連載●池明観日記─第11回

韓国の現代史とは何か―終末に向けての政治ノート

池 明観 (チ・ミョンクヮン)

2012年つづき

≫2月革命の中におけるトクヴィル≪

トクヴィル回想録『フランス二月革命の日々』を再び読み始めた。ずっと以前に読んでいて中断した本である。彼は現代史を「迷路」と言った。歴史の鍵によって開かれるまでは迷路といわざるを得ないであろう。

第一部の冒頭から以前には何も感じないで読んでしまった叙述に感動に近いものをおぼえた。政治的現実の中で私の目が変化してきたのだろうか。7 月革命(1830年)以降「あらゆる事件が、言ってみれば全般的に小型化するように」なったと。また、「気風は活動的で勤勉なもの」であるが「しばしば不誠実で」「物資的満足」を求めながら「気質において内気」であるが「凡庸」であるという。

そのような「気風は、民衆や貴族の気風と混じり合えば、非凡なことを成し遂げられるが、それ単独でとなると徳性が欠如する浅薄な政府を」つくり出すだけである。「私的事業の利益のために国事を利用したいと考え」「その物質的満足のなかで民衆と呼ばれる人びとのことをいともたやすく忘れてしまう」というのであった。

私は今日の韓国の政治においてこのような現象を目の当たりにするのではなかろうかと思うのである。徳性の欠如している浅薄な政府への傾向そして富の不均衡を口にし、貧しい人々に対する福祉云々を言うのであるが、それはただ単なる執権のためのスローガンであってそのような理念に献身しうる倫理的姿勢は全く欠如している。勿論そのようなことができる国家的な経済事情への配慮もない。今はちょうど総選挙を目前にひかえているのだが。(2012年4 月8 日)

トクヴィルの回想録『フランス二月革命の日々』を読了した。暴風雨に巻き込まれたヨーロッパの19世紀半ば、革命と戦争が日常化した時代であり、東洋では長き鎖国の時代が過ぎて西欧の侵略の波にあおられる時であった。ヨーロッパは動乱の地であり、権力を握っている者、封建君主、そして主権を握っている者が、覇を競っている時であり、一方では民衆が台頭している時期であった。近代直前、「大衆社会化」の前夜であった。トクヴィルは当時の歴史を「革命への警戒と、自由実現への積極的な意思の間で」揺れ動いているものと考えた。とても印象的で共感せざるをえないことばをここに移してみることにしよう。

「すべて統治する階級は腐敗するのだと信ずることになり、この階級に対して心のなかでは軽蔑を抱いたのだったが……」「そこでは人びとが、彼らより上層の者たちは彼らを統治する能力を失いその資格もなくなっていると、くり返し語っているのをお聞きにならなかっただろうか」。

このことは韓国の今日の状況に実によく似ているといえるのではなかろうか。議会政治に対してトクヴィルがいった言葉、「自分の感情の表明を極端にはでなものにしたり、自己の思想をいちじるしく誇張したりする、議会の政治家たちの宿年の悪癖」、そのような人間どもは「自分たちが国の指導者にならないのなら、国を救うことなど自分たちの仕事ではないと考える人たちだ」というのであった。そこでトクヴィルは「保守派がわれわれをおとしいれようというたくらみをしなかった日が一日でもあったとは、私には思えない」とまでいった。今日の韓国の国会も同じようなものではなかろうか。そして政治家とはつぎのような人びとであるという。

「公職を追い求めるという性向や、税金に寄生する生活を希求するということは、わが国では一つの党派に固有の病理ではなくて、国民自身につきまとう大きな弱さなのだ」。

これは、権力につきまとっている「隠された病」である、とトクヴィルはいった。実は彼は「青の時代の議会生活」を軽蔑しながらも、そこにとどまっていた。続けて彼はつぎのように言う。「それと偏狭な情念とそれをつくりあげ指導していると信じている人物たちの情熱の狭小さであり俗っぽい悪党ぶり」を彼は嫌悪した。それは19世紀のフランスにおいてのみ見られた現象であっただろうか。トクヴィルは革命と民衆に対してこのように語った。「1848年の革命を阻止することを引き受けた人物たちは、1830年の革命を実現させたのとまさに同一の人物だった」、しかし「民衆の性向というものは、歴史の出来事も同じことだが、たえず変化しているのだ。ある一時代が他の時代と全く同じということは決してない」。革命の時代にトクヴィルは歴史についてつぎのように考えた。

