特集 ● 内外で問われる政治の質

20年を経た「平成の大合併」の評価と教訓

“先進県”愛媛を例に考える

松山大学教授 市川 虎彦

1.市町村合併先進県・愛媛

周知のように、2000年代半ば、全国で市町村合併が進められ、「平成の大合併」と称された。地方分権の推進が謳われる中、実態としては財政基盤の弱い人口1万人以下の基礎自治体をなくし、効率的な地方自治体を創り上げようとするものであったといってよいだろう。各地で合併が始まって、今年でちょうど20年目ということで、愛媛県内でもあらためて合併について検証しようという動きもあるようである。

「平成の大合併」時の愛媛県知事は元文部官僚の加戸守行であった。加戸知事は国の方針には忠実に従う体質で、加計学園獣医学部設置問題についての国会参考人招致では露骨に安倍首相寄りの証言をしていた人物である。当然のことながら、市町村合併も、時に強圧的な態度をもって推進の旗振り役となった。2001年2月に発表された「愛媛県市町村合併推進要綱」の中で示された合併の「基本パターン」は、70市町村を11市町に再編するという非常に統合度の高い案であった。これに基づき、一時は70市町村すべてが合併協議会に参加した。   愛媛県の地図を表示

県当局は愛媛県における合併を総括して、「本県における平成の大合併は、県として積極的に合併を推進したこともあり、(中略)県内の市町村数は70から20へと大きく減少し、その減少率は全国平均の43.6%を大きく上回る71.4%となったことから、本県は広島県と並ぶ平成の大合併における『合併先進県』と呼ばれることとなった」(『愛媛県市町村合併誌』愛媛県P.2)と、自画自賛している。果たして合併が進んだことは「手柄」なのであろうか。では、合併した地域の住民は市町村合併をどのように評価しているのであろうか。また、合併によって、いかなる事態が地域に生じたのであろうか。

表1 平成の大合併における市町村減少率上位5県
1999.3.312010.3.31減少率(%)
長崎県792173.4
広島県862373.3
新潟県1123073.2
愛媛県702071.4
大分県581869.0
全国3232172746.6

筆者は、愛媛県内で合併の評価に関する意識調査を多くの自治体で実施してきた。その典型的な結果を1つだけ示したい。大洲市は、旧大洲市・旧長浜町・旧肱川町・旧河辺村が新設合併して成立している。合併の中核自治体である旧大洲市は、1960年代末から積極的な企業誘致を行い、1970年代後半以降から1980年代前半にかけて人口が増加した市である。旧長浜町は、肱川の河口に位置し、藩政時代に大洲藩の外港となったことから発展した町である。近代以降、戦前までの長浜は、肱川の水運を用いた木材の集散地として繁栄した。日本三大木材集散地の1つともいわれるほどであった。旧肱川町、旧河辺村は、ともに谷あいの町村であり、農林業が主産業である。

表2 大洲市の合併前の各市町村の人口・面積
人口(人)面積(km)
大洲市39011240.99
長浜町926674.79
肱川町321163.30
河辺村104853.12

表3は、合併してよかったと思うか、そうは思わないかを尋ねた質問に対する回答結果である。新市の中心である旧大洲市の住民は、「どちらともいえない」が最も多い。これは多くの自治体でみられた傾向である。中核自治体では、合併しても以前と同じで変わらないと感じる住民が多いので、よくも悪くもないという回答が多数派になる。

表3 旧市町村☓合併評価(%)
よかったややよかったどちらともいえないあまりよくなかったよくなかった%の基数
旧大洲市10.89.055.116.38.8454
旧長浜町7.07.038.627.220.2114
旧肱川・河辺4.32.117.031.944.747
合計9.68.149.119.513.7615

注)旧肱川町と旧河辺村は実数が少ないので統合した。χ2乗検定の結果1%水準で有意である。

 大洲市選挙人名簿より系統標本抽出した20歳以上の男女1500名対象。調査期間:2009年7月10日~31日。郵送調査法。有効回答655票(回収率43.6%)

 

「よくなかった」「あまりよくなかった」という回答は、旧長浜町、旧肱川町・旧河辺村という順に激増していく。周辺的な地域になればなるほど、「よくなかった」という回答が増加するのも、多くの自治体に共通してみられた傾向である。また、「住民の声が反映されにくくなった」「中心地ばかりが重視され、周辺部が取り残されている」「市民に対する行政サービスの低下が起こっている」に、「そう思う」と回答する住民が多くなるのも、周辺的な地域の特徴である。

