論壇―追想
貫流していた“沖縄人の意地のようなもの”
追想・由井晶子さん――受け継いだ比嘉春潮の“精神”とジャーナリストとしての使命
元琉球大学教授 仲程 昌徳
由井晶子といえば、話題が豊富で、少し甲高い声で次から次へと、話が途切れることなく続いた、といった印象が強い。それは、身の回りで起きることがらに、絶えず注目し、関心を寄せていたことによるかと思うが、その回転の速さについていくのは容易なことではなかった。そういう由井さんについて、私の印象に残っている仕事といえば、①「年月とともに」の口述筆記、②「なはをんな一代記」の注記、③「さまよへる琉球人」の復刻、④近代沖縄女性史と関わる執筆、そして⑤「沖縄 アリは象にいどむ」1,2に纏められていく、高江、辺野古レポートといったものである。
とりわけ⑤は、由井さんのジャーナリストとしての使命を、よく語るものであり、由井さんについての追想ということになれば、真っ先に触れてしかるべきであろう。しかし、私のような文弱の徒が、あだやおろそかに扱うべきことではないという思いもあり、また由井さんもそのことをよく知っていて、私に、『労働情報』への寄稿について、ほとんど話すことはなかったのである。
原水爆実験反対への署名運動と運命的な出会い
由井さんが、高江や辺野古に通ったのは、確かにジャーナリストとしての使命によっていたに違いない。しかし、住民の命を守る戦いという基本的な見地からいえば、由井さんのそのような姿勢は、決して高江や辺野古から始まったのでもなく、米軍によって引き起こされた数々の事件・事故と関わってきたからでもなく、生得的なものであったといっていい。そして、それが形をとって現れたのが、1952年の新宿東口での原水爆実験反対への署名運動であったといっていいだろう。署名運動は、思うようにいかなかったが、由井さんは、そこで運命的な出会いを体験することになる。
そのことについて由井さんは、次のように書いていた。
木の机に並べられた目の前の用紙に、「比嘉春潮」と書いた人がいる。ハッとして目を上げると白麻の背広を着たかっぷくのいい老紳士だった。署名を終えると老紳士はさて、というようにあたりを見まわし、ゆっくり改札口へ歩いて行った。私はまじまじと観察した。この人が同郷出身の学生の集まりなどで名前を聞く民俗学者か、想像していたよりずっとりっぱな近代人の風貌だこと――今思い出して赤面するような、生意気な感想を持った。はたち前のもの識らずで、郷土の古いことを研究している学者は見るからに古色蒼然としているとでも思っていたらしい。
そして、それまで意気消沈していたのを強く勇気づけられ、活力をとりもどした。(「沖縄歴史研究会のことなど」『篤学な沖縄研究者 比嘉春潮』2006年2月15日)。
署名運動でその姿に触れてから二年後、由井さんは比嘉春潮の訪問を受ける。そして比嘉宅での沖縄歴史研究会に出席するようになるが、その「研究会の続いた1955年から1959年までのことはいくら書いてもかきつくせない」といい、当時の沖縄の状況、研究会の様子などについて簡単に触れたあと比嘉春潮について「先生は容量の大きな方だった。戦後初期、東京で形になり始めた沖縄研究の背後には必ずといっていいほど先生のかげながらのご助力があったといっていいのではないだろうか。そして研究の道に進んだ人も進まなかった人も、先生のある“精神”を受け継いでみんなが今の仕事に生かしていると思う」と書いていた。
由井さんが、比嘉春潮の“精神”を受け継いだ一人であったことは、付け加えるまでもない。そしてそれは他でもなく、「先生のご生涯の聞き書きをさせていただく光栄に浴した」ことと深く関っているであろう。
比嘉春潮への聞き書き「年月とともに」
「年月とともに」の連載が『沖縄タイムス』で始まったのは、1964年2月22日。前日の21日には「あすから連載」として、新聞は、連載について「比嘉氏がみずから歩んできた明治・大正・昭和の激動の三代を自伝的な形で回想風にまとめたもの」と紹介していた。
