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『近代中国断章』(原島春雄著/印藤和寛、橋本恭子編/美巧社/2019.12/2200円)

未来の中国論の古典‐『近代中国断章』原島春雄
著刊行される!

原島春雄遺稿論文集編集担当 印藤 和寛

『近代中国断章』

『近代中国断章』(原島春雄著/美巧社/2019.12刊)

これは1997年に51歳で亡くなった原島春雄さんの遺稿論文集です。当時原島さんは学習院大学教授(言語共同研究所)で中国語を教えておられました。本書をみれば、一般には縁遠い中国古典を縦横に引き、アカデミックな上にもアカデミックで、難読漢字(甲骨文字まで!)が一杯、近代というのにシャーマニズムの話から始まり、超古代と現代が交錯、論旨を辿るだけで頭の中があちこちショートするような、超難解な論文。筆者などに到底紹介の役が務まるわけもありませんが、50年前の多少のご縁と、中の一編がかつてこの「現代の理論」誌に掲載されたものということで、下世話な話を重ねて一文を草してみました。原島さん、読者の皆さんに予め失礼をお詫びしておきます。

論集目次は次の通りです。第一部は原島さんが最期の病床で考えておられた本の章立てで、夫人が保存されておられたメモによるものです。

第一部   1 シャーマニズムの墓標―清朝の堂子祭  1994年
   2 斉周華とその時代―「大義覚迷録」探微之一  1992年
   3 「平均」解                     1989年
   4 辮髪考                      1990年
   5 「国」と「家」の間                 1987年
第二部   6 三元里の対話                   1989年
   7 近代化と中国の思想風土              1985年
   8 ある詩人の衰世―龔自珍について           1989年
   9 林則徐小攷                    1983年
第三部   10 章太炎における学術と革命             1983年
   11 蠶叢(さんそう)考                1997年

  ◇     ◇    ◇

清朝創成期の宮中祭祀を主題とする第一論文。シャーマニズムの本質がいかに改竄粉飾されたかを明らかにし、そうした閉鎖的体系を神経中枢として持つ王朝が近代と遭遇したことを「歴史の不幸」と論じる原島さんの視点は、21世紀になって100年前の帝国憲法下の践祚大嘗祭儀式が復活横行するのを目の当たりにする私たちに、何を示唆するのでしょうか。

清の雍正帝と斉周華の思想的対決を論じた第二論文。温情と包容、恭順と屈服の間の独裁権力のあり方に、載震のあの言葉が反響します。「法によって処断されればまだ救いはある。理によってなされたなら救われる余地がなくなってしまう。」すべてを道徳的視点から裁く磁場の中で、必然化される陵遅処死。アジア的専制などとかつては呼ばれた現象の権力論による客観的解明。 

「平均」解は、中国農民反乱の中から生まれた伝統的スローガン、かつてはそうした農民反乱史の研究の中から現代中国を造った農民のエネルギー、その共産主義的伝統を検証しようとする試みが盛んに行われたこともあります。太平天国を経て文化大革命に至る道筋、しかしそれはまた必ず政治的独裁を生み出すことになる。それはなぜか、どのような機制によるものなのか。これを解き明かそうとする原島さんの筆鋒は現代中国最大の問題、毛沢東主義の評価にも関わり、膨大な貧困層を生み出しつつある先進資本主義諸国の課題も、そこに見据えられています。

こんな調子で舌足らずのコメントを続けることは、もうこのくらいにしておきましょう。それよりも、原島さんがこうした問題に向き合おうとする時の根本的な思想的立ち位置について一言。歴史総体を一身に引き受けようとする林則徐らへの同情的視点と共に、一番よく取り上げられるのが章炳麟(号太炎)であることは、本書を通覧すれば明らかです(本当はもう一人、王夫之・号船山、があると思われますが。)

原島さんが強調する太炎の言、「郵便配達人」ではなく「手紙を書く人」になれ、という言葉が全編に鳴り響き、心を打ちます。丸山真男を評価し尊敬しつつも、「セーターの似合う人」として的確に批評しています。それにしても、原島さんの喩えの絶妙さ!

その大学時代を知る者としては、明末清初の思想家、王夫之への傾倒は忘れられません。王夫之(船山)と言えば、もう一人その研究者として思い浮かべる人が韓国にいます。

1987年秋の大阪懷徳堂講座、そこで金容沃(キム・ヨンオク)の講演を聞いたことがあります。当時高麗大学の先生でした。1987年は実に韓国民主化運動の転換点、学生たちに最も人気のある思想家で、その話のある集会には常に数千の学生が雲集したということです。日本で言えば、昔の吉本隆明みたいですね。当時の専門が中国の王船山の「気」哲学だったということで、朝鮮の儒教と高麗、朝鮮王朝統一国家の近代前期「プレモダン」的性格、そこでの儒教、朱子学の論争とそれが果たした意味についての見解は、実に目から鱗の驚くべきものでした。

その時言われた、帰国後は医学部に入り直す予定で、東洋医学を研究するつもりだとの言葉にも仰天しました。彼は、実際その後東洋医学者として陰陽「太陽人、太陰人」などの概念を駆使する医学論でデビューする一方、膨大な『李朝実録』ハングル訳を組織する中心となって活躍し、盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の随員としてピョンヤンを訪問したことでも知られています。

