特集 ● 内外で問われる政治の質
昭和のプリズム-西村真琴と手塚治虫とその時代
連載・第1回――現人神とロボット
ジャーナリスト 池田 知隆
歴史にプリズムを置けば、光の当て方によって多彩な像を結んでくれる。いまから100年ほど前に「昭和」という時代が始まった。昭和天皇が「人」から「神」となる御大礼(大嘗祭・即位の礼)が行われた1928(昭和3)年、東洋初のロボット「学天則」が誕生した。「現人神」を祝う御大礼記念京都大博覧会で、西村真琴が披露した「心優しい」人造人間だ。「ロボット元年」といわれるこの年の明治節(11月3日)には、手塚治虫が産声をあげている。西村真琴、手塚治虫の二人の天才を通して「昭和」の光と影を見つめたい。(筆者)
学天則の誕生
「神は人を造れり、人は人の働きに神を見出す、神を見出さゞる文明は呪はるべし」
1928(昭和3)年9月、御大礼記念京都大博覧会に出品された「学天則」の盾に、和文、英文でそう刻まれていた。全身金色の半身像で、手が静かに動き、表情がゆるやかに変わる。製作した西村真琴は、日本の「ロボットの父」とされているが、意外にもあまり知られていないので、ざっと紹介しておこう。
西村真琴 にしむら まこと(1883-1956)明治-昭和時代の植物学者。明治16年3月26日生まれ。西村晃(こう)の父。北海道帝大教授から大阪毎日新聞論説委員に転じ、保育事業の推進や科学啓蒙活動などにつとめる。昭和3年ロボット「学天則」を製作した。昭和31年1月4日死去。72歳。長野県出身。広島高師卒。著作に「大地のはらわた」「科学奇談」など。(デジタル版 日本人名大辞典から)
多彩な経歴をたどった西村真琴よりも、二男で二代目「水戸黄門」役を演じた俳優、西村晃のほうが有名だ。だが、大学教授からジャーナリストに転身し、自由奔放に活躍した西村真琴の軌跡は実に興味深い。
新聞社に移るまでのいきさつは、後に語ることにして、当時の肩書は、大阪毎日新聞社の「学芸部顧問(大阪在勤)兼論説課勤務」とあり、私の元職場の大先輩にあたる。その前年の4月には、マリモの研究で東京帝国大学から理学博士号を得ていたが、西村の好奇心はマリモからロボットに向かっていた。
科学と芸術の交流
ロボットの概念そのものは、非常に古い。紀元前10世紀ころにアレクサンドリアで、人形を空気で動かしたという記録がある。紀元前8世紀に書かれたホメロスの叙事詩「イーリアス」に、黄金製の少女が登場している。日本の「今昔物語」でも、桓武天皇の息子、高陽親王が作った灌漑を促す機械人間が知られている。
西欧では17世紀ころ、振り子時計から精密機械へと技術が発展し、「フルート吹き人形」「太鼓たたき人形」「機械仕掛けのアヒル」が登場。ほぼ同じころ、日本でも「からくり人形」が作られている。
ロボットという言葉は、チェコの作家カレル・チャペックの戯曲『R・U・R(ロッサム万能ロボット会社)』(1920年)で初めて使われた。チェコ語で奴隷労働を意味する「robota(ロボータ)」に由来する。1927年には米国ウェスティングハウスが遠隔操作できる人造人間「テレボックス」を発明、英国では無線で音声を発声する「エリック」という人型ロボットが発表された。
そんな世界的なロボットブームに乗じたものだが、西村のロボットは世界に決して後れを取ってはいない。「テレボックス」や「エリック」とは異なり、なによりも人間のすばらしさを示す機械として西村は構想している。「人造人間は科学と芸術の交流によって成り立たなければならない」と。
「学天則」は、自然の法則に学ぶことを意味している。文字を書き、表情を変え、自然との調和や生物の共存などをイメージしている。機械的なロボットではなく、人工的な生物の再現しようとした。
動物の筋肉や血管を再現するためにゴム管を使用し、空気を用いた駆動方式を採用することでスムーズに動かした。原動力に空気の膨圧力を利用しているのは、人間の呼吸作用を模している。そこには植物学に始まり、生命を探究してきた学者としての思いが反映されている。
コスモスの花飾り
「学天則」は実際、どのようなものだったのだろうか。
