コラム/温故知新

日本主義労働運動と石川島自彊組合

下町の労働運動史を探訪する(9)

現代の労働研究会代表 小畑 精武

1.満州事変後の右傾化―民族的社会主義

1931年(昭和6年)9月18日、突如として満州事変が勃発(日本軍の謀略)。事変をめぐって民族主義的な意識が国民の間に、無産政党の中に芽生えていった。11月22日の社会民衆党の中央委員会は「満蒙問題に関する決議」を挙げるが、赤松克麿書記長は以下のように集約し、国家社会主義の立場を示し満州事変を支持する。

①満蒙問題が、現下のごとく日華両国間に憂うべき紛争を生じたることは、我等の甚だ遺憾とする所である。これ中国軍閥の不当なる計画的排日行為と、我が国政府の誤れる伝統的ブルジョア外交と満蒙政策とに共同責任ありと信ずる。

②国際社会主義へ向かう道程として、社会主義日本の建設を必然的段階と信ずる我等は、日本国民大衆の生存権確保のため、満蒙におけるわが条約上の権益が侵害さるるは不当なりと認む。

③我等は従来の誤れるブルジョア的満蒙管理を排して、これを社会主義的国家管理に移し、更にこの立場に立って、満蒙における日華民衆の生活利益のため、両者の経済を樹立すべきことが、真の満蒙問題の根本解決なりと信ずる。

④今や我国資本主義は、根本的行詰を来たし、無産大衆の生活は窮乏化しつつあるが、満蒙問題もまた日本資本主義の弊害の一断面なりと認む。依って我等は、満蒙問題の解決は、我国の全面的資本主義機構を変革するにあらざれば、到底不可能なりと認め、資本主義打倒の必要愈々切なるを痛感するものである

満州事変の勃発とその後の展開は、労働者の立場を代弁する無産政党とその支持母体である労働組合にも大きな影響を及ぼした。社会民衆党は1927年の山東出兵には反対したが31年の満州事変には赤松書記長は「満蒙は日本の生命線なり・・・陸軍省の方策無条件に賛成す」(井上寿一『戦前昭和の世界1926~1945』)と支持の態度を明らかにした。赤松派は社会民衆党を飛び出し日本国家社会党を32年5月に結党する。

もう一つの無産政党、全国労働大衆党は、堺利彦を委員長とする対華出兵反対闘争委員会を設置している。満州事変以降の政治情勢を「金融資本支配の帝国主義ブルジョアが、急速にファッショ的支配を確立しつつある」ととらえ「帝国主義ブルジョアジーとの闘争に集中しなければならぬ」と大会で明らかにした。31年10月、東洋モスリンの争議の真っ最中に、本所公会堂(両国)で対華出兵反対闘争の演説会をひらいた。

32年1月には、上海事変が起こる。さらに、5月には5・15事件が勃発、犬養首相が青年将校の一団によって暗殺され、自由主義から全体主義へ国家体制の転換がすすみ、政党政治に幕が下りていく。さらに中間派は33年7月に「反ナチス・ファッショ排撃同盟」の結成と民衆大会を本所公会堂で1500人が参加して開いている。この集会後、警察と参加者がぶつかり、その責任者として戦後社会党副委員長となる山花秀雄が逮捕された。この年は、後年社会党委員長となる浅沼稲次郎が深川区から東京市会議員(現都議会議員)に立候補し当選した年でもあり、共産党の佐野学、鍋山貞親が獄中で転向声明を出した年でもあった。

2.赤松克麿と国家社会党

1932年(昭和7年)1月の社会民衆党大会では、赤松書記長を中心にマルクス主義的国家観を批判し、日本の国体を尊重する精神の明確化をはかる以下の運動方針を打ち出した。

①日本の国体を尊重するの精神を一層明確にすること。

②国家の本質に対する認識において、マルクス主義の搾取的国家観を排し、純正なる統制機能を有する機構としての国家観を肯定する立場を明確にし、更にその統制機能の民衆化の実現を期すること。

③現下の熾烈なる民族闘争の世界状勢下において、国民的利害関係を無視し、全世界 の無産階級的共同利益のみを高調し、且つ機械的画一的国際闘争を企図するマルクス主義的国際主義は、空想的誤謬なることを明らかにし、無産階級の国民的立場を明確化した上で、最も現実的なる国際主義を採ること。

