論壇

みどりやと「サブカルチャー」(下)

シリーズ⸺ちんどん屋・みどりやの「仕事帖」から

フリーランスちんどん屋・ライター 大場 ひろみ

もう一人のセイジ

草創期のちんどん屋と雑誌宣伝

講談社(大日本雄弁会講談社)の創業者で雑誌王、宣伝狂とも呼ばれた野間清治は、「メディアミックス」と「広告」を駆使する先駆であり、何と草創期のちんどん屋も使っていた。草創期とはどのあたりの時代かというと、街頭で代理宣伝をする行為を広く扱うと江戸時代まで遡るので、私が用いる線引き方法は、鉦と太鼓を組み合わせた楽器、「チンドン」を用いて、街頭で代理宣伝する行為者を「ちんどん屋」(最初の頃の呼び名はそれ以前の街頭宣伝を継承して東西屋とか広目屋)とし、このスタイルの宣伝者が現れたのが大正時代半ばと見ている。例えば前々回の連載で取り上げた雑誌記事に登場した増山当昇(前々回引用した時、間違って東昇になってました、ごめんなさい)というちんどん屋は、「大正9年からこの道に入った」(前々回の表1・引用雑誌一覧表中の①記事より)という。詳しくは拙著『チンドン』を見てください。

講談社がちんどん屋を採用した例を社史等から見てみる。

「(小沢愛圀談)あるとき野間さんのところへ行くと、チンドン屋の楽隊がくりだされるところなので、私は不審に思い、野間さんにたずねると、野間さんは『講談倶楽部』の宣伝隊ですよとのことに私はその奇抜さに驚きました。というのは、このころは雑誌や単行本の宣伝にチンドン屋の楽隊を使ったところはどこにもなく、これも野間さんが初めてやったことでした。」(『講談社の歩んだ五十年 明治・大正編』講談社1959年)

この談話と同じ宣伝のことだろうか、『講談社の80年:1909~1989』(講談社1990年)では、1918年(大正7年)の項に「出版界で初めてのチンドン屋による『講談倶楽部』の宣伝も、この年おこなわれている」とある。社史なのでこの年代は確かだろうが、これがどういう形態の「ちんどん屋」で、この当時から「ちんどん屋」と呼ばれていたのか判然としない。後世に証言者が街頭で宣伝するものを今日の呼び名で「ちんどん屋」と一括して呼んでいるかも知れないからだ。

「チンドン屋の楽隊」という呼び方も、チンドン太鼓を使用しない「楽隊」形式であったと思わせる余地がある。チンドン太鼓を抱えたちんどん屋と確認できれば、その登場が大正7年まで確実に遡れ、名称がこの当時から「ちんどん屋」であれば最も古い用語の使用例になる(細川周平『近代日本の音楽百年第1巻洋楽の衝撃』岩波書店 によれば、「『チンドン』の語は文字に残る限りでは昭和初年に現れる」)ので、講談社さん、もう少し資料があれば確認させて下さい。

また、『75年の歩み―大日本印刷株式会社史』(1952年)には、1924年(大正13年)の雑誌『キング』創刊のおり、講談社が「『キング』の赤い幟をかついだ行列の先頭にチンドン屋を立てて、街頭を練り歩かせた」とある。

この時の証言として、「(堀江常吉談)ある本屋では、うちの前ではチンドン屋はやってくれるな、みっともない。本というものはチンドン屋とそぐわないというのです。ところが、ぜひうちの前でやって下さいという本屋もあったが、やはり、やった本屋の前には人がたくさん集まる。人が集まるから、自然その本屋の雑誌が売れる。」また、「(木村孝一談)チンドン屋が来ると、大人まで喜んでいました。」(『講談社の歩んだ五十年 明治・大正編』)と、当時から目をひそめる向きもあったなかで、効果的な宣伝でもあったことがわかる。この社史の証言と同ページには、この時ではないが、大正末期のものとして、『キング』や『幼年倶楽部』など、講談社の諸雑誌の幟と共に、まさしくチンドン太鼓を抱えたちんどん屋が「本社前に勢揃い」している写真が掲載されている。