博覧会の西会場第一参考館の中央に置かれた「学天則」について作家、荒俣宏は「人造人間は微笑する」と題してこう紹介している。
「博覧会にはいった観客は、まず古代ギリシャの殿堂を思わせる舞台にみちびかれる。(略)正面の円形屋根の上には約十mもある両翼をひろげた巨鳥が飾られている。しかもこの巨鳥はときおり自動的に首を振り、白いくちばしから赤い舌を出して鳴く。観客が鳥の鳴き声に驚いて上を見あげると、それを合図に、紫色の照明に照らされた館の内部から荘厳な音楽が流れだす。そして、観客には金色の半身像としか見えなかった巨人が、急に赤や緑の光を放って、動きはじめるのだ。
かれの左手に握られた霊感灯(インスピレーション・ライト)がひらめくと、学天則はまるで霊感を受けた詩人のようにカッと目を開き、天を仰いでにっこり微笑み、右手に執ったペンの代わりのかぶら矢をするすると滑らせて文字を書く。それから創造の苦しみをあらわすかのように、顔をゆっくりと左右に動かす」(『大東亜科学綺譚』、筑摩書房)
その特徴として荒俣は、人間のようになめらかに動くこと、肉体労働の代わりではなく、考えることを仕事としていることの2点をあげている。
頭にかぶる緑葉の冠は植物の光合成を表す。胸にはコスモスの花の飾りがあり、それは宇宙、世界という意味をもたせている。また大きな目の不思議な顔つきは、世界中の民族の特徴を混ぜ合わせてデザインされた。民族に優劣はないという考えからだ。
「遂には人造人間のために人間が征服されるやうな変態の世の中が現じて来ることは想像するに難くない。つまり物質文明の極は、その文明によって人間が亡ぼされてしまうということを諷刺してゐる。(略)そこでガクテンソクを作るに当って作者の頭にはこんな思索が往来した。(略)人種的の差別を超越すべきだ、そこでその相貌を調(こしら)へるときに、各人種の良い特徴を追ふたものだ。そして意匠動作悉く寓意にならないものは一つもない。」(西村著『大地のはらわた』所収「人造人間の生命」から)
製作にあたったときの気持ちの高ぶりを西村はこう語っている。
「生きた物質の製作が出来るならば、更に一歩を進むれば生物を作り出すことができないものではあるまい――(略)、人造人間! 考えたゞけでも革命的な気持に満たされてしまふ」
この「人造人間―ガクテンソクが生まれるまで」と題した記事が掲載されたのは「『サンデー毎日』御大典奉祝号」(1928年11月4日号)。表紙には優雅な五節舞の絵が用いられ、「御大典の御意義」「御即位物語」などの目次が並んでいる。皇位継承の儀礼としての即位の礼は、新天皇がその位につき、国家国民を治めることを神々に誓約し、国民にそのことを告げる儀式である。神との共寝共食という大嘗祭の神事によって天皇は「神格」を得ることになる。
時代は昭和天皇を新しい「神」として創り出し、「学天則」はその現人神の登場を祝う革命的な産物だった。天命があらたまることが革命の由来だが、日本人にとって1928年は「革命的」な年といえなくもない。
歴史を「横」にみる
歴史は普通、「縦」に読まれ、時間の経過に沿って社会の変化をたどっていく。だが、1年の出来事を「横」に見れば、新鮮な時代の断面が浮かび上がり、民衆の息遣いが感じられて面白い。その1928年は、どのような年だったのだろうか。
金融恐慌、銀行倒産による社会不安のなかで明けた1月1日。明治神宮の初詣は60万人と、創建以来の参拝客を記録している。NHKラジオ放送の新年の第一声はニワトリの鳴き声で、マイクの前にニワトリを用意して流したといわれ、なんとも微笑ましい幕開けだった。
4月、総選挙が初めて男子の普通選挙として行われ、25歳以上の男子に選挙権が与えられた。その直前、共産党が大弾圧される「3・15」事件が起き、治安維持法の改悪と特高警察の拡充が進む。中国大陸では山東出兵、済南事件が続き、6月には満州で張作霖爆殺事件が起き、対外的な軍事行動が展開されていく。政府は、民衆の統合と動員に向けて独自の「国体観」を強調し、天皇制という政治システムを確立するために力を注いでいた。
そのためにも天皇を「神」とする大礼という祝祭は欠かせなかった。その祝祭を演出していったのはメディアで、それによって思想統制が始まっていく。
