論壇
聞き書き 「ちんどん屋」の歩み
業界の牽引車・みどりや進の語りを基に(上)
フリーランスちんどん屋・ライター 大場 ひろみ
異界の扉が開く
平日の昼時だと勤め人の姿が目立つ日本橋は人形町通りだが、観光客の数もそれに負けず劣らず多い。雑踏を人混みに紛れて行けば、遠くから近づいて来る時ならぬ鉦太鼓の響き。思わず駆け出して行く。あ、やっぱりちんどん屋さんだ!
私がこの音に躊躇なく反応するのには訳がある。自分もやっていたからだ。最近はほとんど仕事をしなくなったが、20代の終わりから今まで、まだ辞めたつもりはない。「どこのちんどん屋さんだろう?」ついこの間まで、東京のちんどん屋だったら大体が知り合いだった。やっている人があまりにも少ないし、この業界は各屋号(「家」と呼ぶ)が人の貸し借りをし合うことが当たり前だったせいだが、それも大分古い話になった。私が弟子入りした親方は既に亡くなり久しい。世話になったおかみさんもついこの間身罷った。今この仕事に携わるのは、私の同世代とその更に弟子たち、また独自に始めた人達もいる。
「あれ、知らないちんどん屋さんだな」、今度まだバリバリ仕事をしている仲間に聞いてみよう。しかし、ちんどん屋としてでなく、外から眺めてみると、改めてこのフワフワスカスカした音と、この時代に丁髷かつらや日本髪でチラシなど配って歩く存在が、周りの空気をほんの何ミリか、ゆがめていることに気づく。そこだけほんの少し、異界の扉が開いたような。この怖さが魅力で、入り込んでしまったのだったから。
昔、弟子入り先でなく、別の家に貸し出されて神奈川の町で仕事をしていた時、その家の60がらみの女性二人が、街頭の告知板に張られていた舞踏家の大野一雄のポスターを見とがめて叫んだ。「ねえ、キチガイよ、この人キチガイ!」
皺が深くなった顔に白粉を刷り込んで、この日は着物でなく、通称「ルンバ服」と私達が呼んでいた、蛍光色の色とりどりの薄布を何枚も重ねて袖に仕立て、ボディは和洋中華折衷の竜宮城みたいな服で、頭にモールを張り付けた紙製の帽子を被ったお揃いの衣装(「支度」と呼ぶ)の、双子みたいになった妙齢の女性が叫ぶのである。大野一雄も、この二人にキチガイと呼ばれては気の毒だ、などと、着物に貧弱な髪を結って少しは違うつもりの同じ仕事をしている私はぼんやり思っていた。
こういう人達が、本当にちんどん屋になりきったちんどん屋さんである。前述のけったいな衣装は、チンドンコンクールで優勝するために手作りした汗の結晶である。「引き抜き」といって、衣装を重ね着して自分で引き抜き、華麗に現れるのが「ルンバ服」なのだ。何故ルンバかというと、親方世代のベテランちんどん屋は、中南米のリズムを取り入れた歌謡曲を演奏する時、それを「ルンバ!」と呼んだので、リオのカーニバルみたいな袖のこの服を、私達が勝手に「ルンバ服」と言い習わしたのだ。
まあ私は結局、彼女達のような「本物」にはなれなかった。妙齢の女性になった今は、たまに「支度」としての化粧をすると皺が浮き上がるのが憂鬱である。ダメだ、こんなことではあの歳までやり続けられない。客観視は禁物である。つくづく昔のベテランさんの偉大さを思う。
「客観視は禁物」は言葉の綾ではない。真理である。深沢七郎が「庶民ですねー」とご隠居と語り合うような(「庶民列伝」)、庶民の自己に埋没した生き方を指す。ベテランのちんどん屋さんは自己に埋没する天才だった。中途半端なインテリよりよっぽどエライが、社会正義には反する存在かも知れない。戦争への道を後押しすることもある。だから決して正しくはないが、自己に埋没することにおいて真理である。本当のインテリが集まる「現代の理論」の読者の皆さんだったら理解するであろう。