ちんどん屋自身の証言としては、中沢寅雄という楽士のメモより、「講談社が失業救済の名目で、市内宣伝。当時は駒込坂本町に講談社があった。」中沢がちんどん屋になったのは1930年(昭和5年)からで、駒込に講談社があったのは1934年までだからその間のことだ。或いは小松家というちんどん屋の2代目貴美子の証言。「ウチのおじいさん(初代)が講談社の何か広告撒くやつ(仕事)があったの。」彼女は1925年生まれで12歳(数え)からちんどん屋をやっているので1936年以降のことだ。

講談社がことある毎にちんどん屋を宣伝に使ったとは、戦前からのちんどん屋の話でよく聞いていた。彼らにとっても大事なお得意さんだったのである。

「『キング』の時代」

師範学校を出て教員生活を経て後、東京帝大主席書記となり、その帝大人脈を生かして弁論雑誌『雄弁』(大日本雄弁会1910年)を創刊、一方で講談の筆記を掲載する雑誌『講談倶楽部』(講談社1911年)を創刊した野間清治。硬と軟とに分かれるようだが、語りを活字化するアイディアは共通している。元々内容よりもどんな器に盛るかに目を向ける野間の着想の仕方は、「雑誌」、「宣伝」という媒介する機能そのものを操るところへ必然的に行き着く。

戦前から戦後にかけて講談社を代表した雑誌『キング』(1925~1957年)を分析し、同誌が「国民大衆雑誌」として成長、君臨、崩壊する過程を追った大著「『キング』の時代-国民大衆雑誌の公共性」(佐藤卓己 岩波現代文庫 初出は2002年)は、野間清治-講談社がいかに大衆へ向けメディアとして機能したかを余すところなく著している。

まず前回の宿題、「大衆」の「発見」について、この本は冒頭から触れている。

mass=大衆、media(単数形medium)=媒介物が結びついた「mass medium」という用語の初出はそんなに古くなく、アメリカで1923年、「それ以降、『メディア』は広告媒体の集合名詞として雑誌・新聞・ラジオなどを指して使われるようになった。」「(注Ⅰ・12)もっとも、『メディア』が日本で一般的に使われるようになるのは(中略)高度経済成長以後のことである」(佐藤「『キング』の時代」)。massの訳語としての「大衆」も新語で、「大衆文芸(文学)」などとして使われたが、もっと早くにマルクス『資本論』の翻訳者・高畠素之が当てた訳語であるという。しかし当の高畠が「どうした風の吹きまわしか、急に震災前後から流行的に濫用され出し、大衆文芸や大衆興業などはまだしも、汁粉屋の廉売に『大衆デー』を敢て命名する時勢となってしまった。」(高畠の文を佐藤が引用)と嘆くように、「生産の場における『無産者プロレタリア』に対して、消費の場における『 マ ス』が意識されていることは注目に値する。」そして「消費者としての『 マ ス』の発見こそが、 マ ス消費される文学としての大衆文学を成立させた。」(佐藤)

「大衆」という概念が「発見」された当初から、消費者という面と強く結びついていたことを、「面白くてためになる」がキャッチフレーズだった講談社の『キング』は、強く意識して構想されていた。またそれは『キング』による「大量印刷・大量販売の『出版革命』」(佐藤)を伴っていた。価格もぐんと抑えて総ページ434頁(『講談社の歩んだ五十年』)で50銭(「日本で一番安い雑誌」と宣伝)、1924年12月5日創刊号発売の『キング』は増刷分を含めて74万部、2年後の1927年新年号は120万部、やがては150万部にまで達して、目標通り、日本一の「大衆雑誌」に成長する。

この『キング』創刊時、野間は一大宣伝キャンペーンを行った。全国の各新聞に大広告をほぼ4日おきに打ち、紙面には「世界的大雑誌『キング』創刊の日近し」「一家一冊 大評判の新雑誌キングを御覧!」「天下に轟く賞讃歓呼!キング新年創刊号批評の一斑」などの文字が躍った。地域の実力者や会社などに今でいうDMを200万以上も送り付け、各地の書店には少年部(住み込みで少年を大量に雇い入れゆくゆくは社員とするよう育てていた)の少年を派遣して売り込みをさせ(何と札幌まで!)、パンフ、大量のビラ、発売日には全国6000の書店に売り込みを依頼する電報、「風呂屋のポスターから街頭のチンドン屋まで『キングだらけ』の状況を呈した。」さらに「コマーシャルソングとして、『キングの歌』(野口雨情作詞、水谷しきを作曲)と『キング踊』(水谷しきを振付)が用意された」(佐藤)。宣伝方法も、やっぱり元祖「メディアミックス」なのである。

