特集 ● 内外で問われる政治の質
中小・下請け企業における賃金交渉の視点
労務費の価格転嫁論をめぐる論点整理と中小労働運動
労働運動アナリスト 早川 行雄
拡大する賃金の企業規模間格差
年明け早々の1月25日に開かれた労使フォーラムで日本経団連の十倉雅和会長は、賃金決定の管制高地を掌握したとの驕りもあってか「物価上昇に負けない賃上げをめざすことが経団連、企業の社会的責務だ」と、異例とも言える賃上げ推進の立場を表明した。これを受けて連合の芳野会長は「経労委報告のほとんどのページは、共感を持って拝読した」と経営側の姿勢を無批判に称賛する有り様で、自動車総連の金子会長も「今年は本当に労使が一枚岩で、同じ方向を向いている」と述べ、かつて石田光男が労使の価値観が一体化して労使関係が溶解していると評した事態を地で行くようなやり取りが続いた。
あたかも賃金と景気(物価)の好循環が生まれつつあるかのような見かけ上の楽観論が場を支配する中で、JAMの安河内会長は物価上昇に追いつかない実質賃金の目減りや大手・中小の賃金格差拡大の実態を踏まえ「昨年はこの30年間で最低の春闘だった」と指摘し、自画自賛に流れがちな現状評価に釘(水?)を刺(差)した。安河内会長は今春闘についても「大手と中小の格差は容認できない水準まで開いている。背景には公正な取引がされていないことがあり、価格転嫁の取り組みの強化を続ける必要がある」と述べ、一方で中小労組の「物分かりの悪い」健闘を称えつつ、容易に縮小しない規模間格差に警鐘を鳴らした。
行政や経済団体も労務費を含めた製造原価の価格転嫁推進に向けた指針を公表して下請け取引の適正化に向けた積極姿勢を演出しているが、その矢先に日産自動車が公正取引委員会から下請け法違反の勧告を受け、賃上げ促進税制の利用資格を喪失するという事態が発生した。労働組合サイドも事態を重視して自動車総連は適正な取引価格の実現を約束する「パートナーシップ構築宣言」に参加した。経営者団体の取引適正化は口先だけで大手労組の対応も泥縄の感を否めないが、事程左様に資本主義市場経済下における下請け取引に蔓延する病巣の根は深い。
本稿ではこうした下請け取引の背景をなす諸問題にも留意しつつ、中小・下請け企業における賃金交渉の意義を、とりわけ労務費の価格転嫁問題に焦点を当てながら考察する。
収奪問題としての不公正取引
産業別労働組合JAMは結成以来、下請け企業に対する公正取引の実現を産業政策の主要な柱のひとつとしてきた。今日では公正取引の実現は連合の産業政策の中心にも位置付けられている。下請け取引の公正化とは一言でいえば、中小企業が生み出した付加価値が取引先の大企業に横取りされることなく、当該中小企業において確保されるようにすることである。最近この公正取引問題が、マスメディアや政財界のみならず、前項で紹介した安河内会長の発言にもあるように労働界においても価格転嫁問題として論じられることが一般的になっている。
日経ビジネスに掲載された連合の意見広告にも「中小企業の生産性の伸び率は一貫して大企業を上回ってきた。しかし、価格転嫁力が落ちてきたことが中小企業の製品やサービスの付加価値を低下させ、収益性悪化を招いている」との記載がある。こうした実態は2014年版中小企業白書の「中小製造業の価格転嫁動向」分析でも示されている。これは黒瀬直宏が『複眼的中小企業論』において下請け取引の「収奪問題」として批判した点を、統計データから解析・実証した作業とも位置付けられよう。留意すべきは白書のいう生産性とは実質労働生産性(物的生産性)であり労働者1人当たりの付加価値額をもとにした付加価値生産性ではないこと。また、価格転嫁力として分析されているのは仕入れ価格(原材料費)の上昇分を対象としたもので、利益や賃金など付加価値部分ではないことである。
一方で実質労働生産性の向上を支えてきたのは実質付加価値率(売上高に占める利益や人件費の比率)の伸びによるとされている。ただしこれは一定の賃金上昇の下で原材料費上昇分を価格転嫁できないことが付加価値比率を押し上げた側面もあり、付加価値から固定費としての人件費を控除した残差としての利益を悪化させるという意味では価格転嫁力低下と同じ問題の表裏をなす関係でしかない。このことは中小企業における労働分配率の高さにも現れている。