ではどのようにして、「本当のちんどん屋さん」のような天才になれるのか。その道のりは決して簡単ではない。それを追うのが本題である。
私は東京のちんどん屋の親方12人にインタビューしてそれを本にまとめたが(『チンドン―聞き書きちんどん屋物語』バジリコ2009年)、その内10人がもうこの世にいない。亡くなった1人で、業界の牽引車的な存在であった「みどりや進(本名村杉進、写真1)」(1928~2009年)の聞き書きを参考に話を進めていくが、引用文には本に収録しなかった部分があることを先に断っておく。なにせ涙を呑んで長い話をぶった切ったのだ。いつか日の目を見させてやりたいと思っていた。
しかも「客観視は禁物」と言っておきながら何だが、みどりや進は業界を俯瞰する目を持っていた。彼はよく他のちんどん屋のことを「みーんなバーカに見えちゃうのよ」と言っていた。しかしやっぱりちんどん屋の中のちんどん屋である。どんな人間でも百パーセント何かの原理に当てはまって生きているわけではないこともご承知願いたい。
父の時代(戦前)――長屋から誕生
「(父:村杉武夫の職業は)職人さん。芝山(細工)の彫刻師、かんざしとかこうがいの、柄とか、帯締めとか。貝が入ってんの。名人だよ。そのおとっつぁんのおじいさんて人が『オッペケペッポーペッポーポー』て川上音二郎の仲間だったんだよ。名前も教えてやるよ。村杉伴右衛門源重次。侍だもん。旗本の三百石だから。んでこのおじいさんが明治になって職業無いでしょ、で、そういうのが好きだったからだから芸人だったの。そういう血を引いてっから、家のおとっつぁんは、彫刻師なのに、道楽で芝居やってるから一番おしたちんどん屋になっちゃったんだ」
みどりや進の話はこんな調子で始まる。ひいじいさんの話はこの後も嘉納治五郎に柔術を教えたとか水府流の達人だったとか延々と自慢が続くが根拠付けはまったく出来ない。まったく出来ないのは川上音二郎の『オッペケペー』の仲間だったというのも同じことだが、話半分にしても零落した武士が壮士芝居に加わるなんてのはありそうな話ではある。芸事好きの血が流れているらしいと確認できればいいだろう。
「大正12年に大震災があった時に、20歳位じゃねえかな、ウチのおとっつぁん。その頃にちんどん屋見て、(写真2)“ああ(いいな)”てんで、彫刻ばっかやってないで、ちんどん屋もやってたんだよ。それで曽我廼家五郎っていう、喜劇が好きで、曽我廼家の芝居を東京でもやれんだろうって、芝居やったり、そういう友達がいっぱい出来ちゃったから、やってる内に、絵描くの上手な訳ね、彫刻師で絵描けないとダメだから、紙芝居の絵を頼まれて描いてる内に自分が紙芝居もやりたくなってやっちゃったんだ。
芝居の仲間は、野村さんて川崎市中原の水道局の局員と、茂木サイジロウってウサギ屋、ウサギいっぱい飼って昔は肉に卸してたんだよ、ウチのおとっつぁんと、それで3人で始めたんだよ。劇団の名前が『カラス劇団』つったかな。喜劇だけじゃ受けないんで、普通の股旅もんみたいな芝居もやった訳よ。ちんどん屋やってたからちょうどよかったんだよ」
彫刻師がちんどん屋になり、芝居もやり、紙芝居屋もやる。紙芝居屋は絵を貸す貸元で、演者でもあったようだが、「みどりや」という屋号は木場の、紙芝居の売り物である飴を扱う問屋からもらったという。芝居の仲間も水道局職員に食用のウサギ肉の養殖と多士済々であり、共に紙芝居屋を兼業した。
「ちんどん屋っていうのは、家の前が(太子堂の)弁天市場っていう市場があったの、まん前に。で、そこへちんどん屋の人が売り出しの時来るじゃない(写真3)、役者の人、橋本何つったっけな、それで“武さん何だ、ちんどんやるんなら出てくれよ”てんで、紙芝居ほっぽらかしちゃってちんどん屋やってたり、両方やってたんだよ。んで私の家へちんどん屋さんだとか役者だとか楽隊屋さんとかみんな転がり込んで、家にいたのよ。私の家が大きかったつうか広かったから、そこに芸人が転がり込んでいたんだよ。昔は今の時代より呑気だよなあ、あの頃は、そこにみんな転がり込んでて大して知らねえで、またの知り合いなんて人が平気で来てて御飯食べてる人がいたんだよ」