④我等は、従来、議会万能主義を奉ずるものではなかったが、絶対的議会否認主義の共産党と対立した関係上、往々我等の運動方針が、議会万能主義であるかのごとき印象を一般に与えた。今日、我等は斯くのごとき印象を一掃するの必要を感ずるとともに、更に加えるに、現在の客観情勢に直面して、我等は議会政策と相並んで、一層活発な議会外の大衆行動を展開するの必要を認めること

同時に日本労働倶楽部(最右翼の日本産業労働倶楽部とは別の組織)の基本である三反主義(「反資本主義、反共産主義、反ファシズム」)からなる戦線統一案を可決する。

さらに赤松派は新運動方針に基づき社会民衆党を解党し一大新党を樹立すべきと、32年4月の中央執行委員会で主張し、他方三反主義に基づき全国労働大衆党と合同すべきとの主張が出され、4月15日の中央委員会では赤松派は敗北した。赤松派は脱党を決議し、国家社会主義新党準備会結成へ走っていく。全国労農大衆党のなかにも国家社会主義派が生まれ、赤松派に合流していった。この年32年6月には国家社会党と日本労働同盟内の路線対立が起こり、赤松派は「軍部との密接な連絡が必要(クーデタか)」と主張、対して反赤松派は「革命は簡単におこらない、現実的問題を考え、大衆が最も喘ぎつつある当面の生活改善問題を中心とした経済闘争こそ必要」と訴えた。(井上寿一、前掲書)

社会民衆党と全国労農大衆党は歩みより統一に至り、7月に社会大衆党が委員長安倍磯雄、書記長麻生久で結党された。その後、34年10月1日に陸軍新聞班が発表した「国防の本義とその強化」(陸軍パンフレット)を麻生は支持し、11月には社大党全国委員会も支持。麻生は「日本の国情においては、資本主義打倒の社会改革において、軍隊と無産階級との合理的結合を必然ならしめている」と親軍的傾向を示したが、旧社民系から批判が出てくる。

3.愛国主義労働運動

飛行機「愛国労働号」を献納

愛国労働号

満州事変後、国防献金運動が軍事的慰問・献金運動は31年末に爆発的ブームとなる。32年9月10日までに国防献金は飛行機50機を含め587万円に達した。そのなかで、無産階級が女子学生、中学生に次ぐ寄贈者となっている。

従業員のなかでも紡績工場従業員と商店員が最も多かった。この労働者献金運動の主役が32年12月に結成された国防献金労働協会である。「同協会の発端は日本主義労働運動をかかげる石川島造船所自彊組合神野信一の呼びかけで、日本造船労働連盟(7352人)、日本労働組合総連合(3650人)、東京乗合自動車中正会、関東製鉄労働組合の4団体他、単独労組、未組織労働者をも結集して大々的なカンパニアを展開した。協会には、かつて大争議を経験した野田醤油従業員一同、芝浦製作所乃木講社が参加していることが注目される」(粟屋憲太郎、『十五年戦争期の政治と社会』大月書店、1995)

献金運動の「趣意書」には「満州国の興亡と関連して、未曾有の重大なる難関に当面している。・・労働者の立場から、深く国際平和を愛し、国際間における労働者相互の協力を衷心より望むものでありますが、同時に他国の横暴また無理解に対して、死を持って国防を全うせんとの熱情に燃ゆるものであります。・・ここにおいてわれわれ労働者階級の血と汗をもって、・・労働賃金の拠出により・・“愛国労働号”を建造し・・国家に献納するものであります」と愛国労働運動が謳われ、戦争への道を転げていった。

石川島自彊組合は造船労働連盟の前身武相労働連盟に1929年5月、2800人で加盟し、さらに右にウイングを広げた「大右翼」の統一をめざしていた。さらにこれらの日本主義に立つ労働組合は、33年6月に産業労働倶楽部(9,666人)をつくる(39年10月に解散し、各事業所の産業報国会となっていく)。

他方「大統一」を進めてきた右派の日本労働倶楽部は32年9月に日本労働組合会議(22万)に発展する。しかし、東京市従、東電従業員、東京瓦斯(ガス)工、横浜市従、純労働者組合(亀戸事件の犠牲者平沢計七が主事(書記長)だった)など中間派のなかに「労働倶楽部排撃同盟」が生まれた。