合併から20年が経とうとしている。しかし、新自治体に周辺部として組み込まれるような形になった地域では、いまだに「合併なんかしなければよかった」という声が聞かれる。次に、筆者が愛媛県内で見たり聞いたりした範囲で、合併がもたらした現象について述べていくことにする。

2.市町村合併の帰結~飲食店街・建設業・観光・自治・災害対応

松山市と合併したのは、東隣の北条市と沖合に浮かぶ島嶼から成る中島町である。北条市は、合併時の2005年で人口が約2万8千人であった。合併しなくても、自立可能な人口規模といえた。県が合併を強力に推し進める中、自らが主導権を握って合併を進めることができる適当な自治体が周辺に存在しなかった。それゆえ、人口約48万人の松山市との合併を選択することとなった。その結果、何が起こったのか。

まず、旧国道196号線沿いの商店街の衰退に拍車がかかった。この点に関しては、合併と同時期に開通した北条バイパス沿いに大型店が立地し、人の流れがそちらに移ったことは大きい。しかし、衰退していく商店街の店舗の中でも、飲食店は営業を継続できる例が多い。合併は、この飲食店に負の影響を与えたという。顧客であった市職員の数が激減したことが響いている。また、農協の合併も行われているので、農協職員の利用も減少した。折々の宴会もなくなってしまった。先が見えない中、閉店する店舗が現われた。「合併で飲み屋街が寂れた」という話は、西予市野村町でも聞いた。西予市の中心は旧宇和町であり、旧野村町では合併によって、やはり町職員が大幅に削減された。お得意さまの喪失は、飲み屋街を直撃したわけである。

さらに旧北条市では、地域の雇用を下支えする建設業界が、松山市と合併したことによって崩壊した。それまでは、北条市発注の事業を北条市の事業者が受けていた。しかし、合併によってそのようなことができなくなり、北条地区の事業であっても松山市の業者と競うことになった。そこで、規模の大きな松山市の業者に、北条の業者が入札で負けるという現象が生じていった。結果として、廃業する業者が続出したとのことであった。このことも、当然、飲食店街に悪影響を及ぼす。

旧北条市は、脚本家の早坂暁氏の生地であり、代表作の1つで自伝的な作品である「花へんろ」を観光に活用しようという動きなどもあった。合併後、北条市観光協会は松山市観光協会に統合され、廃止されてしまっている。現在の松山市長・野志克仁は北条出身である。北条地区の住民には、市長は北条のことを気にかけてくれているという感覚を持つ人が多くいるようである。しかし、市長が変わったら、北条独自の施策とかを立案、実行してくれるかどうか、危惧する声もまた聞こえてくる。

観光といえば、愛媛県内では観光まちづくりの優等生とみなされてきたのが、旧双海町である。伊予灘に面した町で、町役場職員であった若松進一氏を中心に「夕日」を活かしたまちづくりに取り組んできた地域である。伊予灘に沈んでいく夕日の美しさをまちづくりの核に据え、「沈む夕日が立ち止まるまち」を謳い文句に地域おこしが進められた。海岸には「ふたみシーサイド公園」が造成され、1991年3月に開園された。園内の道の駅の運営は、町が出資して設立された第3セクター「有限会社シーサイドふたみ」が担った。地元の女性らが雇用され、多く観光客がここを訪れ、成功事例ともてはやされた。しかし、伊予市などとの合併後、老朽化した建物の新築を契機に、新たな管理者の選定が行われることになった。伊予市役所は選定にあたって企画提案競技総合評価方式を採用した。選ばれたのは松山に本社がある旅行会社であり、シーサイドふたみではなかった。この結果、業務を失ったシーサイドふたみは存続不可能になり、解散に追い込まれてしまった。これも、合併が生んだ悲劇の1つといってよい。すでに退職している若松氏は、自らが関わってきた第3セクター解散の報に接し、その悔しさを自身のブログ(shin-1さんの日記)に綴っている。まちおこしも、旧町単位ではどうにもならなくなってしまっているのである。

