論壇

寄稿

カール・ポパーはなにを語ったのか

最近の日本共産党の立場との関連で

哲学者 小河原 誠

* 本文冒頭に記したような背景があり本誌に寄稿させていただいた(筆者)

とにかくポパーはいやな奴?

旧冬2023年12月12日付『赤旗』の「文化学問」欄は、共産党の出版局長という田代忠利氏による、カール・ポパーの『開かれた社会とその敵』(岩波文庫全4冊)にかんする文章を掲載した。(筆者は、訳者ではあるのだが、あえて書評とは呼ばない(注1)。)これを読むと、氏はポパーにかなり憤慨したと見える。要するに、マルクスはこの著の副題にあるような「にせ予言者」として非難されてはならないということらしい。

しかし、お聞きしたいが、マルクスは資本主義の運命について予言したのではないか。そして、そこにマルクスの巨大な影響力の秘密があったのではないか。そして、その予言は大ハズレだったのではないか。(たとえば、どこにおいても国家は死滅の兆候など示しておらず、むしろ肥大化の傾向を示している。)

さらに、私の読後感を語らせてもらうと、どうも田代氏にとってマルクスは暴力的な革命家であっては困るようであり、平和的で人道主義的な改良主義者であらねばならないようだ。だから、ポパーが描き出したようなマルクス像――田代氏はこれをただしくとらえたであろうか――は、否定されねばならないのだろう。

しかしそれは、歴史上のマルクスを現在の共産党の路線という型枠のなかに流し込み固めてしまうことではないのか。この型枠をぶち壊す解釈を語るポパーは徹頭徹尾否定されねばならないようだ。しかし、それは過去の思想家としてのマルクスに対するただしい向き合い方なのであろうか。

ポパーがこの書物で語ったことは、日本共産党の現在の路線に照らせば、否定するどころか大いに学ばねばならないはずものだ。それは、ヒストリシズム(歴史の必然性信仰)を否定する議論であり、ピースミールな改良主義の擁護であり、解職主義的な民主主義論の提唱であり、「ブルジョワ国家の本質とは……」などという本質論を否定してわれわれは国家になにを要求すべきかを説く保護主義的な国家論などである。ここに、日本共産党にとってのジレンマが生じるように見える。

つまり、田代氏は律儀にマルクスの正統的な「継承者」であると自己主張しようとしているので、「マルクス批判者」たるポパーを、またかれの描くマルクス像を否定しなければならないと考えるのであろう。だが氏は、他方でポパーの民主主義論や改良主義を否定してはならず、学ばねばならないという難しい課題の前に立たされたということだ。

ポパーによるマルクス歪曲?

その1 追加

ところが、この課題は田代氏には荷が勝ちすぎた。ここで氏がとったスタンスはきわめて単純で、ひとことで言えば、ポパー的なマルクス解釈は否定して、マルクス継承者であるという自分の立場をもっともらしく見せかけるとともに、他方で、ポパーの改良主義的な政治哲学は読者(とくに共産党支持者)の目に触れさせないようにすることであった。換言するとポパーなぞ相手にしなくてもよいという先入見を読者に植えつけることであった。しかし、これは、普通に言えば、「ポパー歪曲」と呼ばれることだろう。

しかし、氏はその論評を手短な分量にまとめたとはいえ、お手並みは鮮やかとはいかず、あちこちほころびが目立つ。以下では順次それらを指摘していこう。氏は、まずポパーの理解ではマルクスは初期には「能動主義」者であったが、のちには予言者にされたと言い、それに伴って人間は「操り人形」にされてしまったと「要約」してつぎのように言う。

「彼[ポパー]の議論の特徴は、社会発展の法則性と人間の能動性を対立させること、マルクスの引用で、自説に有利になるよう言葉を追加、または省くことです。」

このパラグラフにおける最初の言い立て〔法則性と能動性の対立〕は後半で論じることにして、引用の仕方に問題がある〔不当な追加と省略〕という残りの主張のうち、まず意図的な追加なるものを取り上げてみよう。氏はつぎのように主張している。

