論壇

1970年代障碍者解放運動の私的総括(下)

“わたしと障碍者と差別”

筑波大学名誉教授・本誌代表編集委員 千本 秀樹

1.学園闘争から諸課題へ

2.京大難聴問題研究会の結成

3.全国障碍者解放運動連絡会議第3回全国大会(以上、前号に掲載)

4.関西テレビ「橋のない川の世界」(以下本号)

5.「誇り」とは何か

6.障碍者であることは誇り得るのか

付論.介助者あるいは差別する側におかれている者の主体性について

4.関西テレビ「橋のない川の世界」

少し後になりますが、藤田敬一さん、わたしが入学した時に、大学院の活動家だった先輩ですが、1987年に『同和はこわい考』というブックレットを出されて、非常に話題になりました。同和は怖い、被差別部落は怖いと、世間一般の人たちがいうのはなぜなのか。要約すると誤解されそうなのですが、ひとつは、部落解放運動が被差別者以外は全部差別者だと規定している、また、部落解放運動に参加している人たちが、肩で風を切って歩いている(と見られている)、そういうようなことが、同和は怖い、部落は怖いというイメージを広げているのではないかという指摘がありました。

藤田さんは、差別を両側から超える、差別されている側と差別している側の両側から、差別の壁を崩していこうよと提起しました。これが部落解放同盟から、強烈な批判を受けました。特に、当時の部落解放同盟書記長だった小森龍邦さんは、そのための本まで書かれました。あくまでも解放運動の主体は、被差別部落の人間なんだという立場性を堅持したいということから来る批判です。障碍者に対して喧嘩しようよといってきたわたしにとっては、藤田さんの問題提起は胸にストンと落ちました。

その少し後、1992年に大阪の関西テレビが、「橋のない川の世界」という、1時間ほどのドキュメンタリー番組を作ります。当時、住井すゑさんの小説『橋のない川』は、2回目の映画化が東陽一監督によって行われていました。その撮影しているシーンと、ロケ現場の近くの被差別部落と、そこの中学校で起こっている差別事件を取り上げたものです。中学校で被差別部落の女子生徒が差別事件の対象になる。それに対して中学生たち一人ひとりが自分の意見を書いて廊下の壁に貼る。何十枚あるいは百枚を超える紙が張り出されていました。最初のうちは、差別落書きをした、おそらく自分たちの同級生に対する怒りが直接ぶつけられた、そういう張り紙だったんですが、それが次第に変わってくる。

この差別落書きを書いた人は、きっと自分でも辛いことがあるんだ、辛いことがあるからこういうことをやってしまうんだ、だからそういう辛い思いをする人がいない学校にしようよというような意見がふえてくる。差別された女子中学生のお母さんが、自分はそういうことに気がつかなかった、子供たちから教えられた、これが水平社宣言の精神なんですよねとおっしゃっていました。先生たちが介入せずに、子供たちが自分たちだけで気がついたとしたら、それは本当にすごいなと思います。

今日お話ししたいことはそれではなく、番組のなかの橋本さんという、お好み焼き屋さんのお母さんの発言です。橋本さんの娘さんが結婚したい相手が在日朝鮮人の男性だった。彼とその家族が挨拶に来た。その時に向こうがいいます。うちの息子は部落民とは結婚させたくない。それに対して橋本さんは、自分だって娘を朝鮮人と結婚させたくないと答える。しかし、わたしはこれまでずっと解放運動に参加してきた。だからこういう自分ではいけないと思ってると。結婚式で娘はチマチョゴリを着るだろうし、わたしもこれから朝鮮語を勉強していきたいと思ってるというわけですね。

ここで、3つの命題の第3命題と朝田テーゼをもう一度考えなければなりません。差別問題について、差別される側と、他は全部差別する側だと分けてしまうことの問題点が橋本さんの発言から見えてきます。ひとつの差別だけで考えると、差別される側以外は全部差別者だといういい方に、真理の一面はあると思っています。ところが、この世の中にあるのは、ひとつの差別だけではありません。橋本さんは、自分が差別される側として差別と闘っているけれども、自分の中に朝鮮人を差別するものがある、これまで差別と闘ってきたから、そういう自分の中の差別とも闘わないといけないというのが橋本さんの発言の核心だったと思います。差別構造のある社会のなかでは、すべての人間が社会意識としての差別観念を持たされている、被差別部落の人たちも朝鮮人差別をする、障碍者差別をする、それを持たせているのは社会構造であり政治だということです。