行政面での変化もある。北条市は、「昭和の合併」で市を構成するようになった旧7町村が区としてまとまりを保っていた。区は、それぞれ区長を選出する慣わしになっている。さらに、7区長の中から代表区長が選ばれる。代表区長は、市議会議員以上に、北条市行政に大きな影響力を発揮していたという。住民の声を市政に届けるための独自の体制をもっていたのが、北条市であった。合併後、松山市は区長制を廃止し、広報委員制度に改めた。現在は、区長制の有用性を市も認め、区長制が復活している。しかし、市に対して7区長それぞれが個別に接する形になっているため、以前のような影響力はなくなったという。当然のことながら、支所では対応できない農林業関係などの陳情、説明は、松山市まで出向かねばならなくなっている。

合併は災害対応にも影響を与えている。2018年7月の西日本豪雨では、愛媛県でも大きな被害が発生した。大洲市では肱川が氾濫し、浸水面積は1372haに及んだ。大洲市の旧肱川町に存する道の駅「清流の里ひじかわ」も、床上浸水の被害にあった。駅長は、個人的な感想として「道の駅の復興は、市町村合併していない方が、短時間にできたのではないか」と述べていた。1つ1つ、大洲市の本庁にお伺いを立てて進めねばならなかったので、余計な時間がかかったように感じたという。旧肱川町という枠組みであったら、もっと迅速な対応が取れたのではないかとの指摘があった。

また、同様に肱川の氾濫被害にあった西予市は、東宇和郡の旧宇和町・旧野村町・旧城川町・旧明浜町と西宇和郡の旧三瓶町が合併してできた市である。郡をまたぐ合併であったわけである。西宇和郡に属していた旧三瓶町は、八幡浜市と行政上のつながりが強かった。三瓶地区の消防は、合併後も八幡浜消防署の管轄区域という不自然な状態が続いている。災害時に支障が生じないか、懸念する声を聞いた。

3.混乱する市政―西条市

西条市は、2004年11月、旧西条市・旧東予市・旧小松町・旧丹原町が新設合併して成立した市である。旧西条市長の伊藤宏太郎市長は、無投票で新市の市長となり、2008年11月には、旧西条市から立候補した3名の対立候補に圧勝して2度目の当選を果たした。

地理的には、旧西条市の西へ旧小松町・旧東予市・旧丹原町と連なっている。そのため、新市全体からみると、旧西条市役所は新市の東に偏った位置になっていた。そこで合併協定では、新市の市庁舎は現西条市役所よりも西の適地に新庁舎を建設する、と取り決められた。ところが、伊藤市長は2期目の在任中に、増改築によって現在の市庁舎を使い続けるとの方針を打ち出した。新たに用地を買収して新庁舎を建設するよりも、現庁舎の増改築の方が財政的な影響が小さいとの判断からであった。

伊藤市長が3選を目指した2012年11月の市長選は、その市庁舎改修を合併協定違反だとして、増改築見直しを公約に掲げた青野勝が対立候補として立った。青野は、最後の東予市長であり、合併後は県議に回っていた。大激戦となった市長選は、わずか122票差で青野の当選であった。

この市長選の段階で、改修工事は建設会社との契約も済み、すでに着工済みであった。増改築見直しを公約に掲げた青野市長ではあったが、違約金の発生やこれまでの工事が無駄になるという現実の前に、工事を再開するより他に採る道はなかった。これに対して、「見直し」という公約に対する違反である、との批判を展開したのが伊藤派の市議たちであった。現庁舎改修案に賛成していた市議たちが、工事再開を批判するのだから、「政争の具にする」とはまさにこのことである。青野市長は青野市長で、おそらく工事停止は不可能とわかっていたであろう。その上で、市庁舎問題を選挙戦での現職批判の格好の材料として利用したものと思われる。

こうした中、2013年1月の市議会において、公約違反を理由とした青野市長不信任案の採決が行われ、4分の3以上の賛成をもって可決されることとなった(定数30:賛成21・反対7・欠席1・欠員1)。改めて市長選で信を問うか、議会を解散するかの選択を迫られた青野市長は、議会解散を選んだ。2月に市議会議員選挙が行われ、新議員が選出された。

規定では、新たに選出された市議が初召集された市議会において、3分の2以上の議員が出席して過半数が賛成すれば、市長失職であった。4分の3以上の賛成から過半数の賛成に障壁が一気に下がるので青野市長失職かと思いきや、そうは問屋がおろさなかった。市議会は、3分の2以上の出席という規定を充たすことができなかったのである。12名に増えた青野派の市議が、議会を欠席し続けるという奇策に出たためである。不信任案の採決ができないまま、市議会は閉会となってしまった。