「メディアミックス」という意味では、『キング』という雑誌そのものが、対象顧客、編集のあり方とその器に盛られた中身まで、通底して「ミックス」、てんこ盛りであり、また雑誌を超えてラジオや映画などの媒体の機能を備えた「ミックスメディア」であった。

『キング』はそれまでに発刊された講談社7大雑誌(講談倶楽部、面白倶楽部、現代、雄弁、婦人倶楽部、少年俱楽部、少女倶楽部)に細分化されていた読者層をまとめて全てを対象とし、「天下万人、一列一帯、年齢、職業、階級の別なく田園生活者にも、都市生活者にも(略)どうしても無くてはならぬ一味の精神的慰安を与え、是によって卓然として振う興国的気分を奮起させるような民衆雑誌」(『キング』創刊前々日の広告より)」を目ざした。

国会図書館のマイクロフィルムに収められた『キング』創刊号は一部の保存のようだが、それを基に編集と内容をみていくと、冒頭に関連会社の祝賀広告やお偉方の並ぶ賛助員名簿、その後なぜかサーカスの高足や小人などのグラビア、『キングの歌』の譜と振付、創刊の辞、高橋是清の挨拶、野間清治の訓話、歴史小説、一行豆知識、風刺漫画、科学読み物と続き、例えば上段に訓話があれば下段に発明世界一づくしのコラムなど、飽きないように編集を工夫しているのが分かる。

小説は吉川英治や渡辺霞亭などの大衆小説だが、剣豪、怪奇、熱血ものなど多彩で必ず挿絵が添えられた。漫画は川柳や外国漫画『ジミー』まで多数含まれ、女性向けに美容や生活の工夫、また誰でも気にする健康の記事、広告もパブロンなどの薬や化粧品などが目立つ。特に目につくのは偉人の伝記や一言集がやたら多いことか。あらゆる階層や性別、年齢に訴え、「面白くてためになる」よう(ためになるのは豆知識から生活の知恵などの一般教養と、特に偉人の教えを強調して)編集されているので、なかなかなてんこ盛り感だ。今からみれば目新しくはないが、目新しくないのは、現在でも情報誌などで採用される、普及した編集方法だからだ。

佐藤は当時ほぼ同時に現れたラジオ(1925年3月)というメディアと『キング』の共通性を分析し、『キング』を「ラジオ的雑誌」と特徴づけている。詳しい分析は是非手に取って読んでいただきたいが、共に誰にでも開かれ、また「ラジオは事実性より信憑性を伝達するメディアであり、それは共感による合意を求めるファシスト的公共性にとって最適なメディア環境といえた。同じように、《一家庭一キング》、『近頃東京ではこんな標語が流行りだした』というとき、『キング』はその内容如何にかかわらず読者に国民的な一体感を与えたのである」。つまり、ラジオと『キング』は共に「気晴らしの娯楽を兼ねた大衆宣伝」(佐藤)なのだ。「(天田幸男談)後藤新平さんは『キング』の発行を非常に喜んで、『野間さんはいいことをしてくれた、日本の大衆を指導するよい機関がないと思っていたのに、これはいい機関だ。とにかく70万も売れるというのは世界でも珍しい』といっていた。」(『講談社の歩んだ五十年』)

このメディアとしての働きは、今日のTVにおける情報バラエティー番組を思い浮かべてみるとわかりやすい。グルメや流行の曲、雑貨、本、映画、住宅、ファッションなどの情報を次々繰り出し、お笑い芸人やタレントがそれを享受してみせる。現在の情報はことさら消費に差し向けるものへ傾いているが、それは資本の要請が最も強く、また優先されるからであり、情報を受け止めた人々は自らの意思で消費に向かい、皆と同じものを享受したことで安心する。これがラジオや『キング』の形成する「国民的公共圏」とどう違うであろうか。現在でも古びない、メディア=媒体そのものを創造し、また渡り歩こうとする野間の手法は、雑誌以外へも伸びていく。