白書は中小企業が利益を確保するための経営環境を価格転嫁力という指標を用いて検証している。その際、労務費や減価償却費などの固定費は所与のものとして製品価格に含まれる前提で、原材料費など変動費の価格転嫁力を分析しているのだが、売上高に固定費と変動費の色分けがあるわけではないから、確実に言えるのは出来上がり単価が安すぎるために残差としての利益が出ないということだけである。中小企業もまた資本主義市場経済の下で活動する私的営利企業である以上、利益を確保しなければ存続自体が不可能になることは自明であり、労使何れの要求も公正取引による下請け単価の引き上げという点では共通しており、ここに中小企業において労使が連携した取り組みを進める根拠がある。
とはいえ、労働組合には公正取引実現に向けた独自のロジックがあって然るべきだろう。それは資本主義的な製造原価(後出の費用価格)の概念に既に含まれている労務費の価格転嫁ではなく、労働者が生み出した付加価値を製品単価に漏れなく反映し、これから交渉で勝ち取る賃金原資となるべき売り上げを確保することにほかならない。付加価値はすべて生きた人間労働が生み出したものである。従ってこのロジックからは過去に発生した労務費の価格転嫁という発想は出てこないはずである。
付加価値とは売上高(生産額)から中間投入を控除したものと定義されるが、その算出には控除法と加算法という二つの方法がある。
★控除法:付加価値 =売上高 - 外部購入価値(原材料、購入部品費、運賃、外注加工費など)
★加算法:付加価値=付加価値 = 人件費 + 支払利息 + 減価償却費(製造費用・販管費) + 賃借料(製造費用・販管費) + 租税公課 + 経常利益
控除法でみた原材料など外部購入費の上昇分を販売単価に規定される売上高に正しく反映させることで付加価値を確保し、加算法でみた人件費=賃金と経常利益間の配分交渉を行うというのが資本主義市場経済下における賃金交渉の外観すなわち現象的な側面である。中小企業白書も労働組合の公正取引論も、資本主義経済の日常的に見られる外観(現象面)から議論を展開しているが、そうした現象面の根底に横たわる資本主義的生産活動の本質的メカニズムを解明したのがカール・マルクスの『資本論』である。次項以下では『資本論』の分析に照らして価格転嫁論の何が問題なのかを考えてみる。
資本主義的生産のメカニズム
資本主義的生産が地球環境を破壊し深刻な気候変動をもたらし、人新世と呼ばれるこの時代に再び『資本論』が注目されている。その背景には『資本論』が解明した資本主義の本質的メカニズムは、現実の資本主義市場経済においては様々に転倒した偽りの外観をもって現象し認識されてきたが、長期的には利潤率の傾向的低下が生産の停滞をもたらし、最終的に資本主義的生産を解消して新しい生産様式を生み出すというメカニズムが、現在の世界経済危機の根因を巧みに説明し得ていることがある。
『資本論』はなかなかに難解な書物と思われがちである。マルクス自身『資本論』(初版)第一巻の序文の中で「なにごともはじめが難しいということは、どの科学にもあてはまる。それゆえ、第1章、ことに商品の分析を収める節の理解はもっとも困難であろう」と記しているくらいだから初学者はのっけから悪戦苦闘することとなる。とはいえマルクス自身が全編を通して繰り返し述べている結論的命題はすこぶるシンプルかつ明快だ。
資本主義的生産の目的は人々の欲求を満たす使用価値を持った有用物を社会に提供することではさらさらなく、常に投下した資本以上の収益を上げて利潤を拡大する資本の自己増殖運動であり、利潤は労働者が生活維持に必要な範囲を超えて働いた不払いの労働を搾取することを唯一の源泉とすること、これである。このことは企業経営において自己資本利益率(ROE)が重視されていることからも伺い知ることができよう。この命題を理解し承認することなしには、ポスト資本主義社会に向けた現実的な実践課程を構想することはできない。
マルクスは、(古典派経済学の定式では)不払い労働に対する資本の指揮権という資本の自己増殖の秘密が覆い隠され、労働者と資本家とが生産物をそれのいろいろな形成要因に従って分け合う一つの協同関係という偽りの外観が現れると述べている。これは生きた人間に代替して関係の主体となった商品や貨幣(物象)の力に依存して関係を取り結ぶに至った帰結(物象化)であり、生きた人間労働が創出する価値が商品それ自体の属性のように思い違いされる(物神崇拝)ようになるということである。
資本主義的生産における前貸し総資本(生産を開始するにあたって資本家が予め用立てる資本の総額)はその購入対象の違いによって不変資本と可変資本に区分される。不変資本とは原材料や外注部品の購入あるいは工場や事務所の建屋の建設に充てられた資本であり、当該費用はそのまま製品価格に移転(転嫁)する。一方可変資本とは労働力の購入に充てられた資本すなわち支払賃金のことであり、実際に支払われた賃金部分はそのまま製品価格に移転する上に、剰余労働(不払い労働)による剰余価値を生み出す資本である。