11月に京都で行われる昭和天皇の即位の礼に向けて、京都のほか東京、仙台、名古屋、岡山など全国9カ所で博覧会が開かれ、全国的に博覧会ブームが起きる。京都では9月20日から12月25日まで、岡崎公園・二条離宮・恩賜京都博物館(現京都国立博物館)で開催され、10月12日、平安神宮に日本最大の大鳥居が完成した。
この年の大阪の人口は233万3800人。東京の221万人を抜き、ニューヨーク、ロンドン、ベルリン、シカゴ、パリについで世界でも6番目の大都市となった。いわゆる「大大阪」といわれた時代、大阪毎日新聞の展覧会にかける意気込みは高かった。「学天則」にどのくらいの費用や手間をかけたのかはわからないが、博覧会開会当日、「学天則」を博覧会の展示の目玉として宣伝するために5万枚ものビラを飛行機からまいた。紙面では、「人造人間に御興深く御目を留めさせ給う」の見出しを立て、香淳皇后(昭和天皇后)の父、久遡宮邦彦王が西村の案内で「学天則」を見学する模様を写真つきで伝えている。(9月22日)。
空を飛んだ「神」
大阪毎日新聞に限らず、この大礼報道をめぐって多くの新聞各社が他社を圧倒しようと躍起になった。それに乗じて内務省はまず、新聞・通信・雑誌各社による「大礼新聞団」を組織していく。天皇写真の映写公開を初めて許可する一方で、民間の報道機関の天皇報道を規制していった。後の戦争下における「大本営発表」という情報統制の10年以上も前に、新聞各社は自らの報道規制の道を歩み、大礼報道はそのメディア規制の始まりでもあった。
即位の式典の模様をすばやく報道するために朝日や東京日日(毎日新聞の前身)、大阪毎日、日本電報通信(電通)など報道各社が電送写真装置に導入を競った。そのころ、写真電送の技術は実用直前の段階だったが、世界のどの国も実用化に成功していなかった。朝日は電送写真装置をドイツから購入し、紙面に活用すると大々的に発表。一方の大阪毎日も大礼に合わせて京都支局(現在の三条御幸町角の1928ビル、登録有形文化財)を新築し、日本電気のNE方式の電送装置を配備した。(後に私はこの支局に勤務し、昭和の終わりを見届けることになる)
11月7日から始まった即位の式典で京都御所には10万人もの群衆が押し寄せた。その姿を伝える写真は大阪毎日新聞が朝日新聞よりも1時間以上早く紙面に掲載され、映像も鮮やかだった。開発を担った丹羽保次郎(東京電機大初代学長、日本の十大発明家の一人に数えられる)はいう。
「NE式はその性能、操作の容易なこと、メカニズムの合理性とすべての点で独・仏機を凌いだのである。紛れもなく日本の技術が、欧米の技術に勝った瞬間だった」(丹羽著「技術は人なり。-丹羽保次郎の技術論』)
やがて全国の新聞にニュースと写真が同時掲載されるようになり、電送写真装置の普及は日本の新聞史上画期的な出来事だった。この電送技術は、「無線遠距離写真影画装置」といわれたテレビジョンの放送技術の礎となる。大礼は天皇の映像が電波に乗った最初の出来事でもあり、「神」の映像が国産技術によって初めて空を飛んだ日ともいえるかもしれない。
国民の「肉体」統合
新聞が大礼への民衆の関心を煽りたてる一方で、ラジオもまた国民統合に大きな役割を果たしている。ラジオから国民に体操を呼びかける番組が始まったのだ。ラジオ体操である。逓信省簡易保険局がアメリカの生命保険会社が行っていたラジオ体操をもとに、国民の健康保持推進のために「国民保健体操」として制定したが、それは大礼を契機とした国民統合の大イベントだった。
11月1日午前6時、リズミカルなピアノ伴奏とともに、陸軍戸山学校出身の江木理一アナウンサーによる号令でラジオ体操が始まった。30分間、体操の解説と実技の内容が2回繰り返されたという。当時、ラジオ受信機普及台数は50万台程度。最初は東京ローカルだけの放送だったが、翌1929年2月11日から全国中継となる。
さらに逓信省は、郵便局(当時9393支店)の巨大なネットワークを活用し、全国各地でラジオ体操の普及のため実演と講演会を次々と開催。学校、工場、会社、青年団などで講習会を開き、ラジオ体操を指導していった。いつしかラジオから流れる声に合わせ、国民は体を動かし、ラジオ体操は国民を統合する機能を果たしていく。