5.「誇り」とは何か

わたしが1987年に筑波大学へ赴任する前に、差別事件のようなことがあったらしく、その解決条件のひとつとして、部落問題にかかわる授業を開くということがあったそうです。ただ、講座名としては部落問題とうたわず、日本史特別講義Ⅴという、1単位10コマだけで、ちょうど千本が来たからやらせろということになった。わたしも、それまで系統的には学んでいなかった、差別、被差別部落の歴史、部落解放運動の歴史を学ぶことになります。そしてその受講生の人たちとともに、部落差別問題研究自主ゼミナールというものを作りました。その最初の世代が、今日の主催者であり、自立生活運動の中心になったS君も参加していました。今日は他にもたくさん、zoomで参加してくれています。

そのうち、千葉県同和教育研究協議会の知り合いの先生から墨田の木下川へ見学に行かないかと誘いがありました。木下川は、東京最大の被差別部落で、日本の豚皮のほとんどを生産しています。ここには小学校がひとつあって、木下川小学校の子供たちはほとんど全員が被差別部落の子供です。この学校の教育の基本は、「地域を愛し誇りに思う素地を培う」ということです。

産業としては革なめしのほかに、油脂、肥料、石鹸、化粧品などがありますが、ほとんどが皮にかかわるものです。とんかつなどの廃油から自動車の燃料を最初に作ったのも木下川です。周辺地域から、臭いと差別され続けてきました。実際に臭いんです。わたしが行き始めた頃は、皮革工場が200ぐらいありました。今はもう1桁に減ってしまっていますから、においもほとんどなくなっています。

木下川小学校にいる間は、子供たちは差別されません。みんな木下川の子たちですから。ところが、中学校は、3つの小学校から集まってくるので途端に差別されます。そのために、木下川小学校の先生たちは、とにかく小学校の6年間、卒業するまでに、差別に負けない、差別と闘える子供に育てるということを使命としていました。わたしは、30年近く木下川と小学校に通わせてもらいましたけれども、東京で最も先進的な解放教育が行なわれていたところです。残念ながら少子化の中で統廃合の対象になって、今木下川の子供たちは、3つの小学校に分散して通っています。木下川小学校には、同和教育の時間というのはありませんでした。すべての科目が同和教育だという授業の仕方でした。小学校5年生の時から、地域の被差別民についての江戸時代の古文書を読んでいました。

ある子供が先生に、うちのお父ちゃんは失業して朝からお酒を飲んでお母ちゃん殴ってる、こんなところ誇りに思えといわれても誇りには思えない、と訴えた。そのような子供に対して先生たちはどう答えるかというのが、重い課題だというようなことを先生から伺いました。誇りとは何か。

水平社宣言で一番有名なのは、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」でしょう。運動のなかでもっとも重視されてきたのは「吾々がエタであることを誇りうる時が来たのだ」です。誇りとは何か。ある人が、右翼が日本人であることを誇るというのと同じじゃないかといったことがありました。誇りというのは非常に誤解を受けやすいことばです。

わたしは、二重の意味があると思います。日本人であるということだけで誇りうるとすれば、それは他民族に対する差別が必ずついてまわります。日本人であるということだけで素晴らしいということは、日本人でなければ素晴らしくない、ということです。しかし、エタであることを誇るという場合の誇りというのは違うでしょう。

かなり前に内田樹さんが講演で、最近の若者は自己評価が非常に低い、なかなか就職できないから、どこの会社でもいいから雇ってほしいいう風に、自分を卑下してしまっている、そういう報告をされたことがありました。そうだろうなと思います。

かつて、東大全共闘が自己否定といった。大阪の釜ヶ崎で活動していた京大生が自殺するということがあったのですが、わたしには、自己否定しきれずに死を選んだのかなと推測したりします。自己否定などといっても、それはやはり東大、京大のような、卒業したら帝国主義側の支配者になっていく、そういう大学の学生が掲げたスローガンでした。ただ、わたしたちの世代の一部が自己否定といったのも、自分のなかの否定するべき側面も含めて、否定した上で自分を大切にしたいということだったのかなと今では思っています。

やみくもに自分を愛するということではなく、自分を見つめて、自分の様々な側面を認識した上で自分を大切にするということが、やはりどの時代もどんな人たちにも求められているのかなと思います。

だから、吾々がエタであることを誇り誇りうる時が来たのだというのは、その前の段落に書いていることをやってきた、そういう社会的系譜を継いでいる、あるいは実際に血の繋がりのある自分たちの祖先も含めてこういうことをやってきた、だからこそ誇ることができるのだということだと思います。