取り留めのない話が続くようだが、この取り留めのなさが肝心である。職業が一つでなく、やれれば、そして好きなら幾らでも兼業してしまえるから端折っては語れないのだ。みどりや進は記憶力がよく、人の名前もスラスラと出た。私などには到底出来ない芸当だ。
「だから“どうだ、お前もやらねえか”てんで、そういう長屋に豆腐屋さんも住んでる、ほうき屋さんもいるし、いろんな職業がいたんだよ。大工さんもいたり、そういう人達がみんなちんどん屋やったんだよ。うん、だから昔は“ほうき屋のよっさん”とかって、そういう風に、屋号ていうよりも職業を頭に入れて、豆腐屋の誰々とかさ、それぞれの職業で名前を呼び合ってた。一番の変わりダネじゃ電電公社の電報配達夫って人がいたんだよ、関口さんて。いつの間にかラッパを覚えてさ、クラリネット吹いたりチンドンやったりしてるおじさんいたよ。何やったって下手だったけど。青戸の方にいたよ、『屑屋』て屋号。オレびっくりしちゃったよ。“何だよ、屑屋って”、商売が屑屋だから『屑屋』なんだよ。面白えよな」
みどりや進の名調子に酔ってばかりだとさすがに話がまとまらないので、ちんどん屋の成り立ちにとって大事な二点を押さえておく。まず、彼らの住まう長屋は誰でもが上がり込んで飯も食うような半公共空間であり、雑多な職業の人間が混じり合っていたこと。もう一つはその職業が兼業したりシフトしていくことが簡単だったことだ。特にみどりやの父が兼業したちんどん屋、紙芝居屋は元手もさしてかからず、街頭で演じるのと声(口上)の芸である点が共通する。
ちんどん屋の太鼓を鳴らし、扮装して人を呼ぶ方法は飴屋とも共通点が多く、同じく飴を売る飴屋でもある紙芝居屋、ちんどん屋、飴屋は同根ともいえる商売である。この点は拙著に述べてあるので省略するが、ほうき屋、豆腐屋、屑屋など、江戸のぼて振りの名残を残す商売も街頭で呼び声を上げる点で親和性がある。
みどりや進は長屋を「貧民窟」と呼んだが、この経済的に決して豊かでない、しかし共に飯を食う呑気な空間がちんどん屋の土壌として欠かせない。豊かでないから何でもやって食べていく。みどりや進は「商売やってる人は割と“おう、今日は手伝いだよ”てなもんで手伝ってくれる。だからそういう風にして芸人がいたの」と、ちんどん屋の手伝いを厭わない長屋の人間関係を語る。
しかし賃金(「手間」と呼ぶ)が割に合わなければ喜んで引き受けもしないだろう。「市川栄三郎っていう役者やってた人がいたの、その人のとこで(ちんどんの人手を)作ってとね、ちんどん屋のお金が2円か3円くれたんだよ」、これはいい手間の金額としての記憶だし、いつの話かはっきりしない。中沢寅雄という戦前からちんどん屋の楽士だった人の話によれば、「昭和12、3年ごろで1日の手間が2円50銭。大工さんが1円から1円50銭だったから手間賃としてはよかった。チンドンを叩く人と比べても、楽士はいくらか高かったね」。
『実録昭和史第2巻』(ぎょうせい1987年)によると、大工の1日の賃金は昭和12(1937)年で2円20銭となっている。アレレ? である。菊乃家〆丸という、母がちんどん屋の三味線弾きで、自身も小学校を出てすぐにちんどん屋になった人の話では、昭和初期には「三味線の手間は(1日)1円20銭位かな」『実録昭和史第1巻』では昭和4(1929)年の大工の1日賃金は2円78銭である。大体昭和初期からこの方、経済恐慌から高橋財政による一時的回復、労働力不足やインフレでの名目賃金の上昇などがあり、年ごとの推移も共時的にも、金額だけで人の暮らしを単純に測れない。ここは本人たちの実感に頼ろう。