「重要な歴史的事実の像が、偶然に生れた状況によってしか説明しえないものであり、その他の多くのことが説明不可能なものとして残る」。

そのために歴史は眼に見えざる手によって動かされるとしか言えないのではなかろうか。トクヴィルは「革命への警戒と、自由実現への積極的な意思の間で、微妙に揺れ動く緊張した」「立場」にいたと訳者は記録した。実際トクヴィルは「自由は私の生涯を通じての情熱となった」といった。そして彼自身の運命に対しては、「容認と抑圧が交互にやってくる反動のただなかで、自分の生命を惨めにすり減らすこと」であると考えた。韓国において生きるということもそのようなものではないかと思わざるをえない。トクヴィルは政治に参与しながらも知識人であることに徹し、傍観的な観察者であった。彼は次のように語ったではないか。

「時として私が悪しき立場で語らなければならなくなったり、悪しき道を歩まねばならなかったりした時には、私はすぐさますべての才能と情熱を失ってしまうのだ」。

「私は自分が、正しい発音で精密に、しばしば深みをもち、しかし常に冷静に、従いつつ力動感なく話す部類の人間であることがわかった」。

「同じように私は、自分が多数の人間を手段にし、全体をいっしょに導いていくのに必要とされる技術を、まったく持っていないということに、気がつくにいたった」。

19世紀、革命の時代を生きたトクヴィルは革命、そして革命的時代と人間についてくり返して考えざるをえなかった。彼がつぎのように語ったことは、われわれが韓国で1960年以降の革命的過程において体験したことであるといえるのではなかろうか。

「革命、とくに民主主義革命においては、人が比喩で気違いと称している人ではなく本当の気違いが、大変重要な役割を演じたものなのだ」。

トクヴィルの立場というのは「新しい党派が、民衆におもねることなく、またその情熱をかき立てることなく、この政策を基本的な使命とすること」であったと訳者は記録した。私は今日の政治をながめながら政治家、弁護士に対して非常に懐疑的になってきた。日本統治下において独立運動をしていた人びとを弁護した弁護士たちを私はいかに尊敬したことか。しかし今日は表情が違うのだ。どの党派であろうと、どのような論理であろうと正当化できる人であるとすれば、今日の政党政治においてどのような役割をなしうるであろうか。

過去の専制政治下、不法な政治下において抵抗した弁護士とは異なるに違いない。今の彼らはいかなる政党、どのような政治でも弁護しうるはずではないか。今日の社会において閑暇を楽しむことのできる知識人といえば弁護士しかいないといえるかもしれない。政治に参加しようが、それから退こうが、彼らの弁護士としての仕事には別に支障はない。政治に参加したとなれば、彼らの弁護士業にプラスになるかもしれない。彼らは知識人であるとすれば、余裕のある地位と時間を持ちうる特別な知識人であるといわねばなるまい。彼らは政治に参与しうるし、参与すればかえって大きく得をするともいえるであろう。職業が要求する義務にしばられる教育者、宗教家などとは異なる。

こうして世界どこでも民主主義政治といえば弁護士がどの政党においても大きく勢力をなすようになった。いかなる政治的悪も彼らは弁護しうるようになったといえば言い過ぎであろうか。トクヴィルは既に19世紀中盤に弁護士政治を批判的に描き出している。彼は弁護士が議会で造り出す表現についてつぎのようにのべた。

「彼は勇敢な行為を物語った時に自分流儀の誇張した表現を常につけ加え、実際に彼が感じた熱情を、私のみるところでは、うつろな響きや震える声、またこんな危機的状況でも俳優なのではないかと思わせるような悲劇的なしゃくり上げなどで表現していたからであった。このような滑稽さと崇高さは決して隣り合わせのものではない」。