また投下資本を回収する仕方の違いから固定資本と流動資本にも区別される。固定資本とは機械設備のような労働手段の購入に充てられた資本を指し、1回の生産でその一部だけが製品価格に移転するもので、減価償却費に相当する。流動資本とは賃金や原材料・外注部品の購入に充てられた資本であり、1回の生産でそのすべてが製品価格に移転する。財務分析における固定費(生産の増減に関わりなく発生する費用=労務費、減価償却費など)と変動費(生産の増減に合わせて発生する費用=原材料費、外注部品購入費など)とはまったく異なる概念区分なので混同してはならない。
ここで重要になるのが『資本論』第三巻で詳述されている費用価格の概念である。費用価格とは生産要素の価値総額、すなわち機械設備や原材料・外注部品など充てられた費用と労働力を取得するために支払われた賃金の合計であり、財務分析でいう製造原価をマルクス流の資本区分で仕分けしたようなものだ。資本主義的生産の下では商品の価値は常に費用価格+剰余価値(利潤)に分解できる。費用価格は資本家が投下した生産手段や労働力の購入費をそのまま補填するだけである。これを不変資本と可変資本の観点から捉えなおすと、外注部品のような不変資本の価格上昇分はそのまま製品価格に移行するが、可変資本=労働力の購入費=賃金の上昇分は、商品価格に移行(転嫁)するのではなく、労働力が生み出す付加価値(賃金+利潤)を一定とすれば、付加価値の構成が変化して利潤が減少するだけで製品価格には影響しないのである。
ところが費用価格においては不変資本の一部(原材料費、外注部品費など)と可変資本(賃金)が流動資本という同じ範疇にあるものとして扱われ、本来労働力商品の購入費であり労働が生み出す価値の一部(労働による付加価値-剰余価値)に相当するに過ぎない賃金が、あたかもすべての労働の対価であるかのように現象し、不払い労働の存在を覆い隠してしまう。その結果、資本による生産の組織化自体が利潤を生みだすかのような錯誤が生じ、資本主義的生産における価値形成の実態が見えなくなる。財務分析における売上総原価利益率や付加利益率(マークアップ率)という概念は、本質から離れて転倒した現象的メカニズムを無自覚に前提したものというべきである。
従って、労務費の増加を費用価格(製造原価)における流動資本として仕入れ原価の上昇と同列に扱い、価格転嫁を求めることの論理的帰結は、本質的には可変資本である労務費(賃金)を原材料・外注部品費などと同じ製造原価(費用価格)の範疇に繰り入れることにより、賃金をあたかも不払いの剰余労働を含む労働全体の対価であるようにみなしてしまい、労働力商品の購入により労働者を指揮命令下に置き、労働者の剰余労働から利潤(剰余価値)を搾取するという資本主義的生産の本質的メカニズムを見失うことになるのである。
こうした資本による生産の組織化が利潤を生みだすかのような現象的メカニズムの下で利潤率の低下は前貸し総資本の増加による資本の有機的構成の高度化(総資本に占める不変資本の割合)によってもたらされる。不変資本のうち固定資本の増加が利潤率低下の要因となる構造的変化が進むにつれて、賃金や下請け代金(原材料費や外注部品費)への引下げ圧力が強まる。
資本主義的生産においては利潤率が傾向的に低下しても生産効率(物的生産性)の向上を伴う機械設備への投資拡大で利潤の総量は拡大(高度成長)する。しかし拡大した生産規模に見合った有効需要を無限に拡大することはできないので、それにも一定の限界があることは自明である。定常化経済と称される長期停滞の現状こそは資本主義市場経済が限界に直面していることの顕在化にほかならない。
資本論からみた収奪問題
以上のような資本主義的生産の本質的メカニズムと実態を覆い隠す現象形態を念頭に置きつつ、大手メーカーM社の生産過程を考察してみよう。議論を単純化して要点を絞るために、さしあたり販売・流通費用、金利、租税などは脇に置くこととする。M社が生産過程に投下する資本は不変資本と可変資本に分けられる。しかし実際にM社経営陣の脳裏に去来するのは賃金や原材料費などの流動資本と機械設備などの固定資本に仕分けされた総資本の姿である。