先に挙げた中沢寅雄は、自ら手記も書き残している(遺族より筆者へ遺贈)。その一節、「食堂での昼食は定食十五銭、牛丼は八銭、朝食は御飯と味噌汁、おしんこ付きで八銭。風呂銭は五銭。五十銭あれば風呂に入って帰りに酒場でお酒が二本と牛鍋取って御飯の半分で十分足りた」。昭和5、6(1930、31)年頃の話である。なるほど、蓄えは出来ないが、本人曰く、「自由を束縛されないこんな商売めったにないぞ」。
さて、ここまではまだ戦前の、みどりやの父についての話である。ちんどん屋や紙芝居屋や芝居やらの手伝いをする大勢の人に囲まれて育った進少年は、私から見ればちんどん界のサラブレッド、貴公子だが、別に羨ましくない人も多かろう。だが彼のちんどんデビューは貴公子にふさわしく、早い。
戦時統制でヒマになる
「小学校3年時、ちんどん屋出たよ。おまわりさんに怒られちゃった。『ちんがら園』てね、洗足池の、山岡鉄舟とか勝海舟とかのお墓あんじゃない、あそこに昔芝居小屋みたいのあったの、何処の遊園地にもあったよ。芝居だか映画だか、それの宣伝をやってきたんだよ。子供なのになあ。支那事変が始まったばかりだから、国産(=国策)に沿ったこと。支那事変が昭和12年だな、12年の7月位じゃねえかな、大勢の人達を戦争に駆り出すように、そういうのやったことあんだよ。やだったけどしょうがねえなあ、ウチ貧乏で食えねえから」
『ちんがら園』が遊園地の名なのか芝居小屋(或いは映画館)の名なのか不明だが、盧溝橋事件発生(昭和12・1937年7月7日)のすぐ後に、もう国策芝居(映画?)が興行されていたことになる。その宣伝に駆り出されたのが幼い進少年だ。父親と一緒だったが、子供なので巡査に見とがめられて注意されたという。「ウチ貧乏で」とは、先ほどの「手間」の話の続きになるが、日銭を稼ぐ商売は気楽ではあるが不安定、蓄積するほどの富はないから、慢性的には貧乏である。
中沢寅雄の手記には「昭和七年~十三年当時東京市内のチンドンマン約三千人と推定(ビラ配り旗持ちは別)」とあり、この頃を戦前の「チンドン全盛期」と記している。
「(彫刻の方は)支那事変が始まってね、昭和12年に。それからだんだん贅沢品て売れなくなってきちゃった」とはみどりや進の話だが、まだ芝山細工もやっていたのかと驚く。進によれば、日中戦争が本格化する頃から景気に暗い影がさす。中沢の手記では「日米間の雲行き悪く、戦争の気配濃厚、昭和十四年七月、チンドン界も暇になり、転業する者が大勢」。こういう状況を難しい言葉で説明すると、「戦時統制経済の開始にともなう『不要不急産業』の企業整備(命令による強制廃業)によって、商業、消費財産業などの経営者・被雇用者が失業者化する事態が大量に発生した」(加瀬和俊「失業と救済の近代史」吉川弘文館2011年)ということで、戦争に関係ない庶民の小売やサービス業、娯楽産業に寄生していたちんどん屋なんか、まったく要らなくなる道理なのだ。
昭和19(1944)年、16歳で進は海軍に志願した。「勉強すんのがやで、兵隊行っちゃおう」ってだけだったが。横須賀鎮守府の武山海兵団に配属され、「成績優秀」のため通信学校に送られ、通信・暗号兵になったという。暗号兵といえば、大岡昇平(補充兵として召集)と同じだ。さすが我らのプリンスだ。それからあちこち移動の後、横須賀鎮守府指揮下の第20連合航空隊・滋賀の「大岡特別攻撃隊ってのに、鈴木っていう中佐だよ、大将が。で、そこの比叡山の山ん中にカタパルト拵えたんだよね、飛行機打ち出す」。本土決戦用の特攻機滑走路を作ったところで敗戦となった。