文部省も協力し、学校を媒介として子供の成長を促し、国民自ら能動的に取り組むように勧めた。国家ぐるみで国民の体力づくりに向けた好循環を生みだしていく。放送開始から10年後の1938年には、日本各地のラジオ体操の集会に、年間延べ1億5700万人もの人が参加した。
大礼記念事業として開始されたラジオ体操。国民は、自己の鍛練が最終的には国力の発展に寄与しうるという意識をもつようになり、国民のなかに国家意識が肉体化されていく。やがてロボットのように命令通りに忠実に体を動かせる国民育成につながり、ラジオ体操は知らず知らずのうちに国家の歯車として「ロボット」化させていく一面を担ったともいえる。
第二次世界大戦が終わると、日本の占領政策を実施したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって、ラジオ体操は「曲に合わせて一斉に行う体操が全体主義的だ」と見なされ、一時中止される。しかし、ラジオ体操はすぐさま全国で復活する。子どもからお年寄りまで日本人ならば、その伴奏を聞くと、まるで条件反射のように体が動き出す。それほどまでにラジオ体操は日本人の身体に深く浸み込んでいった。
甦る「学天則」
再び、「学天則」の話に戻す。「学天則」は大礼記念京都大博覧会で公開された後、「広島昭和産業博覧会」、朝鮮総督府主催の「朝鮮博覧会」(いずれも1929年)などに出品された。東京で初公開されたのは1931年3月、上野の松坂屋百貨店で開催された「生きた広告博覧会」でのこと。「学天則」は新聞、雑誌では『サンデー毎日』を除いてほとんど無視され、大阪毎日新聞に近い東京日日新聞でさえ、ほとんどその年まで記事にしていない。大阪毎日新聞が西日本を中心に「学天則」を巡回させたこともあるが、東京日日新聞には大阪毎日新聞への対抗意識もあったのだろうか、関東では十分に知られることはなかった。
西村の「学天則」に寄せる思いをよそに、「学天則」は博覧会の珍奇な見世物とみなされたようだ。やがてドイツに買い上げられ、行方不明になった。社史「毎日新聞100年史」(1972年)には、「学天則」と西村真琴の記述は見当たらない。新聞発行という本業から見れば、「学天則」は博覧会の一出品物に過ぎなかった。昭和が終わり、毎日新聞社が刊行した『昭和史全記録(1926ー1989)』」(1989年3月刊)にも「学天則」と西村真琴の紹介はない。残念なことに、昭和史から西村真琴の偉業はすっぽりと落ちていた。
「学天則」がこの世に甦ったのは、京都の博覧会から60年を経た1988年のこと。荒俣宏のSF小説を映画化した「帝都物語」(実相寺昭雄監督)が封切られ、「学天則」が悪の超能力者への戦いに挑む役割を担って登場してからだ。東京を守る「学天則」を操作する西村真琴の役は俳優の西村晃が演じている。毎日新聞社も創刊130年を記念した社史『「毎日」の3世紀』(2002年刊)でやっと、「ロボットの父 西村真琴」の項目を設け、その業績を見直した。個人に関する記述ではもっとも詳しく、10ページにわたって特記している。
80年後の2008年4月、大阪市立科学館に「学天則」が復元、公開された。2年半をかけて復元された「学天則」は、高さ3・2mと巨大なものだ。オリジナルと同じく圧縮空気を用いて、目・まぶた・頬・口・首・両腕・胸が動く。インスピレーションを感じると左手に持った「霊感燈」が光り、動作はコンピュータで制御されている。
さらに「学天則」は天体の名称にもなった。太陽のまわりを巡る「小惑星9786 Gakutensoku」で、群馬県のアマチュア天文家、小林隆男氏が発見したものに、大阪市立科学館の学芸員が名称を提案し、国際的に使用された。西村真琴の夢をのせて「学天則」はいま、宇宙で輝いている。
受け継がれたロボット観
1928年の出来事として忘れてはならないことがある。明治節(明治天皇の誕生日、11月3日)に手塚治虫が誕生していることだ。