紹介文はまた「年月とともに」の「内容」として、「比嘉氏が幼年から八十歳をこえた現在までの歴史の流れで、たとえば青年時代は沖縄にも新時代にあこがれ、いろいろな形の新思想や運動(キリスト教、トルストイズム、社会主義など)があらわれた。それを比嘉氏の体験を通して語ります。また柳田国男との出会いを契機として民俗学へひかれる過程。上京して東京に住む“琉球人”のすがたを独特の目でとらえ、さらに改造社時代につき合った文学者を中心とする知名士の思い出あれこれを回想する。つづいて伊波普猷、東恩納寛惇あるいは徳田球一氏のことや戦後の沖縄連盟の問題など、全体をまとめれば沖縄近代史の貴重な側面を明らかにするものになります」とまとめていた。
「年月とともに」は、7月7日まで106回に渡って連載される。その丁寧な紹介をするとなれば、これまた多くの枚数を必要とするが、要約すれば「あすから連載」に見られる通りであるといっていいだろう。その紹介文は、たぶん、口述を担当した由井さんが書いたに違いない。
比嘉春潮は、「年月とともに」をしめくくるにあたって、次のように書いていた。
これまでの「年月とともに」は実は私が筆を執ったのではない。大体は由井晶子さんが週に何回か私を訪れ、話題をつくって私の思い出を引き出し、時にメモをとったりして、後で私の話を点検し、調整し、順序をととのえて書いたもので、なかなか意を尽くし、かつ興味のあるものになっている。私が筆を執ったのは、エスペラントに関する部分、戦後の沖縄研究に関する部分、および新書『沖縄』に関する部分である。若干、読者の目を惹いたとすれば、全く由井さんの能文のおかげであると思っている。
「年月とともに」は、沖縄を知るうえで、これ以上ない入門書であるといっていいだろうが、由井晶子がいなければ、世に表れることのなかったものであったといって過言ではない。
由井さんは、「年月とともに」について「先生のご生涯の聞き書きをさせていただく光栄に浴した」と書いていたが、そこでまた「私個人は先生だけでなく栄子夫人にもほんとうにお世話になりつづけの四半世紀だった」と書いていた。
少しく個人的なことになるが、由井さんは、私の顔をみると、栄子さんの歌集を出さないとね、とたびたび口にしたものである。由井さんは、沖縄の歌人について「短歌は戦前、女子の中等教育が普及した大正初期に根づき、『日本語』歴の浅い沖縄の女性にとってもなじみの深い文学表現だった。戦前からの歌人の古波鮫弘子が、いち早く平和の実感を」(「文芸」『那覇女性史(戦後編) なは・女のあしあと』2001年3月)歌ったと書いていたが、古波鮫弘子をはじめ、戦前からの歌人たちは、ほとんど歌集を残すことをしてない。由井さんはそのことを残念に思っていたし、とりわけ長い間世話になった比嘉栄子については、どうにかしたいという思いが強かった。
1957年12月号『九年母』に、比嘉栄子は「作歌生活回顧」を発表していた。そこで彼女は「歌歴と申すほどのことはほとんどなく、おはずかしい次第ですが左に」として、大正8年ごろから歌に親しみ、大正11年上京、島崎藤村をたずね、彼が発刊していた『処女地』に投稿を進められ寄稿、大正13年からは短歌誌『真人』に入社をすすめられ同人となり、以後「三五年間」歌作に励み、「その間改造社の新万葉集に入選。歌集なし」と書いていた。実に永い歌歴を持ちながら、「歌集なし」なのであった。
「年月とともに」に比嘉栄子の登場する場面はそう多くないが、その一つに「われわれ夫婦は、多くの人びとから招待されたが、また首里市人会、西原村人会、翁長クラブ等からたびたびピクニックや宴会にも招かれた。栄子は首里婦人会によばれ、また和歌の潮音会の例会にも参加し、三味線が好きなので仲兼久さんの研究所でけいこをつけてもらったりした」とあるのがみられる。
比嘉春潮が、ハワイ大学に招聘研究員として招かれたのは1961年。一年延長し、帰国したのが一九六三年。その間、たびたびハワイ在住の方々に招かれ、歓待を受けた。また栄子は、ハワイの邦字新聞に短歌を寄稿するとともに、毎月掲載される潮音詩社詠草に毎回のように作品を発表していたし、ハワイの歌人たちを中心にして編まれた歌集『銀線集』にも寄稿していた。
そのように栄子には数多くの作品があるにも関わらず、眠ったままになっているのである。同時に、由井さんには、『比嘉栄子短歌資料1/2』、『同2/2』『比嘉栄子原稿』として県立図書館に保存されている手書きの資料が、気になっていたのではないかと思う。
「なはをんな一代記」の注記
これもまた、いささか私事にわたることであるが、由井さんについて書くということになれば、どうしても触れないわけにはいかないことがある。
東京にいたころのことである。