6.障碍者であることは誇り得るのか

最後のテーマです。障碍者であることを誇ることはできるのか。これは、ある障碍学生からわたしに出された問題提起です。その時には、本人もわたしも自分の意見を展開できませんでした。しかし、今だったら、わたしはある程度ものをいえるのかなと思っています。

障碍者であるということだけで誇りにすることはできない。あくまでも、自分たちが何をやってきたのか、そして自分たちの祖先がやってきたことのうちのどの部分を大事だと思うのかということがあって初めて「エタであることを誇りうる時が来た」ということができると思うし、同じような意味で、障碍者であることを誇るということはいえると思うんです。

それは同時に、青い芝の行動綱領にも戻っていく問題でもあります。そこには書かれていませんけれども、障碍者であることを誇ると、青い芝の人たちだったらいえるんだろうなと思います。

水平社宣言で一番重要なのは、「エタであることを……」というところだといわれてきたのですが、わたしは実は、さらにその前の段落の方がもっと重要だと思っていました。

「そしてこれらの人間をいたわるかのごとき運動は、かえって多くの兄弟を堕落させたことを思えば、この際、吾らの中より人間を尊敬することによって自ら解放せんとするものの集団運動を起こせるはむしろ必然である。」(漢字を一部ひらかなにしました)

夜間中学校運動をずっとやってこられた高野雅夫さんたちが作った、夜間中学校生の かるたのなかに「あったかいと思えばやばいと思え」というのがあります。多くの人は、他人から暖かくされると嬉しいものだが、それはやばいのだ、それは人間を堕落させるんだよと高野さんはいいます。お互いに人間を尊敬することによって人間の解放を勝ち取るのだというのが水平社宣言の立場です。

同情は差別だといういいかたもしますが、同情には2種類あります。友達が交通事故にあった、可哀そうだなという同情は差別だとは思いません。自分もそうなる可能性があるからです。ところが、障碍者を、あるいは被差別部落の人々をかわいそうだなという風に思う時は、自分は絶対にそうはならないという高みに立っています。自分が被差別部落の血を引いていることを自分が知らないだけかもしれないのに。いつ交通事故で障碍者になるかもしれないというようなことは考えない。自分はそうではないという高みからの同情が仮にあたたかく思えても、それは同情する人間と同情された人間の両方を堕落させるのです。

そうではなく互いに人間を尊敬する、そういう人間関係の集まりとしての社会を作ろうよと。今日はお話する時間がありませんが、社会の単位は個人ではなく1人の人間と1人の人間の繋がりが社会の単位だと、わたしは考えています。すべての社会の単位である1人の人間と1人の人間の関係を、それを全部お互いに尊敬し合える関係に作り変えていく。それはまさに解放された社会だと思います。これは差別する側、差別される側の関係も含めてそうです。そういう意味でいえば、水平社宣言というのは、実は被差別部落の人たちの解放だけをいったのではなく、差別される側、差別する側に置かれている。

人、すべての人々の解放、人間解放というのを訴えている、非常に重要な文書だとわたしは思っています。実際にすべての人間関係をお互いに尊敬する関係に作り変えるということは、そう簡単なことではありません。わたしにも腹が立つやつ、いけ好かないやつ、性に合わないやつ、色々います。そういうのを全部お互いに尊敬する関係に作り変えるというのは非常に大変なことです。しかし、やはりそれを求める。だから、障碍者と「健全者」の関係についても、「健全者」は敵であると考えることは一度は必要でした。実際に1978年の議論で青い芝がいったのは、全国大会やるにも、議案書は「健全者」が書いている、事務的なことも全部「健全者」がやっている、これでは障碍者の運動ではないということで、「健全者手足論」が出てきた原点だったと思います。そういう意味で一度、健全者手足論が提起されたということは重要でした。

それと同時に行われたことがあります。重度脳性麻痺の皆さんは、その人とほとんど関わっていない人にとっては、その人が何をいってるのか、よくわからない。ですからその介助者が、誰にでもわかるようにいい直してきました。ところが、それをやめたんです。青い芝は、わからなかったら聞き返せ、わかるまで聞き返せ。それを、500人、1000人集まってる大きな集会でもやるんです。本当にみんながわかるためにみんなが聞き直してると、集会が終わりません。それは効率的ではないというと、それが健全者文明なんだ、「健全者」の論理なんだ、そういう論理が障碍者を差別してきたんだという主張でした。そういわれると、大きな集会になってくると、みんなわかったような顔をして、実はわかっていないので、みんなわからないまま時間が過ぎてしまうということになる。それでこういうことが徹底された時期はそんなに長くはありませんでしたけれども、これも、「健全者手足論」の時期に行なわれたことです。