私も弁護士とはいかに扱いにくい人間であるかを多少は経験せざるをえなかった。ある弁護士は他の地位に移るようになってこれまでのいきさつについてすまなかったと私に率直にあやまって来たが、彼には真理とか友情はありえないような気がしてならなかった。トクヴィルはもう一ヵ所で弁護士に対する驚きをつぎのように表現した。

「弁護士というものは、自分自身が信じてもいないことを弁護するか、弁護しようとすることをいとも簡単にそうだと信じ込んでしまうか、という二つの態度のどちらかをとる習性からぬけ出すことはできないものだ」。

弁護士は「その悪いと考えた立場を、良き立場とみなしたいという欲求」から抜け出すことができないというのであった。そこでトクヴィルは「私は、彼がそれまでは組することを大いにためらっていた主張を、激しく擁護するのをみて、いくたび驚かされたことか」とまでいった。それでは弁護士の国会議員や政治家が増え続けている今日の政治をわれわれはどのようにながめるべきであろうか。

トクヴィルは新聞記者たちに対しても「理念」とははるかに遠いと批判した。フランス人に対する彼のつぎのような自己批判をわれわれはどのように受け入れるべきであろうか。そしてわれわれ韓国人に対してはどのように言うべきであろうかと考えざるをえない。

「フランス人は政治的情熱にかられると非理性的になると同時に理屈っぽくもなると言われている……」

「フランス国民のように、自分たちを統治するものに忠誠心をもって結びつくことのない国民、また政府なしにすますことのできない国民は、ほかにないのだ。フランス人はひとりで歩かねばならぬことを理解した途端、ある種のめまいを経験するのであり、これは常にフランス人として深淵に落ちこむのだと思い込ませてしまうのだ」。 

「フランス人民に対処するには、彼らを狂人とみなして強制を加えれば狂暴化するおそれがあって、拘束などしてはならぬ狂人として扱うのが適当だと思ったのである」。

フランス人は自分の国民を批判するのに容赦がないといわれてきた。トクヴィルは政府の官吏に対してもつぎのように批判を加えた。それでは今任期末に入っている李明博政府にはどのような傾向が見られるのか、われわれは注目すべきではなかろうか。

「政府の持続性に疑問をもち、次の内閣のことが気になってくると、役人たちはまったくしゃべらず、完全に沈黙してしまうのだ」。

トクヴィルはいかなる政府もつぎのような危機に対処する姿勢を固めねばならないといった。

「破滅にいたる最大の危機が出現するのは、一般的にいって、大きな成功を収めた後になってである。危機が続いている間は、相手にすべきものは敵対者だけである。ところが敵対者に勝利したとなると、今度は自分自身や、自分の柔弱さ、高慢さ、そして勝利したのだという軽はずみな安心感などが相手となる。だが人はこの相手に打ち勝つことができない」。

トクヴィルは自分自身に対してつぎのようなこともいった。

「ある人たちの場合は、高慢さは地位の上昇に正確に比例して大きくなっていくのだが、私の場合はそういうことではないのであり、私が比類のないほどすぐれていると自分で感ずる時には、俗衆の中にいると感ずる時よりもずっと容易に、私が親切でいんぎんな男なのだということを、人に対して示すことができるのだと考えた」。

トクヴィルが革命に対してのべた言葉をもう一つだけ引用しよう。「革命、とくに民主主義革命においては、人が比喩で気違いと称している人でなく本当の気違いが、大変重要な役割を演じたものなのだ」。それだから革命に成功した後にやってくる難しい状況というのは避けられないものではなかろうか。

トクヴィルはロシア人に対してこういうことを言った。「彼らは皇帝を正統性のある君主とみていただけではなく、神の使者であり、ほとんど神々のものとみていた」。そのためにロシア革命で皇帝に対する抵抗が起こるとそのように事態が深刻にならざるをえなかったかもしれない。その時代はツアーリ政権が対外的に凋落に直面しており、ロシア国民に大きな挫折感を与えた時であった。韓国の歴史にはそのような王権は存在しなかったといえるのではなかろうか。日本の場合には天皇は宗教的に隠蔽された権力であるためにそれほど長く続いていたのかもしれない。