〔ポパーは新しい社会の到来にかんして〕

「「政治にできることは『産みの苦しみを短縮し緩和する』ことでしかない」と傍線部を付け加えて、マルクスは人間の役割を軽視したと読者を誤導しています。」

「傍線部を付け加えて」という氏の発言を聞くと、ポパーが意図的にマルクスを歪曲したように聞こえる。しかし、確認しておきたいが、ポパーが引用したのは、二重括弧でくくられた部分のみである。「でしかない」というのは、ポパー自身によるマルクス評価(あるいは解釈)のことばである。決してマルクスのことばそのものを歪曲しているわけではない。そもそも引用者が引用した語句に対して態度表明をしてはいけないのだろうか。むしろ、文筆の世界では普通になされていることではないか。たとえば、「『……』という愚かな表現でしかない」といった表現は普通になされていることではないか。田代氏はそれを大仰に騒ぎ立ているにすぎない。片々たる一字句をもって読者を誤導しうるというのは「国際的に有名なマルクス批判者」ポパーの影に怯えすぎたのではないのか。田代氏はそもそも「論評する」という行為を理解していない。

その2 省略

つぎに田代氏が不当に省略したとしてポパーを譴責したのは、マルクスが「変革では政治などでの人間の意識的なたたかいが決定的」と語っているという一文(文法的には関係文(修飾文))にかんしてである。田代氏の論評をすでに読まれた読者には煩わしいであろうが、話の流れをきちんと理解していただくうえからも、議論を再構成しておきたい。

田代氏が言及したのは、「『経済学批判』序文」の一節――以下では【序文の箇所】と略記――である。氏によれば、その箇所はマルクスが人間の主体性・能動性を強調している重要な箇所であったにもかかわらず、ポパーはまさにそれを省略することで、マルクスにおける政治の強調(人間の役割の重要性)を無視したのだという。田代氏はポパーが引用したままの形でその箇所をつぎのように提示している。

「このような変革を考察するにあたっては、経済的な生産諸条件において科学に忠実に確定されるべき物質的なものの変革と、(*)法律的、政治的、宗教的、芸術的、哲学的、つまりイデオロギー的な形態とをつねに区別しなければならない。」

田代氏がポパーの省略した個所であるという(*)の箇所とは「人間がこの衝突を意識するようになりこれとたたかって決着をつける場となる」〔この訳文の出典は明示されていない〕という文である。

ここで話を中断するようで申し訳ないが、先に進む前に、いま議論している【序文の箇所】が別種の翻訳ではどうなっているかを見ておきたい。読者には、マルクス解釈の微妙な差異を感じとっていただきたいと思うからである(注2)。一つは以下の岩波文庫版である。

「このような諸変革を考察するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革と、(**)法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とをつねに区別しなければならない。」(引用は13ページ以下)。そして(**)の箇所は、この岩波文庫版ではつぎのようになっている。

「人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる。」

ついでながら、この箇所についての、意味的には大きな違いあるわけではないが、筆者の訳も載せておこう。

「人間がこうした衝突を意識するようになりそれと決着をつける場となる」(Marx Engels Werke, Bd. 13, S. 9. ついでに省略されたという関係文も引いておく。worin sich die Menschen dieses Konflikts bewußt werden und ihn ausfechten.)

さて、田代氏によればポパーが意図的に省略したという(*)の箇所こそが決定的に重要なのであるという。では、ポパーはこの箇所を意図的に省略したのであろうか。もちろん、結果的には省略されているのであるから、それは「意図的」だったのだという主張は成立するであろう。だが、別種の可能性は存在しないのか。存在するとすれば、それはどのような可能性であろうか。

ポパーのテキスト(ドイツ語版)にさかのぼってみると、(*)の箇所はきれいさっぱり削除されており、しかも文章はプンクト〔ピリオド〕で終了している。しかしながら、英語版のほうに目を移すと、この箇所は2連のピリオドで省略がなされていることを明示している(Routledge, Golden Jubilee Edition p. 338)。

ドイツ語版は、ポパー自身が監修したということなのだが、筆者はポパーの側(ポパーと協力者)のミスではないかと思う。あるいはポパー自身が関係文は重要でないと判断して意図的に省略したというのが、この箇所についてのより公正な評価ではないかと思う。

しかし、それは田代氏が主張するように、マルクスの本来的な意図(「人間の意識的なたたかいが決定的」ということ)を歪曲するためになされたのであろうか。そして結果として「この文は、変革では政治などでの人間の意識的なたたかいが決定的という意味ですから、彼〔ポパー〕の解釈は無理です」という田代氏の主張を立証するのであろうか。

筆者はそうは思わない。なぜなら、第一にこの箇所はたんに副文にすぎず、文の構造からすれば主文に対しては副次的重要性しかもたないからである。マルクスの主眼は、経済的な生産諸条件とイデオロギーの諸形態を区別し、そして前者が下部構造として根本的な条件であり、後者はそれを反映する上部構造にすぎないと論じているからである。もう少し詳しく論じてみよう。