めったにみられない事象が次々と展開していったため、地方自治の仕組みをあらためて学ぶには、またとない事例とはなった。しかし、外からは混乱と対立が続く西条市とみられ、市民の間にも政争はいいかげんにしてくれという空気が漂ったのは言うまでもない。

地理的には、西条市の中心部から小松町の中心部まで国道11号線沿いに市街地が連坦している。一方、東予市と丹原町の間は、県道48号線に沿って大型店が連続して立地している。しかし、この2つの市街地の間には、中山川が流れ、広い農地が挟まっているのである。1市1町ずつの合併ならばまだ無理がなかったものを、県が遮二無二広域合併を進めたために無用の混乱を生じさせたと言える。

4.「先進」事例が示唆すること~道州制導入論議に備えて

これまでみてみたように、「平成の大合併」の帰結として、最も目につくのは周辺部の衰退である。周辺部住民の合併に対する評価が低くなるのは当然である。広すぎる合併は、地域融和に時間を要す方向に作用し、時に無用な政争を招いた。また、旧市町村単位での独自施策の実行が困難になる傾向が認められた。

この先、人口減少が進めば、60万人、50万人という現在の県庁所在都市なみの人口規模の県が現われてくる。そうした中で、道州制導入がいよいよ実行に移されんとするであろう。「平成の大合併」と同様、錦の御旗は地方分権推進で、真の目的は地方行政の効率化である。

道州制が導入されて、仮に四国州が設置されたとしたら、州庁は現在も国の出先機関が集中し、JR四国や四国電力のようなブロック企業本社がある高松市に置かれよう。愛媛県は、県全体として周辺化される。愛媛のことが、高松で決定されるようになってしまう。「平成の大合併」で旧双海町などが味わった悲哀を、愛媛県が甘受せねばならなくなるのである。

西条市政のことを想起すれば、州知事選挙はしばらくの間、各県から立候補者が出て、地域間の対立感情をあおるような選挙戦が展開されることがあるかもしれない。地域の一体化を目的とした道州制導入が、近県住民の間に感情的なわだかまりを生むのであれば、皮肉な事態といえる。また、災害や新型コロナ禍のような緊急事態の時に、州という広域な単位で適切な対応はできるのであろうか。疑問の種は尽きない。

『松山市史』には、「同じ城下町であった今治と比較して、もしも県庁が置かれていなかったならば松山が近代にどのような推移をみせたかを考えることは有用であろう。明治期には県内屈指の工業都市に成長した今治に対し、松山での産業は旧藩時代以来の家内工業形態の伊予絣にとどまった。流通センターとしての機能は後背地の規模から推測しても松山の方が大きかったから、問屋・仲買や金融機関はある程度集中したであろうが、今治の発展に対応してそれらの機能が松山から今治に移行したかもしれない」(『松山市史 第3巻』P.8~9)という記述がみられる。松山市に県庁が置かれていなかったならば、今日のような近代都市としての発展はなかったかもしれないという見解が、市の公式の「市史」にみられるわけで、興味深い。県庁所在都市となることによって、県の行政機構、国の出先機関、全国展開する企業の支店、県単位に存在するマスコミや金融機関等の中枢管理機能が、その都市に集中する。これだけで、その地は発展のための有利な条件を形成しうる。

道州制導入により、県庁があることによって栄えた市から県庁がなくなればどうなるか、誰にでも容易に想像がつく。道州制によって最も打撃を受けるのは、愛媛県内では実は松山市であろう。県庁職員の大幅削減、各種の県連合会の再編統合、企業の支店の整理縮小などが生じ、雇用が大幅に減少すると予測されるからである。そうなれば、小売業・サービス業も衰退せざるを得ない。その先は、螺旋状に縮小と衰退が進んでいくに違いない。消費都市である松山市は、安閑とはしていられないのである。

最後に一言付け加えれば、愛媛県に限らず、州庁所在県となる見込みのない県は、「平成の大合併」を教訓として、道州制導入に対抗するために、持続可能な自立した県づくりを模索していかねばならないと考える。

いちかわ・とらひこ

1962年信州生まれ。一橋大学大学院社会学研究科を経て松山大学へ。現在人文学部教授。地域社会学、政治社会学専攻。主要著書に『保守優位県の都市政治』(晃洋書房)、共編著『大学的愛媛ガイド』(昭和堂)など。

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