前後は忘れてしまったが、金城朝永全集を出すことになったので、資料を集めてくれという話があって、有楽町の駅近くにあった沖縄タイムス東京支社の入ったビルに行った。そして、由井さんと会ったのである。由井さんには、資料集めが終わるまでいろいろと世話になることになるが、その時、由井さんと出会ってなければ、修士論文は、どうなっていただろうと思うことがある。何よりも、食べるのもままならない貧乏学生だった私にとって、由井さんが連れていってくれるタイムス東京支社の近くにあったトンカツ屋のことが、今もって忘れられない。
『金城朝永全集』が発刊されたのは1974年。私は、73年の11月には、沖縄に戻ることになるが、資料集めに奔走していた間、時に金城芳子さんのお宅にお邪魔して、お話を伺ったり、大隈通りにあった琉球料理店で飲んでいて、金城さんをお呼び出ししたりして、ずいぶん失礼なことをしたのではないかと思うが、金城さんは、いつでも歓待といった調子で、それに甘えたのである。
金城芳子の「なはをんな一代記」の連載が、『沖縄タイムス』で始まったのは、1976年3月3日からである。3月2日には「お知らせ」として、社告が掲載されているが、それは次のようになっている。
3月3日から金城芳子氏の「なはをんな一代記」が始まります。
金城さんは旧姓知念、明治34年生まれ、幼児期、少女時代、成年期を発展期の那覇で過ごし、いわゆる大正デモクラシーの時代には、伊波普猷の薫陶を受けた「新しい女」の一人です。
大正11年上京、民俗、言語研究の金城朝永氏と結婚。もっぱら内助の功に生きてきました。また一方、社会福祉の面で縁の下の力持ち的な仕事を73歳の現在まで続けています。
表面平凡ながら一本シンが通って、しかも自由かっ達、典型的な那覇女性の半生を通して、近代沖縄がはぐくんだ女性の一面をみようというもくろみです。
この「お知らせ」も、多分由井さんの筆になるものではないかと思うが、「なはをんな一代記」の連載にあたって由井さんのした仕事が、いかに大切なものであったか、多くの言葉を要しないであろう。
「なはをんな一代記」は、9月23日まで、174回にわたって掲載されるが、その一回ごとに「雑記帳」として、金城さんの記述に関する注記とでもいった付記が見られるが、由井さんは、その「雑記帳」を、根気よく続けているのである。
「雑記帳」は、さまざまな資料を渉猟して書かれている。その仕事をしながら、由井さんは、比嘉春潮の「年月とともに」を幾度となく思い出したのではなかろうか。それは、単に「雑記帳」を書く上での参考文献としてというだけではない。金城芳子の回想が、たびたび比嘉春潮につながっていくからである。しかもそれが、少女期のころからはじまり、金城朝永との結婚そして彼の死後まで、続いているのである。そのどこをとっても、比嘉春潮と交錯するものがあったといえるし、由井さんは「雑記帳」で、再び比嘉春潮を思いださない日はなかったのではないかと思う。由井さんは「沖縄研究の背後には必ずといっていいほど先生のかげながらのご助力があったといっていいのではないだろうか」と書いていたが、「雑記帳」を書きながら、そのことを、まざまざと感じたのではなかろうか。
「目ざめた那覇女」の姿を浮かび上がらせた
由井さんは、金城芳子について、たびたび触れていた。その一つに、その生涯を簡明にまとめた「金城芳子(1901~1991) 里子千人を育てる」(『別冊 環⑥ 琉球文化圏とは何か』2003年6月)があるが、ここでは、「那覇女が目ざめた時 金城芳子・時代の潮流を受けて」をとりあげたい。
由井さんはそこで、沖縄の女性一般についてよくいわれる「情熱的」「情が濃い」「バイタリティーにあふれる」「即物的」といった言葉をあげ、「まことに限られた言葉で語られ、貧弱な個性しか浮かび上がらせずにきた。それはきっと、沖縄の女性たちが、沖縄の歴史を支えながらも自らを語らず、また男性たちも女性によりかかるだけで説き明かそうとはしなかったからにちがいない、などと考えたりする」といい、筆を転じて金城芳子におよび「金城芳子という沖縄女性は、東京で那覇の庶民出身の女の特性をまるごと活かして、自分の生命を燃やしつづけられたひとりである。長くお付き合いいただくほどに、まさにもう那覇女でなければならない、けっしてほかのどこにもない、沖縄の中でも珍しい町人町であった那覇からでなければ出ない個性をゆたかにもっていらっしゃる」(「那覇女が目ざめた時 金城芳子・時代の潮流を受けて」『青い海』新年号、1982、109号)という。