問題の箇所に先行する一連の行文はいわゆる(史的唯物論の)公式を語っている箇所として有名であるが、そこにはつぎのような表現(定式)が見られる。

「この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、……そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。」(岩波文庫版、13ページ。太字は本稿筆者。)

また当該箇所のあとの部分にはつぎのような表現も見られる。

「……この意識を、物質的生活の諸矛盾、社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならない……また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない。」(上掲書、14ページ)

ここに引用した諸表現は、普通に解釈するならば、反映論を語っているものであろうし、人間の側の主体性・能動性には強い制限がかかっているという主張であろう。なるほど、「人間の意識的なたたかいが決定的」という言い方はいつでも可能であろうし、じっさい、多くの人は戦いにおいては、自分が何をしているのか、どんな相手と戦かっているのかを意識するであろうから、その意識が大切であるとは言えるよう。

しかし、それはマルクスの史的唯物論からすれば、「人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定する」のであるから、「意識」とそれにもとづく能動性や主体性は、当時のマルクスにとっては「決定的」ということではなかったと言えよう。「決定的」であったと解釈するのは、田代氏が現在の日本共産党の路線の正当性を根拠づけようとしてそう解釈しているにすぎないのであり、それは歴史的人物としてマルクスを歪めることではないのか。マルクスの史的唯物論の観点からすれば、「その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、」意識的なたたかいが「古いものにとってかわることはけっしてない」ということになりはしないか。要するに、「人間の意識的なたたかい」は「生産諸条件」によって規定されてしまうのだから、「決定的」ではなく、「二次的」ということになりはしないのか。

筆者には、田代氏は片々たる一文をもって史的唯物論の公式(ここでは、反映論および存在が意識を規定するという主張)を覆そうとしているように見える。しかし、そうするには、再度言うが、典拠はあまりにも薄弱なのではないだろうか。大力無双の力士であっても、地盤が泥田のように脆弱であっては、暴れるだけ沈み込んでいくのみである。

暴力行使の両義性問題

氏は、マルクスは反映説を語っているのかもしれないという疑念はおくびにも出さず、ポパーに対する攻撃をつづけていく。ポパーの解釈では、マルクスは資本主義下における人間を経済の操り人形にしたことになるという――しかしこれは、俗流マルクス主義者の解釈であるとしてポパー自身がきびしく批判している当のものである。[『開かれた社会とその敵』の第一四章を参照されたい。ついでながら、そこでは、マルクスは人間を傀儡と解釈するのではなく、制度論的に解釈しているとして高く評価されている(注3)。]それどころか、ポパーのマルクス解釈では、マルクスは議会をつうじての改革の可能性を無視した暴力的革命主義者にでっち上げられている、という。

こうした田代流のマルクス解釈は、驚くに値するものではない。マルクス主義の歴史を少しでも学んだことある者なら、マルクス主義が暴力の使用にかんして少なくとも理論的には両義的な(あいまいな)態度をとってきたことは明白だからである。(これは、わかりやすく言えば、敵の出方次第論とでもいえよう(注4)。)そしてポパーはこのあいまい戦略をマルクス主義におけるもっとも有害な要素とまで言っている。だが、これは、注意してもらいたいのだが、田代氏が言うように、マルクスを一貫した暴力的革命論者とするわけではない。その証左としてポパーからつぎの箇所を引用しておきたい。

「過激派は、マルクスにしたがって、あらゆる階級支配は必然的に独裁、独裁政であると主張する。したがって、真の民主主義は、階級なき社会を樹立することによってのみ、すなわち、必要とあれば暴力をもってしても資本主義的独裁を排除することによってのみ達成されることになる。穏健派は、この見解には賛同せず、資本主義下でも民主主義はある程度まで実現可能であり、漸進的な改革をつうじて平和的に社会革命を起こすことができると主張する。だが、この穏健派でさえも、そのような平和的発展は不確実であると考える。そして、そうしたばあい、ブルジョア階級は、民主主義の戦場で敗北の危機にさらされるとまちがいなく暴力的手段をとるだろうと指摘する。そしてこの派は、こうしたばあい、労働者が同等の報復をし暴力を用いてみずからの支配を打ち立てても正当であると考える。両派は、マルクスの真のマルクス主義を代表していると主張するわけであるが、ある意味では両派ともただしい。なぜなら、すでに言及したように、こうしたことがらにかんするマルクスの見解は、そのヒストリシズム的なアプローチのゆえにあいまいであったからである。くわえて、かれは生涯のあいだに見解を変えたようにも見える。つまり、最初は過激派として出発し、のちには穏健派の立場をとったのである。」(岩波文庫版第2巻上、第19章第3節、p.322f.)