トクヴィルが19世紀のヨーロッパの至るところで起こった革命に対して下した結論は、われわれにとっても重要であると言える。われわれとしては理解し難い封建君主たちのとても恣意的な身悶えであったと考えられるが、それは長い歴史において国家的に分立して続いてきた北東アジアにおいては見られないものであった。しかしヨーロッパにおいてはそのような歴史的経験を経るか経ないかで直ちに世界侵略へと進んだが、アジアではただ日本のみがヨーロッパのあとを追って侵略の道に加担するようになった。再びトクヴィルの革命懐疑論に耳を傾けてみることにしよう。

「革命は何処においても規律のある強固な自由をうちたてるのに失敗してしまっていた。いたるところで革命が産み抱いた廃墟のただ中で旧来の諸権力は、打ち倒された時の在り方のままにではなかったが、大変に似た形で再建されつつあった」。

このような歴史が第1次世界大戦まで続いた。そして新しい国家主義による戦乱がまさに第2次世界大戦であった。そしてこの後になって新しい世界秩序を求める歴史、その陣痛が起こってくるのではないか。第1次大戦はそれこそヨーロッパにおけるほんとうに封建秩序の最後の身悶えであった。フランスに対するトクヴィルのつぎのような自意識をどのように見るべきであろうか。これに対して韓国人は、われわれ自身をどのように見るべきかと考えるようになる。私は韓末の東洋平和論を貴重なものと考えたい。韓中関係からくる朱子学世界観を考えのなかに入れながら。

「フランス国民は優越してはいないが壮麗であり、行動することをおそれるが、声高に語り、自国の政府が誇り高くあることを要求し、かといって危険な役割に政府が身をさらすことは認めなかったのである」。

スイスに対するトクヴィルのつぎのような論評はどのように評価すべきであろうか。

「スイス人ほど自尊心やうぬぼれの強い連中はいないからである。スイス人は農民の一人にいたるまで、自分の国は世界のあらゆる君主、あらゆる国民をものともしない、すぐれたものだと信じている」。

トクヴィルはこの回想録に残したことばの中で自分は未来に対する明瞭な展望を持っていないと告白した。そして自分は登用されるが、勝利の日には「無用の存在」「邪魔なもの」に見られるであろうと展望していた。彼はそう思いながらもどこまでも「穏健で道理にかなった共和制」を代表したいといい、「心の底では入閣を希望する」といったが、これは「野心と、危機から国を救いたいという願望の入りまじったもの」であった。これがいわば知識人政治家としての彼の願いであったといえよう。彼はどこまでも謙虚であった。「事件の発生を待つしかない」と考え、リアリスティックに「穏健で自由な権力の性格を保持すべきこと」と考えたのであった。

ここで「激情にかられず、つまるところは唯一の好ましい国家であるイギリスとできる限り良好な関係にとどまること、高慢にならずに確固とした態度でいること、決して不遜にならぬこと、フランスにふさわしいことを発言すること……そしてもしそれが認められないとすると、一か八かのことをやるか、それとも私のやることでこの国が屈辱をこうむるがままとなるよりも、身を退くこと」であるとした。実際においてフランスはそのような道を行こうとしたし、トクヴィルはそのようなフランス知識人の考え方に徹しようとしたといえるのではなかろうか。

トインビーが語った同時代史に即して見れば、トクヴィルはわれわれがその時代に持つことのできなかった知性的政治家であったし、愛国者であり良識に根ざしたリアリストであったのではなかろうか。彼が示した学問的、政治的識見を回想しながら今日の韓国もアメリカ、日本、中国の間でそのような政治的知性を求められているのではなかろうかと私は思った。彼の『アメリカのデモクラシー』を読まねばならない。この本は2月革命に対する回想録に先立つ本であり、彼がとても若い時に世に出した著作であった。