続けて、彼女の略歴およびその歩みをまとめるようにして「あくまで表には立たず、縁の下の力持ち的な仕事にエネルギーを注ぎ込んだ半生だった」と述べていた。
『なはをんな一代記』は、一言でいえば「縁の下の力持ち的な仕事にエネルギーを注ぎ込んだ半生」を回想したものだったといっていいようにも思える。
一九七六年九月二六日付『沖縄タイムス』は、金城芳子の「『なはをんな一代記』を終えて」を掲載しているが、金城芳子はそこで由井さんについて次のように書いていた。
由井記者の長年の御職業から聞き上手と、引き出し上手についつい我を忘れて、引き込まれてしまったというのが本音である。
彼女は言う「明治・大正・昭和初期にかけての沖縄女性の生活の資料が少ない。女性自身が体験した日常生活、それをさせた思想、信仰、即ち心の生活史、そんなものが、沖縄研究にどうしても必要なものである」と。
また「沖縄在住の女性方は、うちなあ世と大和世、アメリカ世を暮らしてきて記憶がごちゃ混ぜになってしまっている。郷土から離れて永く異郷にいる人の方が旧沖縄の記憶が鮮明のようである。その上常に沖縄を主張し沖縄文化に郷愁と情熱を燃やしている」ということで私に白羽の矢が立ったわけのようである。
金城は、由井さんの要望を聞き入れ、当時放映されていた「雲のじゅうたん」を見たり「高群逸枝の自叙伝」を読んだりして準備を整えるとともに、話の裏付けが必要だとして、由井さんにそのことをお願いしたところ、「彼女は、私のたっての頼みを聞き入れて、あらゆる図書、雑誌、新聞から抜粋して『雑記帳』を作ってくれた」といい、「これによって私は青春、壮年、晩年を再体験するが如く、記憶をよみがえらせた。二人はいつの間にか心の琴線を共鳴させ、ついに今日まで持ちこたえた。朝永全集とともに私や子や孫への遺産ともなった」と述べていた。
由井さんは、金城芳子について、「縁の下の力持ち的な仕事にエネルギーを注ぎ込んだ半生だった」と書いていたが、それは由井さんについてもいえることである。
由井さんのそのような姿勢がよくわかる仕事について、あと一つだけとりあげておきたい。
エネルギーを注ぎ込んだ縁の下の仕事
『新沖縄文学』1970年夏季号は、広津和郎の「さまよへる琉球人」を掲載した。「さまよへる琉球人」が発表されたのは1926年3月号の『中央公論』である。雑誌が発売されるとともに、広津のもとに沖縄青年同盟本部から、抗議書が送られてきて、広津は、謝罪文を書く。そのなかで「あの作を今後創作集などに採録しないのは勿論、自分はあの作を抹殺したいと思います」と宣言、以後その言葉通り抹殺され、「幻の小説」(国吉真哲)として、埋もれたままになっていたものである。
由井さんはそのことについて「ところでこの事件は久しく忘れられた形になっていたが、戦後ふたたび話題になった。前掲『琉球に取材した文学』にとりあげられたあと、比嘉春潮、霜多正次、新里恵二共著『沖縄』(1962、岩波新書)、比嘉春潮『年月とともに』(1964、沖縄タイムス連載)の中にもとりあげられた。事件が広く知られるとともに、沖縄の中で、作品そのものを知りたいという要望が出てきた。それは戦後二十年余の歴史をへて、沖縄人自身が沖縄および沖縄人について考えようという機運が高まり、さまざまな沖縄研究が盛んになったのと軌を一にするもの」だと書いていた。
由井さんは、広津の筆禍事件について、もっとも詳しい一人であったことは間違いない。それは由井さんが『金城朝永全集』の編集および「年月とともに」の口述筆記をしていたことによるものである。金城朝永、比嘉春潮ともに、作品のモデルとなった人物たちをよく知っていたこともあるが、作品について、意を尽くした文章をそれぞれに残していたことで、学ぶことが多かったと思えるからである。
金城は、この作品は「色々の点で注目に値する文献である」として、「明治以降の文壇における中堅作家による琉球人を取材にした最初の創作であること、またこの作品が中央の一流の総合雑誌に発表されたこと、今一つはこれが作家と琉球人の間に物議を醸した記念すべき一番初めの文芸作品で、もし将来「琉球関係筆禍史」とでもいうものを草する場合には特筆大書せられるべきであると思うからである」と書き、作品に対する抗議書も、抗議書に対する広津の態度も「紳士的で、共に称賛に値するフェアプレイであった」としていた。