ポパーの解釈では、マルクスあるいはマルクス主義は暴力の使用にかんして体系的にあいまいなままであったのだ。さらに後年になって、かれは穏健派に移ったとも主張されている。だとすれば、一貫して暴力的革命論者だったなどとは言えるはずもない。ポパー自身はそのことを熟知していた。

マルクスを一貫した暴力的革命論者としたのでは、両義性を一義性に貶めることになり、かれにおける平和主義的漸進的改革路線がまったく見えてこないであろう。筆者は、論証は省くが、こうした点は『開かれた社会とその敵』を読んでみれば明白であると思う。この本は、改良主義との共鳴を示す本であって、それをマルクスのうちにも探ろうとしている本なのだから。筆者は、田代氏はポパーの議論をそもそも読み解けていたのかと疑う者である。

ところで、田代氏はさらにマルクス弁護をつづけている。その1。曰く「社会主義が必然とは、いずれは到達するという意味です。」筆者はこれを読んだとき思わず吹き出してしまった。マルクス主義は「科学的」マルクス主義であることを標榜していたはずである。田代氏のこの言明は、科学とはまったくなんの関係もないだろう。それは、「いずれ、雨が降る」とか「いずれ、地震が到来する」といった存在言明とおなじく、いつかは真なることが証明されるというまったく空疎な言明でしかない。

科学的予測言明として価値があるのは、存在言明ではなく、明確に時と所を限定した単称言明(ポパーのことば遣いでは基礎言明)である。この点は、近年における科学哲学の興隆によって周知の事項になったのかと思っていたが、どうもそうではないらしい。田代氏は、科学哲学の成果をまったく理解していないのだ。いつでも言い逃れが可能な「革命はいつかは来る」という存在言明に引き下がっている。日本共産党の有力メンバーであろう人物のこうしたお粗末な科学理解では、共産党は相手にされなくなっていくだけだろう。

その2。田代氏は、「『陣痛の短縮・緩和』とは、人間が歴史の発展法則に沿って社会に働きかければ、変革が短期間で円滑に進むことの比喩です」と言う。筆者はこれを読んだとき思わず涙がこぼれ落ちそうになった。マルクスは生涯をかけて「比喩」を語るために研究していたのだろうか。マルクスは、将来の社会の変化を科学的に「予測」――「予言」ではない――しようとして研究していたのではないか。田代氏が、マルクスの表現を「比喩」に貶めてしまうならば、マルクスは社会科学者というよりは、象徴派の詩人にでもなってしまうのではないか。マルクスを社会科学者として扱おうとするなら、マルクスの諸言表を反証可能性のより高いものとして扱う必要があるだろう。田代氏は、筆者には、まったく逆向しているように見える。

もう少し批判をつづけたい。その3。氏は、「人間が歴史の発展法則に沿って社会に働きかければ……」と書いておられる。これはいったいどんな意味なのだろうか。「歴史の発展法則」とは、氏は詳しく説明してはいないのだが、こうしたことを主張する人たちの通例からすると、AのあとにはBが、そのあとにはCが、またそのあとには……という継起の法則のことではないのか。とすれば、これもまた科学に対する無理解ぶりを示すものであろう。というのも、事象の継起は、先行する出来事がある法則――これ自体は継起の法則ではない――の初期条件となってある出来事、つまり結果を惹き起こし、それがまたある別な法則の初期条件となって、べつの結果を惹き起こすということであって、継起の法則などを引き合いに出す必要はなく説明されることなのだ。

その4。しかるにマルクスに倣って「この社会は、自然の発達段階を飛び越えることもできなければ、これを法令で取除くこともできない」(岩波文庫版『資本論』第1巻16ページ)などと言うのは、「歴史の発展法則」は鉄の必然性をもって貫徹するなどと信じ、数限りない害悪を流したヒストリシストの典型的な言い草である。そしてポパーはまさにこの点を批判したのである。田代氏は、これをまったく理解していない。『開かれた社会とその敵』を後ろから、つまり歴史叙述の論理というべきものが書かれている第25章から丁寧に読まれることをお勧めせざるをえない。

ところで、氏は「発展法則に沿って」とも述べておられるが、「発展法則に沿う」とはいかなることなのであろうか。人間の知識は「成長」する。科学技術の進歩は昨日できなかったことを今日には可能にする。ところが、知識の成長を「予測」すること不可能である。なぜなら、明日になって初めて知ることを今日のうちに知ることはできないからである。発展法則に沿おうとしても、それ自体が人類史に登場した幾多の神話や謬説のように発展して消滅しまうならば、寝言になってしまう。