キングレコード、映画、新聞、通販…

元々『キング』創刊時にCMソングを作り発売したように、レコードには関心の高かった野間は1931年1月、日本ポリドールと提携し、キングレコードを創設。野間の目的を社史は「雑誌と単行本によって、目に訴え、思想を善導しようとしたと同様、音楽によって、耳に訴え、社会大衆を指導しようとした」とする。元より「耳に訴え」るのは講談と弁論の活字化から出発した野間にとっては原点である。「当時の流行歌は退廃的で卑俗なものが多かった」のを「昭和5年、新年号の『キング』をはじめ6雑誌誌上に、『健全なる歌』の懸賞募集を発表した。」

懸賞当選歌の内の1つ『天皇讃仰』を含む第1回新譜7枚を発売したが、淡谷のり子の『マドロス小唄』も含まれていたので、必ずしも愛国・報国の「健全なる歌」一辺倒でもない。第2回の新譜は「歌謡曲のほかに児童劇、浪花節、薩摩琵琶が加えられた」(ここまで『講談社の歩んだ五十年 昭和編』)が、売上は思わしくなかった。結局赤字を脱出したのは、1931年9月の満州事変後、時局を歌った軍歌や少年倶楽部連載の漫画『のらくろ二等兵』の児童劇、東海林太郎の『山は夕焼』以後であり、その後の代表的ヒット曲は9大雑誌で公募された『出征兵士を送る歌』(1939年)と三門博の浪曲『唄入り観音経』(1941年)である。軍歌と浪曲とは、まるで講談社の二つの傾向を象徴しているようだ。

野間はトーキー化した映画にも親和性を持った。『キング』の誌面にはページ毎に映画のシーンをつなげてグラビア化した「映画物語」が載ったり、映画化された掲載小説のグラビア特集を組んだりした。また上段に劇画を、下段に会話を主にした小説は「映画小説」と呼ばれていた。さらに1931年自社上映のために映画班を作り、教育映画の無料公開などが行われたが、詳しくは佐藤「『キング』の時代」を参照されたい。

1930年、野間は報知新聞の社長に就任したが、新聞事業では赤字を出し、1938年の野間死去後に清算された。しかしその間の大事業として、新聞社の名を冠した飛行機「報知日米号」などで北太平洋横断大飛行計画に3度挑んだが失敗している。

野間の事業の中で面白いのは、雑誌での通信販売である。1913年『雄弁』で代理部という部門が地方読者向けに新古書籍を取り次いだが、「『夫人俱楽部』創刊後に売薬、化粧品を扱って急成長を遂げた」(佐藤)。例えば1941年1月号の『少年倶楽部』を見ると、巻末に通販コーナーがあり、望遠鏡やカメラ、パズルゲーム、顕微鏡や運動具など多様に扱っている。欄外に「送料のところに『其他』とありますのは朝鮮、台湾、樺太、満洲、南洋、関東州等のことです」とあり、講談社が雑誌と通販商品の販路とした所は日本が占領した地域全体に及んでいたのが分かる。

「どりこの」という栄養ドリンクのようなものは、高橋孝太郎という軍医が開発したが、野間が気に入って「昭和5年(1030)10月、講談社が製造・販売を一手にひき受ける契約を結ぶことになる。」(『物語 講談社の100年第2巻』)これが大宣伝で売れに売れ、1931年は年間219万本も売れた。のち代理部はこの事業を含め商事部に移管、「通信販売は代理部、開発・製造・販売は商事部と仕事が仕分けられた」(『物語 講談社』)。商事部は「イノール」(胃腸薬)、「トラシン」(感冒薬)などの薬や、「ワカミヅ」(養毛料)、「アイリス石鹸」、「婦人俱楽部浴衣」などを手がけた。開発商品も雑誌経営で勘どころをつかんでいるのか、今日でもTVCMでしょっちゅう見かけたり、買い物好きな女性顧客の嗜好を意識したものだし、何だか野間がずっと生きていたら、通販からアマゾンに躍進したかも、なんて想像も可能だ。アマゾンは元々本屋さんだ。