健全者手足論が出てきたことは問題提起として非常に重要でしたが、しかし次の段階に進みたいのです。先ほどの関西テレビの番組で、示唆的な場面がありました。全国行進が訪れた部落で、番組ディレクターらしき人が地元の年配女性に「差別はなくなると思いますか」という最低レベルの質問を投げかけました。女性は「あんたはどうなの」と聞き返したのです。彼女の思いは、「わたしに訊くな、あんたたちが差別をやめれば差別はなくなる、いつやめるのだ?」ということだったのではないでしょうか。差別する者がいて、その差別構造を圧倒的多数派が無意識に支えていて、しかも自分は差別していないと精神的に胡坐をかいている以上、差別はなくなりません。さらにいえば、その圧倒的多数派が差別撤廃、反差別運動の主体になったときに、まず差別を許さない社会、その先に差別のない社会が展望できるでしょう。

現代人が、社会意識としての差別観念に深くとらわれている以上、差別のない社会の実現は簡単ではありませんが、その前段としての差別を許さない社会なら、わたしたちにも可能だと思いませんか?

エタであることの誇り、障碍者であることの誇りとは、エタとして生まれたがゆえに、障碍者であるがゆえにこそ知りえたこと、行動できたこと、実現できたことがあると認識できていることではないでしょうか。被差別者でなくとも、どんな人物でも社会的にマイナスとされる要件は何かしら持っています。マイナスの要件を原因として、あるいは材料として、何か喜びとなるものを獲得できた時、マイナスの要件が誇りに転化するはずです。

差別する側、差別構造を支えている側と、差別される側が互いに尊敬できる関係になれるのは、両者がそのような誇りを持ちえた時ではないでしょうか。

付論.介助者あるいは差別する側におかれている者の主体性について

華青闘告発と青い芝の会の綱領は、ほぼ同じ時期に発表されたことが示すように、それぞれ独自にはぐくまれてきた思想であった。それは現在でも、たとえばわたしにとって生きる指針となっているし、それに共感してくれる人も少なくないはずである。

しかし、被差別者の主体性を確立し、差別する側におかれている者の自覚をうながそうとする問題提起は、一部の人びとによって歪められることになった。まず、被差別者を絶対視、神聖化する傾向である。1980年代か90年代のことであるが、狭山差別裁判糾弾中央集会で、石川一雄さん夫妻が登壇したとき、複数の党派の隊列で「起立」の掛け声がかかり、彼らは直立不動の姿勢をとった。わたしはそこにスターリン主義と天皇制の融合を見た。この行動は2~3年も続いただろうか。

1990年代、わたしはある日、在日コリアンの青年と、会議が始まる前に雑談をしていた。彼は、当時の帝国主義諸国が経済のブロック化の方向に進み、やがて日米戦争が開始されると主張した。わたしが、そんなことはあり得ない、現在の帝国主義同士は協調すると反論すると、彼は「俺は在日だ」と強い語調で繰りかえした。わたしはなんのことかと唖然としたが、数秒後には理解できた。彼は、在日の自分に対して、差別者である日本人の千本には批判、反論する権利はないと、わたしの主張を封殺したかったのである。わたしは理論的な問題にそれは関係ないとその場は終わったが、彼は、在日である彼をそのように持ち上げる集団に取り巻かれていた。

そのような傾向はさらに強まって、被差別者はすべて理想的な人格者であるという見方まで広がった。1990年代、当時としてはまだ少なかったが、アイヌ民族について卒業論文を書こうとした学生がいた。彼女はアイヌ民族はすべて理想の人格者であるという前提で臨んだために、行き詰まり、論文が書けなかったばかりか、悲劇的な結果となった。門岡伸彦が、「被差別部落にはええ人も嫌な人もいろいろいる、それは部落外と同じや」という趣旨のことをわざわざ書かなければいけなかったのが1990年代であった。

1980年代であったと思うが、ある男性が妻とその友人グループに拉致・監禁された。実行したのは、ウーマンリブ、障碍者運動、上記のような傾向の新左翼運動に参加している人びとである。糾弾の主題は家事の分担の問題であったように記憶している。傍目からみて批判は当たっていたと思うのだが、問題は糾弾の暴力性であった。夫は数十時間後、その友人グループによって救出され、入院した。