ヤミ屋、紙芝居屋、ちんどん屋
進はまだ17歳の紅顔の美少年だが、まずヤミ屋をやった。
「何で紙芝居屋になったかっていうと、ヤミ屋やってる時に朝鮮人の人がでね、サツマイモの飴、イモ飴作ってたんだよ。それをこの6分斗缶ってこんなでかい缶でくれたんだよ。その飴をどうしようかなって思って、ああ紙芝居やろうって、紙芝居屋になったの」
「親が(ちんどん)やってて、おふくろがね、器用な人なんだよ。着物は縫っちゃう、足袋まで縫っちゃうよ。でも体が弱かったの、細くて。肺炎患っちゃうくらいだから。そいで、兵隊から帰って来てから見てて、“何だしょうがねえなあ、そいじゃ手伝おう、やってやるよ”って言ったのが運の尽きよ。オレ(ちんどんで)出ちゃった、そん時若い人いないじゃないの」
紙芝居屋を4年ほどやりながら、ちんどん屋も兼業した。つまり親と同じである。“この道はいつか来た道”だ。
ちんどん屋の仕事が本格的に戻ってくるのは、昭和25(1950)年に勃発した朝鮮戦争がもたらした軍需景気後だ。それまで内職、物売り、紙芝居屋などでしのいでいた戦前からのちんどん屋もぼちぼち復帰して、ちまたにまたチンチンドンドン音が鳴り出した。
進は22,3歳の時、今で言うイケメン好きな三味線弾きの都家おこうさんに、 「“みどりやさん、お願いするね、関東一だよ”とかよ、オレちんどん屋始めたばっかで、上手くできないけどよ、おこうさんの取ってた仕事ほとんどをオレが手伝ってたんだよ。で、オレがおこうさんとこへ仕事で行く時に、団体でもって会社行く人に会う訳だよ、駅ん所で。朝晩会うんだよ、また不思議に。女の子が5、6人か7、8人いたなあ。ウチのかみさんが一番若くて可愛かったんだよ、それで“今度よう、ちんどん出てくんねえかな、出る?”つったら“出る”って。旗持ちやってもらったのよ」。
まだ15歳だった文江と仲良くなってその家に居候し、お腹に子供も出来たところで、喧嘩騒ぎで「ブタ箱に入れられ」、実家には帰れなくなって文江と二人、「幸盛館」という大きなちんどん屋に転がり込んだ。
幸盛館
ここまではまだ進はちんどん屋として青二才である。何事にも本格化するには修行と需要がいる。その修行の場となったのが、有象無象がたむろする溝ノ口の幸盛館だ(写真4)。ここは湊家タコ坊(本名:日比野牧之助)という、元鞍屋の倅が道楽者で、芝居、サーカス、テキヤ、博打と何でもござれの土地の顔役になっていたのが、経営していた「幸盛館」という芝居小屋兼映画館を「ちんどん会社」にしたのだという。「だからオレんちの子供は映写室で生まれたの、長男は。芝居小屋の中の映写室でオレ住んでたんだもん」
「一番多かったの昭和28年頃ねえ、家族合わせて50人位いたよ」。家族含め大勢が住み込みで暮らしていた。「どこの馬の骨だか分かんないのいるよ、年中出入りが(あって)、そんで勝手に潜り込んで寝ちゃってるから」人でワサワサしているのは生まれ育った長屋街と同じだが、幸盛館は若い衆が切磋琢磨していた。
「芝居小屋の中の椅子とかみんな板だから、その椅子全部オレ達が壊して毎朝たき火して失くなっちゃったよな。そんで小屋だけ、回りだけ残ってんのよ、危なっかしいのが。その中に家を建てちゃったんだよ、若い衆の入る家を、6軒、長屋の家を建てちゃったんだよ」
「幸盛館の若い衆んなったって、オマンマだけ食わして仕事は行かすけれど、何にも教えてくんないよ。自分で研究してかなきゃダメなの。それで上手くないと仕事出してもらえないからお金んなんないだろ。だから一生懸命じゃない」
楽士に焼酎をおごったりして懸命に稽古、チンドンだけでなくクラリネットも覚えた。