ハルキ、セイジ、セイジと「大衆」

ここまで角川春樹、堤清二、野間清治と、3人のちんどん屋を宣伝に活用した経営者をみてきたが、3人に共通するものとして、大衆への意識と、媒介を活用し組織化すること、結果としてメディアミックス的手法を用いたことを挙げてきた。また戦後の高度成長期と政治の季節を体験した大衆は、大正デモクラシーを経て政治的主体となり、そして消費者ともなった大衆に重ねることも出来る。しかし共通するものと共に、しないものがそれぞれを特徴づける。

角川春樹は野間清治と共通項が多い。例えば、何が大衆に受けるのかを嗅ぎつける勘の鋭さと実行する素早さ。角川はまた、自らの手法を(ナチズムの宣伝方法について例を挙げ)「これらはすべて活字と映像と音に集約される。要するにそれらのものをたくみに総動員することで民族主義というひとつのテーマを美学に仕上げて大衆を陶酔させていった。これは私が本や映画や音楽を売るときの戦略と本質的には同じものです(『月刊プレジデント』77年10月号掲載を伊藤彰彦『最後の角川春樹』毎日新聞社が引用)」と述べて批判を受けたが、これも先の「ラジオ的雑誌」の指摘のように、野間の手法と通じるものだ。そして角川も野間も、なりふり構わぬ売り込み攻勢と売り物の娯楽性(知的水準の低さ)を攻撃されたが、当時角川文庫を小林信彦の「オヨヨ」シリーズから横溝正史等、端から読みふけった子供だった私としては、決して知的レベルを低く見積もった本でなく、その後の読書の楽しみにつなげてくれた大事な体験であった。それは多くの知的体験に恵まれなかった『キング』読者と同じであると思う。

しかし、私が“その時代の子供”として角川文庫を愛したように、両者では、手法は同じでも売ったものの中味が違う。1970年代に講談、浪花節、偉い人の教えや軍歌なわけはない。講談社の器に載った中身はむしろ現代では保守派の主張に見られる。いわく、家族主義、立身出世主義、報国、「伝統」…。これらは野間の好み(講談や浪花節)や経験(一教員から実業家に出世)に裏打ちされたものでもあったが、それはむしろ野間のような個人を含む、近代化する日本の中で醸成、招聘された新しい価値と表現である。このことについて説明するとまた長大になるので後日に譲るが、例えば『<声>の国民国家―浪花節が創る日本近代』(兵頭裕己 講談社学術文庫)などを参照されたい。これらの価値観を見ると、前々回の連載で触れた、7、80年代のTVや雑誌がちんどん屋に見出したかった価値―“家族、人情、日本一”が思い浮かぶ。一部メディアでは相も変わらず「講談社文化」が続いていたのだ。

一方の堤清二にとっての「大衆」はどうだったのだろう。70年代後半から80年代にかけての時代を堤は、「生まれたばかりの消費社会が深く広く社会の隅々に浸透していって、時間をかけて成熟していくというまっとうな歩みをするのではなく、古い価値観や習慣をそのまま残しながら、消費の表層が、あたかも毎年変わる流行のように変化する時期」(『抒情と闘争―辻井喬+堤清二回顧録』辻井喬 中公文庫)と見ていた。成熟が期待できない「“日本的”消費社会」に向き合って、彼の売ったのは、多様化する個人の様々な価値観に対応するよう、細分化されたジャンルや情報だった。「古い価値観や習慣」とは前述の保守派のしがみつく残滓であり、それが一掃されることはない。表層しか変化しないなら、表層の価値を多様化すればいい。現代美術がいい例だろう。それは決して一つの価値に還元できないものだ。