最右翼の国防献金労働協会の中軸・日本造船労働連盟は「結成当初より今日まで終始一貫して毅然としてこれを何者にも冒されず護持して来た光輝ある日本精神を、今後においても、聊かも傷つくる事なく日本労働組合会議と結盟を持続し得ざること」をもって日本労働組合会議を脱退した。

(戦前の労働団体は小規模のうえに、よく似た名称のものが多く、覚えにくいのはご容赦ください―筆者)

愛国労働祭(メーデー排撃)

1933年(昭和9年)の第14回メーデーは、全国で25,490人が参加。はじめて左右に分裂し、左派(芝浦、2500人)と右派(芝公園、3500人)となった。

また日本主義を掲げる国家社会党、日本生産党、神武会などは独自に4月29日愛国労働祭を「献納飛行機(愛国労働号)命名式」として代々木練兵場(現代々木公園)で開催し2127人が結集した。以下のスローガンを掲げた。

〇日本主義労働組合拡大強化

〇労働者の団結は強き国家の基礎となる

〇共産主義撲滅

〇労働者の手にて国防の充実を図れ

〇悪辣なる資本家を排撃せよ

〇欺瞞的愛国運動を葬れ

〇亡国メーデー排撃す

〇日本主義労働祭の確立

〇日本主義運動による労働生存権の確立

〇東洋平和の建設は先ず吾等の手から

〇日本主義労働団体に職業紹介権を与へよ

大阪でも同様のスローガンのもとに、同日愛国労働祭が中之島公園で開かれ1170人が参加している。

翌34年には4月3日(神武天皇日)に深川公園(現江東区)で、以下のスローガンのもと3122人が参加している。

〇日本労働祭大示威

〇産業報国の旗の下に

〇階級闘争の絶滅

〇全国産業労働会議の実現

〇赤色メーデーを粉砕せよ

〇愛国労働組合戦線統一

〇非国家的資本の膺懲(ようちょう;うちこらす)

〇愛国労働者の生活権の確立

〇皇道日本の建設

〇臨時雇用制度改革

〇産業機構の国家統制

スローガンの中に早くも「産業報国の旗の下に」「全国産業労働会議」が登場していることは見落とせない。

翌35年4月3日には、よりいっそう日本主義イデオロギーを強め、産業報国会への道をすすむ。靖国神社境内に5572人が参加している。

〇労働報国  

〇皇道日本の建設

〇労働者生活権の確立

〇階級闘争の絶滅

〇愛国労働組合戦線統一

〇全国産業労働会議の実現

〇日本精神の宣揚

ここに掲げられているスローガン「日本精神の高揚」「皇道日本の建設」「産業報国」「労働報国」「赤色メーデー排撃」「階級闘争の絶滅」などは「日本主義」の特徴をよく示し、極めて抽象的だ。とくに34年の「産業報国の旗の下に」は、後に労働組合がつぶされ吸収されていく「産業報国」のもっとも早い使い方としていえよう。

第一回メーデーが掲げた「失業防止」「治安警察法第17条廃止」「最賃確立」「8時間労働制実施」など肝心な労働運動の基本的課題がない。唯一、「臨時雇用制度改革」「職業紹介権を与えよ」が具体的課題として目立つだけだ。

メーデースローガンをみると左派と右派との違いより、日本主義と左派ないし右派の違いの方が大きい。分裂メーデーとなったが左派と右派との違いは日本主義との違いより小さく統一は可能だった。日本労働組合会議が掲げた「反資本主義、反ファシズム、反共産主義」は社会民主主義のスローガンであり、人民戦線で同じスクラムを組むことは可能だった。

こうして、戦前日本の労働戦線は、最右翼の日本主義(日本産業労働倶楽部)、右派の労働組合主義をめざす日本労働総同盟、日本労働組合会議、左派の日本労働組合全国評議会へと再び分流していった。産業報国会という大きな池に集められナチスのガス室のように労働組合の命はやがて絶たれていく。

労働組合法の制定はじめ労働者の権利の確立は戦後に持ち越されることになった。

4.元祖日本主義の労組―石川島自彊組合

石川島自彊(じきょう)組合の設立

石川島消費組合

石川島は隅田川の河口にある。江戸時代末期に幕府が造船所を建設、以後軍艦が建造され、明治時代から争議が繰り返されてきた。

1921年7月には造機船工組合が結成され、評議会・関東金属労組(共産党系)に加盟。関東大震災後の26年には大争議が起こった。「隅田の河口に、民間造船工場として日本で最も古い歴史を有する、我が石川島造船所にすこぶる悪性のストライキが起こった。・・争議団の要求中の主なるものは、給料の値上げと株主配当を5分以下にせよと云う事であり、しかもその給料は各自平等にせよと云うのであった」と石川島自彊組合・神野(かみの)信一組合長(当時職長)は自彊組合結成の背景を語っている。