常に東洋における漢字文化の重要性を強調されていましたが、一方、その『李朝実録』ハングル訳こそが、「チャングムの誓い」から始まる韓国時代劇の基礎となり、日本天皇の系譜は暗記していても、「イサン」(正祖)など朝鮮の王様の名前など何も知らなかった韓国国民の歴史意識の土台を新しく作って行ったのです。

朝鮮が未だに近代統一国家樹立を完遂することができず、分断国家のままであること、様々な近代国家成立の条件について日本に比べれば遅れている面があることを幸いとして(それが歴史的にどのようにしてそうなったかを措いても)、韓国民主化運動の根源にある思想的境位を誤解し、過小評価してはなりません。

閑話休題 

 ◇      ◇      ◇

今回論考を通覧して、原島さんは、学部生として過ごした京都大学にも、大学院に籍を置いた東北大学にも、複雑でやや屈折した感情を抱いておられたように思われます。

京都では王夫之を、仙台では章炳麟を、ということですが、中国思想について詳しくない方のために敢えて言うと、船山も太炎もとんでもない膨大な著作を遺し、しかもその全てが限りなく難しい(文章も内容も)ことで知られます。それは中国人にとっても同じで、普通には歯が立たない。だから、一般研究者は、そんなものに手を染めることは避けるのが当然で、日本で学部生などがそんなところに迷い込むなど考えられないことです。

章炳麟が中国同盟会『民報』主筆として書いた論文など、その頃の京都大学の人文科学研究所で錚々たる大学者が揃って読書会で少しずつ読み進め、一体この字は何と読んだら良いのかなど途方に暮れていたほどなのに、十代からそれを身近で見聞きし、一方、自分では王船山全書を並べて片っ端から読んでいる学生が現にいたのです。その背景としてどれほどの中国思想についての蓄積があったかは、章炳麟についての第十論文に極めて簡潔に整理されています。それは京都で見聞きした研究を、仙台で自分なりに完成させたものと見なすこともできそうです。

京都大学の中国学といえば、一般に知られているのは何と言っても内藤湖南、宮崎市定でしょう。宋代以降近世説、春秋時代までの都市国家説、等。原島さんは十代の頃既にそれらを自家薬籠中のものにしていたに違いないのですが、本書ではアヘン戦争までを封建社会と規定する立場で一貫されています。また、第一論文に関連する清朝実録など清朝の正史が記載する清朝創成期の事情が、全くの改竄であることは、早くに湖南が指摘し、その京大就職時の最大の研究業績であったことも有名です。その際、真実を裏付けるものとして朝鮮の文書史料活用がありましたが、その一つが『沈(瀋)館録』でした。

しかし、原島さんは同様の方法を採りながら、湖南に言及することは一切せず、もっぱら時期的にはやや遅れて(清朝存続の間は不可能なため、辛亥革命後になった)中国で清朝初期の真実の歴史を研究解明した大学者孟森に依拠して行論を綴っています。

それは、いわゆる「京都学派」の形式論を撃ち破り、中国自体の学問的伝統に従って、宋代以降の新儒学から清朝考証学に至るまでの学術を、西欧の人文主義的学問に比定して高く評価した湖南の根本、また、そうした理学思想の最高潮、明末の陽明学運動の中に近代思惟を見出した島田虔次の神髄、中国特殊論を排して、あくまでも共通普遍の理論的枠組みの下で、これを理解しようとした宮崎市定の精神を、そして更に現代中国で進展する多元的、多文化主義的文明起源の解明に至るまで、しっかりと継承する学問の真実を提示しているようにも見えるのです。

 ◇      ◇      ◇

原島さんは仙台から東京に戻られた後、これは全くの想像ですが、一旦は日本を捨てて、中国と未来を共にしようと永住も視野に入れて広州に向かわれたかもしれません(それまでの研究をすべて捨て、日本語教師として)。そして、そこで文革の間中断していた「高考」(統一大学入試)の77年再開と、その第一期生に出会うことになります。

今では、その彼らも既に中国での退職年代を過ぎましたが、原島さんのこの遺稿集の計画が始まった頃、偶々、中国のブログで謝躍さんという方が、原島さんの没後20年の回想記事を書かれているのを見つけました。そこには改革開放が始まった頃の若者たちの群像とともに、学生たちと深夜いつまでも酒と煙草で付き合う原島さんと、それを心配する夫人の姿も描かれていました。

また、原島さんの京都への愛着、中国史ばかりでない古今東西あらゆるものへの深い学識、公認マルクス学説でそんなことは言っていないと原島先生に反論しようとした学生に、たちどころに中国語版マル・エン全集を持って、ここにこうあるではないかと諭す様子なども。そうした姿は彼の学生時代以来おなじみのものでした。李沢厚の登場時、いち早く着目して現代中国第一の哲学者だと評価していたことなども。

また、当時一時帰国された時、筆者がお聞きした話の中では、政治的な留保を措いても、驚くべき規模の経済建設が始まっていると強調され、今日の中国経済の発展を、それが始まる前に既に予期されていたことも驚きです。

中国での日本語教育には、いわば挫折して帰国された原島さんに、いささかでも研究の場所が与えられ、この書に結実した珠玉の文章を遺す間暇ができたこと、私たちはそれを本当に幸いなことだったと思うのです。

いんとう・かずひろ

京都大学文学部卒業後、大阪で公立高校教員を勤める。

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