≫『アメリカのデモクラシー』を読みながら≪

トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』(第1巻1835年、第2巻1840年)を読みながら驚いている。25歳の時に彼はアメリカを巡り、この名著の第1巻を30歳で発表したという。とりわけその序文を読みながら彼の天才的な早熟性に驚かざるをえなかった。序文の始まりが「合衆国に滞在中……境遇の平等ほど私の目を驚かせたものはなかった」ということばである。この著作はこのことを実証的に示すことにあったといっていいであろう。キリスト教は「聖職者の地位は万人に開かれている」といいながら、それがその当時のヨーロッパ社会とは異なって開放的であったのにもかかわらず、実際に階級社会に奉仕しながら、それを支持していたといった。

「王は大遠征に身を滅ぼし、貴族は私闘のうちに力を失い、平民が通商で富を蓄える」。こうしてトクヴィルはデモクラシーの勝利のために努力した人も、それを敵にしてそれに抵抗した人もデモクラシーの前途に貢献したという驚くべき歴史観を展開して見せた。歴史とは「神の御手の中にある盲目の道具」であるからというのであった。ほんとうに寛大な歴史観であると言うべきであった。トクヴィルは「すべてが新しい世界に新たな政治学が必要である」と言いながらつぎのように続けた。

「国家の首長は予めこれに備えたことはかつてなく、革命はその意に反し、あるいはその知らぬ間になされた。国民の中でもっとも有力な階級、知識や道義において卓越した階級が革命の指導権を求め、その先頭に立つことはなかった」。

「しかし、この無知で粗野な民衆の中にも激しい情熱、寛大な気風があり、篤い信仰と自然人の徳性が見られる」。

トクヴィルは市民が献身的になることを信じていたし、「社会は固定的なもの」ではなくその変動には「節度があり、漸進的なもの」になると考えた。彼は「私はアメリカの中にアメリカを超えるものを見たことを認める」といった。いわばトクヴィルはアメリカの歴史の中で人類史がこれから歩んで行かねばならない方向を見たのであった。

私がアメリカを見る目もいかに多くの変化をへて来たことだろう。1967年初めてアメリカに行った時、私はアメリカに対してとても批判的であった。しかしその後ヨーロッパを見てからはそれでもアメリカの世界に対する姿勢はヨーロッパにまさると思わざるをえなかった。

私は韓国における1960年代、70年代、80年代と軍事政権の頃、アメリカにとても批判的であった。その後韓国が民主化の歴史を経験する頃になると私はアメリカに対して好意的になった。そして今日においてはアメリカの世界史的役割に期待しているといえよう。今のシリアの問題においてもそうであるが、将来には中国に対しても、行く行くは北朝鮮のことに対してもアメリカに期待しているといえるかもしれない。アメリカは国際問題において神経質的な反応はしない。その点がかつてのソ連の場合とは何よりも異なると考えている。 

トクヴィルの著書を読みながらいろいろと考えさせられた。彼は進歩的でありながらも革命の成功に対してはとても懐疑的であった。リアリスティックといおうか、漸進的な変化と進歩を信じて追求した。私はそれに共感しているといえよう。トクヴィルが描いていた自由と平等と平和という夢は現実においてはいつも裏切られていたが、第1次、第2次世界大戦をへてようやく世界的に「平等化」を目ざして漸次世界平和が前進しているといえるのではなかろうか。トクヴィルはそういう歴史の中で一種の「神の手」を見たのであるが、それに共感せざるをえないといえよう。彼はつぎのように言ったのであった。

「境遇の平等の漸次的進展はそれゆえ神の御業であり……」

「社会が固定的なものだとは思わない。しかし、社会の変動には節度があり、漸進的なものとなろう」。

トクヴィルは彼の時代は平等のための時代であると言い、「新しい世界には新たな政治家が必要である」と言ったが、彼は「漸次的進展」を唱えながらも「だが、いまにして起たなければ、時機を失う」と言ったのであった。韓国における政治的現実を経験しながら私は彼の革命論に賛同したいと思った。彼の時代は平等に向かっていたが、今この時代においてはそれを超えて世界平和を要求しているのではなかろうか。トクヴィルは彼の時代において平等を求める革命を情熱をもって追求したが、革命は漸進的であるべきではあるが、いま起こらねばならないことであり、それは神が意図したまう道であると考えた。

トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』においてイギリスからアメリカに移民となって行った人びとに対して解釈を加えた。これを見ながら、われわれの場合も北から南へと越南してきてその中から多くの人びとがアメリカへと移民の道を選んだことを回想し、これに対して歴史的な解釈を試みるべきではないかと考える。戦争が終わって北から南に来た多くの人びとが李承晩政府内外で大きく活動した。南出身の多くのエリートがまだ南に打ち建てられた政府に対して懐疑的であったためにと言おうか、軍においてもそのような傾向が強かった。 

しかし1950年の6.25朝鮮戦争後になるとこのような事態に大きな変化が起こった。南側のエリートが南の政府や軍に多数参加することとなった。北出身の人々は経済などの領域からも後退するようになった。経済は政治に密着してこそ発展するものであった。こうして北出身のエリートが権力周辺から退くようになり、まるで日本統治期の朝鮮人たちのように法曹界、医療界、そして大学などに集まるようになったではないか。そしてその中から少なからぬ者が1960年代以降はアメリカへと移民した。

彼らの移民史とでもいおうか、それをアメリカにやってきたピューリタンのようなヨーロッパ人の初期移民と比べながら論じられるかもしれない。特にアメリカの韓国人移民の場合はこれから朝鮮における南北統一と関連して展望できるかもしれない。まだ北に残っている人びととの関連で、南北統一の日となれば多くのことが展開されてくるのではなかろうか。南においては政治的な問題をめぐって、今でも東南部の嶺南と西南部の湖南との対立という問題があるのではないか。その上に統一の日には北にある民族の問題が降りかかってくるわけである。歴史におけるこのような避けることのできないと思われる悲しい歪みを、朝鮮半島では今後どのように超えていくことができるというのだろうか。(2012年5月22日)

続く

池明観(チ・ミョンクワン)

1924年平安北道定州(現北朝鮮)生まれ。ソウル大学で宗教哲学を専攻。朴正煕政権下で言論面から独裁に抵抗した月刊誌『思想界』編集主幹をつとめた。1972年来日。74年から東京女子大客員教授、その後同大現代文化学部教授をつとめるかたわら、『韓国からの通信』を執筆。93年に韓国に帰国し、翰林大学日本学研究所所長をつとめる。98年から金大中政権の下で韓日文化交流の礎を築く。主要著作『TK生の時代と「いま」―東アジアの平和と共存への道』(一葉社)、『韓国と韓国人―哲学者の歴史文化ノート』(アドニス書房)、『池明観自伝―境界線を超える旅』(岩波書店)、『韓国現代史―1905年から現代まで』『韓国文化史』(いずれも明石書店)、『「韓国からの通信」の時代―「危機の15年」を日韓のジャーナリズムはいかに戦ったか』(影書房)

池明観さん日記連載にあたって 現代の理論編集委員会

この連載「韓国の現代史とは何か―終末に向けての政治ノート」は、池明観さんが2008年から2014年にかけて綴ったものです。TK生の筆名で池明観さんが1970年代~80年年代に書いた『韓国からの通信』は雑誌『世界』(岩波書店)に長期連載され、日本社会に大きな衝撃と影響を与えました。このノートは、折々の政治・社会情勢を片方に見ながら、他方でその時々、読みついだ文学作品、あるいは政治・歴史にかかわる書籍・論文を参照しながら、韓国の歴史や民主化、北朝鮮問題、東アジア共同体の可能性などを欧米の歴史・政治と比較しながら考察を加えています。

今回縁あって、本誌『現代の理論』は、著者・池明観さんからこの原稿の公表・出版についての依頼を受けました。第12号から連載記事として公開しております。同時に出版の可能性を追求しています。この原稿の出版について関心のある出版社は、編集委員会までご連絡ください。

  

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