造機労組は、厳しく会社を追及し、副社長を吊し上げた。しかし、神野は「石川島の争議こそ全くロシアを模倣する破壊的共産主義運動にほかならない」と徹底批判し、妻子との別れも覚悟し、時には肉体的な衝突も起こしながら自彊組合の輪を広げ、造機組合を追いこんでいった。

「自彊」とは「みずから勉めて励むこと(広辞苑)」争議を多発させていた石川島造船所の左翼的労働運動に対抗し「殉死、義侠心」を強調する乃木大将の精神の修養を掲げ国体を基とする日本主義の労働組合。最初に神野信一(1889~1938)が1926年に石川島造船所で組織し「産業立国、労資融合」をスローガンとした。正義によって労働条件の維持改善をはかり、自彊組合の活動として、自彊購買組合、一人の解雇もさせない失業救済、家族を含めた健康保険病院の運営などを自彊組合の活動とした。

日本主義労働運動へ

争議団家族は、争議資金がない争議に追い込まれ、「明日の米もない」状況に追い込まれた家族は状況を神野に訴える。展望なき争議に対し、神野は「①この争議は共産主義の傀儡(かいらい)である。②争議団幹部の人格は低劣だ、③争議団幹部は感情と意地張りで無益の闘いを続け解決の意志がない、④争議団幹部は団員の多大な犠牲をかえりみない」との宣伝を職場に広めていった。深川公園ではお互いの実力部隊がぶつかり合うこともあった。そして神野はスト解除に550人を確保して50余日ぶりに工場の黒煙を吐き出させる。争議団の無条件降伏に終わった。

さらに28年の3・15共産党弾圧事件で幹部の大部分が検挙され、指導部を失った組合は崩壊状況に陥いる。「左翼労組の影響は指導者を失ったあとは意外に弱く、従業員はたちまち御用組合に吸収され、国家主義の温床になってしまうことがわかる」(「日本労働組合物語・昭和」)と評された。

30年(昭和5年)12月には世界大恐慌と軍縮のなか1000人の解雇が自彊組合に通知され、定年近い高齢者、独身者を主体とする550人が解雇された。組合は失業対策を行うとともに、労使共倒れを防ぐため「電話一通話三銭」運動を自主的に展開。残った従業員による「能率増進」生産性向上をはかり就業中「無駄口一回三銭の罰金」(東京市内電話)とする規約をつくり予想以上の効果をあげた。「労使一体の関係にすっぽり包みこまれていた。恐慌を契機に大企業における労働者の会社への帰属意識はいっそう強まったのである」(中村正則「昭和の恐慌」)

神野は労資協調を「労資対立の後の協調であり再び割れる」と批判。「労資融合」でなければならないと主張し、これこそが「日本主義労働運動」の真髄と強調した。何やら今日の日本の労使関係が浮かんでくる。

「労資融合・産業報国」

神野は、最初は評議会関東金属労組(左派系)の造機船工労働組合に加入していた。スイスに会社から技術派遣された時に立ち寄った上海外灘の公園入口に「支那人と犬は入るべからず」と書かれているのを見て仰天。「世界の労働者は団結せよ」と叫んできた欧米人による労働運動に対して不信感を抱き始める。インドではイギリスから民衆が何百年も圧迫を受けている悲惨な状態を見て涙し、欧米流の社会主義を捨てた。そして「世界の正義、人道も国家なくしてありうるものではない」と欧米に対する国家の自立の必要を身にしみて感じた。さらに「日本は、日本の国を護るだけではいけない。東洋人種、いわゆるアジア民族のために、国境を固く締まらなければならない」と使命を悟り、社会主義から国家主義へ転じていった。

スイスで学んだ労働組合主義

神野信一碑(東京・多磨霊園)

スイスでは、当時の日本の争議とは全く違った整然とした6000人のストライキを目の当たりにしてびっくり。三日間以前のストの予告、職場占拠のないスト、ストに備えた機械への油注入、組合幹部への絶対服従、交渉団への法律経済の専門家参加、会社帳簿の調査など、当時の日本では考えられないストのあり方、団交結果として賃金の一割カットの承認・スト解決にもビックリしている。

