コラム/投稿
“死者に鞭打とう”
小説家 笠井 一成
安倍が辞意を表明した(2020.8.28)。すると突然、安倍の人気が回復した(「安倍政権を『評価』71%」*『朝日新聞』9.6)。なぜか。「去った人はいい人にする悪い癖(千葉県 村上健 9.8)」が日本人にはあるからである。そしてこの「悪い癖」の所以は、日本人の道義心である。辞める者に追い打ちをかけるな、死者に鞭打つな(べつに安倍は死んでいないが)というわけである。
しかしこの「道義心」は、語義に反して「不道徳」である。それについては後述する。
◇ ◇
ところで、ここに一つの「分析」がある。
曰く「安倍さんが長く支持されるに至った強みは『かわいさ』だ。坊ちゃん育ちの保守政治家で、エリート左派のような冷たさがない。政策とは別文脈で人間的にチャーミングだと思わせる魅力があったのだろう。どこか憎めない感じは、トランプ米大統領にも共通する。『かわいい』という言葉はもとは『いたいたしい』という意味を含み、無力で無害なものに対して使われることが多い。疑惑や失敗が大きなマイナスにならなかったのは、彼の求心力が有能さや信念ではなく『かわいさ』に基づいていたからだ。舞台で転んだアイドルに声援を送るように、無条件の支持が集まった」(鈴木涼美-元AV女優・元日経新聞記者 9.6)。
これは「若者が若者の空気を読み解いた分析」ではなく、単なる鈴木の主観である。鈴木(1983年生まれ)が安倍を、奇怪にも「可愛い」「憎めない」「無力で無害」と思っただけの話であり、客観と呼べる根拠はそこにはない。
鈴木を真似て、私(1959年生まれ)も主観を述べる。曰く「私は安倍を憎む。人生でこれほど人を憎んだことはない。安倍の顔を見るだけで虫酸が走る。『家の七光り』で政治家に成り上がった安倍の有害アホバカ独裁7年8カ月を、私は憎む」。
主観を離れ、「辞めたとてチャラにできない安倍の罪(福井県 山本一善 9.17)」を「客観的に」見る。安倍の「罪」とは何か。蟻川恒正(5.2)に語ってもらうことにする。
「歴代の内閣法制局答弁により憲法9条違反であることが確立した政府解釈となっていた集団的自衛権の行使を、同条改正に言及することなく、閣議決定のみで合憲へと解釈変更した」「憲法ができないとしていることを一内閣でできるとしたことにより、憲法改正規定(96条)を裏から侵犯した」
「検察庁法22条の下で検察官には国家公務員法の定年延長規定は適用されないとする39年間疑われなかった政府解釈を、新たな政府見解を発しただけで変更し、一人の検察官の定年延長を強行した。『法ができないと言っていることを、法を変えもしないでできることに』したのである」「内閣総理大臣をも訴追しうる権限を持つのが検察官である。検察官の定年規制を政府見解のみで反故にすることを許せば、政権の言うことを聞く検察官は定年を延長し、聞かない検察官は延長しないとすることができる」
「一方で内閣法制局の人事慣行を破って、長官の首を集団的自衛権行使容認論者にすげ替えた。他方で『一強』となった首相が法務大臣の、事実上首相の息のかかった内閣人事局が法務省幹部職員の、それぞれ首根っこをつかんだ」
「法の秩序は、ほとんど破壊されたといっても言い過ぎではない」
「憲法改正によらなければ認められないとされた集団的自衛権の行使を閣議決定で合憲としたことは、国民が保持する憲法改正権を内閣が簒奪したことを意味する。検察庁法改正案の提出前に検察官の定年延長を実現したことは、国民が有する法律制定権を内閣がかすめ取ったことを意味する」
「目的を達するのに必要な法制定を待たずに抜け道を探る現政権中枢は」「脱法行為さえ厭わない政略家の集団に近い」
このように、安倍の罪とは法治の破壊である。
「きょうで終わる安倍政権を振り返ると」「嫌なものを押しつけられたようだ。それは」「『倫理の喪失』とでも言うべきものだ」(9.16)。
「損なわれた最たるものは法の秩序である」「閣議で勝手に決めてしまう」「国会論戦からは逃げを決め込む。審議に出ても質問にまともに答えない。情報公開に背を向け、公文書の改ざんに手を染める。民主主義の土台が腐食した7年8カ月だった」(9.16)。
このように、安倍の手により日本は法治国でなくなった。法治のない国は二等国である。安倍は日本を二等国に貶めたわけだが、当の安倍はその自覚を欠く。事の重大さに気づいていない。蟻川によれば「基本原則を壊しているという大それた意識もなし」。ちなみにこんな安倍が法学部卒(私学)とは、笑えない冗談にもほどがある。