2022年11月号の『群像』に掲載された松浦寿輝・沼野充義・田中純の連載鼎談「20世紀の思想・文学・芸術」第10回のテーマは「エイティーズ―『空白』の時代」で、堤の「セゾン文化」についても取り上げていた。田中純は、60年代の政治的革命への志向と実践に対し、「革命のフィールドが文化に移っていくというのが、70年代から80年代の展開だったのではないか」とし、「レジームを根本的に変革せずとも、生をラディカルに変容させる文化革命が可能だという幻想を抱いていた。ただ、それはセゾン文化みたいなものが吸い上げていく幻想だったわけだけど」と、時代の傾向と堤の発想がうまく抱き合った点を言い当てている。

さらに田中はその背景として、「官公労が1975年のスト権ストの敗北以降に潰されて、官を代表するような組合がなくなっていった。民間労組は企業へと統合されていって、組合運動が衰退していき(中略)消費社会化の進展とともに、80年代に企業内労働者が『消費者』へと意識を転換させられたことが、結局、労働運動全体を弱体化していく」という「資本の勝利」があると指摘する。堤自身は消費による「文化革命」が可能だと信じていたかも知れないが、彼の売ったのは「資本の勝利」がもたらした「幻想」だった。

「あれは幻想だった」

『現代の理論』32号で、ちんどん屋と流通の関りに触れながら、「80年代の小売業における法人企業の台頭」が流通の大変革につながったことをもっと深堀りしたいと言い残したが、ようやくその時点に戻ってきたようだ。33号から35号まで、60年代末から80年代まで「ストの時代」の痕跡を追ってきて気づいた、労働運動の衰退から一挙に新自由主義に持っていかれる日本的資本主義の構造改革とそれは密接に結びついていた。セゾン文化を演出しつつ、スーパーなどで小売業の再編を進めていた堤清二は、その渦中にありながら違う道を模索していたのだろうが、小さな果実を残して流されていった。

32号に書いたように、そんな時代において「非正規労働者の道を自ら選」び、「消費者として完全に『お客様』だった」私は「意識」を完全にこの「構造に組み込まれてい」た。『群像』の鼎談で田中は、大学も民営化されていくような「危機が実は社会の中で進行しているということを、80年代に、より問題視すべきであったのに」できなかったことを振り返り、「あれは幻想だった」「自分自身もそういうものに浮かれていたという深い反省の念」を述べる。大学人も私と同じように反省しているんだ、そうか。これを受けて松浦寿輝は、「現実自体はたしかに実在するとしても、それはいったん宙に吊っておいて、一種のエンターテインメントとして生産され、流通する『虚構』の数々を果てしなく消費しつづけていたいという欲望、そしてそうすることが赦されているという幻想ですね。そうした『虚構』との戯れのなかに、私自身も含めて、人々が快く埋没できたのが1980年代。」と、とても反省しているとは思われないクールな切り口でまとめてくれた。

80年代論としてそれで終わることも出来るが、現在まで生きてきて敗残の身を現実にさらす自分には「今」という課題がある。資本がモノでも情報でも「消費」することで個人に自由の幻想を与えるなら、その構造は今も堅固に続いている。SNSで「いいね」「いいね」が欲しくて濫費される言葉や映像の向こうに見える、承認欲求で膨れ上がった「大衆」の欲望と、一方で戦争や新自由主義の荒波にさらわれ、飲み込まれていく生命。もはや人間が消費しているのではなく、人間自体が消費物だ。そこで勝利するのが巨大資本とAIなら、その陰にいる資本家をもう一回叩くべきだと思うが、問題が身の丈に合わず大風呂敷に成り過ぎたので戻そう。今まで何故か「社会を振り返る鏡」としてきた“ちんどん屋”という小さな原点へ。しかしこの項、冒頭に引いたキングレコードの『チンドン屋大行進』から終わりの『群像』まで、意図したわけではないのに講談社という糸に彩られていたのは、自分でもびっくりした。

”みどりやの「仕事帖」”は本稿でとりあえず終わります、また。(筆者)

 

おおば・ひろみ

1964年東京生まれ。サブカル系アンティークショップ、レンタルレコード店共同経営や、フリーターの傍らロックバンドのボーカルも経験、92年2代目瀧廼家五朗八に入門。東京の数々の老舗ちんどん屋に派遣されて修行。96年独立。著書『チンドン――聞き書きちんどん屋物語』(バジリコ、2009)

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