日本主義労働運動を広げる

神野は帰国後、労働組合(評議会)と別れ、明治天皇の死に殉じた乃木将軍夫妻の日本家族主義と「親分・子分の精神」を評価し、自己修養の場として乃木講を設立。乃木講で教育勅語を読み日本主義労働運動の核づくりを進め、広めていった。そこから「悪い労働組合があればその半面には良い労働組合がなければならぬ」と自彊組合結成の意義を強調する。

神野は安岡正篤が設立した右翼思想団体の金鶏学院に入り、「目前の実行、日常生活の闘争を主旨とせず、精神教化の結果が日本改造の原動力となることを期して、その指導者の育成に努め」、「産業報国」と「労資融合」をスローガンとする日本主義労働運動を提唱し広めていった。

購買組合、病院を設立

石川島健康保険病院

自彊組合が購買組合(消費生協)を組織したこと、さらに「労働者及び家族の診療所」として病院(労使による健康保険組合)を経営したことも見逃せない。当時消費組合はすでに亀戸事件で虐殺された平沢計七が純労働者組合を組織し、同時に21年10月には共働社という消費組合を組織し、診療所も賛育会や馬島(ゆたか)の診療所などが地域の労働者のために設立されていた。当時企業別労組(健康保険組合)が独自に病院を持つことはまれであった。石川島の病院には大学関係の医者が無料で協力。こうした組合を内務省は「日本一」と評価している。

結局は産業報国会へ

1929年に自彊組合は企業別労組である横浜船渠(造船所)、浦賀船渠と武相労働連盟に参加、30年には1万4000人の日本造船労働連盟と改称、勢力拡大をはかっていった。33年にはメーデーに対抗して「愛国労働祭」を開催し分裂する。その後自彊組合は35年10月に愛国労働団体の全国的統一をすすめていく。石川島自彊組合は38年7月に解散し、全国で最初の事業所内産業報国会を設立することになる。

これまでの歴史的経過を振り返ると、たしかに日本主義労働運動は満州事変以降の右傾化の流れのなかで、“最右翼”の位置を占め、そのなかで“最先端”の石川島自彊組合は社内において具体的に実践をしていく。そして最初の事業所内産業報国会設立となった。その先頭に立った自彊組合の神野委員長は33年9月に44歳の若さで亡くなった。そして日本主義労働運動は、右派総同盟と社会大衆党、中間派東交など、および左派無産党系を乗り越える運動・組織を築くことはできなかった。志なかばであったかもしれない。

確かに、日本主義労働運動は戦争への突入やその限界から成就をみることなく潰えた。だが神野信一が唱えた「産業報国」「労資融合」に加え、「能率向上(生産性向上)」「親分・子分」「従業員の生活(消費組合、医療、介護)」など、今日も乗り越えるべき重い課題として残され突きつけられている。温故知新!

【参考文献】

赤松克麿『日本社会運動史』岩波新書、1952

粟屋憲太郎『十五年戦争期の政治と社会』大月書店、1995

井上寿一『戦前昭和の世界1926~1945』講談社現代新書、2011

大河内一男、松尾 洋、『日本労働組合物語 昭和』筑摩書房、1969

神野信一『神野信一講演集』社会運動往来社、1932

中村正則「昭和の恐慌」(『昭和の歴史2』)小学館、1982

杉浦正男・西村直樹『メーデーの歴史』学習の友社、2010

田中勝之、鎌倉孝夫編集『ファシズム下の労働運動―日本労働者運動史④』 河出書房新社、1975

山花秀雄『山花秀雄回顧録』、日本社会党中央本部機関紙局、1979

おばた・よしたけ

1945年生まれ。東京教育大学卒。69年江戸川地区労オルグ、84年江戸川ユニオン結成、同書記長。90年コミュニティユニオン全国ネットワーク初代事務局長。92年自治労本部オルグ公共サービス民間労組協議会事務局長。現在、現代の労働研究会代表。現代の理論編集委員。著書に「コミュニティユニオン宣言」(共著、第一書林)、「社会運動ユニオニズム」(共著、緑風出版)、「公契約条例入門」(旬報社)、「アメリカの労働社会を読む事典」(共著、明石書店)

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