製造業においてはかつてME機器の導入により、そして現在はAIを活用したITC技術の導入で生産効率を引き上げてきた。結果として利潤の総額は拡大したが機械設備などの不変資本の蓄積により利潤率は傾向的に低下してきた。ご多分に漏れずM社においても利潤率が低下する中での利潤総額の拡大が最大の懸案となっているのだが、M社もこの転倒した現象を経営上の与件としており、あたかも製品の生産を組織化するための自らの資本投下が利潤を生みだしているような外観を呈している。それを前提に現実的対策として重視されるのは流動資本の節約であり、財務分析的には固定費たる労務費(賃金)の抑制と変動費たる原材料・外注部品の単価引き下げということになる。
大手メーカーM社においても経営者が固定費と認識する部分、とりわけ労務費(賃金)の削減については、常用代替の非正規雇用拡大、不払い残業の拡散、有給休暇の未消化、偽装請負やフリーランスの請負労働活用、労働時間規制の緩和による賃金と労働時間の切断など、これでもかというほどの手練手管が駆使されている。また経営者は変動費と認識する外注部品等の購買単価削減にも血眼である。M社にとって外注部品の購入費は所与の不変資本ではあるが、費用価格に占める外注部品等の価格にはすでにS1~Sx からなるサプライヤー経営者の懐に入って利潤となった剰余価値も含まれている。外注部品費=下請け単価の圧縮とはメーカーによるサプライヤーの利潤の横取りであり、メーカー資本が間接的に下請け労働者を搾取しているという構図になる。ここに中小・下請けサプライヤーに対する不公正取引問題の核心がある。
M社の購買担当は「弊社は人件費など固定費の削減に努力している。固定費削減に努力することなく労務費の価格転嫁で弊社に負担を求めるのは筋が違う」と単価交渉で言い放つ。これはすなわち、サプライヤーに対して可変資本(賃金)を圧縮して剰余価値率の引き上げに自助努力せよと迫るものである。M社の原価低減策はサプライヤーの利潤を横取りしているという意味では、資本の親玉たる大企業の常套手段であり強欲資本の本性を反映しているとも言えるが、そもそもの利潤の源泉が労働者の不払い労働(剰余労働)であり、単価引き下げは下請け労働者に対する間接搾取であるという本質的メカニズムは謎のように背景に退いて見えなくなっている。下請け取引関係の現象的メカニズムとして偽りの外観が姿を現しているというべきであろう。
現代資本主義と中小労働運動
資本主義市場経済は1970年代以降定常状態に帰着し明らかな行き詰まりを示している。そこで延命策として登場したのが新自由主義=市場原理主義である。公共サービス全般の民営化により資本の自己増殖を補強するために、民間企業にビジネスチャンスが開放された。労働市場の規制緩和により労働法規制の潜脱(労働法の市民法的運用)が横行し、低賃金・不安定雇用の非正規労働が拡大した。金融市場の規制緩和でカジノ資本主義が進行し、資本家は総体としてケインズに安楽死を宣告された寄食的利子生活者に変身することになった。一方で特許などの知財・無形資産を法的な擁護の下に独占することが新たな不労所得の源泉となっている。
今日の新自由主義的金融資本主義の下で、無形資産なる怪しげな富が蔓延し、その一方でブルシット・ジョブなるクソどうでもいい仕事にも大枚の賃金が払われる実態をどのように解釈すればよいのか。商業資本や金融資本とも融合してコングロマリット化した巨大資本による収奪構造を解明する糸口は資本論第三巻の「商業資本」や「利子生み資本」の分析に求められるであろうが、おそらく無形資産とはカジノ資本主義的収奪構造の新たな蓄積形態であり、ブルシット・ジョブに支払われる賃金はその収奪構造を維持するための必要経費のようなものなのであろう。
片や付加価値生産に直接かかわる生きた人間労働に引き付けて言えば、いま流行りのAIもまた人間の生産活動にとっての労働手段となることによってのみ剰余価値生産に寄与できる。AIそれ自体が剰余価値を生成するのではないことは、ME旋盤自体が剰余価値を削り出すのではなのと同様である。仮にAIの活用によって完成品メーカーの生産工程を完全に自動化(無人化)できたとしても、膨大なサプライヤーの生産工程まで自動化した生産の永久機関化は想像しがたい。
メーカーの生産過程が自動化しうるということは、メーカーは付加価値の生産に関与せずに専らサプライヤーを収奪するのみの存在となることにほかならない。このような組織は、人々が相互信頼と協力関係によって尊厳を保ちながら生活できる社会を目指すためには、全くの無用の長物というよりは最早障害物でしかない。その意味では資本主義的生産様式の下でのAIは宝の持ち腐れであり、地域分散ネットワーク社会のようなポスト資本主義社会にこそAI本来の活躍の場があるというべきであろう。