「27年からだから8、9、10とね、足かけ4年いたんだよな。ここで映画出たり、雑誌出たり、今の日本放送のラジオに出たり、いろんなことしてたよ。そいで、余興、お祭りの余興行ったり、仕事暇ん時露天商させられちゃったし」
ここで特筆すべきなのが、ちんどん屋が宣伝だけでなく、余興――イベントも引き受けていたことだ。先に出た菊乃家の話では、「日曜演芸ってのをやったことあるんだよね。それちんどんでなくて、その芸を見せるんだね。その当時の木戸銭で10銭位だったなあ。木戸銭10銭位取って、でお客を集めて、芸を見せる、大勢集まってね。寄席で」。戦前の話である(写真5)。「ちんどん屋結構みんないろんなの持ってんだよね。唄の上手い奴もあるし、芝居の上手い奴もいるしね。手品師もいるし」。
特に紅家というちんどん屋は普段は床屋だが、ガラスの上に寝たり、「その上にレンガを乗っけたり、それから手のここへ釘を刺して、そこへヤカンをぶら下げたり」と、見世物小屋顔負けの芸人だったそうだ。興行を打つのもちんどん屋の仕事の一つだった。幸盛館では祭の余興などで、ドラム合戦やチャンバラの寸劇、踊りなどを披露した。「“♪空にゃ今日もアドバルーン”(昭和11年のヒット曲『ああそれなのに』)なんて唄ね、ああいったものを踊るのよ。三枚目のカッコして。そうすっと面白いでしょ」。『深川』や『かっぽれ』などの粋な踊りも、どこか面白おかしく踊るのがちんどん屋風だ。このような芸を体にたっぷり染み込ませて、ちんどん屋の素地が出来上がる。
独立して「いい時代」
修行の次は需要だ。「30年に幸盛館やめて、31年に柿の木坂で旗揚げ」。しかし仕事はまったく無い。幸盛館からの付き合いの平川平吉というサーカス上がりの楽士が仕事を取っては応援してくれたが、本当によくなるのは「33年の11月から。忘れないよもう、手の平ひっくり返したようによくなった。一番最初にやったのはね、横山町の問屋さんから。丸太屋っていう洋品屋から始まったんだよ。そこへちんどん屋を10人出してくれたんだよ、毎日毎日毎日毎日。女社長でさ、その人がマーケットやってたんだよ、ウチの都立大学にね、三光マーケットって。それからまあ後から後から来て、まあ忙しかったよ」。
昭和33年といえば岩戸景気の始まりだが、自動車の大増産や東京オリンピックへ向けた東京の大改造が始まる前で、ちんどん屋の生息地である大道はまだ人間が主役だった(この辺りの事情とちんどん屋の関係については、大場ひろみ「非在の言葉を明るみへ」、「山谷」上映委員会HPミニトーク2011年11月http://www.anerkhot.net/yama_jyoeii/?m=201111で触れている)。スーパーのような大型店舗の普及も先の話で、戦前から変わらず商店街の八百屋、肉屋、魚屋や「マーケット」(あるいは「市場」)という店舗の複合施設が主な日常の食糧買い出し先だったから、ちんどん屋の宣伝が即戦力だ。
沢山の人手も抱えた。「ミツがいて、ヒデがいて、吉川さんがいて、トシオがいて、ミクニに、染ちゃんにね、アンボケちゃん、チー公にね、タカコにね、中イクちゃんで、(妹の)久子がいて11人、ウチ(親方夫婦)までで13人いた」。アパートを借りて若い衆を住まわせ、「商店街とマーケットの方が大いにやってたね。だって、定期的にやってた所が多かったの。月曜日だけは特売やるとこ無いの、火、水、木、金、土とあるか。特売を定期的に毎週やってくれっとこが、そういうのが何軒もあるから」。
川崎、神奈川、横浜、世田谷、目黒辺りの仕事を引き受け、「一生懸命やってたんだよ、バンバンとまあ、本当によくやってたなあ」。柿の木坂の手狭な「ボロ家」から昭和37(1962)年には都立大学前へ引っ越した。「面白い時代だったなあ。うれしくてうれしくてしょうがなかったよ、毎日毎日が。もう楽しくて、朝起きると仕事で」。仕事と大勢の人に支えられる毎日が、気力と自信に横溢したちんどん屋の人物と、そして時代を形成した。