◇ ◇
1945年4月。
ルーズベルトの死に際し、鈴木貫太郎は「氏の指導力は目覚ましく、米国が先進的な地位にあるのは氏のおかげです。米国民が氏を失ったことに心からお悔やみを申し上げます」と哀悼の意を表し、ヒトラーは「運命の女神は史上最大の戦争犯罪人ルーズべルトを地上から消し去った」という声明を出した。「敵を称える鈴木は紳士として尊敬され、死者を罵るヒトラーは人間性をますます下げた」、多勢はそのように納得するだろう逸話である。
かたや私は、全然そう思わない。なぜか。タイミングが東京大空襲の直後だからである。
あの残虐の最高責任者は大統領である。それの死に「心からお悔やみ」を述べる首相・鈴木の神経を、私は疑う。首相が弔意哀悼を捧げる対象は、二時間で焼き殺された十万の日本庶民に対して、でなければならない。ところがそんな発想を、鈴木はしない。庶民の死は庶民の死。戦時だから死ぬのは当たり前。「個別の死」のいちいちに、日本為政者(鈴木に限らない)の視線は向かないのである。
「加害者へのお悔やみ」という異様は、戦後、これでもかとばかりに無様の上塗りをする。東京大空襲の立案・指揮者であるカーチス・ルメイへの、日本政府による叙勲である(首相は安倍の大叔父佐藤栄作、防衛庁長官は小泉純也。理由は「航空自衛隊育成への貢献」)。
この卑屈の由来は何か。「憎しみは悪」「水に流すは善」で被害を忘れ、「一憶総懺悔」で加害をとぼけ、「あやまちはくりかえしません」と一切を曖昧化する無責任、理不尽への鈍感、論理性の欠如、歴史への等閑視、哲学なき精神構造、「筋を通す」心性の不存在、である。
鈴木に「高潔な騎士道精神」を見出し、「さすが日本人」と悦に入るような手合いは多い。この手合いこそが「去った人はいい人にする悪い癖」の持ち主、「死者に鞭打つな」主義者である。これらは打倒の対象である。なぜか。人は、憎むべきときには正しく憎まなければならないにもかかわらず、これらは憎悪を下品視し、自らを倒錯的上品に封印する愚か者だからである。
最近はやりのトーンポリシング。「もっと冷静に」「礼儀正しく」「そんな言い方では通じないよ」等、言説の内容より表現の作法をあげつらうやり方だが、これは「言説内容を理解できないバカがバカなりに相手をやっつけようと一生懸命がんばったタワゴト」か、または「言説内容への反発を相手をみくびる形で表そうとするタワゴト」である。いずれにせよ、トーンポリシングはタワゴトだから評するに値しない。単に醜いだけ。
醜いトーンポリシングと「死者に鞭打つな」主義は、倒錯的上品において相通ずる。すなわち、上品のはき違え、品性の勘違い、品格のトンチンカン、場違いな気品、である。
「死者に鞭打つな」さらには「罪を憎んで人を憎まず」は昔からの日本人の習いだが、これらは、思想の偽善的腐敗であり逆説的反倫理である。冒頭で「死者に鞭打つな」主義を私が「不道徳な道義心」と呼んだのはこの意味である。
被った害を「チャラ」にせず加害責任を最後まで追及する、その者に責任があるならば、辞めようが死のうが関係ない、地獄の底まで追いかけても責任を取らせる、そして被害は必ず回復させなければならない。その手続き途上、「憎しみ」は大切なモチベーションとなるだろう。
◇ ◇
ルーズベルトやルメイは憎まれるべきである。同じく、法治を破壊し日本を二等国に貶めた安倍は憎まれるべきである。安倍をこのまま野放しにしてはならない。そうし得ない限り、日本人は「永遠の卑屈者」であり続ける。
*…引用はすべて2020年の『朝日新聞』
かさい・いっせい
1959年生まれ、京都市左京区出身。旧ペンネームはヨーゼフ・Kまたは闇洞幽火。1990年「犬死」が第22回新日本文学賞候補作。1992年「希望」が第23回新日本文学賞候補作。1993年「特殊マンガ家の知性」が第1回マンガ評論新人賞最終銓衡作。著書、『形見のハマチ』(近代文藝社 1995年)、『はじめての破滅』(東京図書出版会 2009年)、『父と子と軽蔑の御名において』(牧歌舎 2011年)、『不戦死』(風詠社 2016年)、『血魔派の三鷹』(幻冬舎 2017年)、『ヘル・K・イッセの思い出』『我が世の春』(三恵社 2020年)。
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