妻が、夫婦間だけでは問題が前進しないと、友人の助けを借りたことまでは理解できる。しかし女性だけではなく、一人混じっていた男性が暴力的糾弾の先頭に立っていた。彼らの論理からすれば、男性は女性に対する差別者であり、糾弾する権利はないはずである。しかし被差別者と連帯し特別な関係にある者には糾弾を代行できるという不思議な論理が発生していた。「糾弾権」を否定する主張も1970年代からみられるが、被差別当事者でない者に糾弾権はないにしても、差別事件、差別事象が発生したときに、それに気づいた非当事者には、問題提起をする義務があるというのがわたしの立場である。

わたしが経験した以上の出来事について、関係者に対し、ここに執筆することの許可は得ていない。そのため、できるだけ個人の特定ができないような書き方をしたつもりである。これらのことの多くは個人的な問題と考える人もいるかもしれないが、わたしとしては反差別運動だけではなく、社会運動全体としての総括が必須だと思う。このような論点について、すでに言及しておられる方がいらっしゃればご教示願いたい。

反差別運動における被差別者の主体性については、全国水平社が先頭に立ち、1970年代からは青い芝の会がけん引した。本稿でも述べたが、差別は、差別する側が、また差別構造のなかで無自覚に生きている者が差別撤廃運動の主体とならない限り、差別はなくならない。その場合、障碍者を介助する者の主体性とは何か。

社会的影響力を長く持ち続けている、100名をうわまわるある学生社会福祉団体の会員が教えてくれたことがある。「わたしの団体では、千本と青い芝とはつきあうなといわれています」と。その団体の別のリーダー的な学生、その分野で院入試を受験し、進学が決まっていたのだが、わたしが呼びかけた被差別部落のフィールドワークに参加してきた。その直後の感想会で、彼女は「差別されている人が、自分の意思を持ってそれを表明しているのを初めて見て驚きました」と述べた。彼女が接していたのは障碍児のようだが、彼女にとって障碍児は意思を持たない、意思を表明しない存在なのだ。それがかわいそうだから、施設訪問などのボランティア活動に参加しているのである。

阪神・淡路大震災の1995年が「ボランティア元年」と呼ばれるのは、金はないが時間なら何とかなる人たちが駆けつけたからだとわたしは考える。それまでの「ボランティア」は金と時間が余っている人が、可哀想な人のためにほどこしを与えることだった。バスの中で「こころの電話」を担当しているらしい数人の中年女性たちが電話相談の内容を教え合ってけらけら笑っているのに遭遇して、怒りを抑えるのに苦労した。あの怒りは抑えるべきではなかった。わたしも障碍者運動に参加してから、「ボランティアですね」といわれたが、不愉快であった。先ほどの学生団体は旧式のボランティアそのものだが、今になって考えると、相模原障碍者殺傷事件の植松聖の裏返しともいえる。そしてそれは、障碍者の努力や活躍を取材・報道して、視聴者に「障碍者なのによく頑張ってるね」と「感動」を要求する「感動ポルノ」として、現代社会に広く存在する。

障碍者福祉が量だけは少しずつ拡大していくなかで、労働として介助を行なう人の数はふえている。労働条件の厳しさや劣悪さが主要な原因であろうが、短期間で転職してしまい、定着する人は少ない。

労働とは、「世のため、他人のため、自分のため」の三拍子がそろって疎外労働ではなくなると思うのだが、「自分のため」が低賃金でしかなければ続かない。「自分のため」には、自己実現や自己解放がふくまれないと、人間的労働に値しない。介助労働が、たんに自己満足ではなく、どのように「自分のため」になっているのかを介助者一人びとりが確認する必要がある。

障碍者の主体性を確立するために健全者手足論が生まれた。それは華青闘告発とあいまって、一部に被差別者絶対視、神聖視を生んだ。健全者手足論は、わたしの耳に届くほどには広く議論されることなく、主張としては姿を変えて、障碍者介助の現場で、「当事者の意思に基づいて介助する」という、当然ともいえるレベルの「姿勢」に痕跡を残しているにすぎないのではないか。障碍者の主体性を確立するために打ち出された健全者手足論に対して、介助者の主体性はどのように論じられるべきだったのか。

「介助者の主体性とは何か」、「介助することは自分にとって何になるのか」というのは、現在のすべての介助者が考えていることではないのか。「差別者が解放の主体に」というのはわたしの主張にすぎないが、いいかえれば、「一人びとり全員が社会の主人公に」ということなのである。

ちもと・ひでき

1949年生まれ。京都大学大学院文学研究科現代史学専攻修了。筑波大学人文社会科学系教授を経て名誉教授。本誌代表編集委員。著書に『天皇制の侵略責任と戦後責任』(青木書店)、『「伝統・文化」のタネあかし』(共著・アドバンテージ・サーバー)など。

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