営姿勢は、クラスター発生の事後対策も遅れ遅れで、適切ではない。そのため、組合員・職員の緊張とストレスが高じている。しかし、職員は逃げずに職場に留まり、闘い続けている。これはほんのわずかな事例であるが、この社会に不可欠な労働に誇りを持って携わるケア労働者が、未来を開く光となることを確信して筆を置く。

【参考文献】

* 拙稿「介護保険制度『崩壊』が訪問介護から始まるーヘルパーの国家賠償訴訟はなぜ起こされたのか」(『現代の理論』2020春号・22号) 

* 拙稿「― グローバリズムと感染症―問われるリーダーの質/「非常事態」「戒厳令」への野望が潜む」(『現代の理論』2020春号・22号)

* 拙稿「近代社会の壁を超えるケアワークの人類史的意味 ―行き詰まり始めた日本のケアの現場から考える」『日中社会学研究』2020年第27号 日中社会学会)

* デヴィッド・グレーバー著、酒井隆史ら訳『ブルシット・ジョブ―クソどうでもいい仕事の論理』(岩波書店、2020年7月)

みずの・ひろみち

名古屋市出身。関西学院大学文学部退学。労組書記、団体職員、フリーランスのルポライター、部落解放同盟矢田支部書記などを経験。その後、社会福祉法人の設立にかかわり、特別養護老人ホームの施設長など福祉事業に従事。また、大阪市立大学大学院創造都市研究科を1期生として修了。2009年4月同大学院特任准教授。2019年3月退職。大阪の小規模福祉施設や中国南京市の高齢者福祉事業との連携・交流事業を推進。また、2012年に「橋下現象」研究会を仲間と立ち上げた。著書に『介護保険と階層化・格差化する高齢者─人は生きてきたようにしか死ねないのか』(明石書店)。

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