比嘉春潮も、しばしば被害妄想的であったり、無理解であったりする同様な抗議が他でも起こったが「この時は青年同盟もりっぱだったし、受けた広津さんの率直な態度も大変りっぱだった」と書いていた。
由井さんが、1970年復刻されるまで「さまよへる琉球人」を読んでいたかどうか判然としないが、この問題がどう見られていたかについては、織り込み済みであったといっていいだろう。
『新沖縄文学』は、「広津和郎作「さまよへる琉球人」掲載にあたって」として「牧港・記」になる一文を掲げているが、そこに「自ら禁断の小説として烙印を捺した広津和郎氏の生前の意志に反し、これを再び日の目に晒す作業は正直な話、困難をともなった。しかし、本誌の要請を快く容れ、それをあえて許可してくださった遺族、広津桃子さんにたいしてお礼をのべると同時に、困難な仕事をやりとげてもらった由井晶子記者(沖縄タイムス東京支社・編集部)をはじめコメントを書いてくださった諸氏の労を多とするものである」と書いていた。そこに記されている通り、由井さんは、ここでもまた「縁の下の力持ち」的な仕事をしていたのである。
由井さんの仕事としては、そのような「縁の下の力持ち」的仕事ではなく、沖縄にもどってきて以後はじまる活動、そして前面に躍りだしてきたようにみえる講演、執筆活動がよく知られているかもしれない。そのことについては「由井晶子さん ジャーナリスト」(『-沖縄―社会を拓いた女たち』2014年12月10日)で紹介されている通りである。女性史関係の仕事や、現場からの報告については、私が紹介するまでもないであろう。
そろそろ終わりにしたいと思うが、あと一つだけ、『金城朝永全集』のことで書いておきたいことがあった。
1975年2月『沖縄文化』は、「金城朝永特集号」を組んでいて、全集からもれている「論文と遺稿」を収録していた。私は、自分の仕事が、いかに甘いものであったかを反省させられることになるが、それはともかく、そこに寄稿している由井さんの「金城朝永さんのこと」を読んで、あらためてかみしめたことがあったのである。
由井さんは、金城朝永に会ったことがあった。それは、東京にいて、いわゆる「沖縄学」の基礎を築いた人々の謦咳に接していたことをそれとなく語るものとなっていた。
由井さんは、「沖縄学」の若手だった一人、金城朝永について「ねばっこく「これでもか」というように「沖縄」を追及されたたくさんの論考、特に沖縄のとかく卑しめられた庶民文化に光を当て、市民権を得させようと努力された姿勢に、火のような烈しい気魄と沖縄人の意地のようなものを感じ、ただ圧倒された」という。
金城朝永の多くの論考もそうだが、なかでもなぜ彼は『異態習俗考』のようなものを書かなければならなかったのかについて、私は考えあぐねたことがあったが、由井さんの言葉で、氷解したように思えたのである。「沖縄人の意地のようなもの」というのは漠然としているが、まさにそうとしか言いようのない「意地」が書かせた一書が『異態習俗考』であったのだと思ったのである。
「年月とともに」といい、『金城朝永全集』といい『なはをんな一代記』といい、東京時代の由井さんは、裏方に徹したといっていいだろう。そして沖縄に戻ってきてから、個性を発揮したといえばいえるかと思うのだが、そのどこにいても彼女の仕事には「沖縄人の意地のようなもの」が貫流していたといえるのではなかろうか。
なかほど・まさのり
1943年南洋テニアン島生まれ。1967年琉球大学文理学部国語国文学科卒業。法政大学大学院人文科学研究科日本文学専攻修士課程修了。73年琉球大学法文学部文学科助手。85年琉球大学教養部教授、法文学部教授を経て2008年定年退職。主な著作、『沖縄の戦記』(朝日新聞、1982年)。『沖縄近代詩史研究』(新泉社、1986年)。『沖縄の文学1927年~1945』(沖縄タイムス、1991年)。『沖縄系ハワイ移民たちの表現』(ボーダーインク、2012年)。『「南洋紀行」の中の沖縄人たち』(ボーダーインク、2013年)。『沖縄文学の一〇〇年』(ボーダーインク、2018年)など。
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