マルクスは労働の生み出した付加価値のうちの資本の取り分である剰余価値率が上昇すれば利潤率の低下を抑制し、さらに増大させることもできるが、それには超えられない限界があると述べている。現在に至る技術革新がもたらした生産工程の効率化および新自由主義政策による労働者への分配の低下は、剰余価値率を驚異的な水準、すなわち資本主義的生産様式の矛盾を極限まで推し進める水準まで引き上げているのではなかろうか。この剰余価値を利潤率低下に直面して悪あがきをする大資本の利潤とするのではなく、社会的共通資本としてのベーシックアセットの再生や維持の費用に、あるいは誰もがいつでもどこでも無償でアクセスできるベーシックサービスの財源とすることで、格差や貧困とおさらばすることも夢ではなくなるだろう。
『資本論』が解明したのはあくまで資本主義的生産のメカニズムであり、現代資本主義の狡猾な搾取と対峙すべき労働組合が独自のロジックを持つべきことは既に述べたとおりである。労務費の価格転嫁とは利潤確保の論理であり、利潤とは労働者の剰余労働(不払い労働)が生み出した剰余価値である。従って利潤の確保とは搾取の実行にほかならない。そのように理解するならば、労働組合が労務費の価格転嫁を声高に叫ぶことは労働組合の存在意義に照らした自己矛盾である。中小企業においても利潤は賃金と同様に生きた労働者の具体的労働が生み出した付加価値に違いはないのだから、この付加価値を十全に確保できる販売単価の実現は、資本主義市場経済下における中小企業労使の共通のスローガンとなりうるだろう。
M社の事例にみられるような大企業の横暴によって苦難を強いられている開明的中諸企業経営者には、剰余労働を強いられている労働組合的ロジックを共有しうる素地がある。前出の黒瀬直宏は「市場経済の問題性と対抗力としての中小企業」と題する論考(『中小企業が市場社会を変える』所収)において、中小企業経営者は単なる人格化した資本ではなく生産過程において労働の尊厳という人間的合理性に配意する自然人性を担保していることから、中小企業の経営合理性には人間的合理性と親和性があると述べている。
こうした中小企業において労働者・労働組合の経営参加によって精神労働と肉体労働、したがって構想と実践の分離が再統合する契機が生まれれば利潤と賃金の境界も曖昧になる。エスピン・アンデルセンの表現を借りれば労働(力)の脱商品化である。社会全体が依然として資本主義市場経済の生産様式に支配されている限り、これもまた「偽りの外観」という限界性はあるものの、それは未来社会の嬰児が旧社会のインキュベーターに胚胎していることでもありうるのだ。
大資本による強硬な利益確保の犠牲となっているのはサプライヤーや小売りなどの中小零細企業とその労働者であり、また主として非正規雇用のエッセンシャルワーカーだ。これら収奪される者たちの幅広い連帯が労働運動喫緊の課題である。労使ともにゾンビ化して利潤にたかる大資本が歴史の舞台から退場する日が一日早ければ、利潤に拘泥することなく専ら社会の必要を満たす有用物やサービスの提供に携わる尊厳ある労働の復権がそれだけ近づくことになる。
日本においては旧態依然たる二重構造下の中小・下請け収奪問題が資本主義延命に重要な機能を果たしている。下請け搾取を可能にしている背景には企業横断的な産業別労働組合の機能不全、というよりはむしろ実質的な不在がある。『仕事の社会科学』における石田光男の指摘をまつまでもなく、業種を問わず大企業では企業内労働組合が資本の価値観に取り込まれ労使関係は溶解し労働運動は蒸発してしまった。連合にはこの蒸発した労働運動の蒸留水を集めて改革派の闘う労働運動を再構築することが強く求められる。そうした取り組みは中小や非正規の労働者・労働運動が牽引することとなろう。資本主義市場経済の閉塞状況を克服し、未来を拓く原動力は中小企業の労使関係や労働運動の中にこそ見出されるのである。
さしあたりこれをもって、連合への最後の提言その3としておきます。
はやかわ・ゆきお
1954年兵庫県生まれ。成蹊大学法学部卒。日産自動車調査部、総評全国金属日産自動車支部(旧プリンス自工支部)書記長、JAM副書記長、連合総研主任研究員、日本退職者連合副事務局長などを経て現在、労働運動アナリスト・日本労働ペンクラブ会員・Labor Now運営委員。著書『人間を幸福にしない資本主義 ポスト働き方改革』(旬報社 2019)。
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