戦前のちんどん屋隆盛期を第1次とすれば、第2次ブームは間違いなく昭和20年代後半から30年代にかけてだ。この頃のちんどん屋は今みたいにしょんぼりと身を縮こませて歩道をボソボソ歩いてなんかいない。大道を我がものとして、大手を振って流行り映画の扮装でチャンバラをしたり、踊ったり、旗を振って練り歩いている。クライアント(「お得意さん」と呼ぶ)の小売店は振舞い酒にご祝儀と、下にも置かぬもてなしぶり、たまに酒を飲み過ぎて途中で寝ちゃっても、見つけたら担いで帰ってくれたりするからご愛敬だ。
正月ともなれば、日頃のお得意さんにちんどん屋は挨拶をして巡るが、これを「年始廻り」(写真6)と称し、一門揃って大勢目出度い扮装で繰り出して、また踊っては酒やご祝儀をいただくのだ。これが正月の2日か3日から何日も続く。お得意さんも大喜びで、ちんどん屋一同と記念撮影に余念がない(写真7)。これだったらやっぱりいい仕事に違いなかろう。みどりや進が「いい時代」というのも、ただ仕事が沢山あるだけでなく、街や人にちんどん屋が馴染んで大事にされていたからこそだ。(敬称略。下につづく)
――写真説明――
写真1 みどりや進(撮影:銭谷均)
写真2 大正14年(片岡昇『カメラ社会相』文藝市場社1929年より)。麻布十番で。初期のちんどん屋はチンドン太鼓を叩いて一人で宣伝した。
写真3 昭和初期の商店宣伝風景。チンドン・初代瀧乃家一二三。その左隣にタンバリンを持った女性がいるが、タンバリン踊りというのがちんどん屋で流行った。後ろにわかりにくいが三味線を持った女性がおり、この頃はチンドン太鼓に三味線を合わせることが多かった。
写真4 幸盛館時代のみどりや進(右のチンドン)。昭和27年、京浜鶴見駅前の寿司屋一力宣伝。
写真5 昭和19年、ちんどん屋が行った興行。三味線・初代瀧乃家一二三。漫才の内海桂子は昭和11年、「三河島の『三山倶楽部』で、滝の家一二三率いるチンドン屋さんが興行をしていたので、そこへ飛び込み、頼んでみました。(中略)チンドン屋一座は飛び入りの私を引き連れて、甲州街道をたどる旅に出ることになります。(中略)当時のチンドン屋はお盆と暮れには商店会興行をやり(中略)踊りや漫才、かっぽれ、それにピンなんていって茶番もやれて、芸達者たちがそろっていたのです」と記している。(『転んだら起きればいいさ』主婦と生活社1989年)「三山倶楽部」は三河島に住む初代瀧乃家一二三が興行していた小屋。写真は巡業先での様子だろう。
写真6 昭和31、2年、都立大学駅前で年始廻り。左から2人目がみどりや進。
写真7 昭和30年代、年始廻りの初代瀧廼家五朗八(左)とお得意さん。
おおば・ひろみ
1964年東京生まれ。サブカル系アンティークショップ、レンタルレコード店共同経営や、フリーターの傍らロックバンドのボーカルも経験、92年2代目瀧廼家五朗八に入門。東京の数々の老舗ちんどん屋に派遣されて修行。96年独立。著書『チンドン――聞き書きちんどん屋物語』(バジリコ、2009)
論壇
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神谷 光信 - 資本主義の不条理な苦痛に立ち向かう思想元亜細亜大学非常勤講師・小林 保則
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池田 祥子 - 聞き書き 「ちんどん屋」の歩みフリーランスちんどん屋・ライター・大場 ひろみ
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