「大正」を飛ばし、「明治の大帝」と「昭和」の若き天皇を結びつけた明治節は、前年3月に制定された。前年が服喪中だったため、この年が最初の明治節となり、明治神宮は午前中だけで20万人以上の参拝客でにぎわった。あふれんばかりの「奉祝」記事が新聞をにぎわせるなかで、手塚が産声をあげた。それも誕生地は西村真琴が住む大阪豊中市。さらにいえば、西村の母方は手塚姓。単なる偶然とはいえ、おもしろいめぐり合わせだ。
手塚治虫が後に生み出す『鉄腕アトム』に登場するのは、ほとんどが人間型ロボット。「ロボットは人間の奴隷じゃない、友達だい」と、アトムが漫画で叫ぶ場面があるが、人間の作業を代行する機械としての工業型ロボットではない。「学天則」もまた理想の人間、聖君子のロボットで、「鉄腕アトム」よりもずっと前から、人間以上に人間らしい心優しい存在としてイメージされていた。その点でも「鉄腕アトム」は「学天則」の伝統をしっかりと受け継いでいる。
また西村が、「学天則」の胸にコスモスの花飾りをつけ、世界の人種間の対立の克服や平和を祈ったように、手塚も、人間と動物の誤解、ロボットと人間の悲劇、さらに異民族間の対立、地球人と宇宙人との軋轢……へとテーマを広げていく。
「第1次ロボットブーム」と呼ばれた1928年。その後、「神」や「人造人間」をめぐる時代の空気はどのように流れていったのか。「昭和」の天皇は、天皇機関説で語られるような政府に操られたロボットなのか、人なのか、それとも神なのか、歴史の荒波の中で漂っていく。
いわゆる「ロボット症」といわれる人間がいる。「あらかじめプログラミングされた感情以外に思いやりや同情心を持たない」人間のこと。指示に従うだけだから、責任をとらない。「昭和」の戦時下、日本人は総じてロボット化し、敗戦時には「一億総懺悔」して国民の多くが責任を取ることへの自覚症状がなかった。まして一国の統治者はロボットでなければ、国家の戦争についての責任を負わなくてはならない。戦争責任がないとされた「昭和」天皇はロボットだったのだろうか。そうだとすれば、「国体」の中心的存在を操縦したのはいったいだれなのか。
日本人はいまも「ロボット症」に陥りやすい精神構造を備えていないだろうか。この100年前からの時代の流れを知ることで、現代の生成AI(人工知能)ブームとその未来が少しは見えてくるかもしれない。(続く)
いけだ・ともたか
大阪自由大学主宰 1949年熊本県生まれ。早稲田大学政経学部卒。毎日新聞入社。阪神支局、大阪社会部、学芸部副部長、社会部編集委員などを経て論説委員(大阪在勤、余録など担当)。2008~10年大阪市教育委員長。著書に『謀略の影法師-日中国交正常化の黒幕・小日向白朗の生涯』(宝島社)、『読書と教育―戦中派ライブラリアン棚町知彌の軌跡』(現代書館)、『ほんの昨日のこと─余録抄2001~2009』(みずのわ出版)、『団塊の<青い鳥>』(現代書館)、「日本人の死に方・考」(実業之日本社)など。本誌6号に「辺境から歴史見つめてー沖浦和光追想」の長大論考を寄稿。
特集/内外で問われる政治の質
- 終末期を迎える自民党! 果たして野党による政治改革30年の新展開は可能か法政大学法学部教授・山口 二郎
- 排外主義的民族主義は混乱を糧として成長する神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長・橘川 俊忠
- 追加発信行き着くところへ行き着いたイスラエル国際問題ジャーナリスト・金子 敦郎
- ホロコーストから抜けられないドイツ在ベルリン・福澤 啓臣
- 万博開催1年切る 未だ迷走、課題は山積大阪市立大学元特任准教授・水野 博達
- 中小・下請け企業における賃金交渉の視点労働運動アナリスト・早川 行雄
- 「パクス・トクガワーナ」の虚妄(下)筑波大学名誉教授・進藤 榮一
- BUND(ドイツ環境・自然保護連盟)との対話本誌代表編集委員・日本女子大学名誉教授・住沢 博紀
- 昭和のプリズム-西村真琴と手塚治虫とその時代ジャーナリスト・池田 知隆
- 日本の「幼稚園と保育所」──その二元体制の根本問題を問うこども教育宝仙大学元学長・池田 祥子
- 20年を経た「平成の大合併」の評価と教訓松山大学教授・市川 虎彦
- 緊急寄稿日本共産党からの批判に反論する中央大学法学部教授・中北 浩爾