さらに田代氏の主張――むしろ、信念とでもいうべきもの――には、問題がある。それは、われわれは「発展コース」なるものを受け容れるべきか、拒否すべきかという倫理的問題が見えなくさせられてしまうという問題である。

たとえば、われわれは「発展法則に沿うとして」アマゾンの密林を伐採しつくしてしまうべきなのか、それとも地球の肺としてのそれを守り抜くべきなのか。発展法則は事実言明であるから、そこから価値的(倫理的)言明を引き出すことはできない。

大事なのは、「発展法則」などではなく、人間の側の考え抜かれた実践的な意志を世界の側に課していくことなのだ。人類史は理想社会の実現という目標達成に向けて進んでいくというかたちで事実と価値とを混淆しているゆえに、すでにして価値を折り込んでしまっている「法則」なるものの奴隷となるとき、スターリニズムのもとでの隷属以上の隷属が生じるであろう。

結局のところ、「発展法則に沿う」という言表は、まったく空疎であり、危険である。とはいえ、それは権力を握った者(たとえば、党の指導者)には、勝手な解釈のもとで、自分たちにとって都合のいい「意味」をぶち込んでいくことができる便利な道具となるのだ。結果として、無辜の多くの人びとが収容所で、あるいはシュタージといった秘密警察の弾圧のもとで命を落としたことをわれわれは忘れてはならないだろう。

田代氏は、結論として〔ポパーは〕「……マルクスをスターリンの源流としたため、マルクスの真意をつかめなかったのでしょう」と述べているが、ヒストリシズムこそが害悪の中心にあったことをまったく理解していない。しかし、科学が何であるかを理解した人たちは、ヒストリシスト・マルクスを見捨て、同時に日本共産党も見捨てていくことだろう。マルクス無謬論とはきっぱり手を切り、民主主義への理解を深めていかないかぎり、ポパーのヒストリシズム批判に対抗することはできないだろうと思う。

 

【注】

注1 筆者は、「書評」であるならば、もう少し書物全体への言及があってしかるべきだと考える。この本の主題は、左右の(簡単に言ってしまうと、プラトンとマルクスの)全体主義をヒストリシズム批判という形で展開し、現在の西洋文明の基礎をなしている民主主義――解職主義的民主主義――を擁護することにある。この大きな主題に対してなんらの論評も加えないのでは、とうてい「書評」とは言えないであろう。じっさい、この点を把握していないから、後論でも触れるつもりだが田代氏はヒストリシズム批判がご自分にも向けられたものであることを理解していないのである。

注2 田代氏は、マルクスは人間の能動性・主体性を強調したと言うが、後論で論じるように、この文脈は、そうしたことではなく、たんに反映論を語っているにすぎないと思われるということである。

注3 ポパーが、マルクスを「人間=操り人形」論の主張者として解釈しているという田代氏の主張はポパーを正確に読んでいないことを証したてているにすぎない。ポパーは、マルクスについて次のように言っているのだから。「だが、マルクスの経済重視主義を、人びとの精神生活をほとんど重視しない唯物論と同一視するなら、マルクスを完全に誤解することになる。」(『開かれた社会とその敵』岩波文庫版、第2巻上第15章、228ページ。)第15章には、マルクスを二元論者――言うまでもなく、精神と身体との――とポパーが解釈している箇所は多数あることを指摘しておきたい。そして、第15章はまさにここで論じられている【序文の箇所】が登場してくる章なのである。田代氏は、ポパーのマルクス解釈をきちんと読んでいるのであろうか。

注4 ポパー自身は、第17章注(7)で、社会革命が平和的に遂行されるかどうかという点についてのマルクスの結論を引いたエンゲルス(『資本論』の最初の英訳へのエンゲルスの序文)に言及して、「マルクス主義によれば、革命に暴力行使が伴うか伴わないかは旧支配階級の抵抗しだいであることを明確に示している。」と述べている。

こがわら・まこと

1947年日立市生まれ。1975年東北大学大学院博士課程退学。鹿児島大学教授、北里大学教授を歴任。著書、『討論的理性批判の冒険』(未來社1993年)、『読み書きの技法』(ちくま新書1996年)、『反証主義』(2010年東北大学出版会)。2024年6月に筑摩書房より『ポパー[第二版]』を刊行予定。訳書として『開かれた社会とその敵』(2023年岩波文庫全四冊)のほかにポパーおよび批判的合理主義関連の訳書多数。

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